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2015-12-14

弁栄聖者「念仏三昧発得地、筑波山」の御修行地探訪


筑波山は、「西の富士、東の筑波」と富士山と並び称される山で、
西側の男体山(標高871m)と東側の女体山(標高877m)の双峰からなり、
信仰の山としても古くから知られ、
弁栄聖者の御生誕地、鷲野谷からも眺めることができます。

「立身石巌窟」は、男体山にあります。

現在では、ケーブルカーで、「宮脇駅」から「筑波山頂駅」まで、8分ほどで行けます。

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○「常陸国筑波山麓より一里ばかりか
山頂より二丁許南の方に石身石てふ巌窟あり
此に在って凡そ一ヶ月 次に場所をかいて一ヶ月
身に纏ふ所は半素絹 食物は米麦そば粉などにて
(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)


山本幹夫氏(山本空外上人の俗名)は、
男体山の立身石の次の御修行先を確認すべく、筑波山へ調査(昭和10年12月か)に行かれ、
次のような運命的な出遭いをされます。

○「女体山中でふと巡り合った真言宗の行者、
その母堂故水島キヌエ氏が弁栄聖者の信者で、
聖者から、筑波山上での修行体験内容の有難さを聞いて、
自らも筑波山上で数回も修行された程の関係があり、
『弁栄聖者は、立身石から女体山の北斗石の方へ移られた』と、母堂から聞かされていた。」

(山本幹夫著『辨栄聖者の人格と宗教』)

これらの田中木叉上人と山本空外上人の文章が以前から気になっていたのですが、
昨年に、ふと思い立ち、筑波山の現地調査を開始し、
「数度にわたる現地調査と新たな文献調査」などによって、
弁栄聖者の筑波山での御修行地をほぼ推定できたと確信でき、
調査が一段落したと、ほっとしていました。


この調査過程で、
昨年、平成26年4月に再々刊された、
宮本宣一著『筑波歴史散歩』にたまたま出逢えたのは、
真に幸運なご縁で、何か「お導き」のようなものを感じました。
(初刊が昭和43年、再刊が55年発行で、しばらく品切れ状態でした。)

この本には、「筑波山禅定」「筑波山神窟講社」とも云われる)
の修行地(六十六ヶ所)の順序と解説が載っており、
まだ手探り状態の時に、この本のお蔭もあり、
弁栄聖者の御修行地が「筑波山禅定」の修行地と重なる可能性が濃厚と推定でき、
ほのかに光が差してきたように感じました。

「イワヤ」・「岩屋」、つまり、「行者窟」に絞り、現地調査を進めることができました。


昨年の調査成果も踏まえ、改めて振り返ってみたいと思います。

前回の調査後の新たな文献調査から、
「若干の修正と補足」も追加したいと思います。

※ 今回の調査は、今年の初夏と盛夏の2回で、写真は、混在となっています。
なお、聖者の御修行時期は、8月下旬から2ヵ月ほど。

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男体山頂方面ではなく、左側方面へ。

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御海(みうみ)へは、左側へ入りますが、
御海(みうみ)に関しては、後ほど。

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立身石の裏側、
弁栄聖者が、夜に修行をされた立身石の巌上の地。

そこから眺める景色。

↓ この鎖は、この巌が、「筑波山禅定」の主要場所の一つの証。

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筑波山での有名な観光地の一つでもある、「立身石」

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(筑波山上における弁栄聖者の三昧発得偈)

「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念
一心専念能所亡  果満覚王独了々」



「明治十五年二十四歳の時一夏六十日間筑波山上に入山修行、
深三昧の岩床に称名日々十万遍、
王三昧円かに成就して、如来の真境了々と現前。」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

ついに、念仏三昧を了々と発得。
この激烈な御修行により、小便に血が混じったとのこと。
(聖者の持病であった腎臓病との関係が気になります。)

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このご境界について、貴重な逸話がありますのでご紹介します。

