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2013-02-17

「すきとおり尽十方はただ光 是ぞ我かもこれ心かも」(田中木叉上人作詞「じひの華つみうた(三) 光にとけて」『光明歌集』)

「白隠展」(~2013年2月24日 渋谷・東横本店横 Bunkamura ザ・ミュージアム)を観てから、
「禅と念仏」への関心が再燃したようです。

「白隠展」を観ての感想は、こちら。

弁栄聖者の直弟子、信者方の中で、
聖者ご提唱の「光明主義念仏」のみで、
深い悟り「仏眼」を得られ、しかも、まとまった文章等が遺されている方は、
田中木叉上人をおいて他にいません。

(注)「光明主義念仏」といっても、もちろん、念仏に違いがあるわけではありませんが、
念仏を唱える際の「心のかけ方」に違いがあるだけです。
しかし、この「心のかけ方」が、決定的に重要と云われています。
ただ、このことは、弁栄聖者の我見、独創では決してなく、
釈尊、善導大師、法然上人の真精神を、聖者が「開顕された」に過ぎません。

もちろん、聖者の直弟子の中で笹本戒浄上人は、
念仏に拠って「仏眼」を得られましたが、
聖者に出遭われる前に、既に、「見性体験」がありました。

弁栄聖者ご自身もお若い頃、「華厳法界観」を成就されていますので、
ある信者が問われました。

「私たちも弁栄上人のように、華厳の修行をする必要がありますか?」と。

聖者はその疑問に対し、

「いいえ、その必要はありません。念仏のみでよろしいです。」

と、キッパリと自信を持って、お答えになっています。

「すきとおり尽十方はただ光 是ぞ我かもこれ心かも」
(田中木叉上人作詞「じひの華つみうた(三) 光にとけて」『光明歌集』)


この木叉上人のご道詠、
意外に感じられるかもしれませんが、
もちろん、念仏者のものです。

さらに、

「斯の心 身の内のみか満天地 見ゆる所に見る心かも」
(田中木叉上人作詞「じひの華つみうた(三) 光にとけて」『光明歌集』)


とも詠まれています。

禅の悟り「見性体験」=「慧眼」を、
こんなふうに詠まれると、何か伝わるものがありませんか。

もちろん、「仏を念(縁)ずる」念仏ですから、
「慧眼」の他、心霊差別現象を認識する「法眼」も開かせていただけます。

「ああ尊とああ〈 尊とああ尊と 輝き給う大ミオヤ様」
(田中木叉上人作詞「じひの華つみうた(三) 光にとけて」『光明歌集』)


笹本戒浄上人は、

「白隠禅師は晩年は念仏をされていました。
そこまでいく禅者は宗教的天才に限ります。」


とご指摘されました。

前回記事にした後、多少補足する必要があると思いました。

「仏眼は慧眼と法眼とを統一し双照す。」
(「成所作智」『弁栄聖者光明体系 無辺光』 )


「慧眼」も「法眼」も、まだ道中、
「慧眼と法眼とは、背面相翻の状態」、
時を異にして交互にお育てを被っている状態で、
大ミオヤの部分的真理認識の段階。


禅などのように、霊相等を否定してもそれが自ずと顕現してくるのは、
その現象が「魔」などでは決してなく、

「慧眼満位になると自ずと法眼が開ける。」

これが、厳然たる「心霊差別現象を規定している大ミオヤの法則」です。

「見性体験」=「慧眼」といっても、
本当は、真実は、自力で開けるものではなく、
「如来平等性智」に依って、開かせていただいているのですが、
自力の観念が強過ぎるため、この事実になかなか気付けない状態。

神・仏の実態、真実は、
言わずもがなですが、「人間の信念に左右されるものでは決してない」
神仏観が、宗教、宗派等により異なるのは、
「人間の側の、神仏認識の深浅に依る」


と断言してよいように思われます。

弁栄聖者の実地体験に依りますと、
「仏眼の境涯」にも、更に無尽の深さがあると云うのです。

田中木叉上人は、「慧眼」形式面での合一では得られない、
「法眼」、「仏眼」による内容面での融合の実態のほんのさわりを、
分かりやすく文章に遺してくださいました。

「この三世十方をつらぬく ハッキリさも勿論ありがたいが、
それだけではなく、更に更に有難いことは、
大悲大慈の光明顕赫たる大御親様が現前ましまして下さる時がある、
着物に過ぎぬ この身体の命終の時もそうであるが、
命終でない平素の念仏三昧中に現前ましまして、
その分、その分に応じて、
大御親様の内容にそなえ給う万徳の一部一部を、
ひれ伏し拝む心に、与え下さる、それが一ばん大切な、ありがたい、
辱けない、もったいない、感応同交の願わしさである。」
(藤堂俊章編『田中木叉上人遺文集』)


弁栄聖者は、「開示悟入」の入の位である「三身四智の仏眼」
その究極である「認識的一切智の境涯」を、
『無量光寿』に、さらっと開顕されています。

「すでに証得したる無量光は尽十方の空間を尽したる霊体と合一したるも、
已後の無量光は、数量に於て、
若くは色法心法一切の万法に於て無量無辺なり。
この無量の法には各其自性の理を有す。
一切の無量の事々物々の真理を悟るを事の無量光と云う。
無量は一切万法に名け光明は万法を悟る智慧に名く。
智慧に真理を認識する智と又実行を照す智慧とあり。
この両面に在りて照す処の智慧を云う。
寿とは生活々動の義または実地の行為の義なり。
即ち光明の中に仏行永遠無窮に行うを無量光寿と云う。」
(『弁栄聖者光明体系 無量光寿』)


霊体との形式的同一は、「理の無量光」=「無生忍」の境涯であり、

「此に於て能事終れりと謂うは甚だ誤謬なり。」とし、

釈尊の甚深なるお悟りである「開示悟入」の入の位、
「無生法忍」の境涯である「三身四智の仏眼」、
その究極である「認識的一切智の境涯」=「事の無量光」を、
開顕されました。

私が、大悟徹底された念仏者である弁栄聖者に関心があり、
尊崇してやまないのは、
弁栄聖者の「宗教体験、神仏観、神仏認識」の甚深さにあり、
それを著作に遺された方が、ほとんど絶無に近いと思われるからです。

今回は、かなり長くなりましたが、

最後に、弁栄聖者によって直観された、
大乗仏陀釈尊、晩年の法然上人のお悟りの内容が、
『宗祖の皮髄』に記述されておりますので、
それを記して終わりたいと思います。

「自性は十方法界を包めども中心に厳臨し玉ふ霊的人格の威神と慈愛とを仰ぐもあり。
真空に偏せず妙有に執せず、
中道に在て円かに照らす智慧の光と慈愛の熱とありて、
真善微妙の霊天地に神を栖し遊ばすは、
是れ大乗仏陀釈迦の三昧、又我宗祖の入神の処なりとす。」
(山崎弁栄上人述『宗祖の皮髄』)
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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