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2015-11-30

『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)を読む(その5)


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『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)

目次
序 章 信仰の皮肉と骨髄
第一章 光明主義と山崎弁栄
第二章 光明主義の七不思議
第三章 大ミオヤの発見
第四章 四大智慧の真実
第五章 無礙の恩寵
総 結 光明主義の正法・像法を期す


これまで、(その1)(その2)(その3)、 (その4)と、本書を読んできました。


今回は、「第五章 無礙の恩寵」について。


「南無無礙光仏」
如来無礙の光明は  神聖正義恩寵の
霊徳不思議の力にて 衆生を解脱し自由とす

「南無十二光仏」(弁栄聖者『如来光明礼拝儀』)


明恵上人の『摧邪輪(ざいじゃりん)』による、
法然上人の『選択本願念仏集』に対する批判への、
弁栄聖者の「念仏観」による応答でもあります。

弁栄聖者は、「如来無礙光」の神聖に、
「本性本然の理法」たる「道徳律の根本」を見ておられます。

また、「神聖・正義」を父性的、「恩寵」を母性的働きとして、
「大ミオヤ」の父性・母性の両側面として捉えておられます。

更に興味深いことに、
聖者は、『光明の生活』に、「三徳の順序」として、

如来は神聖正義恩寵との関連は吾らが如来の霊育を被る順序としては
恩寵と神聖と正義と次第す(という順番である)。・・・
併しながらこれ恩寵の母の霊育を被ればこそで、
頓に父の神聖正義の道を視、また歩行するに至る。
是の如きの因縁を以て恩寵と神聖と正義に次第するのである。」

佐々木氏の重要な引用箇所の一つ。

「道徳は救いの条件にあらず、その結果なり」
(『田中木叉上人御法話聴書』)


また、
「衆生を解脱し自由とす」とは、
衆生の「自由」のためには、解脱が必要である。

衆生とは、世界性、衆生性として、天則、因果の制約を受け、
依他起性の為に繋縛せられて、自ら自由を得ず。」

とは、聖者の衆生観です。

「如来の内容と融合し、
宇宙無限の内容より自己の内容に湧出る故に、自発的に心霊活動す。
吾人の全身が絶対なる如来の妙身を形成す。」

(「平等性智」『弁栄聖者光明体系 無辺光』

前回は、記事が長くなり過ぎたため、引用できなかった、佐々木氏も本書で引用されている、
極めて重要な弁栄聖者の自内証からの「成仏観」、また、「真の自由観」


佐々木氏は、この「無礙光」を、
如来の「前三の光明」と衆生への働きかけ、
すなわち、恩寵としての「後九の光明」とを結びつける要の役割つまり
「衆生摂化総合指揮所」と捉えています。

「十二光の一連一体」
「行儀門と感応門の表裏連環の関係」

この佐々木氏のご指摘は、重要です。

また、この第五章において、「般舟三昧の実践」の重要性の指摘、
「真応身と霊応身」との関係についての記述、分析に、
佐々木氏の特徴が出ていると思われ、 前々回の(その3)でふれましたが、
本来、前回の(その4)の「成所作智」の項目で触れるべきでしたが、
「見仏の心状」の文章も、とても重要な引用。


本章での重要な内容である「念仏七覚支」は、
弁栄聖者の自内証から、「成仏への霊育過程」を説かれた、
「念仏三十七道品」における空前絶後、極めて画期的な内容と云われています。

よく知られていますのは、
大正八年(聖者ご遷化は大正九年)、広島県廿日市の聖者のご高弟の一人佐々木為興上人の潮音寺にて、
聖者が別時念仏会を指導をされた時に、
「念仏三十七道品」を講述されました。

このお別時には、熊野宗純上人、藤本浄本上人、丹波円浄上人、橋爪実誠上人、荒巻くめ女も参加され、
わざわざ神奈川県横浜から、ご高弟の笹本戒浄上人を呼ばれたほどのもので、
丹波円浄、橋爪実誠両上人による筆記録が残されています。

いつか記事にしてみたいと思っています。


「念仏七覚支」の最初が「択法覚支」ですが、
この段階を第一番目に過ぎないと軽視してはならないと思います。
最初の信念の定め処が、その後の道程を規定してしまうことが多いかと思われます。

