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2013-09-08

「南無智慧光仏  如来智慧の光明に 我等が無明は照されて 仏の知見を開示して 如来の真理悟入るれ」(弁栄聖者作『如来光明礼拝儀』)


前回、記事にしましたが、

弁栄聖者は、『無量寿経』で開示された「阿弥陀仏の本願」の深意に関して、
「智慧光」として、画期的な卓見、解釈をご提示されました。

南無智慧光仏

如来智慧の光明に
我等が無明は照されて
仏の知見を開示して
如来の真理悟入るれ

(「南無十二光仏」弁栄聖者『如来光明礼拝儀』)


ご案内のとおり、
極めて重要な大乗経典である『法華経』に開顕された釈尊の本懐

「我一大事因縁ヲ以テ世ニ出現セシ所以ハ
一切衆生ヲシテ仏知見ヲ開示悟入セシメンガ為也」
です。

弁栄聖者は、大乗仏陀釈尊及び法然上人の最晩年の三昧の内実を、

「自性は十方法界を包めども
中心に厳臨し玉ふ霊的人格の威神と慈愛とを仰ぐもあり。
真空に偏せず妙有に執せず、
中道に在て円かに照らす智慧の光と慈愛の熱とありて、
真善微妙の霊天地に神を栖し遊ばすは、
是れ大乗仏陀釈迦の三昧、又我宗祖の入神の処なりとす。」


と、 『宗祖の皮髄』にお示しになっています。

「空」という言葉から、
「無」、「虚無」といったことを、イメージしやすいかと思いますが、

詩才がおありになった田中木叉上人は、

大ミオヤの「空」的側面を、

〇「すきとおり尽十方はただ光 是ぞ我かもこれ心かも」

〇「斯の心 身の内のみか満天地 見ゆる所に見る心かも」

と、「じひの華つみうた(三) 光にとけて」『光明歌集』に詠まれています。

また、大ミオヤの「妙有」的側面を、

「ああ尊とああ〈 尊とああ尊と 輝き給う大ミオヤ様」

と、「じひの華つみうた(三) 光にとけて」『光明歌集』と詠われています。


「真空(慧眼)即妙有(法眼)」、「即」の状態こそ、仏眼の境涯。

更に、文才豊かな田中木叉上人は、

「真空」と「妙有」の境涯を、「称名三昧」として、
次の如く、実にありがたく、表現されています。

「真空」的側面は、

「身も感ぜず、心もわからず、何も無くなり、
外の物も、内の心もすべて無くなり、いっさい、何もなくなる、
何も無いが、ただ、ハッキリして、カラッと ハッキリしている、
心身とも無くなってところは、死人同様であるが、
ハッキリしているので、死んだのではない、
眠ってしまったのでもない、カラット ハッキリしている、
時間も空間も無い、唯、ハッキリしている、・・・」
と。

煎じ詰めると、私達が心底希求している望みである
三世を貫く「真実の自己」、「不死」に目覚めた境涯

弁栄聖者は、この大ミオヤの「空」的側面を

「清きみ天は朗らかに」『聖きみくに』(『如来光明礼拝儀』所収)

と、詠われています。

「妙有」的側面を、田中木叉上人は、

「この三世十方をつらぬく ハッキリさも勿論ありがたいが、
それだけではなく、更に更に有難いことは
大悲大慈の光明顕赫たる大御親様が現前ましまして下さる時がある
着物に過ぎぬ この身体の命終の時もそうであるが、
命終でない平素の念仏三昧中に現前ましまして
その分、その分に応じて、
大御親様の内容にそなえ給う万徳の一部一部を、
ひれ伏し拝む心に、与え下さる、それが一ばん大切な、ありがたい、
辱けない、もったいない、感応同交の願わしさ
である。」
(藤堂俊章編『田中木叉上人遺文集』)

弁栄聖者は、この大ミオヤの「妙有」的側面を

〇「常世の国現れる」
〇「金の相好妙にして 月のみ顔は円かなり
巍き威儀は厳そかに 万の徳は満みてり」

(「聖きみくに」『如来光明礼拝儀』所収)
と。

田中木叉上人が表現された、

「平素の念仏三昧中に(大悲大慈の光明顕赫たる大御親様が)現前ましまして、
その分、その分に応じて、
大御親様の内容にそなえ給う万徳の一部一部を、
ひれ伏し拝む心に、与え下さる、それが一ばん大切な、ありがたい、
辱けない、もったいない、感応同交の願わしさである。」


の内実を、弁栄聖者は、

「開示悟入」の入の位である「三身四智の仏眼」
その究極である「認識的一切智の境涯」を、
『無量光寿』に、さらっと開顕されています。

「すでに証得したる無量光は尽十方の空間を尽したる霊体と合一したるも、
已後の無量光は、
数量に於て、若くは色法心法一切の万法に於て無量無辺なり。
この無量の法には各其自性の理を有す。
一切の無量の事々物々の真理を悟る事の無量光と云う。
無量は一切万法に名け光明は万法を悟る智慧に名く。
智慧に真理を認識する智と又実行を照す智慧とあり。
この両面に在りて照す処の智慧を云う。
寿とは生活々動の義または実地の行為の義なり。
即ち光明の中に仏行永遠無窮に行うを無量光寿と云う。」
(『弁栄聖者光明体系 無量光寿』)

霊体との形式的同一は、「理の無量光」=「無生忍」の境涯であり、
この境涯を、

「此に於て能事終れりと謂うは甚だ誤謬なり。」とし、

弁栄聖者は、釈尊の甚深なるお悟りである「開示悟入」の入の位
「無生法忍」の境涯である「三身四智の仏眼」、
その究極である「認識的一切智の境涯」=「事の無量光」を、
開顕されました。

弁栄聖者の衆生済度の特徴を、田中木叉上人は、

「破邪なき顕正」

と、言われていますが、

「宗教体験には、深浅がある」ことは、決して忘れてはならない自明の事実である、

と、弁栄聖者を学んでいくと、自然とそう思えてきます。

光明主義、弁栄聖者の信奉者であった、数学者の岡潔博士について、
岡潔博士に、光明主義をご教化された田中木叉上人は、

「岡先生は、「智慧光」から入られるでしょう。」

と言われた、と伝えられています。

数学者岡潔博士が、光明主義、弁栄聖者に帰依され、
光明主義形式のお念仏をされ始められ、
心境の深まりと相即するかの如くに、数学上の画期的な発見をされたのは、

この弁栄聖者に開顕された、

相対自然界と絶対心霊界の根本仏、
両界の法則を規定されている大ミオヤの実在


を抜きには、理解することが困難ではないでしょうか。

最後に記しますのは、数学者岡潔博士が感銘を受けられた笹本戒浄上人の甚深なる三昧証入上の至言。


〇「自然数の一を知るためには、無生法忍を得なければならない。(笹本戒浄上人)」(「独創とは何か」『岡潔 日本の心』)

〇「数学は、一とは何かを全く知らないのである。」(岡潔)


※ 「無生法忍」とは、「大自然(物心両面の自然)の理法を悟るという悟りの位」であり、
「相対・絶対両界の根本仏としての報身のいっさいの理法と合一した境界」
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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