この「念仏三昧発得」の境地について、
問:「既に成仏と言われるべきところですか」
答:「いまだし、天台の六即をもって云えば、まだ観行即とも云うべき所だ」


と、弁栄聖者は答えられた。
「大谷上人 顕現極楽」(「大谷上人極楽の巻」『ミオヤの光』)

この記事を読まれた、杉田善孝上人の法友、和田真澄氏が

問:「あの御境地がまだ観行即でいらっしゃいますか」
答:「弁栄上人が其の様に申されたのであれば私達が何とも申上げられませんが、
恐らくは御謙遜で居らせられませう。
大正七年神奈川に御越しの節は、
私に、『大智慧の光明十方を照らして嬉しかった』と仰せられました。」

と、笹本戒浄上人は答えられておられます。 (『笹本戒浄上人 しのび草』)


また、戒浄上人によりますと、
弁栄聖者のこの時の御境界は、
「「開示悟入」の「悟」の仏眼(釈尊は「入」の仏眼)の御境界」とのこと。
(仏陀禅那弁栄聖者著『光明主義玄義(ワイド増訂版)』)


「この宗教体験は、かれの東京遊学以来の一つの総決算であるとともに、
またそれ以降の生涯を貫く宗教活動の出発点ともなり、
またその土台ともなるものであったのである。」( 河波昌 「山崎弁栄ー光明主義の聖者ー」)

(脇本平也・河波昌共著『浄土仏教の思想 第十四巻 清沢満之 山崎弁栄』)

これほど深いお悟りでも、未だ究極のお悟りではなく、出発点であること、
肝に銘じるべき点だと思われます。


この地「立身石」は、間宮林蔵親鸞聖人にゆかりの地として有名で、
「弁栄聖者の三昧発得の地」としては、
残念ながら、まだほとんど知られてはいません。

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前回の調査では、「立身石」の存在感に圧倒され、
「日中は、この岩屋で御修行され、
夜は、(先ほどの)この巌上で御修行された。」


との定説をほとんど疑うことがなかったのですが、
穴が若干狭いことと、
この立身石の岩屋が、聖者の御修行当時から観光地としても有名であったこと、
が、ほんの微かに若干の疑問として残り、払拭しきれてはいませんでした。

前回の調査の後に、
吉松喜久造氏の調査成果の文献と出会い、
今回、調査再開となった次第です。

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「立身石」から下り、しばらく進み、右方面へ。
少し進むと、目の前にそれらしい雰囲気の場所が・・・

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「聖者が最初、男体山で寝泊り、雨宿りなさったのは、
男体山岩屋で、二、三人は入れる位のほら穴で、
立身石より約百米位下にある。
聖者は日中は人目を避けて男体山岩屋で念仏し、
登山者が帰ったあとで、百米上の立身石上の巌上で
一心専念に念仏三昧をされたという。 」(吉松喜久造氏)


この地を訪れた時、
確かに聖者は、この場所で生活されていたに違いない、
と、腑に落ちるものがありました。

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続けて、吉松喜久造氏は、

「この岩屋から更に約百米位下に、

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水の湧き出る御海(みうみ)が位置し、
この湧き水にて聖者は炊事をして居られたと伝えられる」と。

約1200年前に、徳一大師によって発見されたと伝えられ、
親鸞聖人が餓鬼済度に用いられた霊水で、
万病に効くといわれているようです。

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聖者が御修行の後、百数十年が経った現在は、
残念ながら、「水が湧き出る」というほどではないようです。

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○「石身石てふ巌窟あり
此に在って凡そ一ヶ月 次に場所をかいて一ヶ月・・・
(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

○「女体山中でふと巡り合った真言宗の行者、・・・
『弁栄聖者は、立身石から女体山の北斗石の方へ移られた』と、母堂(故水島キヌエ氏)から聞かされていた。」

(山本幹夫著『辨栄聖者の人格と宗教』)

前回の調査では、これらの言葉を確認すべく、
女体山の「北斗石」を目指しました。

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弁栄聖者が筑波山頂で御修行された明治15年の頃には、
まだ、ロープウェイはありませんでした。
筑波山ロープウェーの営業開始は、「昭和40年8月11日」とのこと。

