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2014-10-01

「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念 一心専念能所亡 果満覚王独了々」(筑波山上における弁栄聖者の三昧発得偈)



DSC03969.jpg

この石碑は、男体山の「立身石」の手前に立っています。

「明治十五年二十四歳の時一夏六十日間筑波山上に入山修行
深三昧の岩床に称名日々十万遍
王三昧円かに成就して、如来の真境了々と現前
爾来三業清浄、一行精進、施、戒、進、禅、慧欠くることなく
更に三年間草庵に籠って、一切経七千三百余巻読了。」

と、 『日本の光(弁栄上人伝)』の筆者である田中木叉上人は、
弁栄聖者の筑波山上における三昧発得の、決定的ともいえる重大な意義を記されています。


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筑波山は、「西の富士、東の筑波」

と言われるほどの、古えからの霊峰

弁栄聖者の御生誕地である鷲野谷から、12~3里(およそ50kmほど)。


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聖者は、筑波山入の理由を、

仏教の真理は三昧に入り 神を凝らすにあらざるよりは 証入すること能はず 
依て暫く山に入れり」と。

「仏法は学解にあらず、三昧実証にあり」

実証(実験)主義こそが、弁栄聖者の「常の方針」でありました。

御歳二十数歳での「三昧発得」というのは、
実に驚嘆すべきことで、
宗教史上からみても、類例を見出し難いのではないでしょうか。

弁栄聖者が宗教的天分に恵まれた、宗教的大天才であったことは言わずもがなですが、
その修行の精進も尋常でなかった
この点も見落としてならない重要な点だと思います。

やはり、この点は是非押えておくべきだと思いますので、
「筑波山上での三昧発得」までの聖者の主だったエピソードを次に記します。

(幼児期~少年期)
好んで仏画を描かれ、仏書を読まれた。

(十二歳頃)
秋の彼岸の中日、杉林から入る日を拝もうとした時、
「想像にはあれども、三尊(阿弥陀仏と観世音菩薩、勢至菩薩)を想見し、その霊容に憧憬して、
その聖容を霊的実現としてせん仰し奉らん」と強く願われた。

ただし、「後には、三尊を一尊にして拝むことにした」とのこと。
この選択も、実に不思議なことに思われます。

弁栄聖者の特徴でもありますが、
自内証を自ら語られることは少なく
このことも、次の出家の願望同様、ご家族は知らなかったようです。

(出家前、青少年期)
若かりし日に出家を夢見た父の「念仏嘉平」氏は、
出家に耐えるかを試すため、
青小年の啓之助(弁栄聖者の幼名)に厳しい仕事を課された。
そのお蔭で、五体はますます頑丈になった。

(二十一歳)
近所の檀那寺の鷲野谷医王寺において、
関東の名刹、関東第十八檀林、小金の東漸寺の第五十世、大谷大康老師を剃髪授戒の師とし、出家得度。
行学に精励。
入寺早々、異例ともいえる、
「華厳の事々無碍法界」のあらましを授け、ついで「天台四教義」を教え、
つづいて、「天台三大部」の要領を授けた。
大康老師さえ「弁栄はねないのだろう」と言われていた。
でも、三時間位は寝た。

(二十三歳)
東京遊学。
浅草日輪寺(時宗)、駒込吉祥寺学林、真言宗与楽寺、芝学頭寮に止宿して宗乗聴講。
田端の東覚寺(真言宗)から通学途上、

「三千界中唯心眼の前に仏あるのみ」

と、一ぱら念仏三昧を修し、苦心惨憺。
そして、

ある時は、「五大皆空唯有識大」の境界現前。
ある時は、「一心法界」の真境界現前。

(二十四歳)
華厳の「法界観」を成就したので、
「これで本堂ができた。本尊様を迎えねばならぬ」

と、より一層念仏三昧に精進された。

このことも、弁栄聖者の実に不思議な処で、

ここで、「真空に偏して」しまっていないのが、実に実に不思議で、謎。

ついに、

「後二十四の時に東京駒込の吉祥寺学林に於いて
卍山上人の五教章の聴講に列なりし時
田端の東覚寺に寄宿して吉祥寺に通う往復にも

口に称名を唱え意(こころ)に専ら弥陀の聖容を想ひ
専ら神(こころ)を凝しけるに


一旦蕩念(とうねん)として曠廓(こうかく)極まりなきを覚え、
其時に弥陀の霊相を感じ、慈悲の眸(まなじり)丹花の唇等、
其の霊容を想ふ時身心融液にして不思議なるを感ず


この時の弁栄聖者のご境界に関して、
笹本戒浄上人のご解釈に依りますと、
(参考文献:仏陀禅那弁栄聖者著『光明主義玄義(ワイド増訂版)』)

厳密には、仏眼の一歩手前、「法眼が満位」になったご境界

「仏眼」が開けるためには、
「慧眼」が先に満位になり、次に「法眼」が満位になるという過程を辿り、
「慧眼と法眼」が「即の状態になった境界」が「仏眼」。


したがって、「慧眼・法眼・仏眼」。

「其後は常に念に随て現ず。」

この「心霊的自由を得る」のは、「仏眼の境界」で、

弁栄聖者は、

「仏眼は自受用にて自ら現じ自ら感ず。能感と所感と自己にあり。」

と、 「成所作智」(『弁栄聖者光明体系 無辺光』)において、
御自身の体験上の事実を踏まえ、「仏眼」を解説されています。

東京遊学より、帰郷され、
鷲野谷医王寺の薬師堂に籠って、三十七日(日数に異説あり)の修行
その間に蝋燭を腕に立てて燃えてしまうまで、
また線香を横たえて終わるまで、
また掌に油を盛りこれを燈心に浸して火をつけ、
掌の皺目がさけて熱した油と黄色の焔が皮膚の切れ目にヂリヂリヂリににじみこむのを忍んで、
如来宝前に供養し奉った。

以上、激烈ともいえる仏道修行の後の
八月末から二ヶ月間の筑波山入山、修行。


「筑波山上における三昧発得」後、筑波山下山後のことについても、少々触れておきたいと思います。

(十一月)
小金東漸寺にて、大谷大康上人より宗戒の両脈を相承された。

(二十五歳~二十七歳)
埼玉県吉川町の飯島、宗円寺。東漸寺から二三里(おおよそ10kmほど)隔てた閑静な寺にて、
一切の外縁を絶ちて、足かけ三年で、
東漸寺経蔵より黄檗版の一切経(七千三百三十四巻)を少しづつ運んで行って、読了

以上、主として、 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』によります。


記事が大分長くなりましたので、
筑波山での修行の具体的な有様については、
次回に譲りたいと思います。


「常陸国筑波山麓より一里ばかりか山頂より二丁許南の方に
立身石てふ巌窟あり 此に在って凡そ一ヶ月 次に場所をかいて一ヶ月
身に纏ふ所は半素絹 食物は米麦そば粉などにて」
(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

弁栄聖者がご修行された時代とは大分隔たっていますが、
実際に筑波山に行ってみますと、
本から得た知識とは、また違った知見が得られました。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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