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2012-05-01

「衆生は魂を乗せた泥舟みたいなものだ。・・・時を待て。」(新潟県柏崎極楽寺、故籠島咲子夫人への如来様(霊応身)のご説法)


杉田善孝上人のご法話の中で、
弁栄聖者にご指導を受け、三昧をいただかれた方々の想い出話がありました。

どのお話もありがたかったのですが、
その中でも特に印象深く、有難かった一つが、
新潟県柏崎、極楽寺の故籠島咲子夫人の逸話。

極楽寺とは、弁栄聖者御入滅の地、
咲子夫人は、弁栄聖者と心霊界でのご縁の深かった方として知られており、
後に仏眼を開かれた方。

「本堂以外であっても、如来様を忘れているようであってはいけない。
いつも如来様から心を離れぬようにして、この世のお勤めをせよ。」


との弁栄聖者からのお念仏のご指南のもと、
咲子夫人は、お念仏に励んでいらっしゃったとのことでした。

その当時、咲子夫人は、「初歩の法眼の境界」でいらっしゃったため、
ある時、夫人が日頃から可愛がっていた女中さんが、
夫人の意に反した行いをされたことがあり、
可愛さ余って憎さ百倍とでもいうのでしょうか、
怒りのままに女中さんを激しく叱りつけられたことがあったそうです。

しばらくして、如来様から心が離れ、修羅の鬼の心になっていたことに気づかれ、
すぐにご本堂に行って、如来様の御前で、一心に懺悔をされました。

すると、朗らかな世界が開け、
三昧定中に如来様が御現れ下さり、咲子夫人にご説法をされました。

「衆生と如来との間には一本の河が流れている。
その流れは、衆生の四つの煩悩ゆえに、豪流、濁流である。
衆生は魂を乗せた泥舟みたいなものだ。
仏の在しますかの国にたどり着きたいと思って、
かいを漕ぐが、河の流れがきついためになかなか岸にたどり着けない。
普通の者は、かかる豪流の上に泥舟を乗せたまま、
泥舟なるがゆえに、とけて沈んでしまう。地獄、餓鬼、畜生に落ちてしまう。
だから、一心にかいを漕ぐがよい。
そうすると、泥舟であっても、如来の岸に近づいてくる。
如来はこのとおり手を伸ばして衆生の手を取り、
如来の岸に迎え取らんとしている。
衆生も手を伸ばして救われようとしている。
しかし、もう少しのところで如来の手に届かぬ。
そんなものだ。時を待て。」


と、如来様(霊応身)が咲子夫人をお慰めになったことがあったそうです。


お不動様は、憤怒の姿。

三悪道の心を起こしてばかりいると、
それが習慣となり、死後、三悪道に落ちてしまう。
そうならないようにするためのお慈悲の現れ。

その証拠に、よく見ますと、
不動明王の片方の目は、優しく慈悲深い目をされています。

私たちの慈悲心から離れた怒り、私憤とは、まったく質、内容が違うわけです。

光明主義では、
不動明王とは、如来炎王光の御光による、
不動明王としての御姿としての顕現であると捉えています。

2012-04-21

「大霊に体あれば必ず用あり法身は先にして報身は後にありと云うべからず」(弁栄聖者御遺文『大霊の光』)