女体山山頂から、反対側に、男体山が確認できます。

もちろん、男体山から十数分ほどで、女体山山頂へ到着できますが、
それほど平坦な道のりではありません。

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女体山山頂から下山し、北斗石へ向かうのですが、
いきなり、結構険しい道が、しばらく続きます。

7~8分ほど進みますと、女体山岩屋が右手に見えてきます。

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注連縄がかかっている奥の方が、女体山岩屋。

前回の調査では、何か気になりながらも、
「北斗石」を目指し、急ぎました。

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北斗星(北極星)のように決して動かない岩という意味。
また、弘法大師がここで北斗七星を司る妙見菩薩を見たという伝説が残っているとのこと。
~「筑波山の概要」『つくば新聞』より

空外上人が断定されておられるように、
この地「立身石」で一ヶ月の御修行ということには、
幾つもの点で無理があると思われます。

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「北斗石」を過ぎ、少し進んで左脇道へ入ります。

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約10分ほど下り、右下に湧水が流れている(二ヶ所めの湧水)のを眺めながら、
左脇道へ入り少し行った処に目的地があります。

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女体山、「護摩壇」石の行者窟

ひっそりと隠れたような場所にあり、
弁栄聖者の御修行場所は此処をおいて他にない
直観できる場所、諸条件、雰囲気を備えています。
 
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「護摩壇石」から、ほんの1~2分のところにある水源。
この「水」は、修行場所として、とても重要な意味があると思われます。

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田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』の第1版は、昭和11年9月11日発刊。

弁栄聖者の御遺稿集の、実証的、学問的研究書ともいうべき、
山本空外上人編『辨栄上人書簡集』において、

「その夏筑波山入山、立身・北斗両石上各一ヶ月の三昧証入となり」

と、立身石の次の弁栄聖者の御修行場所を「北斗石」と断定されておられます。

その根拠と思われるのが、

「弁栄聖者は、立身石から女体山の北斗石の方へ移られた」
(山本幹夫著『辨栄聖者の人格と宗教』昭和11年10月発刊)

との伝聞が基になっていると思われますが、
この書においては、「北斗石の方へ」となっており、
「北斗石修行」とは明言されてはいません。


また、山崎辨戒編『辨榮上人と辨誡師』に、
弁栄聖者の次のような書簡があります。

「愚衲はむかし若き折、筑波山に登りて念仏三昧をつとめ、
諸処にてつとめたるも、・・・。」


吉松喜久造氏の調査によりますと、

「この立身石での御修行のあと一か月間は、
女体山岩屋、北斗石、護摩壇石付近かと推定される」

と控えめに記されていますが、

この吉松氏の御推定が、
山本空外上人が聞かれた伝聞と、
これまで複数回にわたる筑波山での現地調査、文献などに基づく推定結果を満たし、
「最も信憑性が高い」と肯首できます。


ポイントは、
○人目を気にせずに、修行に専念できること。
○「衣・食・住」、人間としての最低限の生活を満たせること。
特に、「水」は重要なポイントだと痛感しました。


「山上には昼登山の人に茶をだして、夜は山を下る茶店があって、
そこの人が親切に世話してくれた。
多くは少量のそば粉で飢えをしのいだ。」
と、田中木叉上人は『日本の光(弁栄上人伝)』に記されています。

山上とは、男体山上のこと。

なお、当時、お茶屋さんは、江戸時代から続く、
男体山と女体山の鞍部の御幸ヶ原(現在の男体山のケーブルカーの終着駅正面広場)の、
五軒茶屋(依雲亭、迎客亭、遊仙亭、向月亭、放眼亭)と、
みなの川茶亭の他、「北斗石」から10数分ほど下ったところに、
かつて、「弁慶茶屋」などあったとのこと。

