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2018-07-01

和歌山県、御坊市「南葵光明会」及び日高郡印南町「弘龍庵」


和歌山には、
型破りで、個性的な人物が出る様に思われます。

【高野山】
弘法大師空海(出身は香川):真言宗の宗祖、高野山の開山
興教大師覚鑁(出身は肥前):真言宗の中興の祖、「密厳浄土」を説く。
土宜法龍(出身は尾張):南方熊楠と長年の交流があり、
明治26年(1893年)、シカゴ開催の「万国宗教会議」に日本代表として出席。

明恵上人:華厳宗中興の祖、鎌倉期の高僧
紀伊国屋文左衛門:江戸元禄期の商人
徳本行者:江戸期後期、「捨世派」念仏の大行者
華岡青洲:全身麻酔手術の先駆者
南方熊楠「南方曼荼羅(マンダラ)」としても知られ、
粘菌学者、博物学者、民俗学創始者の一人等、破格の人物
岡 潔:世界的な数学者、思想家
松下幸之助:別称「経営の神様」
植芝盛平:合気道の創始者

 
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「南葵光明会」
現在は、和歌山県御坊市塩野町、
北塩野交差点近くの道路沿いに移転されています。

創始者は、中井常次郎(弁常)居士。

平成30年4月に、
「光明主義文献刊行会」から、
増補改訂第四版として、
格段に読みやすくなった、
(カタカナ表記→ひらがな表記に改訂)、
中井常次郎著『如来光明礼拝儀講義』が、
出版されました。


ふと思い出しましたので、記しておきたいと思います。

2018年(平成30年)4月に発刊されました、
山崎弁栄著『人生の帰趣』(岩波文庫版)

この書の口絵は、
弁栄聖人画「親縁の図」で、
弁栄聖者にとって重要な画題ですが、
大正十二年発刊の初版、
弁栄聖人御遺稿集『人生の帰趣』の口絵
は、
大正九年六月に、中井弁常居士が、
「紙で観音さまを書いて頂きたい。
人がそれを見て信心を発すようにして頂きたい」

と聖者に依頼され、画いていただいた「瀧見の観音様」

その聖者の賛には、
「墨に画に写せる瀧の音にだに
甚深微妙般若波羅密」


ついでながら、
弁栄聖者の『御遺稿集』、『光明体系』、『如来光明礼拝儀』等でもそうなのですが、
同種の本でも版によって、
聖者の写真、墨書等が異なる
ことがよくあります。

昭和39年増補第四版の平成2年復刻版、
聖堂発行の『弁栄聖者光明体系 人生の帰趣(増補版)』は、
初版、第三版の増補版の口絵とは異なり、
昭和六年第三版(増補版)の、
昭和50年復刻版(発行者 河波昌)、
『弁栄聖者遺稿集 人生の帰趣(増補版)』
は、
「瀧見の観音様」ですが、
初版の物とは違い、聖者の賛も異なります。

なお、
『弁栄聖者遺稿集 人生の帰趣』の初版の口絵。
聖者が中井弁常居士に画かれた「瀧見の観音様」の複製版を、
弁常居士の同郷和歌山の池田和夫氏が、
弁常居士への報恩として、
以前、限定版として作成されたことがあったようです。


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今回の記事は、主として、
「中井弁常居士伝記」(池田和夫著『永遠之光』)を参照しています。

池田氏は、現在、89歳。

「南葵光明会」の代表役員。
昭和22年(1947年)、松山高校の図書館で、
中井居士著『恋愛と宗教』をご覧になり、
居士宅を訪問されましたが、
惜しくも、居士ご逝去の翌年でした。

中井弁常居士は、池田氏の同郷和歌山の方で、因縁もありました。
氏の実際的な光明会の恩師は、京都大学在学中にお世話になった、
京都の医師恒村夏山師。
弁常居士と恒村師は、光明主義の同志。

なお、池田氏の出身校、愛媛の松山高校は、
伊予松山の「大林寺」とゆかりが深く、

「松山光明会」の生み、育ての親、
大嶋玄瑞上人と、
垣本都夫人がおられました。

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【中井常次郎(弁常)居士(1888年~1946年) 】

中井常次郎(弁常)居士は、
西本願寺の門徒で、代々信仰の篤い、浄土真宗の念仏者の家庭の二男。

大正二年、東京帝国大学工学部機械科を卒業
大正六年、京都帝国大学工学部機械科講師

自然科学を研究するうちに、
「浄土が西方にある」
という浄土教の教えに疑義が生じ
ていた。

そんな折、
大正八年六月に長男を亡くされたこともありましょうか、
”不思議なご縁で”友人となった、医師恒村夏山氏から、

「弁栄上人という
いつも仏様を見奉り、そのみ声を聞き、
みむねのままに各地に念仏を勤めておられる出家がいる。
参加しよう」
との誘いを受けました。

「そんな迷信」と取り合いませんでしたが、
恒村氏の再三の誘いに、ついに断り切れず、

大正八年九月(弁栄聖者のご遷化は大正九年十二月):
中川弘道上人と恒村夫婦と四人で、
中井氏は、「弁栄上人の顔を見るため」にうかがい、
大阪の法蔵寺で、初めて聖者にお目にかかりました。

聖者のお部屋に通され待っていますと、
本堂でのお務めが終り、
聖者がほどなく襖を開けて、入って来られました。

中井氏は、頭を垂れて聖者に敬意を表していたため、
聖者のお顔を拝むことが出来なかったのですが、

「おくんの裾のさばきいとしとやかに
我らの前にお座りなったのを見ただけで、
はや霊感に打たれた。」


感激のあまり、一人想いに耽っていたところ、

「中井さん、何か聞くことはありませんか」
と聖者から言葉をかけられましたが、
「自分は、顔を見るために来た」のだからと、
「何もありません」と答えられました。

すると、弁栄聖者は
「生きてまします仏様が・・・。
大宇宙そのままが・・・
今現に、此処に在します親様を・・・」

と布団を跡にして、
仏身論を、又信仰と念仏の心について説かれました。

それこそ、今まで聞きたいと願っていた信仰問題との主な事柄であり、
今まで聞いた事のない新しい有難い説法でありました。


「宇宙を我がものとなさい。心を宇宙と等しくするように」
弁栄聖者との初対面の日、別れ際の聖者の言葉でした。
聖者の御遷化の後、しばらく経って、
弁常居士は、この聖者のお言葉が有難く頂けてきたそうです。


中川弘道上人のお計らいで、
大正八年十月:弁栄聖者との再会の機会を得。

中井氏は、その日は、授業中でしたが、
宿題を出し、休講にしてまで、人力車で駆けつけました。

その時の聖者の御説法の主要点は次のとおり。

○ 「仏説はどんな人でも信仰に入れるように、
人に応じて、神話的に、歴史的に感情的(救済的)に、
論理的に、実感的に説かれている。
それ故、誰でも自分に相応しい教えによれば信仰に入ることができる。」


○ 「極楽は西に限ったことはない。
仏眼をもって見れば、此処もお浄土である。」


○ 「法蔵菩薩が四十八願を発し修業の結果、
阿弥陀様になったというのは神話である。」


○ 「文字のままではいけない。経文の精神を取らねばならない。」

○ 「我々は仏となる種を持っている。
それを育て磨きあげればよい。」


○ 「浄土は想像即実現の世界であって、
仏土は(如来)成所作智の現れである。」


このようになるには、至心に念仏せねばなりません。


その後、
大正九年一月
横浜光明会開催の弁栄聖者ご指導のお別時に初参加。

お別時中、父危篤の連絡を受け帰省するも、
直ぐにお別時に戻られました。

「助け給えという念仏ではなく、
感謝の念仏、報恩の生活を実感し、
真宗にご縁のあったことを喜び」


そのことを、土屋観道上人にお話ししたところ、

「それはまだ至らぬ考えです。
大慈悲の光明に育てられ如来の威徳を満月のように受け、
衆生済度の働きをさせていただきたい
との大願を起こさねばなりません」

と諭されました。

引き続き、
神奈川県の当麻山無量光寺での授戒会に参加するため、
弁栄聖者にお供しました。

駅で汽車を待っている間も、聖者は、
「礼拝儀は一切経を縮めたものであるから」
と、礼拝儀によって話されました。

当麻山無量光寺に夜に着き、
就寝の際、弁栄聖者の側で寝ることになりました。
ところが、聖者にご挨拶を忘れたことに気付き、
床の中で頭を下げますと、
聖者は夜具の中から、
お慈悲溢れる御まなこを輝かせ、
中井氏をご覧になっていらっしゃって、
「あなたは法蔵寺で霊感に打たれたようで有ったが、
今、大分顔はやさしくなりました」

と一言仰られました。

ある朝、中井氏は弁栄聖者に、

「初め法蔵寺でお目にかかった時、
気分が変わったように思いました。
家内もその時から食物について世話がなくなったと申します。
このたびは長らくお側においていただきましたから、
家庭に目覚ましい変化を来すであろうと思います

と申し上げました。

すると、聖者は、ただ一言、
「うつり香ですね」とささやかれました。

中井弁常居士は、
「これこそ、自分にとり、
生涯忘れられぬ冷汗を覚ゆる大痛棒であった。
孔あらば、はいりたい思ひがした」

と述懐されています。

この授戒会で、中井常次郎氏は、
弁栄聖者から菩薩会を授けられ、
「弁常」の戒名を受け、師弟の契りを交わさ
れました。
(「弁」は弁栄上人の弁、「常」は俗名の常次郎から。
「名を聞いただけでは、臭い処に交へども・・・
いとめでたい名であると有難く頂いて居る。」
とは、いかにも、直言居士の中井氏らしい言。)

いざ、お別れという時に、
弁栄聖者は、中井弁常居士を呼び止められ、

「中井さん、今、あなたは当麻で死にます。
あすは京都に生まれます。
けれど自分には切れ目が有りません。
浄土に生れるのも、これと同じです。
三昧状態で、醒めて生まれます」と。



大正九年四月「京都光明会」発足。
恒村夏山師、徳永愛子(後の熊野好月女史)、松井一郎氏が発起人。
会誌『光明』を引き続き発行、ただし、聖者ご遷化により、十二号で終刊。

