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2013-05-25

「こんなふうだから確かめるまでの間は信じているより仕方がないのである。幸い上人の御人格といい御力量といい、この人のいうことは疑うほうがむずかしいのである。」(岡潔「まえがきー無辺光と人類」『弁栄聖者光明体系 無辺光』1969年講談社版)

「こんなふうだから確かめるまでの間は信じているより仕方がないのである。
幸い上人の御人格といい御力量といい、
この人のいうことは疑うほうがむずかしいのである。
学問も本当は信じるのであろう。仏教もこの辺までならば学問である。
ただ、信じやすさが違うだけである。」
(岡潔「まえがきー無辺光と人類」『弁栄聖者光明体系 無辺光』1969年講談社版)


前回、 前々回と「弁栄聖者の奇蹟」と思われる逸話を記事にしてきました。

数学者の岡潔博士は、
「田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』は、
現代人の理性に配慮し過ぎているところがある」と感想を述べられています。

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』でも、
現代人には十分奇蹟的であると思われますが、
弁栄聖者が顕現された事実談の中には、
まだまだ信じられないことがあるということです。

「学問も本当は信じるのであろう。仏教もこの辺までならば学問である。
ただ、信じやすさが違うだけである。」


最初に引用しました岡潔博士の実に鋭い指摘。

「新潟県柏崎の極楽寺の奥さん、籠島咲子夫人が、修行がうまく行かないので自殺しようとした。
如来さまのお告げでこれを知った上人、
上人は、三十里程隔たった群馬県の高崎に御巡錫しておられた。
(時は、夜中でありました。)
咲子夫人の枕辺に立って、

「仏憶いの光明を、胸に仏を種とせよ」

と七遍繰り返していって、そのまま帰って来た。」

岡潔博士がよく引用される弁栄聖者の奇蹟の一つです。

「三身四智の仏眼」に依る、弁栄聖者の「仏眼の意志活動」
如来妙観察智の働きで、身を分ちての衆生済度の一例。

観音菩薩が三十三身で表されることがあるのは、単なる比喩でなはく、この象徴かと思われます。

「完全な仏作仏行とは、
この地球上のみならず教化すべき衆生の住し得るあらゆる天体に
分身利物の霊的生活ができるようになって、
初めて全分度生の完全な仏作仏行といえます。(弁栄聖者の御教え)」
(笹本戒浄上人のご教示)


「弁栄聖者がここに寝ていらっしゃって、
浅草へ見舞に行って、羊羹を貰ってこられた。
お釈迦様が山にいながら空を飛んでイダイケ夫人の所へ現れ給うた。
分身利物の極なけむ。」身体を分けて、如来様の済度のお手伝いをする。」

「還来穢国」というのは、肉身で、赤ちゃんになって、生まれてくるのではない。
浄土に在って分身して他を導く。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』)


と、田中木叉上人もご法話では、このような聖者の奇蹟を話されています。


「大谷、大谷という声が聞こえたので、弁栄上人のお部屋を覗かれると、
上人はいらっしゃらず、そこには如来様がおられた。」

弁栄聖者はご高弟の一人大谷仙界上人に、このことは他言せぬように制せられた

これと似た聖者の逸話を木叉上人は、語られています。

「柴武三さんが疑いが晴れなかったときに、
弁栄聖者から、ほんのちょっと見せて頂いたので、理屈も何ももう要らなかった。」

「人に如来様やお浄土を見せてやれる能力を得た人が仏眼である。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』)



この他に、米粒に南無阿弥陀仏のお名号を書かれたり(米粒上人として知られていたようです)、
左右両手同時書きをされたり、さらに口でくわえて三つを同時書きをされたりと、
観自在菩薩のご境涯を彷彿とさせる自由自在な所作をされたことは、よく知られています。

ある時、まだ学生だった柴武三氏(後弁護士)と高橋猪久次氏(後検事)が、
弁栄聖者の随行をされていた時のこと。

聖者の御法話に参加される方に渡される予定の、
米粒に書かれた”「南無阿弥陀仏」の米粒名号”を準備されていました。

米粒にお名号を書かれる弁栄聖者、
それを紙に包む担当者。

お名号を書かれる聖者に、柴氏は教義の質疑をされましたが、
聖者は、柴氏の質問に答えられながらも、けっして筆を休めず、
しかも、その書かれるスピードが速く、紙に包む担当(複数人)が追い付けないほど。

しばらくして、「はい、これで、終わりました。これで六百になります」と。

驚いた随行の者が数えると確かに、きっかり六百。
そんなことはあるまいと、念のためもう一度数えると、やはりきっかりと六百。

弁栄聖者のこれらの奇蹟の逸話は、日常茶飯事であったようです。

これらの逸話に対し、
聖者の弟子の一人、熊野好月女史の観察が実に的確に本質を突かれ、とても素晴らしいので、
最後に引用します。

「世間の人は水の上を歩いたとか、お酒にかえたとか、手にふれて病気をなおしたとか、
こういう事を大へんな奇蹟として驚くがそれは大した事ではない、
それよりも悪の心を善心に立かえらせる。
これ程大きな奇蹟は外にない、と常々仰っていらっしゃいました。」


「お上人様を特別のお方、不思議なお方と見られておるようでした。
又実際、常人のなし得ない事も何でもないもののように仕てしまわれます。
時々は両手に筆をもち同時に異なった歌を書かれたり、
お米ひと粒に般若心経一巻を書かれたり、
それは人を驚かせる為でなく、如来様のお慈悲を知らせたさに、
口でいうだけではよりつかないので
何とかしてとのやるせない心から方便としてお用いになった。

(熊野好月著『さえらぬ光に遇いて』)


「仏様」と、私たちは軽々しく口にする傾向がありますが、
弁栄聖者を学んでいきますと、
「仏様」とは、実に超絶的な、ご霊格、御認識力、御力量をお持ちの方であることが、
はっきりと分かってきます。

このことも、弁栄聖者のご出世にかかわるありがたいことの一つかと思われます。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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