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2013-04-14

「成り行きの奥に導く慈悲のみ手 よかれあしかれ やがて良くなる」(田中木叉上人作詞「じひの華つみうた」『光明歌集』)

田中木叉上人の御法話の魅力は、
宗教的な内容の話しを抜きにしても、
「有益な実生活の智慧が頂ける」ことが挙げられるかと思われます。

木叉上人は、御法話の中で、
栂尾の明恵(みょうえ)上人の逸話を話されたことがありました。

明恵上人とは、鎌倉時代に活躍された「華厳宗中興の祖」。
また、法然上人を『摧邪輪』等で批判されたことでも知られる名僧。

明恵上人御在世中に、鹿がお寺の庭を荒らしたので、
どうしたらよいかと、明恵上人に弟子が相談された時、

明恵上人は、「鹿を撃て」とその弟子に命じました。

それを聞いた弟子は、明恵上人にはあるまじき無慈悲なこと、
とその真意が理解しがたく、明恵上人に尋ねました。

もちろん、実際に鹿を撃って殺生せよ、と命じたわけではありません。

「鹿に向けて銃を発することにより、
鹿は人間を恐れ、人間の傍に現われなくなる。
今回は寺の庭だからよかったものの、
今度、村の畑に現われたら、村人に生け捕りにされ、殺されてしまうだろう。
それを防ぐために、「鹿を撃て」と命じたのである。」

と明恵上人は、そのお弟子に諭されたそうです。

田中木叉上人は、

「光をつけてものを見よ。ものみなすべて意味がある。」

とよく説かれ、

人生に不可欠な智慧として、先見の明、判断の明の他に、

「透見の明」を強調されました。

「事実」には、「現実と真実」の二面があり、

「現実」のもう一つ奥の真相を見抜く眼力が、「透見の明」である、と。

仏教では「因果応報、自業自得」を説きますが、

実際には、「因」→「縁」→「果」と、
「縁」が大きな働きを果たしており
これらの関係は、実際には、重々無尽の連鎖となっており、
単純な一対一対応の「因果関係」では解明不可能で、
むしろ、「目的論的」に考えた方がより有益な場合が多い
ようにも思われます。

弁栄聖者の衆生済度の在り方、田中木叉上人の御法話を読んでいますと、
一般の読者にも根強い支持のある「河合隼雄」氏が想い出されることが多いです。

これは偶然ではなく、必然なのだと思います。

河合隼雄氏は、ご案内のとおり、
日本への「ユング心理学」の紹介者にして、
また、日本に心理療法を普及させた大功労者。

どちらも、「机上の学問」ではなく、
実践活動として「自己実現」に取り組んでいたことが通底しているからです。

河合隼雄氏の、日本人として、心理療法における唯一の師は、明恵上人であり、
『明恵 夢を生きる』という示唆に富む著書を著わしています。

以前、 弁栄聖者と明恵上人」について記事にしました ので、
ご興味のある方は、お読みください。

私は、弁栄教学の理解には、井筒俊彦氏の著作が、
弁栄聖者の衆生済度の在り方の理解には、河合隼雄氏の著作が有益である、
と常々感じてきました。

なお、弁栄聖者にも若い頃から注目されこられた気鋭の評論家若松英輔氏は、
近著『井筒俊彦ー叡知の哲学』の中で、
河合隼雄氏と井筒俊彦氏との関係、「思想家としての河合隼雄」に着目されています。

河合氏は、心理臨床の実践の中で、

重々無尽の不可思議な「縁」の醸成過程とその果たす役割、つまり、

「布置(コンステレーション)」と「共時性」

の現象とその意義に、早くから気付き、しかも、

「主体者の意識の在り様が、極めて重要な役割を果たしていること」

に直に気づかれ、それらを、心理臨床の実践活動に生かしてこられ、

更に興味深いことに、晩年には、井筒俊彦氏との出会いにより、
ご自身の心理療法観の確立に、多大な影響を受けています。

もちろん、河合氏は、心理臨床家であり、宗教家ではないので、
絶対者である神や仏は、説きませんが、
その実践活動は、宗教的と言ってよい側面が濃厚であるようにも思われます。

絶対者である神や仏は、

「縁」をとおして、衆生に働きかける。

これが、「墓場まで持っていかれた」河合隼雄氏の歳晩年の思想の「核心」であり、

河合氏が最晩年関心を寄せていた華厳で説かれる「事々無礙法界」の深層であり、真相であろうかと。

また、河合隼雄氏の叡智、洞察は、
通常流布している「自己実現」とは「自我実現」の場合がほとんどで、
「自己実現」と「自我実現」を区別し、
「自己実現」は、「自我」にとってはマイナスという形で突き付けられる場合が多いと。

したがって、「自己実現」においては、その事態の「意味を考える」ことが不可避となり、
その際、「因果論的思考」よりも、「目的論的思考」がより重要になると。

先にご紹介しました田中木叉上人の御教えを、ここでまた、再掲します。

「光をつけてものを見よ。ものみなすべて意味がある。」

「現実」のもう一つ奥の真相を見抜く眼力が、「透見の明」と。

この捉え方は、心理臨床、宗教を問わず、
人生を生きる処世観としても、とても有益な思考法かと思われます。


また、田中木叉上人は、御法話の中で、

失意泰然(たいぜん) 得意澹然(たんぜん)
有事暫然(ざんぜん) 無事澄然(ちょうぜん)


と、味わい深い生活の智慧、処世訓でもある『六然訓』の一部を引用されています。

参考文献冨川茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』・重住茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』、
田中木叉上人作詞『光明歌集』
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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