弁常居士と夏山宅で、
定例の、礼拝と念仏、法話後、座談会を開催。
これは、「光明会の家庭例会」の嚆矢

大正九年十二月四日:
弁栄聖者ご遷化(新潟柏崎「極楽寺」)

大正十二年三月末日
「工学の研究は他の人でも出来る。
しかし、光明主義の宣布は、私にしか出来ない尊い仕事である」

と、京都大学を依願退職し、和歌山へ。

時は大正期、将来を嘱望されていた京都大学工学部の講師、
なおかつ、家庭がある三十代では、相当な決意があったことと推察されます。

その後、早速、柏崎の極楽寺の弁栄聖者の墓前に参拝。

この時、
弁栄聖者とともにお浄土から衆生済度のために
この世に生まれてきた
といわれ、
「生ける観音」とまで崇められた籠島咲子夫人と巡り会いました。
咲子夫人は、在家で、
祖父の教育方針で「無学文盲」に育てられたようですが、
弁栄聖者の御指導により、仏眼まで開かれた御方で、
その後の中井弁常居士に大きな影響を及ぼしたようです。

大正十二年四月:「南葵光明会」発会。
中井弁常居士は、
光明主義の伝道に身命財を捧げられました。


弁常居士は、
機会を捉え、弁栄聖者のお別時等に頻繁に参加され、
「弁栄上人の聞き書き」を記録として残されました。
弁常居士は、自然科学者であったこともあり、
現代においても、説得力があり、示唆に富む内容が多く、
しかも、弁栄聖者と当時の光明会の状況が生き生きと描かれており、
とても貴重な資料ともなっています。

また、弁常居士は、
「学解面」での弁栄聖者のご教示は勿論ですが、
「弁栄聖者の御霊格との実際の触れ合い」から甚大な影響を蒙りました。
このことは、決して見落としてはならない点だと思われます。


中井弁常居士による「弁栄聖者の聞き書き」等には、
まだまだ貴重な聖者のご教示がありますが、
今回は、この程度にとどめておきたいと思います。


この度、
中井弁常居士著『乳房のひととせ 上巻』(のコピー)を再読し、
とても興味深い記事が目に留まりました。

弁常居士、恒村夏山師等が発行されていた、
『光明』誌の掲載内容の記述です。

一つ目は、
弁栄聖者の既執筆の「浄土教義」の転載を見合わす替りに、
聖者の絶筆(?)となる新たな「弥陀教義」の連載記録と、
今後、「(弁栄)上人」の尊称を書かず、名だけ(弁栄)にせよ、
と弁栄聖者からご注意を頂いた、との記事がありました。

○ 「浄土教義」とは、
大正三年に、聖者執筆による六十数ページのものかと思われます。
「弥陀教義」は、
弁栄聖者三十三回忌の記念に、恒村夏山師により発刊。
※ このことは、
「解題  大南龍昇」(山崎弁栄著『人生の帰趣』(2018年4月刊 岩波文庫版))
に関連記載があります。

○ 弁栄聖者の「尊称」問題は、
聖者の御在世中からあったようで、

「上人は、弁栄上人ただ一人。
他の布教者は、僧俗を問わず、「先生」と呼ぶ。」


とは、弁常居士の提案

弁栄聖者のご遷化の後、
光明会内で、「弁栄教学」を巡っての意見の相違、
伝道、広報、組織上の問題等が顕在化し、
その収拾のための、一打開策でもあったようです。

弁栄聖者に関する尊称、表記問題は、
現実的には、大変微妙な問題を含み、
難しいところがあるように思われます。

このブログにおける「弁栄聖者」の尊称表記、聖者に対する言葉使い、態度等について、
違和感を覚えられていらっしゃる方もおられると思います。

いい機会ですので、
このブログでの考え方を明記しておきたいと思います。

弁栄聖者は、光明主義提唱者として尊崇する御方、
という面では、私的(「身内的」)であり、
不特定多数の方がご覧になる可能性の高いブログでご紹介する際には、
「(山崎)弁栄」常識、慣例的には適切といえるかと思われます。

一方、「(山崎)弁栄聖者」は、
「光明主義の提唱者」といった一主義、一組織のちっぽけな御方ではなく、
「宗派宗教を超越した」”人類の師”ともいうべき、
その意味では、「”人類の遺産”ともいうべき公的な尊崇すべき聖者」
といった側面があるようにも強く感じています。

「私的でありながら公的な存在でもある」

このような実感から、
このブログでは「弁栄聖者」という尊称表記と聖者に対する言葉使いとなっております。


更に、もう一点、興味深い記載は、

『光明』誌の八号から、
「阿弥陀仏(ポール ケーラス著より転載)」とあります。
この転載が誰の提案かが気になるところです。

何故ならば、
「阿弥陀仏(ポール ケーラス著)」の翻訳者が、
『日本的霊性』の著者、鈴木大拙氏であるからです。
(ただし、『日本的霊性』の初版は、昭和19年(1944年)で、弁栄聖者のご遷化後。)

更に言えば、
ポール・ケーラスは、
大拙氏とその師、
夏目漱石が参禅した釈宗演老師とも縁が深かった。
宗演老師は、鎌倉の円覚寺、建長寺の管長、
管長を退かれた後は東慶寺の住職を務められ、
明治26年(1893)、シカゴでの万国宗教会議に出席。

釈宗演老師と鈴木大拙氏は、
世界に「禅(ZEN)」を広めた功労者として知られています。

ちなみに、
東慶寺には、釈宗演老師の墓があり、
また、著名人のお墓も数多くあり、
例えば、(敬称略)
鈴木大拙西田幾多郎和辻哲郎小林秀雄の墓があります。
近くには、大拙ゆかりの「松ヶ岡文庫」もあります。
なお、
井筒俊彦の墓は、 円覚寺 頭塔 「雲頂庵」にあります。


弁栄聖者と釈宗演老師との関係が気になり出したところ、
ネットで公開されている、
「一般財団法人 光明会」の会誌『ひかり』の連載記事に目が留まりました。

聖者の俤 No.59
『乳房のひととせ 下巻』 (中井常次郎(弁常居士)著)
聖者ご法話聞き書き(別時中の法話) 3
聞き書き その八 別時中の法話〈つづき〉
大正9年6月2日 黒谷光明寺塔頭瑞泉院にて


(三) 霊枢五性 (二日夜の講話)
 霊妙性。において、

「ケーラス博士はあらゆる宗教を研究した人で、世界第一の宗教学者であるが、
シカゴ博覧会の頃「仏陀の福音」という本を著わした。
その中に「火に焼けぬような奇蹟は、正しき人より見れば価値が無い。
実に不可思議なるは阿弥陀仏である。
生死の凡夫を永生の者とするほど大きな奇蹟はない。
而して仏教は最高の宗教である」
と説いてある。」 

ケーラス博士とは、ポール・ケーラスであり、
シカゴ博覧会の一貫として開催されたのが、「万国宗教会議」であり、
釈宗演老師は、その会議に日本代表の一人として参加され講演、
それが縁となり、
ポール・ケーラスにより『仏陀の福音』が著されました。
緒言(序文)は、釈宗演老師、
翻訳者は、鈴木貞太郎(大拙)氏でした。

また、
岡倉天心氏は、「万国宗教会議」を契機に、
ポール・ケーラス、宗演老師とも関係を深めていかれたようです。

なお、
弁栄聖者の高弟、笹本戒浄上人は、
明治四十三(1910)年、37歳時、
まだ、聖者に邂逅される前でしたが、

研究テーマであった「催眠術」に関して、
鈴木大拙氏宅で、西田幾多郎氏に話されたとのこと。
(『笹本戒浄上人伝』より)


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【弁 栄 聖 者(1859年~1920年)】

観相家の花見江南氏は、
中井弁常居士宅にて、聖者の写真を見て、
「今まで何千人も観たが
これほど円満なお顔を見たことはない。
この人の言うことなら間違いない」

と言って光明会に入信されたとのこと。

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【釈宗演老師(1859年~1919年)】

1887年(明治20年)、27才の時に、
山岡鉄舟、福沢諭吉等の勧めもあり、
セイロン(現スリランカ)へ渡航し、南方仏教(パーリ語、経典、戒律)を学ぶ。
山岡鉄舟から、
「和尚の目は鋭すぎる。もっと馬鹿にならないかん。
インドでも行ってこい。」と押された。」



真に興味深いことに、
弁栄聖者と釈宗演老師は、
文字通り、同時代を生きられました。

宗演老師は、
当時「世界的規模で活躍」された破格の禅僧。

弁栄聖者は、
主として日本全国の布教活動でしたが、
悟境の深さと宗教哲学・思想上の深遠さに於いて、
「宗派宗教、時代、地球を超越」した宇宙的スケール
の浄土門の布教者。

「他仏を念じて自仏を作る」

「超在一神的汎神教」こそ、
”大乗仏陀釈尊の真精神” と喝破
された弁栄聖者。


能礼所礼性空寂
感応道交難思議
故我頂礼無上尊


「座禅はやっても、
ここ迄出て来なければ駄目だ」

(「ここまで座禅もやらなければ駄目だ」と伝えられてきた言葉を、
上の言葉に訂正下さいとは、杉田善孝上人のご教示。)
と、中国の座禅をよくした居士の言葉を引用して、
弁栄聖者は高弟の笹本戒浄上人にご教示。

当時、無相法身を所期とする「禅宗流の念仏」の癖から、
なかなか抜け出せずに苦心されていた戒浄上人でしたが、
聖者のこのご教示により、長年の疑問が晴れたという逸話が伝えられています。

なお、
弁栄聖者が三身四智の仏眼に依り三昧直観された、
「超在一神的汎神教」とは、

「宗教種類多けれど 通じて二性に分かつべし
理感二性は能と所の 二動の動機によればなり
理性は形式動機にて 先天自性を開くなり
感性内容動機にて 後天恩寵を受くるとぞ
前は自性の天真を 開悟し解脱を宗とせり
後は絶対我を投じ 救霊(すくい)の力を仰ぐなり

今は二性を綜合し 天真自性を開きつつ
恩寵に感性充たされて 開発霊化を期するなれ」

(「諸教の宗趣」の精髄箇所、P52~P53
仏陀禅那弁栄聖者著『光明主義玄義(ワイド増訂版)』)



