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2013-06-01

「乱れざる 一心凝りて 感性も理性も眠り 光る霊性」(田中木叉上人『じひの華つみうた』)(注 田中木叉(もくしゃ)上人とは、『弁栄聖者光明体系』の御遺稿集の編算に御一生を奉られた方で、聖者ご遷化後、仏眼が開かれた大菩薩。)

弁栄聖者の直弟子の中でも、木叉上人の文才は、抜きん出ておられるように思われます。

他にも、大谷仙界上人、中川察道上人なども、詩才があられたようです。


数学者の岡潔博士は、

「解説書は、その本人が書いたものに限る」

との持論をお持ちでした。

弁栄聖者の逸話に伝え聞くご指南、ご説法は、
大変分かり易く、腑に落ちることが多いように思われます。

そのことは、聖者が、甚深なる三昧証入者であることの、
何よりの証左であるようにも思われます。

ある時のご法話で、
弁栄聖者の直弟子笹本戒浄上人の直弟子であった杉田善孝上人は、

「弁栄聖者の文章は達人の文章。
解って分からん、という書き方となっている」と。


全く解らないと本を読む気が失せますが、
本当には分ってはいないので、分かったつもりになっては困る。
もっと始末に困るのは、分かった者として、そのことを吹聴し、
周囲の者を惑わせる者が出てくることでありましょう。


弁栄聖者に、こんなご説法があったように記憶しています。

「この『肉眼』で、宇宙の果てまで行っても、
やはり、そこはこの自然界だ。極楽などない。」


田中木叉上人は、

「十万億土」の「ど」とは、「次元」のこと、
「度」でもあり、周波数を合わせると認識できる
、とも。


記憶によりますこと、ご了承願います。

ある時のこと、弁栄聖者が「如来様が如来様が・・・」と、
如来様を真正面に拝んでおられるご様子をご覧になっていた鈴木憲栄上人は、
ふと、「これは、幻ではなかろうか」との疑念が一瞬過った刹那

聖者は、「いいえ、幻覚ではありませんよ。
如来様とこの自然界が両方とも見えていれば、幻覚ともいえるかもしれませんが、
如来様が拝まれている時には、この自然界は見えておりません。」
と。

蛇足になりますが、
「三昧定中」において、自然界は消えて無くなるのはなく、「隠没」する
したがって、三昧状態がとけると、自然界が再び現れてくる、と。

この弁栄聖者のご指摘には、大変感服いたしました。

また、如来の光明は、大自然界(自然界と心霊界の両界)に働いるが、その働き方は異なる。
自然界は間接的顕現心霊界(お浄土)は直接顕現、とのこと。


甚深なる三昧証入のお一人であった田中木叉上人も同様、

「乱れざる 一心凝りて 感性も理性も眠り 光る霊性」
(「じひの華つみうた」『光明歌集』)


と詠んでおられます。

このお歌の解説とも思われる田中木叉上人の秀逸なご法話があります。

「三昧は、「精神集中した」との形容詞と考えずに「集中しようとする」動詞と考えよ。
どこまでも不断の精進が大切である。」

「一心になれなくともよい。
一心になろうなろうとして、他の人の心を排斥して、
如来様に心を移す事をしていると、至誠天に通じて、先ず知覚神経が無くなる。
次に脳髄の働きが日が暮れるように薄れる。
天性と理性が皆働かなくなるので一時は暗くなるが、
暗くなってしまったところに霊性が燦爛として輝き出る。」

と、冨川茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』
に記されています。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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