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2013-05-19

「一切の時一切の處、ただこれ佛作佛行、寸隙なきその御行状に接しては始め尊大に構へし人も皆恭敬して其の教に額(ぬかづ)かざるなく、諸宗は勿論耶蘇教の牧師に至るまで発心してその門に入る。」(田中木叉上人「弁栄聖者略伝」)

「一切の時一切の處、ただこれ佛作佛行、
寸隙なきその御行状に接しては
始め尊大に構へし人も皆恭敬して其の教に額(ぬかづ)かざるなく、
諸宗は勿論耶蘇教の牧師に至るまで発心してその門に入る。」
(田中木叉上人「弁栄聖者略伝」)


前回の記事弁栄聖者における「如来四大智慧」の発露についての最後で、

「奇蹟を否定するか軽視する者も、
奇蹟を過度に重視し、誇る者も、

どちらも、真の宗教家に非ず。」


と、私の確信を記しました。

その最大の根拠となっているのは、
弁栄聖者の御生涯の在り方そのままです。

「宗教家は奇蹟を現わさなくてはつまりません。
釈尊のお弟子でも多くの人が釈尊の教理に服して入道したのではなく、
釈尊の奇蹟に驚嘆してお弟子になっております」。
また、
予言ができるとか、病気がなおるとか、
そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。
凡夫が仏になる。これほど大きい奇蹟がまたとありましょう」。

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

「宗教家の奇蹟」について、
これほどまでに明瞭に自覚し、
しかも、現実に、常時、「奇蹟」を行える実力を持ち
また、それらの「奇蹟」が衆生済度を真の目的とし、
さらには、それらが史実としての信憑性を確信できる人物は、
弁栄聖者の他には、ほとんど見出すことが困難であるように思われます。

「奇蹟を否定する者」は、図らずも、自身の「宗教体験の浅さ」を露呈し、
「奇蹟を軽視する者」は、図らずも、自身の「衆生済度への怠惰さ」を露呈し、
「奇蹟を過度に誇る者」は、図らずも、自身の「傲慢さ」を露呈し、
「奇蹟を過度に重視する者」は、図らずも、自身の「宗教的理想の低さ」を露呈してしまう。

新興宗教、あるいは、「小さな神々」と仰がれている教祖の顕される「奇蹟」を、
私は認めない者ではありません。

しかし、それらは、今述べた要素のどれか一部にあてはまり、
全てを網羅する宗教家は、現在のところ、弁栄聖者の他には私は存じ上げません。

また、これらの要素は、「真の宗教家」を判定する簡便法として、便利かとも思われます。

弁栄聖者を学んでいて、
「真の宗教家」の決定的に重要な要素としては、

「如来平等性智」に依る「自我の空化」に伴う「無欲さ」
と対をなす「気品漂う霊格の高さ」といった雰囲気と、
「如来平等性智」の「自他不二」の境界に住することに依る
「懐かしみを伴った何ともいえぬ慕わしさ」

これらも大変重要であるように思われます。

弁栄聖者は、私達から見れば、驚嘆すべき「奇蹟」を数々行っておりますが、
何もあからさまなものばかりではなく、

いわば、弁栄聖者の日常生活における一挙手一投足が「如来四大智慧」に依る奇蹟でもありました。

例えば、「如来成所作智」による智慧の発露

「法身如来成所作智」は、所作に働いています。

弁栄聖者や山本空外上人の書画に、私たちが感化されるのも、
「法身如来成所作智」の智慧の発露に依るもの。

弁栄聖者の在家の直弟子に中井常次郎という大学の先生がいました。

友人でもあった医師の恒村夏山夫妻に誘われ、
いやいや弁栄聖者の説法を聴きに行かれた時のこと。

「弁栄聖者のお室に通され、しばし待つほどに、
聖者がほどなく襖を開けて入って来られた。
聖者に頭を垂れていて、まだ、弁栄聖者のお顔を拝むことができなかったが、
おくんのすそのさばきいとしとやかに
我等の前にお座りになったのを見ただけで、はや<はやくも>霊感に打たれた。」

その後、科学者であった中井常次郎氏は、
長年の宗教に関する疑問を弁栄聖者によって解決し、
弁栄聖者の弟子になられました。

と中井常次郎氏は、『乳房のひととせ 上巻』に記されています。

また、弁栄聖者の歳晩年の直弟子の一人、鈴木憲栄上人は、
お名号に礼拝する聖者の姿を見られた時、
今までの講師達方との礼拝とは明らかに異なり、
「弁栄上人は、そこに、生きた如来様を拝んでいらっしゃる」
と確信し、
弁栄上人への信が芽生えたと言っておられたようです。


また、私が特に不思議でもあり、感銘を受ける点は、
笹本戒浄上人、田中木叉上人といった弁栄聖者のご高弟がいづれも、
弁栄聖者に対しては、「無私」であること。

これは、「弁栄聖者の奇蹟」を目の当たりしたことが根幹にあり、
「弁栄聖者を仏として、仰がれた」
からであるとしか私には思えません。

イエスキリストとその使徒との関係を彷彿とさせます。

「如来四大智慧」である『無辺光』は、
自然界にも心霊界にも絶えず働き続けています。
その「如来四大智慧」を十全に体得した時、
その余光して自ずと発現した結果が、私達には「奇蹟」と映る
ように思えます。

今回の記事の最後に、「笹本戒浄上人」「田中木叉上人」に関する逸話を一つ。

弁栄聖者のご遷化の後、戒浄上人と木叉上人のお二人は、「仏眼」を体得されておられます。

逆に言えば、聖者ご存命中は、「三身四智の弁栄聖者の真相」は認識できていなかったはずです。

柴武三氏の思い出話に、次のような印象深いお二人の逸話があるようです。

戒浄上人と木叉上人のお二だけは、
聖者のお室には入らず、そのお部屋の外から、
弁栄聖者に何も語らず、ただ頭を下げて、いつも帰っていかれたそうです。

弁栄聖者に対する、笹本戒浄上人と田中木叉上人のお二人の態度を、
柴氏は大変奇異に感じられ、お二人にその理由を尋ねたところ、
笹本戒浄上人が、一言。

「こちらから、言葉に出して問わないと応えられないようでは、
その方を「覚者」とは申せません。」
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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