「弁栄聖者と釈宗演老師との関連性」については、
今のところは、この程度の情報です。

ご参考までに、
ポール・ケーラス、釈宗演老師、鈴木大拙氏関連で、
ネットで公開され読める、興味深い論考を二つほどご紹介したいと思います。

○ 「信と知―無差別智と大悲
仏教とキリスト教に通底する霊性の自覚
上智大学名誉教授 田中 裕」
(『東西宗教研究 第17号・2018年』)


○ 「1893年 シカゴ万国宗教会議における
日本仏教代表 釈宗演の演説
ー「近代仏教」伝播の観点からー
那須理香(国際基督教大学大学院博士後期課程)」
『日本語・日本学研究 5, 81-94, 2015』



2018年の本年は、
釈宗演老師100回忌

また、
2018年6月4日~8月6日まで、
釈宗演遠諱100年記念特別展
「釈宗演と近代日本ー若き禅僧、世界を駆けるー」
を、
慶應義塾図書館展示室と
慶應義塾大学アート・スペース
で開催中。

ただし、
慶應義塾大学の敷地外のアート・スペースでは、
原則として平日で、17時まで
図録等の販売等は、慶應義塾大学アート・スペースでのみ
となっていますので、くれぐれもご注意してお出かけ下さい。


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「弘龍庵本部」は、
JR紀勢本線(きのくに線)の切目駅が最寄駅。

以下、「弘龍庵」のご紹介をいたしますが、
ご紹介不十分、理解不十分な点があるかと思われますので、
あらかじめお断りし、お許し願いたいと思います。

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「南葵光明会」と「弘龍庵」は、
兄妹関係ともいうべき法縁
があります。

ただし、「弘龍庵」は、独自の発展を続けており、
大阪にも支部があるようです。

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弘龍庵では、
弁栄聖者作成の『如来光明礼拝儀』を基に、
独自の『弘龍庵 勤行式』を用いています。
ただし、光明会の会所では必ずある、
弁栄聖者の「三昧仏様(お絵像)」は無いようです。

「弘龍庵」との因縁は以下のようです。

既に多くの奇跡を現され、村人から「教祖様」と慕われていた、
中村公子女史が、
昭和17年5月に、中井弁常居士宅を訪問されました。

公子女史は、
「現世利益を願う信者の多いこの素朴な教団に
光明主義のみ教えを伝え」

ようと努力をされました。
そこで、弁栄聖者の光明主義に共鳴され、
『如来光明礼拝儀』を経典として採用されました。

既に中井弁常居士が逝去されていた関係もあり、
昭和二十五年に、
「宗教法人 弘龍庵」として発足
されたようです。

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道路沿いにこの石碑の目印があり、
この脇道へ曲がります。

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「弘龍庵」の創始者、中村公子師ゆかりの立派な建物があります。

高野山を模されているのかもしれません。

こちらは、
教祖中村公子祖廟のある「生歓殿」。

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「教祖 聖徳公子之像」

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「生歓殿」を更に進みますと、
観音山として親しまれる「弘龍庵 奥之院」があります。

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こちらの境内には、
観音堂他、教祖聖徳公子墓所があります。

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テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-06-03

山崎弁栄著『人生の帰趣』(岩波文庫)についての若干の補説


弁栄聖者高弟の田中木叉上人が、
”弁栄聖人(者)一代の御勧化の趣を選び抜かれた”
『弁栄聖人(聖者)遺稿要集 人生の帰趣』

今回の山崎弁栄著『人生の帰趣(岩波文庫)』は、
河波定昌師と若松英輔氏とのご縁に依り発刊に至ったもの。

なお、河波師は、2016年(平成28年)4月3日に遷化され、
本書発刊の平成30年4月は、河波師の三回忌にあたり、

『三回忌 追想記念文集
光明園・園主 河波定昌上人のおもいで』


が、東京都練馬の光明園から発刊され、
若松氏も寄稿されています。


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凡 例
弁栄聖人略伝

【前 編】
第一章 人生の帰趣
第二章 大ミオヤ
第三章 光 明

【後 編】
第四章 安 心
第五章 念仏三昧
第六章 光明生活

和歌/感謝の歌/念仏七覚支

注 解・・・・・・(藤堂俊英)
解 説・・・・・・(若松英輔)
解 題・・・・・・(大南龍昇)
年 譜
山崎弁栄遺稿一覧
主要参考文献
人名索引


 目次等は、こちらへ


跡見花蹊(1840-1926)女史『人生の帰趣』を巡る逸話

或時、
「あんた達、田中先生から戴いた『人生の帰趣』はお読みやしたか
(跡見女史は、上方弁でした)
「いいえ忙しくてまだ拝読していません」
と申し上げますと、
「あんた達、一ぺんにたんと(沢山)読もうとするから、
いつまでもかえって読めんのや、
わたしは毎日十枚(二十ページ)読むことに決めています。

もうこれで二度くり返して、今三度目ですが
何と有難い本ですなあ」

跡見女史が亡くなられた後、御遺品の中にこの本があり、
「手のふれる所には手垢がつき紙がももけていた。」
(熊野好月女史談)


今回発刊された山崎弁栄著『人生の帰趣(岩波文庫)』は、
すんなりと読み進めることは中々容易ではないと思われます。

跡見女子のペースで、全文を読まれるのはなかなか難しいかもしれませんが、
この書と、焦らず、しばらくお付き合いするといった気持ちで、
読み進められることをお勧めいたします。

『弁栄聖人遺稿要集 人生の帰趣』の初版は、
大正十二年の発行であり、
現代人からすると特に文体、更には難解な哲学・思想、仏教用語の内容等からしても、
この書に馴染むには時間を要するように思えるからです。

この書の原書は、『弁栄聖人 遺稿要集』であったため、
弁栄聖者のお写真もあり、
総ルビがふってあり、しかも、文字も大きいのですが、
この文庫版なら、携帯できて、便利です。

この『人生の帰趣(岩波文庫)』を読み進めることが厳しいと思われる方、
あるいは、次に弁栄聖者関連の本をお探しの方には、

○ 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』
○ 山崎弁栄講述著『宗祖の皮髄』 (通常版現代語訳版)

を、是非お勧めいたします。


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このカバー図版は、
弁栄聖者筆「両手同時運筆書」

(右)
「空海がこころのうちにさく華は
みだより外にしる人はなし」(伝弘法大師)
(左)
「あみだ仏といふより外は津の国の
なにわのこともあしかりぬべし」(法然上人)


他にも、更に口も使い、両手と口との三つ同時運筆書もあり、
米粒名号(米粒に「南無阿弥陀仏」と書かれた)」は特に知られ、
一分間に六十粒程も書かれたという逸話もあります。

弁栄聖者の衆生済度における「善巧方便」。


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 【弁栄聖者(1859年~1920年)】


それでは、
以下、項目別に、若干の補説をさせていただきます。

○ 弁栄聖人略伝

田中木叉上人による弁栄聖者略伝。この略伝の最後の文章、

「仰ぎ惟れば、内証甚深、外用広大、
平等の大悲に動く全分度生の無我の力が、
奉公報恩の無作の精進に顕れ給う師父弁栄聖人の御一生は、
大智大悲の如来光明の如実の反映に在せば、
誰か大慈悲の応現を仰がざらん。
誰か光明の摂化を信ぜざらん。」



「田中木叉先生著の御伝記『弁栄上人伝』がある。
それを読んで一番驚くことは一点の私心もないことである。
尋常一様の私心のなさではない。
人のからだの数多くの細胞が仮に一つの人体を作っているのは、
普通は私心が結び合わせているのである。
弁栄上人の御生涯を見て、
人がこうまで私心を抜いてよく生きて行けたものだと思って驚く」。

(「まえがきー無辺光と人類 岡潔」『弁栄聖者光明体系 無辺光』講談社版 )

思わず唸ってしまうほどの、
真に鋭く、正鵠を射た”弁栄聖者観”!



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若松英輔氏は、
「解 説 ー 愛と霊性の仏教哲学」において、

トマス・アクィナスと対比させ、

「彼は研究する者ではなく、
言葉にならない何かを体現する道を歩き、歩き通した。」

また、
ベルクソンの説く「動的宗教」、「真の神秘家」を、
弁栄聖者の核心と捉え、

「残された言葉は、
彼は近代日本屈指の哲学者であり思想家でもあったことを示しているが、
その一生は、
光によって導かれ、光によって用いられた一個の布教者

だったことを示している。と。

けだし、至言!

なお、「真の神秘家」とは、

「最深の神秘的人間はまた最深の行動的人間である。」
(「神秘主義の形而上学」『吉満義彦全集』第四巻)



【前 編】
○ 第一章 人生の帰趣


「人生の帰趣否人生の目的は ・・・動機から云わば
自己の奥底に伏蔵せる性能を遺憾なく発揮して
真実自我即ち霊我実現的に最善の努力する にあり。」と。

その究極は、
「成仏=無余即無住処涅槃」
にあります。
「往相・還相」の真意

「霊我実現」とは、
”通常の自己実現”即ち「自我(の幸福)実現」とは異なります。

弁栄聖者は、本書に、
「人間界は聖なるこころをやしなう学校でありますぞ」
とご教示されています。

「人間界で聖なるこころをやしなう」ために、
時に、あるいは多くの場合に、
"自分(自我)が望まない形で、それを、受けとめざるをえないことがある"
ということを意味すると思われます。

「霊我実現」とは、
聞きなれない言葉、概念かと思われますが、
ユング心理学でいう処の「自己実現」の概念が参考になるかと思われます。
もちろん、ユング心理学では、”成仏=霊(的人)格の形成”を目指しているわけではありません。

この点に関して、とても興味深い逸話があります。
鈴木大拙氏が、ユング研究所を訪ねて、
「集合的無意識(collective unconsciousness)」について、
「なぜ、 『cosmic unconsciousness』 といわないのか」とユングに言った。
すると、ユングは、
「私は科学者ですから」と、応じたという。
帰り道、大拙氏は、氏の秘書であった岡村美穂子氏に向かって言った。
” He limits himself. ”
若松英輔氏は、
「小さくまとまりおって・・・」と訳されています。
※ 参照:(若松英輔著『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』)

なお、若松英輔氏は、『群像』という月刊誌に、
「たましいを旅するひと──河合隼雄」という論考を連載中です。
興味深くかつ示唆にも富みますので、是非お勧めいたします。


