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2016-04-24

「弁栄上人の思い出」(『大悲に生きる 土屋観道法話 』)と「多聞院 お寺の漫画図書館」



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東京芝「増上寺」近くにある「観智院」

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弁栄聖者の伝記としては、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』が、
一般には知られていますが、

弁栄聖者の直弟子方の「弁栄聖者の思い出」は、
どの方のものも、とても興味深く、示唆に富むものばかりですが、

「弁栄上人の思い出」(『大悲に生きる 土屋観道法話』)

は、最晩年の数年間を、
観智院近くの「多聞院」の「聖者の家」で、
弁栄聖者と暮らされた土屋観道上人で、
聖者のご遷化後、「光明会」とは別の独自の「真生同盟」の道を歩まれた、
観道上人の「弁栄上人の思い出」だけに、また、独特の味わいがあります。

観道上人は、聖者の朝鮮への伝道に随行されたり、
聖者制定の法式による婚儀の導師を弁栄聖者がなされた方。

例えば、『真生礼拝儀』は、
光明会の「如来光明礼拝儀」と同内容のものが多いですが、

『真生礼拝儀』には
かつて光明会の「如来光明礼拝儀」には併記されてあった『法華経』の「壽量品」があり、

「南無 無対光仏」の「摂化せられし人は皆」と、
弁栄聖者が御遷化直前に訂正される前の文言となっています。


前回ご紹介しました『宗祖の皮髄 山崎弁栄講述』 。

土屋観道上人は、
椎尾弁匡師に学ばれ、中島観観琇師の弟子でもあった方であり、

大正五年の知恩院での弁栄聖者講師選出、後述『宗祖の皮髄』を実現させたお一人。


いまだに、弁栄聖者が強調された「見仏三昧」には誤解があるようです。

「(弁栄)上人がお話しをなさる時は、眼をつぶって、口許に合掌し頭をかたむけて、
いかにも仏様をまのあたりに見るような御態度で御説法される。」

「法然上人の「単信口称念仏」と、
三昧発得の弁栄聖者がお勧めされる「見仏三昧」」の相違

について、観道上人が問われた時に、

「弁栄、鈍なりといえども、七百年も前に法然上人が捨てられたものを、
今更またとって来るほど愚かではない。」


と聖者は、キッパリと仰っています。

観道上人の師匠であった中島師は、
伝統的浄土宗での理解をされておられた方でしたが、
弁栄聖者のご指導を受けられた観道上人によって考え方を変えられ、
『凡夫見仏論』を書かれています。

また、

「今の浄土宗についておれば、
いくら経ってもまた今の浄土宗のようになってしまうから、
やっぱり独立した方がいい。」

とも、聖者は観道上人に云われています。


誤解無きように、記しておきたいことがあります。

弁栄聖者ご提唱の光明主義は、
外部に明確に言明がお出来になれなかった、
法然上人の最晩年の自内証を御開顕されたもの

今月、惜しくもご遷化された河波昌師は、
学行兼備の実に稀な方でしたが、
弁栄聖者の修行方法を、大乗仏教の一貫する「般舟三昧」に注目され、
伝統的浄土宗の枠組みを超えた「究竟大乗浄土門」の立場
更には、「一切の宗教の霊性の根源」を究明された御方でもありました。

むしろ、法然上人が尊崇された善導大師に直結するものを、
弁栄聖者には感じます。


更に興味深い、弁栄聖者の逸話が、土屋観道上人によって語られています。

弁栄上人はお話の中で、
「自分が悪かった、愚かだった。」
ということを滅多に仰しゃらない。

(観道上人)「お上人は悪いことをなさったおぼえはないんですか。」
(弁栄聖者)「そうかもしれない。」


これには、私も、大胆も大胆だが、全く驚いたのであります。
この点が常識を超えたというか、その言葉の中に無条件で、

「本当に偉いものだな!」

と、今更のように感じ入りました。
そうして今日なお深い感銘として忘れられないのであります。

・・・これは、考えれば考えるほど、弁栄上人を知った人には、
なる程なと感激することではないかと思う
のです。

観道上人は、「弁栄上人の思い出」として、
身近な者に、このことを語っているのですが、
まことに興味深いことは、
観道上人が聖者から直接受けたその実感が、
身近な者に「確りとは伝わっていない」というもどかしさを終始感じておられていたという点にあります。

この逸話を読まれた方の中には、
「凡夫の罪悪感」としての自覚、凝視力においては、
弁栄聖者は、親鸞聖人に及ばないのではないか
と疑念をいだかれた方もいらっしゃるかもしれません。

親鸞聖人といえば、
唯円著『歎異抄』による親鸞観が、通念になっているように思われます。

蓮如上人によって禁書とされ、
明治期に清沢満之氏によって再発見された『歎異抄』は、
近現代の日本の知識人に多大な影響を与え続けていますが、
それは、「宗教書」というよりも、
むしろ、”人間の影を凝視した”「哲学書」・「思想書」
「孤高の実存者としての親鸞」の側面であるように思われます。

阿弥陀如来を信仰されていた「宗教家としての親鸞」という側面への究明が少ない印象があります。

親鸞聖人には、主著に『教行信証』がありますが、
弁栄聖者が法然上人の御道詠に法然上人の真髄を見出されたように、
親鸞聖人には数多くの和讃がありますが、
「和讃」に、「宗教家としての親鸞」の真髄を解明する重要な手掛かりとなるように思われます。

近現代人の「孤高の実存者としての親鸞」観は、
近現代人側、つまり、近現代人の理解の枠に引き寄せ過ぎた理解ではないか、
との疑念が払拭しきれません。

「凡夫の罪悪感」としての自覚、凝視された「孤高の実存者としての親鸞」観には、
現代人として共鳴する点があるのですが、

「衆生無始の無明」を霊化する如来光明の化用を強調された、
「三昧発得の弁栄聖者」の存在・宗教観は、
「現代人に馴染みやすい宗教観」(現代人の理性的理解に許容され易い宗教観)
に、新たな視点を投げかけるように思えてなりません。


また、 「観智院」は、
現代テクノロジー、現代社会のニーズを積極的に取り入れ、
動画等も積極的に活用されています。

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隣りに、駐車場があります。

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「多聞院 お寺の漫画図書館」

・毎週土曜日 10~17時
・毎週水曜日 18~20時(但し、祝日は休館)
※ 開館当初、月曜日の開館が水曜日に移行。



平成27年10月31日オープン

漫画の数はまだそれほど多くはないですが、
新たな興味深い試み。

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 ↓ こじんまりとした空間ですが、
お別時もできるようです。

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ジャンル : 学問・文化・芸術

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syou_en

Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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