また、
大正12年5月発行の本間榮吉著『辨榮上人と当麻山』に、
興味深い記述があります。

本間氏が、弁栄聖者の御事蹟を尋ねるべく千葉県を訪れた時、
松戸駅から五香の善光寺へ行くために乗った人力車の老車夫が、
弁栄聖者を乗せられたことがあった、という。

そこで、本間氏は、筑波山のことなどを尋ねたところ、その車夫は、

「曾て、筑波山の行者岩窟も見たり、そこの福餅なども食べたことを細々と話してくれた」。

おそらく、この行者窟とは、
「そこの福餅」との記述から、
そこの福餅とは五軒茶屋で供されていたものであり、
したがって、「立身石」のことと思われます。


最後に、
弁栄聖者の筑波山上での御修行に関する記述を、まとめて記しておきます。

○「常陸国筑波山麓より一里ばかりか山頂より二丁許南の方に
立身石てふ巌窟あり 此に在って凡そ一ヶ月 次に場所をかいて一ヶ月
身に纏ふ所は半素絹 食物は米麦そば粉などにて」
(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)


○「女体山中でふと巡り合った真言宗の行者、
その母堂故水島キヌエ氏が弁栄聖者の信者で、
聖者から、筑波山上での修行体験内容の有難さを聞いて、
自らも筑波山上で数回も修行された程の関係があり、
『弁栄聖者は、立身石から女体山の北斗石の方へ移られた』
と、母堂から聞かされていた。」
(山本幹夫著『辨栄聖者の人格と宗教』)


○「その夏筑波山入山、立身・北斗両石上各一ヶ月の三昧証入となり」
(山本空外編著『辨栄上人書簡集』)


○「苦修錬行の終わった八月の末、
聖者はただちにその足で心本尊をお迎えすべく筑波山へ赴き、
ここに二ヶ間、念仏三昧の人となった。
・・・その行場は一ヵ所ではなく、点々とうつり代わったようで、
・・・この間の修行ぶりは正確に知るよしもないが、・・・」
(藤堂恭俊著『辨榮聖者』)



昨年の調査が一段落した後、出あった貴重な記述。

○「聖者は米麦、そば粉の少量づつのお食事ではとても健康を保てないので、山には果実や食べられる草木等がある。
それをお召し上がりになったり、また山の中腹にある茶店の人が親切にお世話して、
この修行僧に食べ物を御供養申し上げたと聞く。
それだからこそ、二ヵ月の御修行がお出来になったのである。」
(弁栄聖者の直弟子佐々木為興上人の藤堂俊章師へのご教示)


また、同様の話を、
聖者直弟子の山崎弁誡上人が吉松喜久造氏へご教示されたとのこと。

決して「断食ではなかった」点を、特に強調したいと思います。
これは、吉松氏の御意向を受けての強調点であることを申し添えます。

弁栄聖者がそのお悟りの深さを高く評価された、
三身四智の聖者のお一人、江戸時代後期の徳本行者
徳本行者のその御修行は、遠く、捨世派の「木喰聖」弾誓上人の御修行法にも繋がり、
密教・修験道との縁も感じられ、 山中の洞窟に籠って持戒・念仏・木食の修行を彷彿させるものがあり、
今回の筑波山での調査中、弁栄聖者の御修行はこの系譜に属する との思いが、頭から離れませんでした。


吉松喜久造氏は、弁栄聖者の筑波山での御修行地について調査された結果、
次の如く結論されておられます。

「聖者が最初、男体山で寝泊り、雨宿りなさったのは、
男体山岩屋で、二、三人は入れる位のほら穴で、立身石より約百米位下にある。
聖者は日中は人目を避けて男体山岩屋で念仏し、
登山者が帰ったあとで、百米上の立身石上の巌上で
一心専念に念仏三昧をされたという。
この岩屋から更に約百米位下に、水の湧き出る御海(みうみ)が位置し、
この湧き水にて聖者は炊事をして居られたと伝えられる。
この立身石での御修行のあと一か月間は、
女体山岩屋、北斗石、護摩壇石付近かと推定される」。


ここに吉松喜久造氏への謝意を添え、一連の調査報告を終えたいと思います。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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