笹本戒浄上人の弟子筋にあたる能見寿作氏は、

「光明会の方は、弁栄聖者の御教えを軽く考えている方が多いように見受けられる。
例えば、七覚支の最初の『択法覚支』。
この境涯は、普通考えられている以上に、高い修行段階である。
多くの方々は、五根五力の修行を行きつ戻りつしていることがほとんどである。」


と、語られたことがあったようですが、
先達からの、肝に銘じるべきご忠告と受けとめるべきかと思われます。

この『択法覚支』に関して、是非ご紹介したいと思いますのは、
弁栄聖者のご高弟のお一人、大谷仙界上人のことです。

弁栄聖者ご指導による第一回目の唐沢山御別時が催された時のこと。

大谷仙界上人は、佐々木為興上人に、

「択法ができぬ。あなたはできるに違いない。どうか教えてほしい」
涙ながらに云われた。

聖者に許しを得て(大谷上人は聖者の随行されておられたので)、
その後、唐沢山で一週間単独別時をされました。

単独別時を終えられて、
「やっぱりだめだった」と佐々木上人に云われたとのことでしたが、
「それは御謙遜で、確かに大谷上人はこの時に開かれたようでした。」
と佐々木上人は言われた、とのことです。

その後、大谷仙界上人の所作がうって変られた、
と杉田善孝上人のご法話にあり、とても印象に残っています。


また、
二祖鎮西上人が「三昧発得」と言われているご境涯を、
弁栄聖者の七覚支でいえば、「喜覚支」である、
と笹本戒浄上人は、云われています。

慧眼、法眼が深く開けてくるのは、
「喜覚支」と「軽安覚支」においてである、と云われています。

「信行の不退転位」と云われる、「初歩の仏眼」が開ける「定覚支」を、
聖者は、「尽(すべ)ての障碍(さわり)も除こりぬ」と説かれていますが、
更なる霊化である、
「肉の心が如来化されるのは、
三身四智の仏眼(厳密には認識的一切智)」においてである
と云われています。

なお、佐々木氏は、
「無住所涅槃」の境界である「無対光」
「八正道」の実践の境界である「超日月光」を、
「表裏一体の円環関係として捉えていますが、

このご指摘も、極めて重要な観点かと思われます。


「第五章 無礙の恩寵」を、佐々木氏は、
「弁栄聖者御垂示」で結ばれていることが、
とても印象深く思われました。

なお、「念仏三十七道品」は、
『難思光・無称光・超日月光』(弁栄聖者光明体系)で説かれています。

留意すべきことは、
「難思光」の段階から、如来の光明は衆生に働きかけている
という点かと思われます。
ただし、明瞭に顕在化していないため、ハッキリとは認識できていないので、
この段階が、「辛抱のしどころ」かと思われます。

ただし、何らかの「徴し」はあり、 
念仏していると「気になる」ことが自ずと起こるようになる
と、田中木叉上人は、注意を促しておられます。

「気になる」とは、
いわゆる「虫の知らせ」であったり、
何かをする「気になったり」何かを止める「気になったり」とのことで、
念仏により、如来の光明が、潜在意識に働きかけているような感覚を覚えるかもしれません。

前回の『無辺光』四大智慧でふれるべきでしたが、
ユング心理学で云われる
「元型」、「布置(コンステレーション)」、「共時性(シンクロニシティ)」と云った現象は、
『無辺光』の四大智慧との関連で究明されるべきことであるように思われます。
四大智慧とは、「大円鏡智」・「平等性智」・「妙観察智」・「成所作智」のことです。
今回は、この指摘だけにとどめます。


「元来、深奥なる冷暖自知の世界のことであり、
実践上の経験なくして言葉の上でのみわかる筋合いのものではないでしょう。
いつの日か聖者や高弟方のご体験の薀蓄をたずね、拝聴し、
ご指導をいただく機会あれかしと願うばかりであります。」

「念仏七覚支」の内容に関する佐々木氏の記述は、どこか控えめであり、
ここに、「求道者 佐々木有一」氏の真摯な姿勢をみる思いがいたします。

次回は、本書に関して、若干補足したい点を記事にしたいと思います。

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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