○ 第二章 大ミオヤ

「誤解を恐れずにいえば、霊性という言葉を用いることによって、
ある種の衝撃を与えんとしているかのようでもある。」


と若松氏は「解説」で指摘されています。

同様の衝撃あるいは別種の意図のもと、
「大(おお)ミオヤ」という表記を、
弁栄聖者は用いられているように思われます。


1914年(大正3年)に、
「如来光明会趣意書」という一枚刷りの印刷物が公表されました。
「首唱者 仏陀禅那 弁栄」として署名がされています。

この「新しい光明主義の立教開宗文」の文中には、
「阿弥陀仏」という言葉は一切なく、
そこには、「大御親」なる表記があるのみです。


弁栄聖者は、
「大ミオヤ」を、「(一)独 尊・(二)統 摂(三)帰 趣」として、説明されています。

(一)独 尊

「超在一神的汎神教」

通仏教等で説かれる、
諸仏の中の一仏ではなく、
大宇宙全一の独尊である神(仏)。

したがって、キリスト教等で説かれる「神」、
「大日如来」、「久遠実成の仏」等も、
「大ミオヤ」の同体異名。

この「弁栄聖者の宗教観」においてこそ、
初めて「宗派宗教の枠を超えた」対話が可能となる
と思われます。


「私は経文に依って演繹的に説くのではない。
帰納的に説いておる」

(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)

「経典に依るのでなく、
御自身の体験せられた如来様の事実から
帰納的に光明主義の教学体系を組織せられた、
という意味である。」
(笹本戒浄上人のご教示)


「御自身の体験せられた如来様の事実」とは、
「三身四智の仏眼」に依るご境界における認識。


「形而上学は形而上的体験の後に来るべきものである」
(井筒俊彦著『神秘哲学』)

この点にこそ、
弁栄教学を学ぶ”素晴らしさ”と”困難さ”があります。


弁栄聖者は、
文献学的に、”大乗非仏説”を認識されていました。

「大乗経典とは、
三昧定中における”永遠の生き通しの”大乗仏陀釈尊による、
出世間の三昧を開かれた聖方への直説法である。」

と、弁栄聖者は喝破
されました。 

極めて重要な大乗経典である、
「如来寿量品第十六」『法華経』の真精神を、
実に的確に指摘なさっているように思われます。

このことは、
「「大乗経典」とは、
歴史的文献学的のみの”教相判釈”は原理上不可能であり、
また、経文上の字義のみによる解釈では、経典の深意が読み取れない」

ということを意味します。


(二)統 摂

「統摂と帰趣ー一切知と一切能」において、
「一切知と一切能の二属性が
一切万物に対して統一摂理し生成帰趣するの性能となる」
と。

この摂理とは、法則の意味ですが、
自然界と心霊界(大宇宙一体の両面)に働いています。

この自然界の法則の発見が、科学上の発見となり、
本来宗教と矛盾するものではありません。
取り扱っている領分が異なるだけです。

「物質がよく諸法則を守って
決して違背しないのは何故であるか。
自然科学はこれに対しても一言も答えられない」(岡潔)


数学者 岡潔氏の言葉ですが、
この”真知”に思いを馳せ続けるのは、
なかなか容易でないように思われます。

また、この「一切知と一切能」は、
大宇宙の生成過程を説明しているもので、
科学が触れないことにしているもの。

”新プラトン主義”「プロティノス」を、
思い浮かべた方もおられるかと思われます。

ここでは、
参考文献を記すに留めます。
○ 山本幹夫(空外)著『哲学體系構成の二途ープロティーノス解釈試論ー』
○ 山本空外著『一者と阿弥陀』
○ 井筒俊彦著『神秘哲学』


前置きが長くなりました。

「一切衆生は 皆 これ吾が子なり」
(『法華経 譬喩品 第三』)



”大ミオヤ”表記の弁栄聖者の深意を推察いたしますと、

先ず、 【 一点目 】は、

”大ミオヤ”と「カタカナ表記」することよって、
”大ミオヤ”という表記に、多義的な含意を持たせうること。


【 二点目 】は、

”大ミオヤ”を”大御親”
と表現する(言葉にする)
ことによって、
私達の意識あるいは無意識裡に、
「仏の子(仏子)」という自覚が、必然的に芽生え
てきます。

また、そこには、”人格的呼応関係”が立ち上がってきます。


【 三点目 】は、

”大ミオヤ”は、御親であるから、
”父母の両性具有”が内包されています。

「荒城の月」の作詞家としても知られる、
土井晩翠氏には、
『雨の降る日は天気が悪い』という著作があります。
その中に、「華厳経と新井奥邃先生」という文章があります。

”新井奥邃(おうすい)”という方は、
若松英輔氏(の本)に教えていただいたのですが、
元仙台藩士で、ロシア正教のニコライ神父との出逢いでキリスト教を学び、
30年近いアメリカ留学後の帰国。
「神を父母神」と捉え、スウェーデンボルグ思想も研究。
まだ詳しく存じませんが、「世に隠れた賢者あり」というに相応しい人物。

※ 参考文献:
○ 工藤正三・コール ダニエル 共編『新井奥邃著作集 全九巻』等。
○ 若松英輔「跋文 地下水脈の巨人 新井奥邃の霊性」
(『奥邃論集成 春風社編集部編』)

○ 那須 理香
「新井奥邃の神学思想における「霊的」概念 鈴木大拙の「霊性」との対比」 


若松氏の著作により、
弁栄聖者の同時代人の思想、当時の時代精神が学べ、
弁栄教学を学ぶにあたり、大変有益な視点をいただき、
とてもありがたく思っています。

なお、土井晩翠氏に関しては、こんな逸話があります。

「土井晩翠先生は図書館で弁栄聖者の伝記を読み、
「これは自分の考えていたのと一緒だ」と信者になった。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)
と。

晩翠氏は、
笹本戒浄上人の東京本郷の郁文館中学時代の英語の教師であり、
昭和六、七年頃、光明会別時が仙台であった際に、
別時中のお寺に来られ、戒浄上人に挨拶をされたそうです。
なお、ご自身の詩集二冊を戒浄上人に寄贈される際、
「仏教の奥義を伝えたる笹本戒浄上人にこの書を呈す」と。
また、その当時の晩翠氏の日記には、
「田中木叉君のレクチャーに参じて教えを受く」
と記されているとのこと。

晩翠氏の妻、娘はクリスチャンでしたが、
晩翠氏ご自身は、念仏も唱えられていたようです。

更に興味深い逸話がありますので、記します。

昭和7年頃(8年か?)、仙台の光明会の別時に、
晩翠氏がみえられ、
晩翠氏のお嬢様がお亡くなりになる時、
「キリストの来迎に遇われた」
ことを戒浄上人に仰られた際、

「キリスト教でも一心に神様にお祈りすると、
神様に遇えます。
神道でもその通りです」


と上人は仰られたとのことです。
※ このことと関連するものとしては、
「附録 照子の思い出 母 土井八枝」
(『雨の降る日は天気が悪い』)



【 四点目 】は、

”大ミオヤ”とは、”大三親”
”生み”のミオヤ(御親)、
”育て”のミオヤ(御親)、
”教え”のミオヤ(御親)の、
”三親身”、かつ、即一。

「仏の体と相と用とは一体の三面、
本来同時同体の三方に過ぎず。」
(『弁栄聖者光明体系 無量光寿』)


ここで留意すべきは、

「仏教は哲学方面と宗教方面との両面ある学説
を有っておる
故に
客体を説明するに完全であるけれど
宗教と哲学とが混同し易い。」

「もし報身が人格的ならば
法身もまた人格的に観てこそ終始一貫すべし。」


この「三身即一の大ミオヤ」を人格的に仰ぐという点が、
光明主義の仏身観の特長の一つ。

なお、
「阿弥陀仏の本願」の真意を、

「一切の子らをして、
ミオヤの完全の如くに完(まった)からしむる法」、

と定義されています。
※ これは、『聖書』ではなく、弁栄聖者の言葉です。

また、
「ミオヤなる如来の、
衆生(子)に対する思召しは
最幸福にして而して最も高徳な、
福徳円満な身にしてやりたいと云う処にある」と。


「徳を幸福の不可欠な要素」とされているところが、
弁栄聖者の霊(的人)格論の特長です。

そのためには、
霊乳、法乳なる霊養(霊的養分)が不可欠であり、

「(霊的)お育て」が、
光明主義の特長点の一つ。


【 五点目 】は、

”大ミオヤ”との表記によって、
宗派宗教の枠を超えた、
更に云えば、「宗教」さえ超えた、
”諸々の宗教の根元たる地平”での対話の可能性が開かれる
こと。

”阿弥陀仏”という表記ですと、
仏教特に浄土教といった、特定の狭い仏身観と受け取られ易いこと。

弁栄聖者の認識においては、
「法蔵菩薩は、神話にして最高の哲理を示す」
「「法蔵菩薩は応身」とお説きになったのは、弁栄聖者だけである。」
(どちらも田中木叉上人のご教示)

ということになります。


○ 第三章 光 明

「弁栄聖者御出世の本懐は、この”十二光の開顕”にこそあった」
とさえ云い得るかと思われます。

「空拳を以ていかでか千重の鉄関を打破することを得ん。
この大鉄関を開くの妙鍵は即ち十二光名によりて其体を発悟するにありと。
古来千聖出て名を以て体を獲得すべき径路を示したまへども
いまだ之を開きて十二名を以て諦かに
如来の体・相・用を窺ふべきの真理をのこし給ひしは深意
あり、
後昆をしてこの霊名により広く深く細に微に
如来の聖徳を獲得せよとの聖意ならむ

世間文化大に発達せり。宗教のみは独り開発せざるの理あらむや。
ここに於て如来ひそかにこの愚昧なる小弟子をえらみて、
之を開くべきの宝鑰を授与し給へるなり。

故に撰ばれたる小弟子自ら不敏を顧みず
十二光によりて如来の霊徳を密かに開くの命を奉ず。
自ら感謝措くことを知らざるなり。
宇宙の真理は悉く十二光によりて示せり。」
(『弁栄聖者光明体系 お慈悲のたより 上巻』)

