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2018-07-01

和歌山県、御坊市「南葵光明会」及び日高郡印南町「弘龍庵」


和歌山には、
型破りで、個性的な人物が出る様に思われます。

【高野山】
弘法大師空海(出身は香川):真言宗の宗祖、高野山の開山
興教大師覚鑁(出身は肥前):真言宗の中興の祖、「密厳浄土」を説く。
土宜法龍(出身は尾張):南方熊楠と長年の交流があり、
明治26年(1893年)、シカゴ開催の「万国宗教会議」に日本代表として出席。

明恵上人:華厳宗中興の祖、鎌倉期の高僧
紀伊国屋文左衛門:江戸元禄期の商人
徳本行者:江戸期後期、「捨世派」念仏の大行者
華岡青洲:全身麻酔手術の先駆者
南方熊楠「南方曼荼羅(マンダラ)」としても知られ、
粘菌学者、博物学者、民俗学創始者の一人等、破格の人物
岡 潔:世界的な数学者、思想家
松下幸之助:別称「経営の神様」
植芝盛平:合気道の創始者

 
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「南葵光明会」
現在は、和歌山県御坊市塩野町、
北塩野交差点近くの道路沿いに移転されています。

創始者は、中井常次郎(弁常)居士。

平成30年4月に、
「光明主義文献刊行会」から、
増補改訂第四版として、
格段に読みやすくなった、
(カタカナ表記→ひらがな表記に改訂)、
中井常次郎著『如来光明礼拝儀講義』が、
出版されました。


ふと思い出しましたので、記しておきたいと思います。

2018年(平成30年)4月に発刊されました、
山崎弁栄著『人生の帰趣』(岩波文庫版)

この書の口絵は、
弁栄聖人画「親縁の図」で、
弁栄聖者にとって重要な画題ですが、
大正十二年発刊の初版、
弁栄聖人御遺稿集『人生の帰趣』の口絵
は、
大正九年六月に、中井弁常居士が、
「紙で観音さまを書いて頂きたい。
人がそれを見て信心を発すようにして頂きたい」

と聖者に依頼され、画いていただいた「瀧見の観音様」

その聖者の賛には、
「墨に画に写せる瀧の音にだに
甚深微妙般若波羅密」


ついでながら、
弁栄聖者の『御遺稿集』、『光明体系』、『如来光明礼拝儀』等でもそうなのですが、
同種の本でも版によって、
聖者の写真、墨書等が異なる
ことがよくあります。

昭和39年増補第四版の平成2年復刻版、
聖堂発行の『弁栄聖者光明体系 人生の帰趣(増補版)』は、
初版、第三版の増補版の口絵とは異なり、
昭和六年第三版(増補版)の、
昭和50年復刻版(発行者 河波昌)、
『弁栄聖者遺稿集 人生の帰趣(増補版)』
は、
「瀧見の観音様」ですが、
初版の物とは違い、聖者の賛も異なります。

なお、
『弁栄聖者遺稿集 人生の帰趣』の初版の口絵。
聖者が中井弁常居士に画かれた「瀧見の観音様」の複製版を、
弁常居士の同郷和歌山の池田和夫氏が、
弁常居士への報恩として、
以前、限定版として作成されたことがあったようです。


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今回の記事は、主として、
「中井弁常居士伝記」(池田和夫著『永遠之光』)を参照しています。

池田氏は、現在、89歳。

「南葵光明会」の代表役員。
昭和22年(1947年)、松山高校の図書館で、
中井居士著『恋愛と宗教』をご覧になり、
居士宅を訪問されましたが、
惜しくも、居士ご逝去の翌年でした。

中井弁常居士は、池田氏の同郷和歌山の方で、因縁もありました。
氏の実際的な光明会の恩師は、京都大学在学中にお世話になった、
京都の医師恒村夏山師。
弁常居士と恒村師は、光明主義の同志。

