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2014-11-14

「明治十六年九月(二十五歳)から十八年六月(二十七歳)まで足かけ三年、宗円寺(埼玉県吉川市飯島)にて、黄檗版の一切経七千三百三十四巻を読了。」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

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【筑波山上 弁栄聖者 三昧発得偈】

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「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念
一心専念能所亡 果満覚王独了々」



筑波山頂での二ヶ月の御修行の効実り、「念仏三昧発得」

筑波山入山の目的を成就し、下山。

定めし「出山の釈迦」を彷彿とさせるものであったことでしょう。


田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、
弁栄聖者が御修行中にみられた印象深い予知的「霊夢」が二つ記されています。

まだ、立身石の所にいる時の霊夢。

「初め金竜現れ、遠くに文殊普賢二菩薩獅子と象に乗り、
釈尊がその間にたって在す三尊を夢みられたことがあった。」


また、山を下りる前夜の霊夢。

「曠野で獣に追われ逃げると不思議にも空を飛べて、
向うの経蔵に経がほしてある所にきた。
そこで一度一切経を披閲せんと願っていた望の遂げらるるのを
喜んだ夢を見られたこともあった
。」

前者は、明治二十七年の「インド仏蹟参拝」に、
後者は、明治十六年の宗円寺にて「一切経読了」に、
それぞれ、結実されました。

弁栄聖者の特徴の一つ「釈尊への憧憬」
華厳宗中興の祖といわれる鎌倉時代の「明恵上人」を彷彿とさせます。

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筑波山下山後、千葉県松戸市小金の、愚底上人により開創された「東漸寺」にて、
「恩師なる東漸寺五十世静誉上人より宗戒の両脈を相承された。」

「東漸寺」は、「関東十八檀林」の一つ。
現在よく知られた寺院としては、「芝増上寺」、「鎌倉光明寺」などがあります。

「檀林」とは、仏教寺院における僧侶の養成機関、仏教宗派の学問所。

ちなみに、「徳川家康は、熱心な念仏信者」でもありました。

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「東漸寺」を訪れた時、「関東十八檀林」の在りし日の繁栄を想像しました。

「東漸寺」は、四季折々の景色が堪能できそうです。

紅葉の時季には、短時間ながら「ライトアップ」もされるようです。

「阿弥陀仏に 染むる心の 色に出でば 秋の梢の たぐいならまし」

弁栄聖者述『宗祖の皮髄』にも取り上げられている法然上人の御歌を、しみじみと味わわれることでしょう。

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「年来一切経全部の拝読を望んでいたのが機熟して、
大康老師の許しを得、
明治十六年(二十五歳)九月より、十八年六月にいたるまで、足かけ三年、
東漸寺経蔵より黄檗版の一切経(七千三百三十四巻)を少しずつ運んで行っては、
宗円寺で拝見することになった
。」

千葉県松戸市小金「東漸寺」から、埼玉県吉川市飯島「宗円寺」までは、
二~三里、約十kmほど
馬に乗せて運んだようです。

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お盆、お彼岸等には、拝観できるようです。

残念ながら、現在では、当時の面影は、ほとんどありません。

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田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』は、
名文で知られていますが、読む度に、その精確かつ巧みな文章力にも感嘆いたします。

「月かわり星移っても金剛の一心に一巻また一巻、
うまずたゆまず拝読する日々夜々、
大聖世尊の不滅の慧命が経論章疏、律制伝歴を通じて、
自身の脈搏に波打つを覚えられるるのであった


この閲蔵中のことである。

芝増上寺(時の東部管長)行誡和上は、
この青年沙門の行持を聞き伝えて「東から名僧がでる」とよくいっておられたが、
使者(当時増上寺内役、のちの鎮西本山善導寺貫主広安僧正)を飯島宗円寺に遣して、
和上の所に来謁するように求められた

使者は若年の学僧、この管長の招請を恐悦するだろうと思えるに、

「ただ今お釈迦様に拝謁中であるから」

とて老和上の招きに応じられない。

「草庵にこもりて一切経を閲しける頃
我庵の庭の夏草繁れかし訪いこん人の道わかぬまで」」


弁栄聖者の場合には、
若者にありがちな「権力、権威への反発」といった類のものではなく、

福田行誡和上に対し失礼になるかとも思われますが、
おそらく、「そっとしておいていただきたい」
といった心境だったように思われます。

「政治、世俗的な事柄への関心の希薄さ」

これは、弁栄聖者の「生涯を貫く特徴」と思われます。

弁栄聖者の同時代人であった椎尾辨匡師(「共生運動」の提唱者)とは、対照的な生き方。


福田行誡和上への来謁に応じられなかった弁栄聖者ではありましたが、

「明治十七年(二十六歳)五月二十二日多年教養の恩師東漸寺静誉大康老師がご病死になった。
この訃報に接した時には、即刻飯島の草庵より小金に帰寺、
本堂にこもりて一百ヶ日の報恩別時を勤められた
横になっては寝ず、生理自然の用の外は座を立たず、
不断に称名して、広大の師恩に追孝の至誠をぬきんでた。」


「百日別時も終りに近づきし頃、
またまた増上寺行誡和上下総の松戸まで来錫のことあり、
和上は再び謁見を求めたけれど、
入行中の由を聞いて随喜に堪えず、書簡を与えて謁見を止め、
しかも謁見第一の人と歎ぜられた。」