仏教で説く「三身論」をご存じの方は、
疑問をもたれたと思います。

法身は、無始無終で、大日如来。
報身は、有始無終で、法蔵菩薩。
応身は、有始無終で、釈尊。


これが、従来の仏教における「三身論」の説であると思います。

「吾人は此三身は本来一体の三面にして不可離の関係を以て居れば通じて大ミオヤとして仰で居る」。

と弁栄聖者は明言されています。

つまり、
「大ミオヤは、三身即一、無始無終に在します。」

聖者は、「阿弥陀仏」を「大ミオヤ」と表現されました。

五存七欠十二訳として知られる『大無量寿経』。
その有名な法蔵菩薩の第十八願に、念仏による救済の保証が説かれています。

浄土三部経の中で、成立が最も遅いとされる『観無量寿経』において、
初めて、「南無阿弥陀仏」という聖名に結晶します。


弁栄教学を学ぶ難しさは、
御遺稿の中に、相矛盾する箇所があること、
従来の表現と同じでありながら、意味内容が異なること、
がある点です。

聖者の高弟の一人笹本戒浄上人は、この点は徹底しておられ、
聖者の御遺稿の中から、方便説と真実説を見抜く目を持たないといけない、
と強く主張されていたようです。

弁栄聖者が「阿弥陀仏」を「大ミオヤ」と表現されたのは、
今後のグローバル化、いやそれ以上に宇宙的な視点に立った、
大きな意味があるように思われます。

聖者が、

「念仏(仏を念じる)の他に成仏(仏と成る)の道なし」

「浄門の意は、他仏を念じて自仏を作る」

と言われる時、
それは、排他的なものでは決してなく、
聖者が「南無阿弥陀仏」と表現される時、
この聖名に、全宗教が包摂されているからだと思います。

私は、弁栄聖者の御説によって、
教学的に納得でき、安心してお念仏が称えられるようになりました。


蛇足かもしれませんが、
弁栄教学を学ぶ際に知っておかれるとお役に立つと思われることの一つ、

弁栄聖者の「漢字の振り仮名に注意を払うこと」

が挙げられると思います。

「大霊に体あれば必ず用あり
法身は先にして報身は後にありと云うべからず」
(弁栄聖者御遺文『大霊の光』)


においては、「用」は仏教では「ゆう」と読みますので、
これはそういうものとして覚えるだけですが、
「大霊」には、「みおや」と振り仮名をふっておられます。

聖者の独創的な「振り仮名」へ注意を払うこと、
知っておかれるときっとお役に立つと思われます。

2012-04-01

「念仏三昧とは不離仏、値遇仏の義なり」(『大品般若経』)

「不離仏、値遇仏」といえば、
鎮西聖光上人の言葉として記憶されている方が多いかもしれません。


龍樹菩薩著『大智度論』は、『大品般若経』の注釈書であり、

「不離仏、値遇仏」

について龍樹菩薩も説かれていると聞いたことがあります。


『般若経』に念仏とは、これいかに?

仏教の知識がある方には、当然の疑問かと思いますが、
『弁栄聖者光明体系 無辺光』に詳述されています。

「禅は、念仏行の内から、必然的に生じてきた。」

この点について現代、行学の面から解明されている第一人者が、
河波昌氏であるように思われます。

ここではこれ以上深入りしませんが、
関心のある方は、是非、河波昌氏の著作及び講演記録をお読みください。


「不離仏、値遇仏」に関しては、

「ただ一向に念仏すべし」

と念仏行の「形式」をお示し下さった法然上人でしたが、

その念仏行の「内容(内実)」は、歌に詠んでおられます。

「我はただ 仏にいつか あふい草 心のつまに かけぬ日ぞなき」(法然上人)

「不離仏」とは、「常時仏を憶念」と言えましょうか。


「真正面に、如来様在します。」

釈尊→善導大師→法然上人(の内実)→弁栄聖者の一貫した念仏修行のご指南で、
善導大師は、金言をもって表現されています。

「仏身円満無背相(仏身円満にして無背の相なり)
十方来人皆対面(十方より来る人、皆対面す)」


この最重要のご指南、しかし、その実践は、なかなか困難です。

私達の意識は通常、 「真正面に仏を念ずる」という念を保持しえず、
一般に、当初は相当意識的な努力を要するように思います。

この点に関して、
笹本戒浄上人と田中木叉上人のご指南がご参考になるように思います。

戒浄上人は、「一日3時間の念仏が必要である」と。

木叉上人は、「(〇〇し)ながら念仏」を勧められました。


木叉上人のお勧めは、せめて「ながら念仏」を、というご指南で、
「念仏しながら、〇〇する」がもちろん理想であります。

こんなことは可能であろうかと疑問に思われる方もあろうかと思います。

弁栄聖者の信奉者でもあり、念仏修行にも熱心であった数学者の岡潔博士は、

「論文の数字、文字に(如来様の)聖容を拝んでいた」

と聞いたことがあります。

また、徳本行者の伝記には、

「徳本は、聖徳太子には及ばないが、
念仏を称えながら、説法くらいはできる。
それをあやしむ者は、念仏が足らんのではないか」


と大説法をされたと記されています。


戒浄上人のご指南も、かなりショックな内容ではないでしょうか。

少し早めの念仏で、三時間で一万遍近く、
しかも、この実践が毎日となると、法然上人が勧められたように、
正に念仏中心の生活でないとかなり厳しいように思います。

もし仮に、常時「念死念仏(この瞬間に死ぬとの想いに徹しての念仏)」
の覚悟を持って念仏を称え続けられれば、
三時間という時間にこだわる必要はないとは思いますが、
この想いの持続はなかなか困難かと思われます。

