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2015-11-24

『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)を読む(その4)


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    『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)

目次
序 章 信仰の皮肉と骨髄
第一章 光明主義と山崎弁栄
第二章 光明主義の七不思議
第三章 大ミオヤの発見
第四章 四大智慧の真実
第五章 無礙の恩寵
総 結 光明主義の正法・像法を期す


これまで、(その1)(その2)(その3)と、
『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)を読んできました。
 
今回は、
実に本書の約4割強の230頁にも及び本書執筆の大きな動因とも思われる、
「第四章 四大智慧の真実」を読んでいきたいと思います。

講談社版『無辺光』 (昭和44年(1969年)刊行)は、400頁程で、
(この版の『無辺光』のみに、数学者岡潔博士の序文があります。)
復刻版『無辺光』(復刻者代表 三島健稔氏 平成十九年発行)は、500頁程で、
内容的にはほぼ同じですが、文字、文字の大きさ、行間の違いなどにより頁数が違っています。
また、弁栄聖者著『無辺光』には重複内容もあるため、
「第四章 四大智慧の真実」は、230頁程ですが、
本書は、弁栄聖者著『無辺光』の大部が引用されていると考えてよさそうに思われます。


『無辺光』は、大ミオヤの「四大智慧」、すなわち、
「大円鏡智」・「平等性智」・「妙観察智」・「成所作智」に関し、
経典はもとより、当時の哲学・思想、科学等を自家薬籠中とされながら、
弁栄聖者の甚深なる自内証「三身四智の仏眼」の御境界から説かれていますので、
独創的で、また、極めて難解

『無辺光』は、「弁栄教学」を学ぶ上で必読書であり、
この書の理解抜きには、「弁栄教学の精髄」を理解したことにはならない、
と云いうるほどの本でありながら、
『弁栄聖者 (十二光)光明体系』の中でも難解な書としても知られ、
「敬して遠ざけ」られてきた書、という印象もあります。

「求道者 佐々木有一」氏は、その『無辺光』に、果敢に挑まれています。

本書「第四章 四大智慧の真実」には、
弁栄聖者著『無辺光』の精髄がほぼ網羅されている、
と言っても過言ではないほど、濃密な内容であり、
また、多くが『無辺光』の引用から成っているのも特徴です。

これらは、
「引用」であって、単なる「列挙ではない」こと。 
「写経」と云った意味合いもあろうかと思われること。
「聖者の原文を直接読んでいただきたい」という切なる望みがあること。
○「本書を、聖者の御教えの精髄を知るためのテキストとして利用していただきたい」という願いがあること。
○佐々木氏は「日課念仏の内で、仏身論、四大智慧等の難問を熟読・熟考」されておられるであろうこと。

以上の点に、留意すべきかと思われます。


各智慧の詳細な内容については、
「第四章 四大智慧の真実」に譲ることにしまして、
佐々木氏の論考に触発されたことを幾つか記すことによりまして、
『無辺光』理解の助縁ともなり、
難解な『無辺光』の「四大智慧」を読み通そうとされる「意志の支え」となればと願っています。

「無辺光の四大智慧とは、
一大観念態(大円鏡智)一大理性(平等性智)
一切認識の本源(妙観察智)一切感覚の本源(成所作智)とである」。

『無辺光』の「四大智慧」の総論であり、また、説かれている順序でもありますが、
佐々木氏が引用されている田中木叉上人の「四大智慧」の解説は、
成所作智、妙観察智、平等等智、大円鏡智の順序となっています。

この四大智慧の説かれる順序は、比較的解り易い順序になっており、
そこに、木叉上人のお慈悲を感じます。

弁栄聖者の「無辺光の四大智慧」の特徴を「精確に理解」するためには、
特に、『成唯識論』、『華厳経』、『大乗起信論』、『首楞厳経』、『天台経典』 、『密教経典』、『禅宗経典』、『浄土三部経』、『大智度論』(龍樹菩薩)、『観経疏』(善導大師)、当時の哲学・思想・科学等の知識も不可欠ですが、
「一切経」も身読された「三身四智の聖者」にして、
初めて「精確な理解」が可能となる、とい云い得るほどの甚深な内容かと思われます。