なお、池田氏の出身校、愛媛の松山高校は、
伊予松山の「大林寺」とゆかりが深く、

「松山光明会」の生み、育ての親、
大嶋玄瑞上人と、
垣本都夫人がおられました。

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【中井常次郎(弁常)居士(1888年~1946年) 】

中井常次郎(弁常)居士は、
西本願寺の門徒で、代々信仰の篤い、浄土真宗の念仏者の家庭の二男。

大正二年、東京帝国大学工学部機械科を卒業
大正六年、京都帝国大学工学部機械科講師

自然科学を研究するうちに、
「浄土が西方にある」
という浄土教の教えに疑義が生じ
ていた。

そんな折、
大正八年六月に長男を亡くされたこともありましょうか、
”不思議なご縁で”友人となった、医師恒村夏山氏から、

「弁栄上人という
いつも仏様を見奉り、そのみ声を聞き、
みむねのままに各地に念仏を勤めておられる出家がいる。
参加しよう」
との誘いを受けました。

「そんな迷信」と取り合いませんでしたが、
恒村氏の再三の誘いに、ついに断り切れず、

大正八年九月(弁栄聖者のご遷化は大正九年十二月):
中川弘道上人と恒村夫婦と四人で、
中井氏は、「弁栄上人の顔を見るため」にうかがい、
大阪の法蔵寺で、初めて聖者にお目にかかりました。

聖者のお部屋に通され待っていますと、
本堂でのお務めが終り、
聖者がほどなく襖を開けて、入って来られました。

中井氏は、頭を垂れて聖者に敬意を表していたため、
聖者のお顔を拝むことが出来なかったのですが、

「おくんの裾のさばきいとしとやかに
我らの前にお座りなったのを見ただけで、
はや霊感に打たれた。」


感激のあまり、一人想いに耽っていたところ、

「中井さん、何か聞くことはありませんか」
と聖者から言葉をかけられましたが、
「自分は、顔を見るために来た」のだからと、
「何もありません」と答えられました。

すると、弁栄聖者は
「生きてまします仏様が・・・。
大宇宙そのままが・・・
今現に、此処に在します親様を・・・」

と布団を跡にして、
仏身論を、又信仰と念仏の心について説かれました。

それこそ、今まで聞きたいと願っていた信仰問題との主な事柄であり、
今まで聞いた事のない新しい有難い説法でありました。


「宇宙を我がものとなさい。心を宇宙と等しくするように」
弁栄聖者との初対面の日、別れ際の聖者の言葉でした。
聖者の御遷化の後、しばらく経って、
弁常居士は、この聖者のお言葉が有難く頂けてきたそうです。


中川弘道上人のお計らいで、
大正八年十月:弁栄聖者との再会の機会を得。

中井氏は、その日は、授業中でしたが、
宿題を出し、休講にしてまで、人力車で駆けつけました。

その時の聖者の御説法の主要点は次のとおり。

○ 「仏説はどんな人でも信仰に入れるように、
人に応じて、神話的に、歴史的に感情的(救済的)に、
論理的に、実感的に説かれている。
それ故、誰でも自分に相応しい教えによれば信仰に入ることができる。」


