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2015-11-15

『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)を読む(その3)


     20151114.jpg
   
『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)

目次
序 章 信仰の皮肉と骨髄
第一章 光明主義と山崎弁栄
第二章 光明主義の七不思議
第三章 大ミオヤの発見
第四章 四大智慧の真実
第五章 無礙の恩寵
総 結 光明主義の正法・像法を期す


前々回(その1)、 前回(その2)と記事を書きましたが、

著者である佐々木氏の論理的思考及び比較思想等の研究成果を駆使された、
「弁栄聖者の仏身論及び十二光」の考察には、
光明主義上、重要な観点・指摘が、あまりにも数多く盛り込まれているため、
「求道者 佐々木有一」氏の詳細な考察の紹介にはたどり着けませんでした。


今回は、佐々木氏のその詳細な考察に関してです。

○「聖教量を堅とし実感を横として」
(新潟教区教学講習会で浄土教義講演開口の一番のお言葉)
○「私は聖典に依て演繹的に説くのでない、帰納的に説いている。」
(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)

○「換骨奪胎」

これらの点は、弁栄教学を学ぶ際、是非、銘記し、留意すべき特徴点です。

一切経、世界中の宗教の教義を極め尽したわけでは勿論ありませんが、
田中木叉上人が編纂された「弁栄聖者 光明体系(御遺稿集)」は、
「大宇宙の真相を開顕」した「新たな経典」であるように思われてなりません。

「大乗非仏説」に対する弁栄聖者の見解は極めて明快です。

「飲んで効く薬ならば何でもよい。自分も大乗非仏説と思う。
大乗経典とは、三昧定中における大乗仏陀釈尊による直説法である」。

と、聖者は喝破されておられます。

また、「『無量寿経』にも迹門と本門があります。
「歎徳章」のところが本門です。」


聖者の高弟の田中木叉上人への御教示ですが、
『無量寿経』の「歎徳章」の箇所と、
弁栄聖者畢竟の聖典『如来光明礼拝儀』の「歎徳章」の箇所を比較しますと、
興味深いことに気付きます。

『無量寿経』の「歎徳章」に記されている文言の一部が
弁栄聖者畢竟の聖典『如来光明礼拝儀』の「歎徳章」にはないのです。

「(その箇所は)如来様の事実と違っているので。」
(その引用箇所の文言の相違理由に関する聖者の一言。)

更に、次のような示唆に富む逸話もあります。

『大原談義聞書鈔』については、古来真偽問題が種々論じられているようですが、

「聖法然でなければ言い得られない御言葉が載っている。」
(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)

文献学的検証よりも、「それが、真理か否か」を重視された、
聖者の御態度をよく伝える印象深い逸話です。


○「換骨奪胎」

佐々木氏が好んで用いる「弁栄教学を解くキーワード」で、
この「弁栄教学」の特徴点に、佐々木氏も苦労されておられる様子がうかがえますが、
かえってそのことが、通仏教との熱心な比較思想研究へと佐々木氏を駆り立て、
その成果が、「弁栄教学」の特徴点を浮き彫りにされたように思われます。

「弁栄教学を学ぶ」際の難しさは、次の点を挙げることができると思います。

○表面的には、文章表現そのものの難解さ。また、仏教用語そのものの難解さ。
特に、漢文の素養が聖者と現代人では格段に違うこと。
○聖者が深三昧において認識された大宇宙の真相そのものが、現代人の理性的次元では理解困難である点。
○聖者御在世当時の哲学等の用語、その定義が、現代用語とは異なり、
そのことが理解の障碍となっている点があること。
○「同字異義」。「換骨奪胎」の場合と伝統的な同一の仏教用語を幾通りもの意義で使用されておられる。
細心の注意を要する特徴点。

また、聖者の原書には漢字に多くルビがふられていますが、
聖者の御著書を読まれる時には、
聖者のルビの独特のふり方に留意すること
(杉田善孝上人の御教示)