「十二光」をひらけば「一切経」とも云われるため、
甚深なる内容を汲み取ることは、なかなか容易なことではありません。

補足として、一点。
一見些細な点と思われるかもしれませんが、
「無対光」と「炎王光」を、
前者を積極的方面、後者を消極的方面と、
一対の両側面として定義されている点、
弁栄聖者の認識の甚深さを物語っておられるように感じます。


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【弁栄聖者(1859年~1920年)】


【後 編】
第四章 安 心


実は、この「第四章 安心」と「第五章 念仏三昧」と「第六章 光明生活」は、
相即、相関関係にあります。
一部重複した内容になっているのもそのためです。

更に云えば、
前篇の「第一章 人生の帰趣」、「第二章 大ミオヤ」、「第三章 光明」も、
後編とも、また各々の章の内容とも相互に関連し合っており、
本来は、独立して単独に論じることが出来ない内容のものです。

(1)仰信 (2)解信 (3)証信とは、
(1)仰信→(2)解信→(3)証信との直線的に進むものではなく、
相互円環的関係にあり、
信仰を誘導する要は、(1)仰信にあるとさえ思われます。

”大ミオヤ”の真相を徹底的に知り尽くすことは出来ず、
「無知の知」の自覚こそ「仰信」の本質
と思われるからです。

「人として意識は必要なれども、
超人間界上の事には寧ろ碍(さわり)をする。」


「第五章 念仏三昧」の文中に、
「霊界の消息は理性を以て窺うことを許さず。」と。


「安心」における肝は、
解脱の要あると共に解脱の能あり。」
この一見相異なる両者を、いかに深く信じられるかにあると思われます。

そのことは、
上述した意味での”大ミオヤ(御親)”として、いかに深く信じられるかということと、
相即関係にあります。

「宗教の中心真髄は感情なり。」

として、この「安心」の項目に、
弁栄聖者は「信」⇔「愛」の相互連環を説かれています。

「彼は実に美なり愛なり。
彼等が霊性はこれを愛慕して益々高遠に導かる。
彼は最も遠きに在て而も最も邇(ちか)くして、
常に我等を向上せしむ。
彼を葵心(きしん)し愛慕するは
奥底の霊性より衝動する力なり。
霊性が如来を愛するは
同性相吸引する自然の勢力(ちから)なり。
他人より「彼を忘るる勿れ」と命ぜられて初めて動く力に非ず。
自分忘れんと欲するも能わざる霊的の衝動なり。
それが如来を葵傾して慕わしさ恋しさの禁じ難き情なり。」


弁栄聖者の面目躍如!

中村元博士は、
「献身的に実践につとめた仏教家」としての、
弁栄聖者の特異性、特徴点
について、

「かれのいう愛とは慈悲の現代的表現なのである。
「信」を強調する日本の浄土教の中から、
「信」に併立するものとして「慈悲」を強調する
かれのような宗教家の出たことは、驚くべきことである。」
(中村元著『慈悲』)


弁栄聖者には、
”霊的エロス”ともいうべき雰囲気、香りが漂っている
ように感じられます。
他の高僧方には滅多に感じられない類いのものです。

「丁度うすくぼかされた玉子の黄味が、
ほんのりとした白味のなかにういているような」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

と、弁栄聖者の在り様を、
木叉上人は、絶妙に描写、神筆されています。

”うつくしき方”「”大ミオヤの使者”弁栄聖者」

「人としての品格の美しさ」、
「理想的な人間像」、「憧れ」を抱かせながらも、
どこか、とても「懐かしく」、「親(慕)わしい」
・・・

どのような世の中であっても、
どのような境涯であろうとも、
「理想」、「憧れ」は、人間形成上不可欠だと思います。


○ 第五章 念仏三昧

「他仏を念じて自仏を作る」(弁栄聖者)
弁栄聖者の宗教観は、この一言に尽きます。

「起行の用心」
この点を特に強調し、修行論の要とした
ことが、
光明主義の特長点の一つ。

「三身即一の”大ミオヤ”」とは、
「広義の報身」、
即ち、「大宇宙全体の絶対中心としての超在一神的汎神」。

本より独立自存する大宇宙全一の絶対的現象態で、
自然界と心霊界全体の根本仏。」

この仏身論から必然的に導き出されたのが「起行の用心」
という点こそが、
極めて重要な、要中の要、核心中の核心になります。

次の「第六章 光明生活」中の文章になりますが、

「真実に宇宙間唯一無二の霊的人格現に対しては
我らは愛念せざるを得ぬ。
宇宙全体の大霊より表現したる人格表現なれば
その所現の身の大小に拘らず絶対の表現なり。
この霊的表現の弥陀より外に絶対的に帰命信愛するものなし。」
と。

ここで、次の様な疑問が生じるかもしれません。

「仏教徒が、その瞑想的ヴィジョンにおいて、
キリストやマドンナをみないのはなぜだろう、
とカッバーラー学の権威ゲルショム・ショーレムが問うている。
・・・そういえば、逆に、キリスト教徒の瞑想意識の中に、
真言マンダラの諸尊、如来や菩薩の姿が
絶えて現れてくることがないのはなぜだろう、
と問うこともできよう。」

(井筒俊彦著『意識と本質』)

その応えは、
「成所作智」(弁栄聖者著『無辺光』)に記されています。

「霊験の種々なる方面」においてうかがえるように、
”悟り、神仏の認識面においては、浅深がある”
という差別(しゃべつ)面があるという観点も、
忘れてはならない重要な点であると思われます。

弁栄聖者ほど悟りが深く、
その深い悟りの実体験の内容を、言語化できる方は稀有かと思いますが、
三昧入神という点に関しては、
近代においては、ラーマクリシュナの存在を、
念頭に浮べる方もおられるかもしれません。

今回改めて、
若松英輔著『岡倉天心『茶の本』を読む(岩波現代文庫)』を再読して、
大変に興味深く、示唆に富み、有益な本であることを再認識しました。

岡倉天心氏と柳宗悦氏は、
美の霊性」を生きたという観点。

「真、善」ではなく、
「美」からの観点が、とても示唆的でした。

ちなみに、弁栄聖者の仏身論の特長点の一つが、
「絶対理性(りしょう)と絶対感性(かんせい)を同位同体」と捉え、
通仏教の認識、即ち、
「感性が絶対理性に従属、規定されている」
とする仏身観を転換させた点
にあります。

浄土とは、如来四大智慧が顕現し「真善美が一体」。

「第三章 岡倉天心と東洋思想
一 霊性の宇宙ー岡倉天心と山崎弁栄」


ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、
内村鑑三氏、鈴木大拙氏、井筒俊彦氏の論考もとても刺激的。

美術芸術方面に関心のある方には、
岐阜県長良川画廊併設の、
若松英輔館長「山崎弁栄記念館」があります。


「茶」に関して思い出したのですが、

本書の出版に関わられた河波(定)昌師に、
『真 茶 -茶道における人間形成-』
という茶道に関するエッセー風の本があります。

こちらも、今回、再読しました。

藤吉慈海氏にも、この書が捧げられていますが、
藤吉氏とは、「禅浄双修」を提唱された、
西田幾多郎門下の久松真一氏の弟子。

河波師は、田中木叉上人の弟子筋にあたる方ですが、
河波師は、『般舟三昧経』に基づく、
「真正面に如来様存します」という「起行の用心」で、
終始一貫念仏され、
「禅の起源は念仏にあり」との不動の信念をお持ちでした。

弁栄聖者にあっては、自内証上、実地体験済みの事実でした。


河波師の本の特長としては、
「知的好奇心が刺激され、知的教養面からも得るものが多く、
かつ、信仰上にも益することが多い」

という、教養と霊養にも益する珍しい類の本が多いように思われます。

この書は、比較的薄く、茶を巡るエッセー風の読みやすい本ではありますが、
「河波師の学識と念仏体験の深さ」がひしひしと伝わってくる好著で、
念仏における「起行の用心」にも益する本でもあります。

この本の「六 茶道とキリスト教ー西欧キリスト教修道院における体験からー」

は、茶道の所作を見た修道僧達が、
「あなたの行じている所作は、実にミサそのものだ」
と口々に叫んだといいます。

その体験から、利休とキリシタンとの関係に考察が進んでいきます。

「起行の用心」に関しては、
「点化」(P・ナトルプ)について触れています。

この書に興味のある方は、
河波定昌師が前園主であった、光明園で入手できるかもしれません。

「起行の用心」の観点からも、
非常に有益な秀逸論文
と思われるのが、

「第一章 ニコラウス・クザーヌスの神秘主義
ーVisio Dei の諸相をめぐる比較思想論的論究ー」

(河波昌著『東西宗教哲学論攷』)


ところで、
岡倉天心氏とも交友の深かったタゴールについては、
弁栄聖者のこんな逸話があります。

大谷仙界上人と佐々木為興上人が聖者に随行中のこと、
「上人様、貴方は今此の世界で胸襟を披いて会いたい人がございますか」
と仙界上人がお尋ねになると、聖者は、
「そうね、会って話してみたいと思うのはタゴールだけだね」と。
それで、為興上人が、
「タゴールのどこが特長あるのですか」
と問われると、
「タゴールはすべてを人格的に見ている。あれがよい。」
と、聖者は言われた。

※ タゴールは、1861年~1941年
 弁栄聖者は、1859年~1920年
 この会話は、1918~1920年頃のこと。  
 ちなみに、岡倉天心は、1863~1913年。

弁栄聖者の着眼点の一端が、うかがえる逸話です。

なお、横山大観氏が、弁栄聖者の指導を受けられた
との噂も一部にあるようですが、
その真相は、現時点では確認できておりません。


※ 「啓示」の諸相に関心のある方には、
○ 『無辺光』
○ 『清浄光・歓喜光・智慧光・不断光』
○ 『啓示の恩寵』(「智慧光 巻下(開示悟入)」)
○ 柴武三著「開示悟入」(光明会 近畿支部 佐野氏再刊)
○ 井筒俊彦著『イスラーム哲学の原像』
をお勧めします。


第六章 光明生活

九州の波多野諦道上人は、大谷仙界上人に、

「不断光の権化たる」弁栄聖者のご随行への
慰労と激励のお手紙を出されています。
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