さすがに、福田行誡和上だと思いました。
その後も、弁栄聖者に目をかけられたようでした。

「明治十八年(二十七歳)閲蔵のかたわら木彫の尊像など多数拝彫しつゝ、
飯島隠棲すでに三年を迎えた。

一切経の文字章句のうす霞にすいて伺われる
暐曜愌爛(いようかんらん)たる無漏の真境にあこがれ、
寿命無数劫の大聖世尊慕いつつ
一巻また一巻、念仏しながら心読体解してゆく最中、
ある時は一心称名の端的、三昧現前し、
釈迦牟尼仏を中心に文殊普賢の二菩薩霊容宛然として
空中に住立し給うを感見された
こともあった。

足かけ三年の精進にたまには小さな刃物を体に刺して眠気を払ったこともあった(傷あとは後年まで残っていた)

かくて一切経七千三百三十四巻を読了し、
十八年六月飯島の庵室を辞し
、夏草の草を踏みわけて小金東漸寺に帰られた。」

この飯島宗円寺での一切経読了の約十年後、
弁栄聖者は、大聖世尊への思慕の情おさえ難く、遂に「インド仏蹟参拝」へ旅立たれました。

今回の記事を書くにあたり、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』を再読するうちに、
此処飯島宗円寺での「一切経読了の体験の意義」を再認識しました。


弁栄聖者の飯島の宗円寺での一切経の読了について、
浄土宗乗学者であった、聖者直弟子藤本浄本上人の示唆に富むご指摘。

「聖者がこの難解な漢文で書かれた一切経を読破御出来になったのは、
筑波山での三昧発得の御悟りによることは勿論でありますが
十六、七の頃、康熙字典の全巻の音と意味とを全部暗誦しておられたから
御出来になったのです。(藤本浄本上人)」
(吉松喜久造編『辨栄聖者御写真帖』)

また、「年代は分からないが具聞持法の三昧を行じられたこともあった。
(註ー具聞持法は弘法大師等古聖も修行成就されし三昧で記憶力を増進す)」(田中木叉上人)


また、大乗経典の成立史を知る我々現代人は、
「大乗経典とは、何か?」という難題に直面することになります。

この難題に対する弁栄聖者の見解は、至極簡潔明快です。

「大乗非仏説」に対して、「私もそう思う」とし、

「大乗経典とは、三昧定中における大乗仏陀釈尊による直説法である。」
と喝破
されています。


「聖教量を堅とし実感を横として」

とは新潟教区教学講習会で浄土教義講演開口の一番のお言葉であった。
この自内証の権威がまず聴聞者の心を引きつけた。」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

この意味内容を、笹本戒浄上人は、

「弁栄上人は、
「自分は経文に依って演繹的に説くのではない。帰納的に説いておる」
と言っておられました。
・・・経典に依るのでなく御自身の体験せられた如来様の事実から
帰納的に光明主義の教学体系を組織せられた
、という意味であります。
この事は親しく弁栄上人よりしかと承っております」と。
(『笹本戒浄上人全集 中巻』)

この意味から、『弁栄聖者光明体系』を「大乗経典」といっていいようにも思われます。


長くなっていますが、
示唆に富む興味深い、弁栄聖者の逸話を、更に少々。


「聖者は何でもよく分かっておられる筈なのに、
よく本を読まれていたのを不思議に思われ、

「聖者は三昧発得していらっしゃって何でも分かっていられるから、
本など読まれなくてもよいでしょうに」

佐々木為興上人がお尋ねになったところ、

「いや、それはいけぬ。やはり本を読まぬといけぬ」と言われたので、

「どういう訳ですか」と重ねて尋ねると、

「それは、お念仏していれば大宇宙の事柄が一切分かるようになる
分かるけれどそれは観念的に分かるのだ
書物を読むと書物に書いてある事柄と自分の観念として得ている事とぴったりと合う。
認識にしようとする思うと本を読まねばならぬ。
本を読む事によって認識となるのだ。」

と聖者はお答えになられました。

またある時、

「どうして本を読むのがそんなに早いのでしょうか」とお尋ねになると、

「こんな事を言うとおかしいが、
私の心の通りに書いてあるようで早い。
事新しいことが書いてあるとは思わぬ。
丁度自分の手紙を読むようだ
」と聖者は仰言った。

以上、藤堂俊章編『佐々木為興上人遺文集』による引用。


このことと関連して、是非触れておかねばならないことがあります。

釈尊と弁栄聖者とのお悟りの深さの相違に関してです。

私も観念としては得ておるが、認識的一切智では釈迦さんに及ばない。
この世界で認識的一切智を得ておられたのは釈迦さんばかりだ。


このことは、笹本戒浄上人が弁栄聖者から口訣として承ったこととして伝えられています。
( 『笹本戒浄上人全集 中巻』 )

弁栄聖者は、この時点では、まだ、

「ミオヤの御世嗣」、つまり、
「無生法忍」、「超日月光」における「三身四智の入の位の仏眼」、「如来無対光」の御境界


では、なかったようです。(笹本戒浄上人述)

弁栄聖者の御境界は、御遷化まで、無限に深まっていかれました
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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