○ 「極楽は西に限ったことはない。
仏眼をもって見れば、此処もお浄土である。」


○ 「法蔵菩薩が四十八願を発し修業の結果、
阿弥陀様になったというのは神話である。」


○ 「文字のままではいけない。経文の精神を取らねばならない。」

○ 「我々は仏となる種を持っている。
それを育て磨きあげればよい。」


○ 「浄土は想像即実現の世界であって、
仏土は(如来)成所作智の現れである。」


このようになるには、至心に念仏せねばなりません。


その後、
大正九年一月
横浜光明会開催の弁栄聖者ご指導のお別時に初参加。

お別時中、父危篤の連絡を受け帰省するも、
直ぐにお別時に戻られました。

「助け給えという念仏ではなく、
感謝の念仏、報恩の生活を実感し、
真宗にご縁のあったことを喜び」


そのことを、土屋観道上人にお話ししたところ、

「それはまだ至らぬ考えです。
大慈悲の光明に育てられ如来の威徳を満月のように受け、
衆生済度の働きをさせていただきたい
との大願を起こさねばなりません」

と諭されました。

引き続き、
神奈川県の当麻山無量光寺での授戒会に参加するため、
弁栄聖者にお供しました。

駅で汽車を待っている間も、聖者は、
「礼拝儀は一切経を縮めたものであるから」
と、礼拝儀によって話されました。

当麻山無量光寺に夜に着き、
就寝の際、弁栄聖者の側で寝ることになりました。
ところが、聖者にご挨拶を忘れたことに気付き、
床の中で頭を下げますと、
聖者は夜具の中から、
お慈悲溢れる御まなこを輝かせ、
中井氏をご覧になっていらっしゃって、
「あなたは法蔵寺で霊感に打たれたようで有ったが、
今、大分顔はやさしくなりました」

と一言仰られました。

ある朝、中井氏は弁栄聖者に、

「初め法蔵寺でお目にかかった時、
気分が変わったように思いました。
家内もその時から食物について世話がなくなったと申します。
このたびは長らくお側においていただきましたから、
家庭に目覚ましい変化を来すであろうと思います

と申し上げました。

すると、聖者は、ただ一言、
「うつり香ですね」とささやかれました。

中井弁常居士は、
「これこそ、自分にとり、
生涯忘れられぬ冷汗を覚ゆる大痛棒であった。
孔あらば、はいりたい思ひがした」

と述懐されています。

この授戒会で、中井常次郎氏は、
弁栄聖者から菩薩会を授けられ、
「弁常」の戒名を受け、師弟の契りを交わさ
れました。
(「弁」は弁栄上人の弁、「常」は俗名の常次郎から。
「名を聞いただけでは、臭い処に交へども・・・
いとめでたい名であると有難く頂いて居る。」
とは、いかにも、直言居士の中井氏らしい言。)

いざ、お別れという時に、
弁栄聖者は、中井弁常居士を呼び止められ、

「中井さん、今、あなたは当麻で死にます。
あすは京都に生まれます。
けれど自分には切れ目が有りません。
浄土に生れるのも、これと同じです。
三昧状態で、醒めて生まれます」と。



大正九年四月「京都光明会」発足。
恒村夏山師、徳永愛子(後の熊野好月女史)、松井一郎氏が発起人。
会誌『光明』を引き続き発行、ただし、聖者ご遷化により、十二号で終刊。

弁常居士と夏山宅で、
定例の、礼拝と念仏、法話後、座談会を開催。
これは、「光明会の家庭例会」の嚆矢

大正九年十二月四日:
弁栄聖者ご遷化(新潟柏崎「極楽寺」)

大正十二年三月末日
「工学の研究は他の人でも出来る。
しかし、光明主義の宣布は、私にしか出来ない尊い仕事である」

と、京都大学を依願退職し、和歌山へ。

時は大正期、将来を嘱望されていた京都大学工学部の講師、
なおかつ、家庭がある三十代では、相当な決意があったことと推察されます。

その後、早速、柏崎の極楽寺の弁栄聖者の墓前に参拝。

この時、
弁栄聖者とともにお浄土から衆生済度のために
この世に生まれてきた
といわれ、
「生ける観音」とまで崇められた籠島咲子夫人と巡り会いました。
咲子夫人は、在家で、
祖父の教育方針で「無学文盲」に育てられたようですが、
弁栄聖者の御指導により、仏眼まで開かれた御方で、
その後の中井弁常居士に大きな影響を及ぼしたようです。

大正十二年四月:「南葵光明会」発会。
中井弁常居士は、
光明主義の伝道に身命財を捧げられました。


弁常居士は、
機会を捉え、弁栄聖者のお別時等に頻繁に参加され、
「弁栄上人の聞き書き」を記録として残されました。
弁常居士は、自然科学者であったこともあり、
現代においても、説得力があり、示唆に富む内容が多く、
しかも、弁栄聖者と当時の光明会の状況が生き生きと描かれており、
とても貴重な資料ともなっています。