弁栄聖者の修行内容、行状をご覧になり、
「自力、聖道門的だ」と思われる方も多いかと思われます。

哲学者の西田幾多郎氏は、
遺稿となった「場所的論理と宗教的世界観」の中で、

「真の絶対的受動からは、
真の絶対的能動が出て来なければならない。」

と記しています。 

田中木叉上人によりますと、
弁栄聖者はご在世中、
「他力」ということを、ほとんど言われなかった
そうです。

「人仏牟尼は一向(ひたすら)に 本仏弥陀を憶念し
本仏弥陀の霊徳は 牟尼の身意に顕現す
入我我入は神秘にて 三密正に冥合し
甚深不思議の感応は 是れ斯教の秘奥なり」

※ 「斯教」とは、真言密教ではなく、光明主義

と、弁栄聖者は、「仏々相念の讃」に詠われています。

また、
『如来光明礼拝儀』には、

「教主世尊が六根常に清らかに
光顔(みかお)永(とこ)しなへに麗はしく在ししは
内霊応に充給ひければなり」
と。

なお、
この「内霊応に充(みち)」とは、
「三身四智の仏眼における自受用三昧」の境界。

つまり、
「仏陀禅那」、即ち、 「不離仏 値遇仏」。

この『礼拝儀』の要中の要、核心中の核心である
「如来光明 歎徳章」
の一節がある「『無量寿経』は、
教祖釈尊が大宗教家として宗教の真面目を顕示されし
経典である。」


と弁栄聖者は喝破され、大変重視されました。


「光明生活」とは、
「念仏三昧」、つまり、
「三身即一の”大ミオヤ”」即ち「広義の報身」
を離れては、原理的に不可能
です。

したがって、
「光明生活」にも浅深、段階があり、
”大ミオヤ”による霊化の程度に相関します。

弁栄聖者は、実地体験上の事実から、
「念仏三十七道品」を説かれました。

詳しくは、『難思光・無称光・超日月光』をお読みください。

「弁栄聖者は、
”分かったようで(分かって)、分からん”
という説かれ方をされている。
これは、達人ならではの文章です。」


といった趣旨を、杉田善孝上人がご教示されたことがありました。


霊育(修行)過程は、大筋の経過過程は規定されていますが、
実際上は、種々の因縁等により、各人区々
でもあるからでもあり、
また、各人が各々に実地体験して証する道程でもあるからです。


弁栄聖者の念仏観の精髄は、
「如来光明摂化主義」
つまり、消極的な「救我(くが)の念仏」を内包した、
積極的に”如来の霊育を被り、無限向上を目指す”
「度我(どが)の念仏」
です。

弁栄聖者は、
本章の「心霊生活の衣食住」において、
「心霊の衣食住は如来と共に在る事を得れば自ら具備して居る」と。

「霊にも営養分が要用である。」とされ、

「仏法の味を愛楽し禅三昧を食とす」。

若松英輔著『イエス伝』において、
カトリックのミサ(「パン」と「葡萄酒」を食す)の秘義を語られています。


「聖意の現れを祈る」
弁栄聖者の「光明生活」の真意。

何故なら、
「人生の帰趣」
即ち、大宇宙の究極目的が、
一切衆生の「成仏=無余即無住処涅槃」にこそあるからです。

往相・還相。

「念仏にいさみある人は無辺のさとりを開くべき人なり」(法然上人)

「明恵上人が、弁栄聖者にお逢いしていたら」
との想いが募ります。


○ 和歌

「月をみて月に心のすむときは月こそおのがすがたなるらめ」
「あみだ仏(ぶ)をおもふ心のますかゞみかぎりなきまで照りわたるかな」
「ふところの中とも知らで眠り子は生死の夢にうなされにける」
「白露をとめおく夜には女郎花(おみなえし)ひとしほ色の添ひまさるらむ」
「奥ふかき心にのみと思ひしに庭の花さへさとりひらきつ」
「あみだぶにとはにてらさるこゝろにはわれていふものゝ影もとゞめず」


「新古今が好きで
古今集、新古今集の思想的構造の意味論的研究を
専門にやろうと思ったことさえある」。

とは、井筒俊彦氏の発言であり、

「和歌における思想的構造の意味論的研究、
この分野は、今にちも未だ黎明期である。」

と若松氏は、解説されています。

なお、山崎弁栄講述『宗祖の皮髄』は、
現代においても画期的な”法然上人観”です。
弁栄聖者の自内証の上から、
法然上人の御歌十歌をもとに、
法然上人の皮と髄を説こうとされたものですが、
この講話は、七歌の解釈で終わっています。

この書に現れた”法然上人観”ですら、
あと三歌の解釈が残されています。
此の点にも留意すべきかと思わます。

『日本的霊性』の鈴木大拙氏、
その精神を継承した井筒俊彦氏の両氏が、
弁栄聖者と出逢われていれば
と惜しまれます。


○ 感謝の歌

感謝と懺悔は相即すると思います。
懺悔と自己反省とは、本来、似て非なるもので、
懺悔は、光(光明)に照らされて初めて実感されるもので、
したがって、感謝と懺悔とは、光(光明)内での一対の両面真情


○ 「念仏七覚支」

念仏三昧の体験上にける、大ミオヤによる霊育過程(段階)
また、そこには悟り(霊的認識上、霊的働き)の浅深あり。

悟り、あるいは、霊的認識のそれぞれの境界に通達・精通し、
ここまで言語化した者は、人類史上、稀有なことだと思われます。

なお、「定覚支」が初歩の仏眼の境界で、
「仏眼が得られたら、まずほっとしてよい。」
と弁栄聖者は言われました。

「初歩の仏眼」とは、
慧眼と法眼が一致融合した「自受用」の境界
「慢の根」が絶たれ、「信不退」、「行不退」となるため。
また、感覚面に於ける「心霊的自由」を相当程度得た境界


ただし、「尽(すべ)ての障礙(さわり)が除かれる」とは、
「一切の身意が仏化=如来化される」ことですが、
厳密には、「成仏の境界=三身四智の仏眼、
しかも、認識的一切智の境界」において
とのこと。

(ここで留意すべきは、
この仏化には身(体)も含まれている点です。
この身(体)には、”意識の要”でもある大脳等の霊化も含まれています。)


○ 注 解・・・・・・(藤堂俊英)

悟られた方は、その時代に発達した文化に即して、説かれるようですので、
現代から見ると学説的に疑義が生じることがあるかもしれません。
また、
聖者の三昧認識直観は、三身四智による仏眼のご境界からのものではありますが、
説かれたものは、方便説と真実説が混在しています。

このことは、弁栄聖者の御遺稿を拝読する場合に留意すべきことであります。

更に、聖者は、通仏教の言葉を使いながら
全く違う意味を付与されていることがあります。

例えば、特に「報身(ほうしん)」、「四大智慧」、「無余即無住処涅槃」、「開示悟入」などは、
聖者独自の解釈。


○ 解 説・・・・・・(若松英輔)

「もう一点、霊性の一語をめぐって記憶してよいのは、
それが鈴木大拙の『日本的霊性』(一九四四)が登場する
はるか以前に弁栄によって、
体系だった思想のなかで用いられていた事実である。」


霊性論を巡って参考になる文献としては、
○ 若松英輔著『霊性の哲学』
○ 若松英輔著『岡倉天心『茶の本』を読む(岩波現代文庫)』
○ 若松英輔著『内村鑑三 悲しみの使徒』
○ 安藤礼二氏の論考、「大拙(第一回~第八回)」『群像』
ただし、安藤氏の論考は、何故か、「山崎弁栄」には一切触れていません。

また、「弁栄聖者とキリスト教との関係について」の若松氏の指摘。

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』によりますと、
弁栄聖者は、新島襄氏と京都で会見し、会話を交わされ、
「キリスト教が年少者を教化されている意義を高く評価
されています。
弁栄聖者は、1859年~1920年
新島襄氏は、1843年~1890年
ですので、聖者が30歳頃までには、二人は会っていることになります。

「五種正行」は、
弁栄聖者の解釈では、「心霊を養う糧」と捉えており、
「信心喚起の為ばかりで無く心霊を養う糧となれば
終身捨る事は出来ぬ。
否自ら好んで止(とどまる)ることは出来ぬ様になる。」
と。

例えば、「読誦正行」は、
若松英輔氏が、
(両人は、「聖人」ではなかったが「聖者」であった”神秘家”)、
”神なき神秘家”(ヴァレリー)
小林秀雄氏と井筒俊彦氏等から継承された、
「読む秘儀」にも関わることでもあります。
※ ”神秘家”とは、
釈尊、イエス・キリストや法然上人、弁栄聖者のような「聖人」ばかりとは限りません。
若松氏の関心の中心は現在、
むしろ我々の内にも発掘し磨き得る「聖者」にあるように思われます。

なお、
五種正行には、
先ず初めに「礼拝正行」を置き、
自己の傲慢等を挫き霊感を祈り、
最後に、「讃嘆供養正行」。

「あみだ仏(ぶ)とたふたきかたをおもほえばおもふこゝぞいやたふとけれ」
(弁栄聖者)

○ 解 題・・・・・・(大南龍昇)

『人生の帰趣』は、柴武三氏の記憶によりますと、
「弁栄聖者がご生前に頼んでいた原稿があることを、
柴氏が聖者からお聞きし、そのことを田中木叉上人にお伝えし、
木叉上人がその印刷所を発見され、出版となった経緯がある」
のことです。

『弥陀教義』と『(三相)五徳論』については、
前者の『弥陀教義』は、
恒村夏山氏発行の雑誌に聖者が原稿を書かれていたもので、
四大智慧の「平等性智」で絶筆。
聖者三十三回忌の記念に刊行されました。
 
後者は、
聖者が、鈴木憲栄上人に、
自作の「(三相)五徳論」の清書を頼まれていたもの
があったとのこと。

弁栄聖者は、最晩年、
柴武三氏に、「”四大智慧”のまとまった本を書きたい」と漏らされ、
鈴木憲栄上人には、自作の「(三相)五徳論」の清書を依頼。

弁栄聖者の最晩年の御境界、真意を推察する上で、
この二つの逸話は、とても重要
であると思われます。

なお、大南師は、
「山崎弁栄は、・・・浄土宗門人としての生涯を送った。」
と記され、そのように弁栄聖者を捉えている方もおられますが、
この捉え方には、更なる検証が必要かと思われます。


○ 年 譜

「弁栄聖者は来たるべき太平洋文化時代にさきがけて
太平洋に面する千葉県に縁起されたのだ」
(田中木叉上人)