また、念仏持続の難しさは、科学とは違い、
その効果が直ぐに実感しずらい点にもあるかと思います。

「単なる自分の思い込みに過ぎないのではなかろうか?
念仏は他力といいながら、これでは自力ではないか?」


これが、特に最初のうちの念仏修行における最大の煩悶ではないでしょうか。

「口先で南無阿弥陀仏といえばよい 心なくして申せるものか」(徳本行者)

「まごころはおこりかねても唯称え 称えておればおこるまごころ」(田中木叉上人)

こんな時、これらのお歌はとてもありがたく、励みになると思います。


「不離仏」の想いとは、木叉上人なら、

「如来様がいつも私を想っていることを、常に忘れないこと」

と言われるかもしれません。


戒浄上人、木叉上人のご指南とおりにはなかなか実践できませんが、
その方向に勤めて参りますと、
確かに何かが変わってくるように思います。

日常生活の中で、
「仏と離れていた」ことに、ふと気づく瞬間が生じやすくなる
ように思います。


「上人様あぶのうございます」と、
弁栄聖者のすれすれを走る車に「念(き)」をうばわれたお伴の恒村夫人がお袖を引くと、

「あなたは今、如来様を念(おも)うていますか。」

と、聖者は逆に説法をされました。

聖者からごらんになると、
「如来様から離れることが車にひかれる以上に危険である」
ということなのでしょうか。

また、弁栄聖者は人に念仏を勧めるのに、
ご自身では念仏を熱心に称えているようには見えないのを、
率直に意見した信者に対し、

「弁栄は、昔は一日十万遍、血尿が混じるほど念仏を称えたが、
今の方がよほど念仏している、と。
・・・行住座伏、寝息に至るまで念仏となっていた。」


と、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に記されていたことが印象深く記憶に残っています。


まだまだ道遠し、ではありますが。。。


~平成24年度初めの4月1日、想いを新たに。

2012-03-31

「殺すことなかれ 汝が霊格を  偸むことなかれ 努力の光陰を  婬することなかれ 天魔の使いと  酔ふことなかれ 肉と我とに  欺くなかれ 己が良心を  五戒(法語)」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

 不殺生戒(ふせっしょうかい)
 不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
 不邪淫戒(ふじゃいんかい)
 不妄語戒(ふもうごかい)
 不飲酒戒(ふおんじゅかい)


これは、仏教の在家信者が守るべき「五戒」として知られています。


弁栄聖者の五戒の独創性は、従来の仏教の五戒と比較しますと、
より一層明確になるように思われます。

 殺すことなかれ  汝が霊格を
 偸むことなかれ  努力の光陰を
 婬することなかれ 天魔の使いと
 酔ふことなかれ  肉と我とに
 欺くなかれ     己が良心を


特に感銘を受けたのが、「不殺生戒」に対する聖者の解釈です。

弁栄聖者創作の五戒のトップに、

「己が霊格を殺すことが罪である」

ことを掲げておられます。


「霊格形成」に、従来の「不殺生戒」が包含されているように思います。


「不殺生戒」は、表面的なものから深意に至るまで、多種多様に解釈可能で、


科学的知識のある私達現代人には、
「不殺生戒」を字義通り受け取ることは不可能です。


弁栄聖者は、大宇宙、生命現象の最大の謎の一つ「無明」に関しても、
ご自身の深三昧におけるご内証から独特の見解を示されました。

いづれ、この最大の謎の一つ「無明」についても記事を書きたいと思いますが、
今ここでは、ごく簡単に記します。

「無明とは、盲目的に唯だ生きんとする衝動である。」

この無明は、生命発達上不可欠な必要な衝動でもある、と。


そして、この「無明」の発現を、深三昧のご内証から、

「宇宙全体が物心の絶対心霊態である。
・・・如来蔵心の絶対より相対の自然界を現出するに、
二属性あり、一切能と一切知となり。
一切能に一切物質を運動生活々動せしむる用あり。

一切知の分賦たる知がまだ伏能にして、
一切能の分たる不識意志の運動のみ活動するを無明と云ひ。
無明とは衆生が有する生理衝動のことなり。」
(『弁栄聖者光明体系 炎王光』)


と聖者は認識されておられました。


ただ、この無明は、より高次の「霊格形成」において最大の障礙となります。


弁栄聖者のこれらの卓見は、驚くべきもので、
現代科学の最先端の知見にも合致するように思います。

例えば、それは、
動物の赤子における「吸引反射」と、
生体に自ずと備わっている「免疫反応」です。

特に、電子顕微鏡により可視化された「免疫反応」を見ていると、
「無明」は仏教の教えの一つではなく、
現代科学の重要な知見である、と真に実感されてきます。


また、弁栄聖者は、「無明」を、

「無始の無明」

と「始め無し」と表現され、
この表現から、聖者の三昧の深さを憶測できるように思われます。


最後に、とても重要なこととして、
「霊格形成」は、弁栄聖者が終生一貫して説かれたことでした。

聖者が「見仏三昧」を、「自利利他の至極の善行」として勧めて止まなかったのは、

「霊格形成」が、「憶念口称念仏」→「見仏三昧」と相即不二ゆえに。


「見仏の要は一切心意を仏化するにあり。」
(『弁栄聖者光明体系 難思光 無称光 超日月光』)