佐々木氏の丹念な通仏教との比較研究、聖者独自の用語の使用方法の考察等が、
「弁栄教学」の理解の助縁になると思います。

佐々木氏は、「弁栄教学読み解くキーワード」を、
「十二光」に、特に、その「仏身論」「無辺光」の四大智慧にみておられます。

「「光明体系の構想」には、真言宗のある経典が参考になった。」
(弁栄聖者の藤本浄本上人への御教示)

大変惜しいことに、浄本上人はその経典を失念されたようですが、
この逸話も大変興味をそそられますし、今後の研究のためにも、ご参考までに記しておきます。


弁栄聖者の「仏身論」の特徴点を、
聖者独自の意味付与をされておられる「報身」にある
と佐々木氏は捉えておられます。

弁栄聖者の「報身」は、「ほうしん」と読み、
通仏教で説かれる「酬因感果」の「ほうじん」のことではない
聖者が甚深なる三昧において認識された「本有無作(無始無終)の本仏」のことであり、
このコペルニクス的転回とも云い得る聖者独自の仏身観によって、
「因果律を超越」し、したがって、伝統仏教の原則である「回向の制約が突破」せられ、
「内的目的論的に、合目的」に、
無縁の慈悲たる「摂取不捨の利益(救済)が念仏の衆生に及ぶ」ことになります。
聖者のこの原理の発見によって、「古来から疑われる他作自受の難」が解決された。
と繰り返し繰り返し、佐々木氏は強調されておりますが、
極めて重要なご指摘です。

伝統的な「浄土宗乗」との関係には、文献学的考証も不可欠と思われます。

また、「自作自受」の原則を強調されるのは、
聖堂系の方々の理解の特徴でもあります。

聖堂系の方々の「自作自受」、「他作他受」原則の解釈は、
笹本戒浄上人が「自作自受」の原則を強調されたことが根拠となっているようですが、
戒浄上人の解釈には、
「自」作に、戒浄上人独特の深意が込められているのではないかとの思いがあります。

聖堂系の方々の解釈では、
「回向」の働き「大ミオヤの理性と感性は共に能動的である」(弁栄聖者のご教示)
という事実を解きえないのではないか、との疑念がいまだに払拭できずにいます。

「自作自受」と「他作自受」の問題については、
慎重に考察を続けていきたいと考えています。


佐々木氏は、また、現在の光明会ではあまり説かれなくなった聖者の御説を再発見され、
そこに、聖者創見と思われる「超在一神的汎神教」の特徴を位置づけています。

つまり、
「本有無作(無始無終)の本仏、三身即一の大ミオヤ」こそ、
大宇宙唯一の「独尊」であり、それ故に、「一切知」・「一切能」という二属性があり、
この二属性が「統摂」・「帰趣」の霊徳の根源となっています。

なお、「唯一の如来」の「一」の定義に関しては、
「(唯一の如来の)「一とはそれあるのみ」という意味である。」(岡潔博士)
(杉田善孝上人が岡潔博士にお尋ねになった時の言葉)

「非内非外」の大円鏡智を彷彿とさせる定義です。


「第五章 無礙の恩寵」において、

聖者が課題として残された「十二光における「無対光」と「炎王光」の位置付け」について、この聖者の宿題についても、佐々木氏は果敢に挑んでおられます。

「智慧の故に生死に住せず、慈悲の故に涅槃に住せず」と云われ、
大乗菩薩の究極の理想、目的とされる「無対光」の境界における「無住処涅槃」に着目され、「無対光」と「炎王光」を一対として見ておられます。