○ 山崎弁栄遺稿一覧

『弁栄聖者御遺稿集』「十二光体系」が揃っているのは、
兵庫県芦屋の「聖堂本部」。
書籍は、こちら。
PDFは、こちら。
聖者関連の書物の一部が、販売されているのは、
「一般財団法人 光明会」


○ 主要参考文献
特に、下記の書等。
○ 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』
○ 山本空外編『弁栄上人書簡集』
○ 仏陀禅那弁栄聖者著『光明主義玄義(ワイド増訂版)』 (書籍版PDF版)
○ 「光明主義の特長 杉田善孝上人」
○ 『笹本戒浄上人全集』等
○ 『光明主義注解』

○ 『田中木叉上人遺文集』
○ 『 田中木叉上人 御法話聴書』(冨川茂筆記/重住茂筆記)
○ 河波定昌師の各種書籍等
○ 山本空外上人の書籍等
○ 佐々木有一著『念仏の聖者 山崎弁栄』

最後に、触れておきたいことがあります。

弁栄聖者の御遺稿集及び弁栄聖者の情報等が、
インターネット、書籍等を通して入手しやすくなったこと
は、
真に喜ばしいことです。

一方、
その情報へのアクセス性の良さ、その迅速性と、
「弁栄教学」の理解のスピードとその深度が正比例するか
といえば、

身読には、「時熟」が、
更に云えば、「霊育、お導き」が、
どうしても不可欠であるようにも思えます。


したがいまして、
この度発行された山崎弁栄著『人生の帰趣(岩波文庫)』のような古典とは、
長期的な時間感覚をもって
弁栄聖者の文章、そこに潜む聖者の声に触れていただければ
と願っております。

長々とした拙文にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
ほんのさわり程度の補説ですが、
多少なりともご参考になる点があれば、幸いです。

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2018-04-21

山崎弁栄著『人生の帰趣』(岩波文庫)の刊行!


山崎弁栄著『人生の帰趣』(岩波文庫)が、
この度、刊行されました。

201804211

201804212

201804213

凡 例
弁栄聖人略伝

【前 編】
第一章 人生の帰趣
第二章 大ミオヤ
第三章 光 明

【後 編】
第四章 安 心
第五章 念仏三昧
第六章 光明生活

和歌/感謝の歌/念仏七覚支

注 解・・・・・・(藤堂俊英)
解 説・・・・・・(若松英輔)
解 題・・・・・・(大南龍昇)
年 譜
山崎弁栄遺稿一覧
主要参考文献
人名索引

目次等は、こちらへ


今回は、この書の内容等には深入りせず、
この書との縁に依り、
弁栄聖者、光明主義に興味を持たれた方へ、
御参考として、以下のとおり、ご案内をさせていただきたく思います。

○田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』

○弁栄聖者講述『宗祖の皮髄』
弁栄聖者最晩年の法然上人観。
「批評とは、図らずも、評者の境涯を露呈する。」
そのことをまざまざと語る奇書
弁栄聖者でなければ語り得ぬ、最晩年の法然上人のご境涯。
「註記」は、今回出版書の註解者の藤堂俊英、
「『宗祖の皮髄』の成立」を藤堂恭俊、
「草稿史料探訪及び初版本写真紹介」を江島孝導、
「弁栄聖者のご光跡」を荻野円戒の各師が担当。


○法然上人の神髄 (現代語訳「山崎弁栄講述 ──『宗祖の皮髄』」)。

○「弁栄上人伝」(岡潔著『一葉舟』 (角川ソフィア文庫) )

○「まえがきー無辺光と人類 岡潔」(弁栄聖者光明体系『無辺光』講談社版)

○「弁栄聖者(」紀野一義『名僧列伝 四』)

○『弁栄聖者 御遺稿集』

○「浄土仏教の思想 (第14巻) 清沢満之・山崎弁栄」
脇本 平也 (著), 河波 昌 (著)


○河波定昌著『如来さまのおつかいー弁栄上人の生涯と光明主義』

○「河波定昌」師の講演録

○「光明主義の特徴(杉田善孝上人)」

○『辨榮聖者光明主義注解』
辨榮聖者光明主義注解刊行委員会編  光明会本部教学部, 2002.2


弁栄聖者→笹本戒浄上人→泉虎一氏による光明主義の註解書。
弁栄聖者の御遺稿集には、聖者の皮髄が説かれています。
どれも聖者の御意思によるものですが、
この書は、かなり読みずらく、難解でもありますが、

「通仏教とは異なる”弁栄教学”」を知ることができますが、
「口伝書」とのこと。
今後の「比較宗教学的研究等」がまたれます。

○佐々木有一著「近代の念仏聖者 山崎弁栄」
佐々木氏は、今回の『人生の帰趣』の校正等に関わられた方。
この書によって、弁栄聖者の光明主義の特徴点、
特に難解な「無辺光」の特徴点の概要が掴めると思われます。

○「光の顕現 山崎弁栄の霊性」(若松英輔著『霊性の哲学』)


○「山崎弁栄記念館」(館長 若松英輔氏)
岐阜県岐阜市の「長良川画廊」(岡田晋氏)の1階。
『山崎弁栄展図録』

○山崎弁栄「人生の帰趣」を読む。
6回連続講演第4回。(講師、若松英輔(批評家))

○「空外記念館」


○「一般財団法人 光明会」

○「宗教法人 光明園」
初代園主は、田中木叉上人、
二代目は、河波定昌師、三代目の現園主は、大南龍昇師。


○「光明会本部聖堂」
杉田善孝上人主管

○「岐阜光明会」のホームページ

○「観智院」
東京芝増上寺近く、
弁栄聖者との縁が深い「真生同盟」。
「光明会」とは別団体。


○「為先会」
今回の『人生の帰趣』出版に際し、資料の提供者である、
金田師は、浄土宗の僧侶で、
「念仏会」を定期的に主催されている「為先会」の中心人物の一人。
また、「山崎弁栄上人百回忌」に向けて、
精力的に聖者の資料収集をされている方。


○山本空外著『弁栄聖者の人格と宗教』

○山本空外編『弁栄上人書簡集』
空外上人による、弁栄聖者の文献学的、学術的研究書


○藤堂恭俊著『弁栄聖者』

○藤本浄彦「光明摂化論1 その生成論と摂取論-善導・法然・聖光から近代浄土仏教者へ-」
平成29年6月13日から3日間、
山口県大島郡周防大島町東屋代の浄土宗西蓮寺で開催の、
一般財団法人光明会主催の教学研修会の聴講記録。

○中村眞人「山崎弁栄の光明主義と伝統的仏教の現代的展開
ー宗教社会学的観点からー」

(東京女子大学紀要「論集」第68巻第1号、2017年、P1〜26)


○「山崎弁栄文庫」(「ひたち屋書店」)
「山崎弁栄文庫」の運営者は、
今回の『人生の帰趣』の校正事務担当者の一人、志村氏。
弁栄聖者の顕彰、広報等に務められている方。

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2018-04-09

大阪府茨木市東福井「如来光明会」創始者”熊野好月”女史と”弁栄聖者”


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阪急バス「福井宮の前」停留所下車8分。
茨木ICからは車で約5分。

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大阪府茨木市東福井にある、
「浄土宗 如来光明寺」。

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如来光明寺沿革
明治、大正の時代に活躍された浄土宗の高僧、
山崎辨栄聖者(1859~1920;佛陀禅那辨栄と號す)
の主唱された『光明主義』の念仏道場として、
熊野好月大禅尼(1896~1975
;東京跡見女学校・京都第二高等女学校教官
山口県古熊善生寺内室)の発願のもと、
辻田忠兵衛居士(1892~1978;旧春日村村長)の土地の寄進、
久保利夫農学博士(1869~2002;国立奈良女子大学教授・日本菊花協会会長)等の協力を得て、
昭和39年3月16日、吹田市山田の地に在家信者による、
宗教法人『如来光明会』が設立されました。

昭和43年、吹田の地が万博用地として買収されたため、
茨木市福井の当地に移転。
昭和50年法人設立十周年記念として現在の本堂が再建された。
平成6年、眞崎善照師(浄土宗教師)が代表役員に就任し、霊園『光明聖苑』を開設。
平成27年、3月18日、浄土宗に帰属し、『如来光明寺』と成りました。
辨栄聖者筆『親縁の図』『二十五菩薩来迎図』等を所蔵。

以上、「浄土宗 如来光明寺」HPより転載。

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藤本浄本上人の筆。

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向かって左から、

辻田忠兵衛居士
山崎辨栄聖者
熊野好月尼
久保利夫農学博士


の墓石。

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↑ 【弁栄聖者のお墓】

弁栄聖者を「現代の釈尊」と仰がれておられた、
中川弘道上人とのご縁によって、
好月女史は、弁栄聖者にお逢いできました。

弁栄聖者五十回忌の際に結成された全国婦人部。

弁栄聖者は、
信仰教育上におけるご婦人の役割を大変重要視されていたようです。

その初代会長が、好月女史。
二代目が、足利千枝女史。

また、好月女史は、
岡潔博士の妻、みち氏のよき相談相手でもあったようです。

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弁栄聖者の最晩年に随行された熊野好月女史には、
幾つかの著作がありますが、
聖者の御教化の在り方、聖者の御霊格
をうかがい知るのに欠かすことのできない貴重な逸話が記されています。

示唆に富む逸話を幾つかご紹介したいと思います。

○ 「「南無阿弥陀仏」と申す言葉は
あまりに世人に嘲けりの感や縁起の悪いもののように思い込まれておりまして
非常に伝導のさわりになります。
同じ言葉で新時代に適した、
かわった唱え方をお考えになったらいかが
と思います」と申しますと、
お上人様はお笑いになってやがて
「やはり南無阿弥陀仏ですね」と只一言仰せられました。」

○ 「其日々の事を夜かへりみて、懺悔すべし。
しかし、三昧に入る念仏の時には、そんな事は考えず
只如来のお相好(すがた)、御面影を思うべし、
煩悩が起これば只如来様と相談すべし」


