2017-01-10

筑前若松「善念寺」での弁栄聖者と波多野諦道上人とのお別れ

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↑  ○  ○  弁栄聖者    
     波多野諦道上人  ○ 
          大谷仙界上人


大正二年九月末、
一年半に渡る、筑紫筑後を中心とした初めての九州伝道をおえられ、
九州を去られる弁栄聖者の送別の集いが、
波多野諦道上人の自坊「善念寺」で開催されました。

道俗一同を代表して、住職の波多野上人がご挨拶をされました。

「(・・・略)今上人に会うことは、
七百年前の宗祖がさらに浄土からこの土に帰られたのにお目にかかる心地であります。」
とまごころこもる挨拶に涙こぼした。


と、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、
さらりと記されています。

この元になったと思われるのは、
松岡行覺氏の「歓ひの涙」の記事。

洒脱な波多野諦道上人の印象とは違って、
波多野上人の弁栄聖者への篤(熱)き心情の吐露に、
名状しがたい感銘を覚え、胸を打たれます。


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大正二年九月二十七日、
東路さして若松から戸畑への渡し舟にお乗りになった。

「いよいよお帰りになるようになりまして」と申し上げられた方へ、
「私には帰るということはありません。」

とは、「念仏のすすめられるる所をわが家として、
別に定めたわが家とてなき一生行脚」
の慈光輝く弁栄上人。


この若松でのお別れが、
波多野諦道上人と弁栄聖者との、今生でのお別れとなりました。


この記事を書きながら、今更ながら気付いたことがありました。
波多野諦道上人から、命がけの覚悟を以て
「田中徹氏(木叉上人)を、弁栄聖者に引き合わせるように」との命を受け、
大谷仙界上人がそれを実行されたのは、大正七年でした。

波多野諦道上人が西化されたのは、大正四年
ということは、その数年後になります。


「ところが七月二十日頃、偶然の用事
波多野諦道上人が善導寺にきて
上人に謁見するや、帰依の思い禁じがたく、他の用事は捨ておいて、
上人に願いまず筑前各地に上人をお伴して歩くようになった。
・・・鎮西第一の法の器が、
器を求めて筑紫路にはるばるくだった上人に値遇した。


そしてひとり九州にもならず、波紋はそれからそれと大きくつたわる、
光明教海に投ぜられた一石となった
。」

と、(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)に記されています。

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↓ 「大正末期の若松港の風景」 

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2016-12-18

北九州地区における弁栄聖者のご伝道

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明治四十五年の春に九州入りされてから、
一年半近くに渡り、
弁栄聖者は、筑前、筑後地区を中心にご伝道をされました。

弁栄聖者のご足跡を辿りながら、
どうして、九州北部中心に、しかも、長期間に渡りこの地にご滞在されたのか、
この疑問が膨らみ始め、その理由を知りたくなってきました。

北九州の地理的特徴、歴史に関心を寄せるようになりました。

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JR若松駅は、筑豊本線の起点。

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「若松駅操車場跡」

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北九州に位置する若松港は、
筑豊炭田で採掘された石炭の積み出し港として、大変な賑わいであったようです。

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明治24年(1891年)、若松ー直方間に鉄道が敷設され、
それまで遠賀川等の水運によっていた石炭運搬が、
短期間の内に、鉄道輸送に移っていったようです。

※ 「直方」といえば、
弁栄聖者の直弟子で、九州光明会の生み・育ての中心人物
大谷仙界上人の「長安寺」があります。

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弁栄聖者の九州北部を中心としたご伝道は、
明治大正期の、この地域の炭鉱産業の繁栄とも関係が深いと思われました。


【大善寺】

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「大正二年二月」には、
筑前福間大善寺で開催された教学講習会にて、
初めて光明主義教学の組織的な講義(「浄土哲学」)をされました。

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【正願寺】

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「大正二年四月」には、
筑前折尾正願寺で『自覚の曙光』の題下で五日間の講説があり、
『自覚の曙光』という小冊子として、
筑前遠賀で印刷され、五月に公刊されました。