弁栄聖者著『無辺光』「四大智慧」には、
「各宗派の悟りの内容が包含」されているといっても決して過言ではないかと思われます。

「無辺光の四大智慧」の「精確な理解」には、
「理性的理解(解信)」と「「三昧の眼に依る認識(証信)」と、
更に、慈悲の発露である「霊的実践(実行)力」
これら両側面からの理解が不可欠となります。

弁栄聖者にまつわる奇蹟的な逸話の数々は、
三身四智の仏眼に依る弁栄聖者の四大智慧に依る発露だからです。


また、弁栄聖者の『十二光光明体系』、『無辺光』「四大智慧」は、
「大ミオヤの全一なる光明」を便宜的に、十二通りに分け、分析的に説かれているために、
必要以上にその光明のみを分析して、その光明のみで考察しようとすると無理が生じる。」

「弁栄教学」を学ぶ際に、留意すべき心構えかと思われます。


佐々木氏は、数学者の岡潔博士の本とのご縁によって弁栄聖者に出会われました。
昭和44年(1969年)刊行の講談社版『無辺光』の「岡潔博士の序文」を紹介されています。

自然科学者である数学者の岡潔博士が、
「念仏聖者 弁栄聖者」に魅了されたことを不思議に思われる方もいらっしゃるかと思いますが、
「弁栄教学」、特に『無辺光』「四大智慧」を学んでいきますと、
「なるほど」と了解いただけるかと思われます。

佐々木氏も強調されておられるように、
弁栄聖者の「四大智慧」の特徴は、
法身の四大智慧」と「報身の四大智慧」を詳細に説かれている点にあります。

法身の四大智慧」とは、
大宇宙の一面である「自然界に働く如来の光明(働き)」で、
報身の四大智慧」とは、
大宇宙の一面である「心霊界に働く如来の光明(働き)」のことです。

数学者の岡潔博士は、
ご自身の数学研究と光明主義念仏の体験から、大宇宙の両面を直観され、
「法身の四大智慧」に、自然科学の前提条件の根拠を見出したからでもあります。

「四大智慧」とは、「転識得智(識を転じて智を得る)」のことである。
とは、唯識学派の説として知られていますが、
弁栄聖者が三身四智の仏現に依って認識された「四大智慧」の真相は、
「四大智慧」は、本有無作として大ミオヤにもとより在しまして
衆生は、大ミオヤの霊育によって、
如来「四大智慧」が自己のものなり、自己の智慧として応用可能となる


「如来の本体は、物心無碍の絶対大心霊態である。」

佐々木氏が度々引用される「如来蔵妙真如性」は、
弁栄聖者著の『無辺光』「四大智慧」を読み解くキーワードの一つかと思われます。


○「大円鏡智」
「十方三世の色心(しきしん)は
如来の鏡智に炳現(へいげん)す」


「一大観念には、過去も未来も現在の観念の内面に存在して、
外観は常恒に現在のみなり。
内面より発現するが故に三世を当念に収む。
常然現在の同時態なり。
但に同時態のみにあらず、意識感覚的形式を脱して直観なり。」
(「大円鏡智」『弁栄聖者光明体系 無辺光』)



「大円鏡智」と「阿頼耶識」との関係について、
弁栄聖者は、唯識学派の説を次の如く判釈されています。

唯識観念論者の説は、個人中心として、
未だ個人観念一大観念の根底に立って自己は其の一員たるをいはざるなり。
今は如来心の鏡智即ち絶対観念を一切主観客観の本質根底として
主観客観は一本質の両現象なりとす。」

「絶対観念即ち鏡智の一分が個人の自観即ち頼耶識と名づけたるものなりとす。」

ちなみに、「今は」とは、私(弁栄)は、ということ。


また、弁栄聖者の説かれる「四大智慧」、特に「大円鏡智」が理解し難いのは、
自然科学の対象となる「自然現象の法則」そのものの根拠に、「法身の四大智慧」を以て説かれ、
しかも、その「四大智慧」を、「宗教的、人格的」に説かれている点かと思われます。