○ 「栗のいがでも初めは実を育てるために必要なもので
中の実が熟して来ればひとりでにのぞかれる。
私達も中身が熟せぬうちは煩悩も必要なのである。
稚ない子供が危ない刃物などを持って遊んでいる時、
あぶないと無理に取り上げようとすると
かえって渡すまいとにぎりこむから尚危ない、
他のよいものを示すと持っていたものは自然に捨てて
新しいよいものを手に取るように、
大ミオヤの御育てによってよりよいものを見つけ、戴く、
煩悩の必要がなくなって来る事が大切である。」


○ 「芽ばえたばかりの杉の苗は、
一朝にして天を摩する大木とはならない。
それをはやくのばそうとあせって引きぬくような事をしてはいけない」


○  「自分は如来様という月を指さす指である、
世の人は兎角、指に心をうばわれて肝心の月を見ようとしない」
とお釈迦様もなげいておられる


○ 「救われた嬉しさに伝道者を無暗に有難かって、
肝心の大ミオヤ様をおろそかにする人は必ず失望する時がくる」と。


○ 「世間の人は水の上を歩いたとか、
お酒にかえたとか、手にふれて病気をなおしたとか、
こういう事を大へんな奇蹟として驚く
それは大した事ではない、
それよりも悪の心を善心に立かえらせる。
これ程大きな奇蹟は外にない。」

と常々仰っていらっしゃいました。

○ 「お上人様を特別のお方、不思議なお方と見られておるようでした。
又実際、常人のなし得ない事も何でもないもののように仕てしまわれます。
時々は両手に筆をもち同時に異なった歌を書かれたり、
お米ひと粒に般若心経一巻を書かれたり、

それは人を驚かせる為でなく、
如来様のお慈悲を知らせたさに、
口でいうだけではよりつかないので
何とかしてとのやるせない心から方便としてお用いになった。」

と、好月女史は、『さえらぬ光に遇いて』に記されています。


「宗教家は奇蹟を現わさなくてはつまりません。
釈尊のお弟子でも多くの人が釈尊の教理に服して入道したのではなく、
釈尊の奇蹟に驚嘆してお弟子になっております」。

また「予言ができるとか、病気がなおるとか、
そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。
凡夫が仏になる。
これほど大きい奇蹟がまたとありましょう」。


と、 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に、
併記されています。
この併記に、木叉上人の慧眼を感じます。

弁栄聖者の奇蹟に対する、この両面からの捉え方は、
実に的確かつ重要なご指摘だと思われます。


熊野好月女史が、弁栄聖者にご随行の汽車の中でのこと。

「歳は八十位の老爺。
眼が見えぬらしく、ただれつぶれ、
手の甲など鶏の脚のような色で見るも気味の悪い汚いなり。」

弁栄上人をはじめ私達が色々と世話をしていると、
乗客の一人がソッと女史に、

「あの人は梅毒の第三期で伝染するから気をつけなさい」とささやいた。

好月女史は、気が気ではなく、そのことを告げても、
弁栄上人は尚平気で何くれとなく世話をやいておられた。

その世話をやいてくれたことに対する謝意を込めて、
その老爺は、懐から餡パンを取出して、
その汚い手でわしづかみしたパンを弁栄上人と私達に差し上げた。

((注)時期は、大正時代のこと、
弁栄聖者には当時の医学的知識もおありになったようですが、
感染経路等について現在のように解明なされておらず、
ペニシリン普及前のこと。)

その老爺の側に座っておられた上人は、
相変わらず何の屈託もなさそうに小さいいびきをかいて寝ておられたが、

私は、そのパンの処理に、ほとほと困り果て、
とうとう、蟻や魚の餌食になって呉れるように念じつつ、
洗面所の窓から、投げてしまった。

明け方近くになって、

例の老爺も起き、懐から紙袋の口を開いて例のパンを取出して食べ始めた時、

それをご覧になっていた弁栄上人は、
どこにしまっておられたのか、
昨夜貰ったパンをいとも敏速にそっと彼の懐にある紙袋の中に入れられた。

もちろん、眼の見えぬ彼は何も知らずパンをムシャムシャと食べていた。

そのさりげない所作を見られていた好月女史は、
中井常次郎氏から、あなたも早くと厳しく急かされ、
自分の行為を大変恥じ、後悔の念で、涙ぐんでいたところ、
お上人はあたたかな慈顔にえみをうかべて御覧になって只、

「時機を待つのですね。」
と、一と言やわらかに仰っしゃいました。

後年、好月女史は、この時のことを回想され、

「パンはおじいさんの心もきずつけず、袋にかえったのが一番生きるのです。
お上人様はふれる事もふれるものも大事も些事も、
丁度水が流れるように任運無作に事をさばかれ、
そのものは自由に生かされ、いのちを吹きこまれ、
何一つの無駄もありません。

事毎にねばりつき考えぬいた挙句が人をきずつけ物を殺し勝ちであります」と。


↓ 【熊野好月尼のお墓】

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← 【辻田忠兵衛居士の墓】
→ 【久保利夫農学博士の墓】



↓ 周囲は、のどかな田園風景が広がっています。

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2018-03-21

愛媛県松山市「浄福寺」における「弁栄聖者」の御教示&「学信上人」&「ロシア兵墓地」


愛媛県松山市の「浄福寺」、 「大林寺」の大嶋玄瑞上人と、
垣本都夫人と笹本戒浄上人関連記事を記しました。

まだ補足しておきたいことがありますので、
今回は、それらを記しておきたいと思います。


【浄福寺】

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この浄福寺での弁栄聖者の鈴木憲栄上人へのご教示は、
大変貴重なものですので、
それらを含めて是非記しておきたいと思います。

以下、
鈴木憲栄上人著『ミオヤとのめぐり会い』に依ります。

○ある時、突然聖者が、鈴木憲栄青年へ、

「如来様は、あの太陽よりも明るいですね。」

「如来様のお頭の紺青(みどり)の美わしいのを拝すると、
お敬いの心が起こりますねえ。
眉間の白毫相、月のお眉、すずしいお目を拝すると、
清らかな心持ちとなります。
み鼻、そして、燃ゆるようなお唇を拝しますと、
身も心も溶けてゆくようです。
おからだには美しい文(あや)があってそれが透徹っています。」

※ 「聖きみくに」には、
「烏瑟(うしつ)の綠(みどり)は天(そら)にこい」と記されていますが、
「こい」は聖者の方言で、「こえ」の方がよろしいのでしょうね。
聖きみくにを突きぬけた、如来様の無見頂相のこと。」
(これは、杉田善孝上人の貴重なご教示。)

このことと関連したものとして、
冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』には、
次の2点が記されています。

◇「「烏瑟(うしつ)」とは、如来様の御頭の髪である。これが天よりも高い。」
◇「如来様の本当のお姿は、釈尊のように成仏しないと拝めない。
池に映った月が霊応身であり、それに対して本当のお姿を真身という。」


○「如来様のお顔の丈だけでも一丈ばかりありましょうかね」

恍惚として聖者のお話を伺っていた憲栄青年の心に、

「聖者が今仰せられている、如来様のみすがたというのは、
幻のようにおみえになっておられるのではなかろうか。」
との疑念がふと起こった時、間髪を入れず、

「幻覚ではありませんよ。
この世のすがたがみえておって、そこに、如来様が拝めているならば、
それは幻覚といえないこともないでしょう。
しかし、如来様が拝めている時は、
この世界のすがたが見えていない」


と、突然、聖者は仰せられました。

田中木叉上人は、

「乱れざる一心凝りて
感性も理性も眠り 光る霊性」

と、『じひの華つみうた』に、詠っておられます。

○憲栄青年は、聖者に随行され、
「三昧状態」と「三昧発得」とを明確に区別すべきと気づかれ、
「三昧発得」とは、
一時的な、瞬間的な「三昧状態」のことではなく、
常時不断、自由自在な境地のことである、と。

これは、非常に重要な指摘だと思われます。

○「今になって思いますと、
如来様を拝まなければ(見仏すること)ならぬということはありません。
たとえ見仏することが出来なくとも、
如来様のお慈悲が喜べて、有難く念仏することが出来ればよろしい」

と、弁栄聖者が突然、憲栄青年に仰られた。

聖者ご指導の元、一生懸命念仏に励んでいても、なかなか見仏できず、
劣等意識を持ち始めていた時のこと、
憲栄青年は、この聖者のお話はとてもありがたく、
救われたような気持ちになられたそうです。

一方、
聖者は身近の者には、
常に「見仏を所期とせよ」
と仰られていたそうです。

弁栄聖者の最晩年に随行された鈴木憲栄上人は、
弁栄聖者の想い出として、
晩年に、両方を併記されています。

この点に、留意すべきかと思われます。


【田中木叉上人・弁栄聖者・笹本戒浄上人のお墓】

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以前は、松山市の他の箇所にあったようですが、
こちらに移されたようです。

また、戒浄上人を尊崇され、同上人とも因縁の深かった垣本都夫人の分骨は、
戒浄上人のお墓に埋葬されたとのこと。


【長建寺】

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佐々木為興上人のご自坊、
広島県二廿市市の「潮音寺」には、
学信上人のお墓がありましたが、
ここ「長建寺」で、学信上人のお墓に出会い、
何か、学信上人との不思議なご縁を感じました。

また、同市「大林寺」の第十四代住職は、
伊予奇談伝説の「墓で生まれた学信和尚」。

【十五世 学信上人のお墓】

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【ロシア兵墓地】

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ロシア兵捕虜は、松山では概ね厚遇であったようです。

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弁栄聖者の御晩年には、
日露戦争などもありましたが、
聖者は、浄土宗内の組織的な関わりを始め、
政治的な事柄からは、生涯に渡り、距離を置かれていたように思われます。

「宗教と政治、組織との関わり」は、永遠の課題
と云い得るほどの難題の一つではありますが、
浄土宗内では、
椎尾弁匡上人の社会運動「共生運動」が起こりました。

ある時、信者の方が、
「弁栄上人のような御方こそ、政治家になっていただきたい。」
と懇願された際に、

「私は、もっと大きな仕事をしていますから。」
とお応えになっておられます。

弁栄聖者のご真意を推し量ることは困難ですが、

「念仏三昧に依り「大ミオヤの四大智慧」を蒙り、
「三身四智の仏眼を体得」してこそ、初めて、
政治の根幹をなす「八正道」を実行することが、可能となる。」


との弁栄聖者の御信念であったとご拝察いたします。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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