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2013-01-19

「慧眼・法眼のどちらかが頂けても、我が子や店員がこちらの言う事を余程よく聞くようになる。」(冨川茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』)

この言葉の後には、

「・・・愛情を通して、もって行くと、
こちらの言う事をよく聞くようになる。
・・・普通は、相手を道具にしている。
相手に念が通じる。
自分と人とは、日本とアメリカが地底でつながっているように、
つながっている。それが、「同体」です。
相手の喜びをこちらが喜ぶのが「大悲」です。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』)


と、木叉上人は、ご説法されています。

弁栄聖者は、「同体大悲」に「おもいやり」とルビを振っておられます。

田中木叉上人は「同体大悲(おもいやり)」の実行の前提として、

「慧眼・法眼のどちらかが頂けても、・・・」と前置きされていることは、
見落としてならない決定的に重要な点です。

「おもいやり」は、重要な徳目の一つですが、
私たちの理性的、意志的努力だけでは、
それを全うすることは、原理的に不可能だからです。

何故なら、

私達には、「自他弁別本能」(岡潔博士命名)という、
「根本無明」が自ずと備わっている
からです。

『法華経』に、「一切衆生は、皆我が子なり」という有名な句がありますが、
「同体大悲(おもいやり)」の実行の前提として、
このお悟り、認識を得ていることが必須
です。

「慧眼」・「法眼」の境涯では、
「同体大悲(おもいやり)」を全うすることは、まだ不可能
です。

「根本無明」が、まだ霊化しきれておらず、
「自他弁別本能」が残っているためです。

岡潔博士が、 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』を読まれて、
一番驚嘆するのは、
弁栄聖者の「無私、私心の無さのその徹底さ」です。

弁栄聖者が、「三身四智の仏眼」のご境涯におられていたことの証左の一つです。

「(弁栄)上人は
「知識(みちびくひと)は月を指す指です。
月さえ見れば指に要はない。
とかく月を忘れて指に眼をつける、月に目をつけねばなりませぬ」と。」
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』 )


この訓戒は、とても重要なご指南ですが、

また、同時に、忘れてはならない点は、

弁栄聖者に顕現されていた大ミオヤ(親様)の霊的風光です。

以前極めて大事なことですので、記事にもしましたが、
聖者は、ご説法が上手ではありませんでした
 。

つまり、巧みな話術によって、
相手を惹き付けたわけではなかったのだと推察されます。

聖者ご在世中の弟子、信者方は、
その聖者の霊気に触れ、
お慕いし、懐かしみ、畏敬し、また、憧憬したのだと思われます。

「法尊しと云えども、法は人に依りてこそ、伝わる。」

これも、厳然とした真理です。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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