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2012-02-07

「如来様は主観的客体に在(ましま)す」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

三身即一の大ミオヤ(如来様)は、無始無終に、
衆生の信念に関わらず、在します。

ただ、大ミオヤが顕現する際には、衆生の心想中に顕現。
衆生の信念が縁となり、大ミオヤが顕現される。

「如来是法界身、入一切衆生心想中」(『観無量寿経』)

「弥陀身心遍法界、影現衆生心想中」(善導大師)

衆生の成仏にとって大ミオヤの縁が不可欠なように、
大ミオヤも衆生を必要としている。

といえるのかもしれないと最近考えています。


弁栄聖者はご存世中、信者達に「三昧仏」と名づけた多様な御絵像を描かれました。

「三昧仏」様に関しては、別項目として論ずべき重要なことですが、
ここでは、

「お慕い申し上げ易い三昧仏様」を選ぶことが、
憶念口称念仏→見仏三昧→成仏上、とても重要なことである。


この点だけを述べておくにとどめます。

弁栄聖者が描かれた「三昧仏」様には様々な御姿があり、
更に、密教、キリスト教などにまで範囲を広げれば、
いったいどれが本当の(!)仏様、神様の御姿なのだろうと、
謎が深まるばかりでした。

本来、仏、神に姿などなく、
人間が念ずるから、あのように顕れるのかもしれない、とも。

私は、「神仏の顕現」という事象に関しては、
不思議と疑問を持ったことはなく、
ただ、その「顕現の在り方」に疑問を抱き続けてきました。

次に記述することは、まだ、信じている段階なのですが、
やはりこれが法界の真相なのかもしれない、
という予感が深まりつつあります。

「私共人間は相対的現象態で、
・・・一つの定相しか持つことができぬ。
併し、報身大ミオヤは絶対的現象態であって、
隠顕出没自由自在な無量の定相を、
一即一切の状態で持ち給う

そして衆生の信念に相応した人格的相を衆生の心想中に発現する
円満な大霊力を持っていられる。
或はキリスト教的、或は回教的な人格的神の相を発現して、
衆生をそれぞれの道に従って済度して下さる。
このように、三昧中に拝する本尊の差別の相は
「主観的客体である」
と弁栄聖者はおっしゃった。」
(『光明主義玄義(ワイド増訂版)』光明会本部聖堂出版

この説明により、私の定めた「三昧仏」様でよいことがわかります。

私の念持仏、「三昧仏」様を念じているその私の心想中に、
その「三昧仏」様に即して報身大ミオヤが霊応身を発現される。

また、その「霊応身」は報身大ミオヤの霊的お育てによって、
相対的に変化しながら、限りなく深まっていくといいます。

なお、
「報身大ミオヤが絶対的現象態であって、
隠顕出没自由自在な無量の定相を、
一即一切の状態で持ち給う」


ことが、大ミオヤの心霊差別現象を規定する法則が確りと認識されるのは、
自受用の境涯である仏眼、しかも、相当深い仏眼によってである、
といわれています。


弁栄聖者の高弟の一人田中木叉上人は、

「これからお浄土は、四大智慧で説かないといけない」

とご説法されたといいます。

なお、「四大智慧」については、
『弁栄聖者光明体系 無辺光』に詳述されています。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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