なお、筑前折尾とは、
大正八年八月に、
信州の唐沢山で勉強されていた柴武三氏達の様子を、
弁栄聖者が、大円鏡智でお知りになり
笹本戒浄上人、田中木叉上人に葉書を出された地。

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【善念寺】

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「大正二年六月」に、
京都知恩院での『宗祖の皮随』の御法話に先立つこと、
数年前に、「善念寺」にて、
『宗祖の皮随』の題下に、法然上人の道詠十二首についてのご講話がありました。

そのご講話をきかれ信心歓喜して、
「上人こそが如来のお使い」とその時の実感を吐露されたのは、
波多野諦道上人から、弁栄聖者を預かるように頼まれ、
最初はいやいやながら預かられた丹羽円浄上人でした。

※ 丹羽円浄上人については、以前記事にしましたが、
その後、丹羽上人に関する貴重な逸話を知りましたので、以下、追記します。

丹羽上人は、一切経を読破された「学の人」でもあられたようでしたが、
弁栄聖者のご内証の片鱗を知るに及んで、
自身の学解の至らなさに慚愧し、
念仏三昧にも大変な精進をされたようです。

「弁栄上人は、一宗の枠内に置くべきお上人ではない。
寧ろ世界宗教を止揚し尽くした第一の方である。」


とは、最晩年の丹羽円浄上人の弁栄聖者観。

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○「大正元年より、
もっぱら光明主義の名をもって新法門を弘通するようになられた。」


「・・・かくのごときはこれ精神的光明主義である。
仏陀禅那は光明主義の予言者である。」
大正元年栃木県家中村渡辺厚盛法尼宛の書簡)

と、田中木叉上人は、『日本の光(弁栄上人伝)』に記されています。

また、
「光明会の継承者と言い、その名称と言い、亦組織された教学の発表と言い、
すべてがこの北九州の地で行われたのであった。」


とは、『辨榮聖者』の著者、藤堂恭俊上人のご指摘。

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2016-11-28

福岡県福岡市城南区東油山 「鎮西上人霊蹟と鎮西国師学寮跡」と久留米市御井町「安養寺」


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「油山観音」

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「浄土宗第二祖 鎮西上人霊蹟」

鎮西上人は筑前の国香月の庄(北九州市)の出身で、
寿永2年(1183年)22才のときに
比叡山に登り8年間修学の後帰郷された。

その頃この油山の地は360からの僧坊があり、
九州第一の学問の道場であった。
30才の若さで油山学頭になられると、弟子たちが争ってその門に集まったといわれている。

建久8年(1197年)京都に登り、浄土宗を開かれた法然上人に出会われ、
8年間修行をし、正統を受け継ぎ、
浄土宗第二祖として、元久元年(1204年)43才の秋、
九州に帰り、筑後の国(久留米市)の浄土宗大本山善導寺(国指定重要文化財)をはじめ、
九州、四国、中国の各地に48ヶ寺を建て、大いに念仏の法を弘め、
嘉禎4年(1238年)2月現在の大本山善導寺の地で入滅された。
時に77才。

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入口から、数分ほど登ったところにあります。


「鎮西上人霊蹟」

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顕彰碑の完成は昭和4年で、

題字「鎮西上人霊蹟」は、
当時の知恩院門主 山下現有上人の筆。

裏面の銘文は、望月信亨博士の撰。

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「鎮西国師学寮跡」

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油山展望台から、福岡市街が一望できます。
特に夜景が綺麗のようです。


油山といえば、
本年6月に西化された、田中木叉上人のお弟子の一人、
工藤眞徹上人の油山如来光明園がある地。


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久留米市御井町にある、「安養寺」

浄土宗第二祖鎭西国師(聖光房弁阿弁長上人)による、
建久3年(1192)頃の開山。

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山門には、「鎭西国師千日別時念仏感應道場」の碑があります。