「法仏の鏡智は万物を反映するにあらずして発現的現象なり。」

「宇宙の内観は一大観念なり。一大観念が内容の理性によりて、
意志に発動せられて秩序が外面には因果律の関係をもて万有を顕現す。」

この「意志」の理解のし難さが、
「大円鏡智」の理解を困難としている大きな要因かと思われます。

このことは、他の智慧についても言えることですが、
「大円鏡智」は、決して、静的な「大いなる鏡」という意味だけではなく、
極めて力動的な「万物を発現する働きがある」と捉えておられます。


以上の「大円鏡智」の説明は、極めて観念的に感じられるかもしれませんが、
弁栄聖者においては、極めて現実的な、日常的なことでした。

懇切丁寧で、とても有り難く貴重な笹本戒浄上人のご教示を記します。

仏の完全な大円鏡智は、特別に意志を働かさなくても、
肉眼といつも同一時に活動している。
認識的一切智を実現していられる仏
大円鏡智で宇宙の一切を任運自在に感じていられる

ただし、「宇宙の一切のこと」と申しても、それは、

成仏の中心道を直進する上で核心となり急所となるもの、
自行化他の道において尊く価値のあるもの、
一切の衆生を中心道に導く対機説法で有効適切なもの、
お互いの心を明るく清く楽しく豊かにするもの。

もしも、そのような意義深いもの以外のものまでも朗々と感じているのであれば、
それは、真実の仏の円満な認識的一切智ではない
」と。 (『笹本戒浄上人伝』)


○「平等性智」
平等性智で説明用語の「理性」とは、
「りしょう」と読むと、少し理解され易くなるように思われます。

「この性智は宇宙の一大心霊に万物を統一し摂理する処の理性として存す。」

さらに、「大法身が万物を統一摂理の性を有する」のみにあらず、
小法身が自己分限内のものを自制自発的に造化の性能を有しておる」。


「宇宙の自性に徹底的に大悟する時は、自然本然の平等性智現前す。」

「禅の悟りの真相」の弁栄聖者の説明であり、
「他仏を認めない」禅の悟りの一面性への批判も含まれているように思われます。

また、人の一つの理想的在り様とされる、
「理性我の完全なる精神生活を得るに至る」ことは、
法身の範囲にして、之を宗教的にい云はば法身のミオヤの聖意に契う人なり」
として、いまだ「因果律に規定され」ているために、真の自由とは言えない
と、更に、「報身の平等性智を仰がずべからず」、とされています。

「人間にとって宗教が不可欠であることの根拠」が明示されています。


なお、「四大智慧」はそれぞれ独立しているものではなく

例えば、「大円鏡智」と「平等性智」の関係で云えば、
心の鏡に例えれば、心の鏡が「平等性智」であり、
心の鏡と心の鏡に写った影と共に「大円鏡智」と云われます。

したがって、「大円鏡智が明了と開けるためには、
平等性智が了々と開けていることが前提である」
と云われます。
(杉田善孝上人の御教示)


○「妙観察智」
「察智とは、感応なる不思議の妙用」であり、「如来の内容を啓示する性とす」。

あまり知られていないかと思われますが、
『啓示の恩寵』(「智慧光 巻下(開示悟入)」)という小冊子があります。
戦後間もなく、物資の乏しい時期に発行されたもので、保存状態があまり良くなかったのですが、
幸い、最近に、光明会聖堂から再刊されました。

聖者は、「精神の交通」と「交通」という言葉を使っておられます。
キリスト教には、「諸聖人の通功」という教義があり、興味深いものがあります。


また、佐々木氏は、「妙観察智」の項目で、
「妙観察智」と「平等性智」に深い関係があると大事な指摘をされています。


○「成所作智」
『無辺光』「成所作智」は感覚作用智であり、
五眼「肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼」は、
三身四智の聖者であられる弁栄聖者ゆえの自内証からの詳細なる説明が可能であり、
佐々木氏が指摘されていますが、
龍樹菩薩の『大智度論』で説かれる内容と異なっており、聖者独自のご使用法と云えるかもしれません。