また、弁常居士は、
「学解面」での弁栄聖者のご教示は勿論ですが、
「弁栄聖者の御霊格との実際の触れ合い」から甚大な影響を蒙りました。
このことは、決して見落としてはならない点だと思われます。


中井弁常居士による「弁栄聖者の聞き書き」等には、
まだまだ貴重な聖者のご教示がありますが、
今回は、この程度にとどめておきたいと思います。


この度、
中井弁常居士著『乳房のひととせ 上巻』(のコピー)を再読し、
とても興味深い記事が目に留まりました。

弁常居士、恒村夏山師等が発行されていた、
『光明』誌の掲載内容の記述です。

一つ目は、
弁栄聖者の既執筆の「浄土教義」の転載を見合わす替りに、
聖者の絶筆(?)となる新たな「弥陀教義」の連載記録と、
今後、「(弁栄)上人」の尊称を書かず、名だけ(弁栄)にせよ、
と弁栄聖者からご注意を頂いた、との記事がありました。

○ 「浄土教義」とは、
大正三年に、聖者執筆による六十数ページのものかと思われます。
「弥陀教義」は、
弁栄聖者三十三回忌の記念に、恒村夏山師により発刊。
※ このことは、
「解題  大南龍昇」(山崎弁栄著『人生の帰趣』(2018年4月刊 岩波文庫版))
に関連記載があります。

○ 弁栄聖者の「尊称」問題は、
聖者の御在世中からあったようで、

「上人は、弁栄上人ただ一人。
他の布教者は、僧俗を問わず、「先生」と呼ぶ。」


とは、弁常居士の提案

弁栄聖者のご遷化の後、
光明会内で、「弁栄教学」を巡っての意見の相違、
伝道、広報、組織上の問題等が顕在化し、
その収拾のための、一打開策でもあったようです。

弁栄聖者に関する尊称、表記問題は、
現実的には、大変微妙な問題を含み、
難しいところがあるように思われます。

このブログにおける「弁栄聖者」の尊称表記、聖者に対する言葉使い、態度等について、
違和感を覚えられていらっしゃる方もおられると思います。

いい機会ですので、
このブログでの考え方を明記しておきたいと思います。

弁栄聖者は、光明主義提唱者として尊崇する御方、
という面では、私的(「身内的」)であり、
不特定多数の方がご覧になる可能性の高いブログでご紹介する際には、
「(山崎)弁栄」常識、慣例的には適切といえるかと思われます。

一方、「(山崎)弁栄聖者」は、
「光明主義の提唱者」といった一主義、一組織のちっぽけな御方ではなく、
「宗派宗教を超越した」”人類の師”ともいうべき、
その意味では、「”人類の遺産”ともいうべき公的な尊崇すべき聖者」
といった側面があるようにも強く感じています。

「私的でありながら公的な存在でもある」

このような実感から、
このブログでは「弁栄聖者」という尊称表記と聖者に対する言葉使いとなっております。


更に、もう一点、興味深い記載は、

『光明』誌の八号から、
「阿弥陀仏(ポール ケーラス著より転載)」とあります。
この転載が誰の提案かが気になるところです。

何故ならば、
「阿弥陀仏(ポール ケーラス著)」の翻訳者が、
『日本的霊性』の著者、鈴木大拙氏であるからです。
(ただし、『日本的霊性』の初版は、昭和19年(1944年)で、弁栄聖者のご遷化後。)

更に言えば、
ポール・ケーラスは、
大拙氏とその師、
夏目漱石が参禅した釈宗演老師とも縁が深かった。
宗演老師は、鎌倉の円覚寺、建長寺の管長、
管長を退かれた後は東慶寺の住職を務められ、
明治26年(1893)、シカゴでの万国宗教会議に出席。

釈宗演老師と鈴木大拙氏は、
世界に「禅(ZEN)」を広めた功労者として知られています。

ちなみに、
東慶寺には、釈宗演老師の墓があり、
また、著名人のお墓も数多くあり、
例えば、(敬称略)
鈴木大拙西田幾多郎和辻哲郎小林秀雄の墓があります。
近くには、大拙ゆかりの「松ヶ岡文庫」もあります。
なお、
井筒俊彦の墓は、 円覚寺 頭塔 「雲頂庵」にあります。