「見仏」という言葉から仏を「見ること」、
つまり、「視覚のみ」と誤解されかねない表現ですが、
真実には、

「如来の妙色相好身は、色心不二」の御身、ゆえに。

2012-03-11

「回向について」~東日本大震災後1年を振り返り

今日、2012年3月11日で、あの未曾有の大震災から1年が経とうとしています。


今回の大震災には、阪神淡路大震災と異なる点があり、

何といっても、その規模と津波、
さらには、原発、放射能の問題。

こられの影響は予想外に大きく、
阪神淡路大震災時よりもはるかに広く深く、
人々の心のみか、生き方にまで、
広範囲に影響を及ぼしているように思われます。

阪神淡路大震災時には、「心のケア」に焦点があたりましたが、
今回の東日本大震災においては、
宗教性の次元つまり「魂の次元」にまで、
その影響が及んでいるようにも思われます。

自然の驚異的な破壊力になすすべがなく、
恐怖感、無力感を味わわされ、
無常観、畏怖の念をも生じたと思われます。

今回の大震災の議論において決定的に欠けている視点は、
「死者論」である。


とは、評論家若松英輔氏の一貫した視点であり、
近著『魂にふれる 大震災と、生きている死者』において、
真正面から論じられています。

とても考えさせられる本です。


今回の大震災は、私に「回向」という問題を突き付けました。

間接的な位置にいる私にとって、
被災者とその「死者」に対する関わりの在り方です。

「どうして、この私にこのような事態が?」
「どうして、この私が助かり、あの人は亡くなってしまったのか?」
「亡くなったあの人は、一体、今何処に?」
「これらの事態をどう受け入れたらいいのか?」

「縁」、いわゆる「運」というものとは、
また、それと神仏への祈りとの関係とは。。。


そんな時、ふと思い出したのが、
杉田善孝上人がご紹介して下さった、
新潟県柏崎極楽寺の故籠島咲子夫人の逸話。

弁栄聖者との霊的因縁が深く、
聖者ご遷化(1920年)後、仏眼を開かれた方。

その咲子夫人が、関東大震災の1923年9月1日の前日、
念仏三昧定中に如来様(霊応身)から啓示を受けられました。

「明日、関東で焦熱地獄が起こる、
その被害が少なくなるように、ご回向をしなさい。」


仏教で回向というが、それはお坊さんのお決まりの仕事で、
果たして効果があるのか?

この種の疑問を持たれている方も多いと思います。

結論を言えば、 「回向は届く」といいます。

「位牌を拝みますか。それはまちがっていましょう。
位牌を拝むのではなく、
位牌の霊を如来様にお救い下さいとお願いするのです。」
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』


(笹本戒浄上人)「私は別回向を致しません」。
(弁栄聖者)「それは矢張りなさった方が宜しうございます」。
『笹本戒浄上人全集3 無我と輪廻と回向』光明会本部聖堂出版


(注)総回向に対し、別回向とは、特定の対象者に対する回向のこと。


私たちの根底は如来法身であり、
不二平等でありますので、
他者との感応道交が起こりうる、
といわれています。

私たちは、亡くなった方に対し「仏さん」、
または、「成仏してください」、
と言ったり、祈ったりします。

実際はどうかといいますと、

「亡くなった方への回向により、
その方がその回向の功徳によって成仏することはないが、
その回向の功徳によってその回向を受けた者が、
成仏へと歩みやすくなるのである」

と言われており、この回向の解明は、とても腑に落ちます。

「回向」とは、生存者の死者への恩返し、
また、生存者のおつとめ、義務でもありましょう。

「絆」は、死によって終わることは決してない。

なお「回向」は、より事実を正確にいえば、

「生きている者への回向の方が、より効果的である」

と弁栄聖者はいわれています。

「一心十界」。

生きている者の方が、心がより可動的であるからだと思います。


現代人は、実生活において、この世の生への関心が強すぎ、
死後、死者と向き合う時が疎かになってはいないでしょうか?

今回の大震災を契機に、考え続けています。
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syou_en

Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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