佐々木氏のこの着眼点は重要で、

成仏の境界である如来無対光の「無住処涅槃」に実在的に往生(証入)するためには、
「肉の心」も霊化(仏化)される必要がある
三身四智の仏眼以外の出世間の眼開けて後にこの世を去ると、
肉体は無いが未だ如来化すべき肉の心が残っておるために、
一時的に浄土に往生する有余涅槃が実現する。 
そして如来の御力により、六道輪廻によらずに、
再び人間としてこの世に出て三身四智の仏眼を得るまで修行できるようにしてくださる。」
との弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示があります。

これは、「炎王光」による霊化に依り可能となり、
如来無対光の「無住処涅槃」への証入と一対、セットの不可分の光明です。

なお、より精確な表現としては、
「無住処涅槃」は、「無余即無住処涅槃」の方がよろしいかと思われます。

○「体は本覚の都に在って、化を百億に分ち、
こゝに於いて一切諸仏は即ち本覚の弥陀。
弥陀即一切諸仏たるの真理は自ら證(さと)らん」


○「無住処涅槃とは、生死に住せず涅槃に住せず、永恒常住に、
一方には涅槃界に安住して、
また一面には生死界に分身応化して、
衆生済度の事業未だ曽て暫くも懈廃せざるなり、
故に無住処涅槃と云ふ。」


以上、 (『弁栄聖者光明体系 無対光』)

○「三身四智の仏眼を実現してから此の世を去ると、
無余即無住処涅槃の境涯がまざまざと実現する。
・・・光明主義の厳密な意味での方便法身が
無余即無住処涅槃界に於ける自己自身となる。」

(『仏陀禅那弁栄聖者著 光明主義玄義(ワイド増訂版)』)

「「法蔵菩薩は応身」とお説きになったのは、弁栄聖者だけである。 
(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)


最後に、『如来光明礼拝儀』」の「至心に勧請す」の
「如来の真応身(みからだ)は在さざる処無きが故に」
の「真応身(みからだ)」に関する佐々木氏の考察について。

若き日の杉田善孝上人の笹本戒浄上人との質疑応答を参考にされながら考察されています。

「真応身」と「霊応身」に関する佐々木氏の考察は、
佐々木氏の面目躍如で、実に生き生きとした思考の躍動があり、興味深く、かつ、示唆に富みます。

「真応身」を「霊応身」への可能態

と、佐々木氏は「真応身」を解釈されており、
この「可能態」という表現が、ミソかと思われます。


なお、
「・・・教え主世尊が六根常に清らかに光顔(みかお)永(とこ)しなえに麗しく在ししは 
内霊応に充(みち)給いければなり」

この箇所は、『無量寿経』の「三相五徳」として知られた処ですが、

内霊応に充(みち)給いとは、
「無住処涅槃」の如来無対光の境界における
応身仏釈尊の三身四智の仏眼に依る自受用三昧を、
弁栄聖者が表現されたもの。(戒浄上人のご教示)


今回も、長文となってしまいましたので、
実に本書の約4割強の230頁にも及ぶ「第四章 四大智慧の真実」
つまり、「弁栄教学」の精髄である「無辺光」の四大智慧については、
次回、記事にしたいと思います。
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Re: お聞きしたいのですが

> 本文中の「(その箇所は)如来様の事実と違っているので。」の文は『日本の光』に載っているのでしょうか?
> 教えていただければ幸いです。

ご質問ありがとうございます。

弁栄聖者のこのお言葉は、
『日本の光』には掲載されていなかったと思います。

身近の方に語られたお言葉だったと記憶しています。


「無量寿経にも迹門と本門があります。「歎徳章」の所が本門です。」

弁栄聖者が田中木叉上人へ語られた、
この御言葉が『日本の光』には掲載されています。


従来から最重要視されてきた「十八願」ではなく、
「歎徳章」を最重要視されておられていたことが、
極めて重要かと思われます。

なお、「弥陀の本願」に関しても聖者独自の解釈をされておられます。


お聞きしたいのですが

本文中の「(その箇所は)如来様の事実と違っているので。」の文は『日本の光』に載っているのでしょうか?
教えていただければ幸いです。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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