弁栄聖者と釈宗演老師との関係が気になり出したところ、
ネットで公開されている、
「一般財団法人 光明会」の会誌『ひかり』の連載記事に目が留まりました。

聖者の俤 No.59
『乳房のひととせ 下巻』 (中井常次郎(弁常居士)著)
聖者ご法話聞き書き(別時中の法話) 3
聞き書き その八 別時中の法話〈つづき〉
大正9年6月2日 黒谷光明寺塔頭瑞泉院にて


(三) 霊枢五性 (二日夜の講話)
 霊妙性。において、

「ケーラス博士はあらゆる宗教を研究した人で、世界第一の宗教学者であるが、
シカゴ博覧会の頃「仏陀の福音」という本を著わした。
その中に「火に焼けぬような奇蹟は、正しき人より見れば価値が無い。
実に不可思議なるは阿弥陀仏である。
生死の凡夫を永生の者とするほど大きな奇蹟はない。
而して仏教は最高の宗教である」
と説いてある。」 

ケーラス博士とは、ポール・ケーラスであり、
シカゴ博覧会の一貫として開催されたのが、「万国宗教会議」であり、
釈宗演老師は、その会議に日本代表の一人として参加され講演、
それが縁となり、
ポール・ケーラスにより『仏陀の福音』が著されました。
緒言(序文)は、釈宗演老師、
翻訳者は、鈴木貞太郎(大拙)氏でした。

また、
岡倉天心氏は、「万国宗教会議」を契機に、
ポール・ケーラス、宗演老師とも関係を深めていかれたようです。

なお、
弁栄聖者の高弟、笹本戒浄上人は、
明治四十三(1910)年、37歳時、
まだ、聖者に邂逅される前でしたが、

研究テーマであった「催眠術」に関して、
鈴木大拙氏宅で、西田幾多郎氏に話されたとのこと。
(『笹本戒浄上人伝』より)


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【弁 栄 聖 者(1859年~1920年)】

観相家の花見江南氏は、
中井弁常居士宅にて、聖者の写真を見て、
「今まで何千人も観たが
これほど円満なお顔を見たことはない。
この人の言うことなら間違いない」

と言って光明会に入信されたとのこと。

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【釈宗演老師(1859年~1919年)】

1887年(明治20年)、27才の時に、
山岡鉄舟、福沢諭吉等の勧めもあり、
セイロン(現スリランカ)へ渡航し、南方仏教(パーリ語、経典、戒律)を学ぶ。
山岡鉄舟から、
「和尚の目は鋭すぎる。もっと馬鹿にならないかん。
インドでも行ってこい。」と押された。」



真に興味深いことに、
弁栄聖者と釈宗演老師は、
文字通り、同時代を生きられました。

宗演老師は、
当時「世界的規模で活躍」された破格の禅僧。

弁栄聖者は、
主として日本全国の布教活動でしたが、
悟境の深さと宗教哲学・思想上の深遠さに於いて、
「宗派宗教、時代、地球を超越」した宇宙的スケール
の浄土門の布教者。

「他仏を念じて自仏を作る」

「超在一神的汎神教」こそ、
”大乗仏陀釈尊の真精神” と喝破
された弁栄聖者。


能礼所礼性空寂
感応道交難思議
故我頂礼無上尊


「座禅はやっても、
ここ迄出て来なければ駄目だ」

(「ここまで座禅もやらなければ駄目だ」と伝えられてきた言葉を、
上の言葉に訂正下さいとは、杉田善孝上人のご教示。)
と、中国の座禅をよくした居士の言葉を引用して、
弁栄聖者は高弟の笹本戒浄上人にご教示。

当時、無相法身を所期とする「禅宗流の念仏」の癖から、
なかなか抜け出せずに苦心されていた戒浄上人でしたが、
聖者のこのご教示により、長年の疑問が晴れたという逸話が伝えられています。