また、「慧眼・法眼」であり、「法眼・慧眼」の順序ではないことは、補足説明が必要かもしれません。

戒浄上人の御教示に依りますと、
「慧眼・法眼」の境界は、「背面相翻」の状態

「背面相翻の状態」とは、
「慧眼の時には、法眼の境界は認識されておらず」、「法眼の時には、慧眼の境界は認識されていない」状態で、
「慧眼と法眼が時を異にして交互にお育てを被る間」のこと。
(慧眼・法眼どちらが先に開けるかは、人により、因縁により異なるようですが、
「憶念口称念仏」の場合は、法眼が先に開けることが多いと言われています。)

大ミオヤの真理の法則によって、「慧眼が円満になり次いで法眼が円満となり、
確りと慧眼と法眼が融合した状態が「初歩の仏眼」 」。
仏眼が開ける心霊的お育ての過程は、この「慧眼・法眼」の順序となる」からです。

仏眼が開けておられた田中木叉上人は、
「慧眼・法眼」のそれぞれの境界を、「まだ、道中です。」と云われています。

なお、仏眼とは、「念仏七覚支」の「定覚支」以上の境界で、
弁栄聖者は、 「仏眼が開けたら、ひとまず、喜んでよい。」と云われています。
何故なら、
「仏眼とは、信行の不退転位であり、退転への因となる「慢心」が除かれるからである。」
と云われています。
なお、如来化されるべき「肉の心」が除かれるのは、「三身四智の仏眼において」とのことです。

※心霊界の現象が顕現している時、自然界(の現象)が消滅し無くなってしまうのではなく、
精確には、「隠没」の状態でありますので、
出世間の三昧が解けますと、肉眼の勢力が復活し、自然界の現象が認識されてくると云われています。

「成所作智」の大切な働きは、所作にも働き、
真言密教で説かれる「羯磨曼荼羅(カツママンダラ)」のことである。
とは、佐々木氏の恩師、 河波昌先生による大変興味深いご指摘。

本書の「成所作智」の最後において、
「成所作智が因縁の本因である。」
と、佐々木氏は、とても重要な指摘をされています。


最後に、「成所作智」に関して、是非記しておきたいことがあります。

「仏教徒が、その瞑想的ヴィジョンにおいて、
キリストやマドンナをみないのはなぜだろう、

とカッバーラー学の権威ゲルショム・ショーレムが問うている。
・・・
そういえば、逆に、キリスト教徒の瞑想意識の中に、
真言マンダラの諸尊、如来や菩薩の姿が
絶えて現れてくることがないのはなぜだろう
、と問うこともできよう。」

とは、 井筒俊彦著『意識と本質』における大変興味深く、示唆に富む問です。

この井筒俊彦氏の問いへの回答は、「成所作智」に依る、です。

弁栄聖者は、三昧定中に顕現される心霊的差別現象である霊相を、
「主観的客体である」と明言されています。

「報身の「報」は「答」と弁栄聖者のみ教えです。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)

報身(ほうしん)とは、衆生の信念に応答し、報いる身


更に、佐々木氏の『無辺光』の精読、文献学的比較考察により、
「人心に感性と理性(性智作智)の二面あり。」は、誤植ではないかとの疑義を提示され、
講談社版『無辺光』(昭和44年)では、「(性智察智)」と変更されていることを発見され、
「但し順序は依然として元のままです。」と指摘されています。

「感性」を、「成所作智」あるいは「妙観察智」として、
それぞれ認識されることになるので、
単なる誤植としても、大変示唆に富み、大変興味深く思われます。


「絶対感性」と「絶対理性」は、絶対同時態、同位同等であり、
「絶対感性」は、「絶対理性」の依他起性の現象ではない。

この点も、「弁栄教学」の極めて重要な特徴点と云われています。


今回も長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。

次回は、「第五章 無礙の恩寵」を読む予定です。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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