「千日別時念仏」の後に、
筑後の大本山「善導寺」を開山。

起行派として知られる鎮西上人ですが、
千日間の御別時とは、驚嘆です。

鎮西上人は、比叡山で学ばれ、
30才で油山の学頭を務められた程の大秀才でした。

鎮西上人が法然上人に邂逅されたのは、
法然上人65歳、鎮西上人36歳で、
法然上人の下で学ばれたのは、8年間ほど。

師匠と弟子との関係を考える場合、
お互いがいつ出逢われたのか、どのよう学ばれ方をされたのか、
ということは、とても大事なことだと思います。

『醍醐本法然上人伝記』「三昧発得記」には、
法然上人66歳時に、三昧を発得されていたことが記されています。

比叡山で天台教学を学ばれた大秀才鎮西上人が、
学行の円熟期の法然上人に、学行を学ばれたことになります。

『浄土仏教の思想』(講談社)のシリーズには、
『浄土仏教の思想 14 清沢満之 山崎弁栄」(脇本平也 河波昌 著』がありますが、

『浄土仏教の思想 10 弁長 隆寛』(梶村昇 福原隆善 著)には、
梶村氏の、鎮西上人(聖光房弁長)に関するとても興味深い記述があります。

教相判釈(略して教判)には、知的教判信仰的判断があると思われる。
法然、弁長の教判はまさにその後者であることは明らかである。
・・・弁長が法然に師事し、法然の教判を踏襲したのは、理としてのこともあったであろうが、
それよりも三十六年間の眼前の事実による判断があったと思う。」

弁長の『徹選択』で説かれる、

「念仏三昧とは、不離仏、値遇仏の義である。
・・・値遇仏の義とは、・・・刹那片時も仏を遠離すべからず。
喩へば嬰児の母を離れざるが如し。」


「仏を離れざるが故に仏を忘れず、
仏に値遇するが故に常に仏を念ずるなり。」


梶村氏は、弁長のこの論法を評して、

「たしかにこれは念仏の論理ではある。しかし、これは観念の論理ではない。
弁長が千日の別時を行い、四十八日の別時を行ったことと思いあわせると、
これはまさしくかれの体験から得た経験論理と言われるべきものであろう。」

鎮西上人が、三昧発得の聖者であられたことを思いあわせ、
大変興味深い、ご指摘だと感銘を受けました。


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「鎭西国師(聖光上人)御分骨の御廟」

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以下は、鎮西上人のご遷化近くのご様子です。

極楽の聖衆が来迎して空中に満ちている
恵心僧都の来迎讃に”念仏三昧現前す”という句があるが、
この句は肝要である」と看病の弟子に告げ、念仏の功徳を説いた。
それはまったく平常と変わることはなかった。」

今憶念すると、まったくお誓いどおりに実行してきた
善導堂の釈尊の霊像が光を放って私を照らして下さっている。」

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鎮西上人のご生涯も、「結帰一行三昧」のご一生でした。

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2016-10-31

福岡県八女市馬場「天福寺」、”鎮西上人と記主禅師 良忠上人”

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前回、 前々回の記事で取り上げた、
福岡県八女「浄源寺」中川察道上人の記事の際、
どうして、このような田舎の地に何故?
といった感想を漏らしましたが、

後ほどネットで調べ、
無知からの感想であったことを反省することになりました。


福岡県八女市馬場「天福寺」

浄土宗の、
”第三祖 記主禅師 良忠上人”が、
”第二祖 鎮西上人”に出逢われ、お弟子となられました。

良忠上人 三十八歳、鎮西上人 七十五歳。

浄土宗史にとっても、極めて重要なお寺。

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↑ 第二祖 鎮西上人分骨の墓所。

↓ 第三祖 記主禅師 良忠上人

杉田善孝上人がある時、

「鎮西上人は、三昧発得のお方であるだけに、
お言葉が、(わかり易く、しかも、内容が)とてもありがたい。」


一方、

「記主禅師は、頭脳明晰で、文章を拝読すると、
とても頭が整理されます。」


といった内容の御法話をされたことがありました。

これも、杉田上人の印章に残る御法話の一つ。

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2016-10-03

福岡県八女市星野村「浄源寺」、第二十六世 中川察道上人(後篇)


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風情のある、歴史を感じさせる由緒ある茅葺の山門

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山門を通り過ぎると、
直ぐ斜め左前方に、歴代上人のお墓があります。
その一番手前に、中川察道上人のお墓があります。

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「浄源寺」 第二十六世 中川察道上人(1885~1945)
昭和二十年九月二十九日 示寂  世寿六十歳
法名 仁蓮社義誉上人観阿弘徳察道大和尚



