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2013-07-27

「いづこででも、またいつでもの事であるが、少しの余暇にも筆を走らして、ありあわせの紙に、自解内証の法門をお書きになった。・・・そこで書かれた所々に、「保存して置け」ともなんとも注意なさらずに、書いた原稿を置き去りにして行かれる。」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)


続けて、

「あとで出版になるわけならば、つぎつぎの連絡のしるしぐらいはあり、
かつ保存の注意はあるはずであるが、それもない。
本にならなくてもよい文としては、あまりに出版の下地が完備している。」


「できあがることはいかに邪魔してもできあがり、
なり立たぬことは、いかに勤めてもなりたたぬ。
如来の帰趣を信じあてにするものの強さ、因縁に任すものの気楽さ。」


その弁栄聖者の御遺稿は、
ちょっとした紙の切れ端などにも、記されており、

聖者の著作活動(?)は、
一般に私達がイメージするものとは、全く異なっております。


現代の我々は、想像するのも困難かと思われますが、
弁栄聖者の伝道活動は、かく有様で、
聖者が住職となった寺はありましたが、それも名ばかりで、
実際には、聖者には、この世での定住地はありませんでした

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、
弁栄聖者ご伝道中の有様が次のように記されています。

「上人が行脚中持たるるものは頭陀袋の小箱一つで、
その中には当座必要の本も、用具も、お椀まではいっている事もあるので、
書き積まれるものを持って諸国を歩かれる訳にはいかぬ。」


例えば、遠くは、釈尊、イエス・キリストは、ご自身、本は書かれませんでしたが、
それ以外、弁栄聖者のご伝道の有様は、
釈尊、イエス・キリストを彷彿させるものがあるように思われます。

泊まられるのは、お寺や在家者の家などであったようです。

また、聖者は、伝道を「労働」と捉えておられたようで
寺の再興、学校の設立、本の出版等の必要経費のために、
伝道に伴うお布施、書画等の収入等、それらを充てられたようです。


弁栄聖者ごの伝道の有様、聖者を熱烈に歓迎する全国の信者の方々の当時の様子を想像しますと、
その時代の時代精神なるものもあったのではないかとも思われます。

例えば、江戸時代には、日本全国(藩)には寺子屋があり、
識字率は世界でもトップクラスにあったときいています。

山口県萩の松下村塾、大坂の適塾等の私塾の影響力は、全国に及んでいます。

また、師を求めて、全国を行脚したという話は、司馬遼太郎氏の歴史作品にもえがかれています。


遠く、インドにあった、「四住期」という生活観。

ご案内のとおり、人生における「学生期」・「家住期」・「林棲期」・「遊行期」の四期のことです。


昔は、現世とともに来世も人生観に組み込まれていたため、
来世への準備の一貫として、「布教師の説法」を求め、
自分では、時間も学問もないため、その代価、授業料として、
「お布施」を喜捨されていたように想像いたします。

忙しく働く私達現代人、特に定年前の者にとっては、
現世との執着を離れる「林棲期」・「遊行期」は、想像することも困難か、
あるいは、否定的な想いをいだかれる方が多いかと思われます。

しかし、現実にはそのための時間を十分に割くことは困難であるとしても、
考えようによっては、来世があると仮定しますと、
現世よりも、来世の方が遥かに、時間が長く、
そこでの「しきたり」を知らずにそちらへ行くのは、どんなものでありましょうか?

実際には、宗派宗教、思想、哲学、科学等により、
「来世観」は、まちまちではあり、どれが正否かの判断は困難かとは思われますが、

「来世」に想いをいたす時間、代価は、
現世に生きる者にとっては、必要経費ではありませぬか?



弁栄聖者の「全分度生」のご伝道の有様を思い描きながら、
ふと、こんな想いが湧いてきました。


世間には知られてはいないかもしれませんので、念のため、次に記します。

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、
弁栄聖者の御遺稿集である『弁栄聖者光明体系』に関する裏話が、記されています。

「ご遷化後、
ミオヤのひかり社にて全国よりやっと拾い集めたご文章のいく千ページは、
皆かくして、あひるのように産みっぱなしになった光るご文章であった。」


この収集、編者が、笹本戒浄上人のご推薦による、田中木叉上人であり、
戒浄上人ともご相談のうえ、編纂されたとのこと。

東大を主席で卒業された「銀時計組」
神童とも評された抜群の頭脳と、
博学なる知識
「私の頭脳には五万冊の本が蔵せられている」(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』光明園園主河波定昌氏伝聞)と、
甚深なる念仏三昧の証入者、仏眼を得られた田中木叉上人をおいて他には、
『弁栄聖者御遺稿集』編纂という人類史上の偉大なる遺産をお遺しになること
は有り得なかったと確信しています。

『弁栄聖者御遺稿集』編纂こそが、
田中木叉上人がこの世に出現された、大ミオヤからの使命だった気がしてなりません。

田中木叉上人の弁栄聖者とは出遭いは、最晩年の僅か数年ではありましたが、
聖者への尊崇の念と思慕は、、

「残りの生涯を、弁栄聖者に喜んで差し上げられた」

とでも形容することが、決して大げさではないといったような生活で、
木叉上人の生活は、大変質素であったとのことです。
  
ただ、「ご家族の方の協力あってこそ」、このことも、私達は忘れてはならないと思います。


弁栄聖者の御遺稿は、判読が困難な個所も多かったようですが、
その際、田中木叉上人は、

「お念仏のなかで、その点を解決させていただいたこともあった」

とも伝え聞いています。

「弁栄教学研究者」としては、山本空外上人の恩恵も私達は被っており、
『山崎弁栄上人書簡集』という書は、
ご自身、「大学者」にして「書の達人」でもあられた空外上人の編纂で、弁栄聖者の研究書でもあります。


弁栄聖者のこの世での最大の御使命は、


「大ミオヤ様と衆生との縁結び」

に尽き、「宗教家としての在り方が、弁栄聖者の真髄」だと思われます。

最晩年の円熟した弁栄教学を窺える御遺稿に『弥陀教義』がありますが、
惜しくも、途中で絶筆となっております。

弁栄聖者御在世中に出版された代表的な著作は『宗祖の皮髄』でありますが、
大著としてなったものは、それほど多くはありません。、

聖典『如来光明礼拝儀』は、
弁栄聖者御在世中、聖者ご自身により、何度も改訂が加えられ、
現在伝わっているものは、何と、聖者ご遷化後のものです。

聖者は、最晩年、籠って、著作活動に専念されようとするご計画もあったようですが、

「大ミオヤ様と衆生との縁結び」を優先されました。

弁栄聖者最晩年の円熟した「弁栄教学」が十全な形で遺らなかったのは、
痛恨の痛みではありますが。。。

なお、田中木叉上人にも、著作がほとんど遺っていません。
『弁栄聖者御遺稿集』の編纂をお遺しになることをライフワークとされたためとのこと。


最後は、やはり、田中木叉上人のご文章。

「その原稿には書き直した所がほとんどない。
定中にあって、はたらく心の、いかに整っているものであるかをよく示している。」

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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