なお、
弁栄聖者が三身四智の仏眼に依り三昧直観された、
「超在一神的汎神教」とは、

「宗教種類多けれど 通じて二性に分かつべし
理感二性は能と所の 二動の動機によればなり
理性は形式動機にて 先天自性を開くなり
感性内容動機にて 後天恩寵を受くるとぞ
前は自性の天真を 開悟し解脱を宗とせり
後は絶対我を投じ 救霊(すくい)の力を仰ぐなり

今は二性を綜合し 天真自性を開きつつ
恩寵に感性充たされて 開発霊化を期するなれ」

(「諸教の宗趣」の精髄箇所、P52~P53
仏陀禅那弁栄聖者著『光明主義玄義(ワイド増訂版)』)



「弁栄聖者と釈宗演老師との関連性」については、
今のところは、この程度の情報です。

ご参考までに、
ポール・ケーラス、釈宗演老師、鈴木大拙氏関連で、
ネットで公開され読める、興味深い論考を二つほどご紹介したいと思います。

○ 「信と知―無差別智と大悲
仏教とキリスト教に通底する霊性の自覚
上智大学名誉教授 田中 裕」
(『東西宗教研究 第17号・2018年』)


○ 「1893年 シカゴ万国宗教会議における
日本仏教代表 釈宗演の演説
ー「近代仏教」伝播の観点からー
那須理香(国際基督教大学大学院博士後期課程)」
『日本語・日本学研究 5, 81-94, 2015』



2018年の本年は、
釈宗演老師100回忌

また、
2018年6月4日~8月6日まで、
釈宗演遠諱100年記念特別展
「釈宗演と近代日本ー若き禅僧、世界を駆けるー」
を、
慶應義塾図書館展示室と
慶應義塾大学アート・スペース
で開催中。

ただし、
慶應義塾大学の敷地外のアート・スペースでは、
原則として平日で、17時まで
図録等の販売等は、慶應義塾大学アート・スペースでのみ
となっていますので、くれぐれもご注意してお出かけ下さい。


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「弘龍庵本部」は、
JR紀勢本線(きのくに線)の切目駅が最寄駅。

以下、「弘龍庵」のご紹介をいたしますが、
ご紹介不十分、理解不十分な点があるかと思われますので、
あらかじめお断りし、お許し願いたいと思います。

 2018063005.jpg

「南葵光明会」と「弘龍庵」は、
兄妹関係ともいうべき法縁
があります。

ただし、「弘龍庵」は、独自の発展を続けており、
大阪にも支部があるようです。

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 2018063007.jpg  2018063008.jpg

 2018063009.jpg

弘龍庵では、
弁栄聖者作成の『如来光明礼拝儀』を基に、
独自の『弘龍庵 勤行式』を用いています。
ただし、光明会の会所では必ずある、
弁栄聖者の「三昧仏様(お絵像)」は無いようです。

「弘龍庵」との因縁は以下のようです。

既に多くの奇跡を現され、村人から「教祖様」と慕われていた、
中村公子女史が、
昭和17年5月に、中井弁常居士宅を訪問されました。

公子女史は、
「現世利益を願う信者の多いこの素朴な教団に
光明主義のみ教えを伝え」

ようと努力をされました。
そこで、弁栄聖者の光明主義に共鳴され、
『如来光明礼拝儀』を経典として採用されました。

既に中井弁常居士が逝去されていた関係もあり、
昭和二十五年に、
「宗教法人 弘龍庵」として発足
されたようです。

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道路沿いにこの石碑の目印があり、
この脇道へ曲がります。

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「弘龍庵」の創始者、中村公子師ゆかりの立派な建物があります。

高野山を模されているのかもしれません。

こちらは、
教祖中村公子祖廟のある「生歓殿」。

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 2018063015.jpg

「教祖 聖徳公子之像」

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「生歓殿」を更に進みますと、
観音山として親しまれる「弘龍庵 奥之院」があります。

 2018063018.jpg  2018063019.jpg

こちらの境内には、
観音堂他、教祖聖徳公子墓所があります。

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syou_en

Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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