前回の記事でも、察道上人の逸話を幾つかご紹介しましたが、
今回も、察道上人に関するその他の逸話をご紹介したいと思います。


○「四十恰好の農夫風の人
醤油で煮しめた様な手拭いを頬冠りして、しきりに雑草を刈っている。
形振り構わぬ上人で、仏前奉仕、子守、蒔取り、庭の手入れ等と、
下男の如く黙黙と働き
其の上、憶念の念仏は申すに及ばず、十数年の間、一心専念、
念仏三昧の実修は驚くべき証人となったのである。」
堺静道上人談

「光明主義より念仏三昧という事に引かれて行った。
すると察道上人が第一線に座し、三昧仏様の御前で木魚を鳴らして
真剣に念仏三昧に入っていられる後姿に寸分の隙がない
剣道で言えば有段者か否名人に近い態度である。
これを見て念仏三昧に何かあると感じた
それから、初めて木魚を打った。」
(大庭伝蔵氏談ー氏は「知る人ぞ知る、念仏に徹した稀に見る妙好人( 菅野真定上人談)」)

※ 剣豪の白井亨が徳本行者と出逢った時の逸話を彷彿とさせます。


次は、「八女光明会」の生み、育ての親ともいうべき、
松延陽氏の察道上人の思い出。

○「亡くなられたお母さんが大層喜んでおられます」

察道上人のお別寺に何回か就かれた時に、上人からかく言われ、
松延氏は、その後、察道上人をご自宅に招かれ、
毎月のように松延家にご法話にお出ましであった
ようです。


ある時、察道上人のご法話がすみ、廊下を歩きながら、
「いつも察道上人のお話しばかりだから、
時には別の上人にお願いしようか」
思った途端
察道上人は、後を振向かれて、
「松延先生、この次はほかの上人をお願いしてあげましょうか」と言われた。
”お見通し”の察道上人に、度肝を抜かれた。


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八女光明会の生み、育ての親、
松延陽氏の菩提寺、「無量壽院」。
「八女光明会」の発足は、昭和十六年とのこと。


実兄の中川弘道上人は、
事務的にも堪能で、説教も大変上手で、
「本山の名高い説教師、機関銃と称えられた能弁家」(中井常次郎氏談)
でしたが、
肉弟の中川察道上人は、大変機根の優れた方でしたが、
最初のうちのご法話の在り様は、

「汚いタオルを片手に握ってお話下手で、
涙ばかり流して、そのタオルで拭いておられました」が、

「中川察道上人は念仏三昧の内容は充分に出来ておられるから、
いっとき辛抱してやってください」

と、 大谷仙界上人が言われるので、お呼びしていました。

それが一年位すると、
”舌爽やかで立て板に水”の様に成られ、
中国、関西、近畿、関東と引張凧に成られ、
お話が大変感情的で特に婦人向きでありました。」(横尾熊彦氏談)

ある時、若手の僧侶が説法がうまくできず、悩んでいたのを見かけ、
「お念仏をしっかり申していれば、そのことを気にすることはない」と。
おそらく、”弁才智を得ておられた”察道上人のことを、
横尾氏は思い出しながら励まされたのではないかと推察いたします。


後年、察道上人は、「熱導師」として、尊崇を集められ、
”生き仏”とさえ囁かれるほどの、大導師となられました。

※「伝道とは饒舌に喋ることではない。
心の内にはたらくものが相手にはたらくこと。
故に弁栄聖者は「伝燈」とも云われた」(田中木叉上人)



○弁栄聖者の御教示を聞かれたある方で、
憶念口称念仏”はとても自分にはできそうもないので、
唯信口称念仏”の道で行こうと思われた方が、
数年後、中川察道上人に再会し、
人格があまりに立派になっていることを目の当たりにし
憶念口称念仏”をすべきであったと後悔されたとのこと。


○「中川察道上人は、以前は大変政治に関心がありましたが、
出世間の三昧が開けた後は、政治に淡泊になられました。」
(杉田善孝上人談)


「将来は在家の方々も伝道する様になるでしょう」
(察道上人の吉松喜久造氏へのご教示)
 


山口県善生寺の熊野宗純上人の後を継がれた、
熊野忠道上人は、中川察道上人の御子息ですが、

「おかしいと人は言うかもしれないが、
私が尊敬する恩師は、
弁栄聖者の弟子である、我が父、中川察道上人です。

と、ご述懐されていました。

これは、特に肉親に対しては、なかなか言えないことと思われますが、
察道上人に関しては、さもありなんと思えます。
察道上人の御霊格の高さに思いを馳せ、感銘深く、記憶に残る逸話。


○「大ミオヤの大慈悲を熱涙もて説き給いしあの御姿、
彷彿として眼前に在し、
深き御内証より湧き出でた御慈教、今尚心耳にひびきます。」


この”察道上人観”は、真に、簡にして要を得ているように思われます。
おそらく、杉田善孝上人によるものかと推察されます。


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第二十七世、第二十八世ご住職のお墓。

「南無阿弥陀仏」の御名号は、察道上人の筆になるものと思われます。


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中川察道上人の筆になる書が、拝見できます。

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『如来光明礼拝儀』もあり、
光明主義の伝統が続いていることが、嬉しく思われました。


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察道上人には、
念仏三昧による霊化の余光として、優れた、書・御道詠が遺っています。
その一部をご紹介したいと思います。

 「察道上人は、特に和歌の勉強はされていないが、
弁栄聖者が御遷化の後、大正十年頃から次々と多くの歌を詠まれています。
書は多少自分で勉強されたようですが、
弁栄聖者に値遇の後、急にいい字を書くようになりました。」
(「浄源寺」檀家の古老談)


○「色もなく香もなき智慧のみ光りは、
色香を添えて子等をまねきつ」

「色もまた」とも伝えられているようです。

この御道詠は、
田中木叉上人が、弁栄聖者の御道詠にあるはずと思われ、
調べられましたが見付けられなかったという逸話が残っている、
察道上人を代表する御道詠


○「なんのかんのとゆふひまおしみ
口のたへ間に南無阿弥陀佛」


○「あくがれて至心不断にいのりなば
いつしか匂ふオヤのうつり香」


○「世のちりにけがれそみにし我衣
しらずも今日は法(のり)のはれぎぬ」


○「朝な夕なおもひこがるゝ雲の上(へ)の
いとなつかしき慈悲のおもかげ」


○「法の水こころのおくにすみぬれば
いつもさやかに照す月影」


○「すみわたる無為泥恒の秋の空
有無をこへたる月ののどけさ」


○「古(いにしえ)に説かれし文(ふみ)と思ひしを
今示される法(のり)の尊さ」


○「御仏に捧げまつれる人の身は
生(せい)をつくして布施の行なり」


○「何時の世にか還来穢国とおもひしに
覚りてみれば今もそのとき」



最後に、
これも、是非ご紹介しておきたい察道上人に関する逸話があります。


○「信仰の進んでいる事を爪の垢ほども出してはいけない。」
これは、笹本戒浄上人の察道上人への真に厳しい戒め

おそらく、察道上人が、大導師として、信者方から尊崇され、人気がうなぎ上り、
”生き仏”とさえ囁かれ始めていた時分かと推察されますが、
察道上人は、「(あの戒めは)とてもこたえた」と、後年洩らされていたようです。
(横尾熊彦氏談)


報身阿弥陀仏に対し、
「この木偶の坊!」
という暴言が思いがけず口を突いて出てきて、
散々苦労されたのが、戒浄上人ご自身でした。

笹本戒浄上人は、とても謙虚な人格者で、しかも、ご霊格も高かったようです。
中村元博士が、
学生時代に戒浄上人に出逢われた時の興味深い逸話
が残っています。

戒浄上人ほど、”慢を戒められた”弁栄聖者の直弟子はいなかったように思われますが、
それは、戒浄上人ご自身が謙虚であられたから、というよりもむしろ、
「信仰上における”慢”の弊害、危険性」を、
戒浄上人が痛いほど熟知されていたからだと推察いたします。

笹本戒浄上人の中川察道上人に対する、
”不動明王的なお慈悲の、頂門の一針”

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山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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