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2012-11-10

「仏眼が開けたら、一応、安心してよい。」(弁栄聖者)

以前、弁栄聖者作「念仏七覚支」の記事を書きました。

その中で、「定覚支」を仏眼の境涯、「不退転位」であると、記しましたが、
この点は、おそらく、弁栄聖者によって初めて明言された事実で、
極めて大切だと思われますので、もう少し詳しく追記したいと思います。

笹本戒浄上人のお弟子筋にあたる方に、能見寿作という方がおられました。

戒浄上人から、「能見さんなら構いませんよ」と『真実の自己』の筆記を特別に許され、
また、田中木叉上人から「般若道人」という号を与えられた方でもあり、
光明会本部聖堂出版の『光明主義入門講座』の筆者としても知られています。

その能見氏が、

「光明会の方は、弁栄聖者の御教えを軽く考えている方が多いように見受けられる。
例えば、七覚支の最初の『択法覚支』。
この境涯は、普通考えられている以上に、高い修行段階である。
多くの方々は、五根五力の修行を行きつ戻りつしていることがほとんどである。」


と、こんなことを語られたことがあったようです。

確かにこれは、弁栄聖者の御教えを学ぶ者にとって、
耳が痛い忠告であり、深く心に留め置くべき「訓戒」だと思われます。

といいますのは、弁栄聖者の御教えを学んでいきますと、
他の宗教で説かれている境涯の程度がよく見えてきて、
弁栄聖者の御教えの「絶対的優位性」を、早晩認識してしまうからです。

また、数学者の岡潔博士は、笹本戒浄上人の優れた点として、
何点かを挙げられていましたが、
(お悟りの深さは言うまでもありませんが)、
その内の一つは、成仏の暁まで霊育過程を明示した点を挙げられていました。

あるいは、この様な高い境涯は、自分にはまだ早過ぎる、
と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
初めから最終目的を知ることはやはり必要不可欠であり、
また、「破邪」の点からも必要であると思われます。

前置きが長くなりましたが、
「定覚支」を仏眼の境涯、「不退転位」についてです。

法然門下でも鎮西派では、「三昧発得」を念仏の目的として掲げているようです。

笹本戒浄上人は、二祖鎮西上人が「三昧発得」と言われているご境涯を、
弁栄聖者の七覚支でいえば、「喜覚支」である、
と明言されています。

それはそれとして、何故、「定覚支」の仏眼の境涯を「不退転位」というのでしょうか。

私は、しばらく疑問に思っていました。

その疑問を晴らしていただいたのが、杉田善孝上人でした。

「定覚支以前の境涯では、まだ、慢心の心、天狗の心、その煩悩がとれていない。
したがって、退転する危険がある。
その慢心の根が断たれるのが、定覚支、初歩の仏眼の境涯である」
、と。

三身四智聖者であられた善導大師の金言に、

「所見の境界人に語るを得ざれ」

と、訓戒されています。

「慢の元」となるからです。

最後に一つ。

弁栄聖者のこの御言葉を注意して読みますと、

仏眼が開けたら、「一応、安心してよい」。

と仰られています。つまり、

この極めて高い「定覚支」の仏眼の境涯でさえ、「不退転位」ではありますが、
まだ、終局ではない、


ということです。

そこで、笹本戒浄上人は、より厳密に、「初歩の仏眼」とお示しになっていらっしゃいます。

遥か彼方な境涯である「仏眼」にも、まだ悟りの深まりの段階があるというのです。

弁栄聖者の「七覚支」とは、上述のような含蓄があるのです。
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Re: 七覚支とクンダリニーの類似性

ご丁寧なクンダリニーの解説ありがとうざいます。

修行の段階とそれに対応する心身の変化を説いているところ、
興味深いです。

類似した悟りの内容でも、言葉、文化の違いによって、
表現方法が違いますので、その点に注意が必要ですよね。

七覚支とクンダリニーの類似性

七覚支とクンダリニーの説明には、類似性があるように思われる。

「ヨーガについての論考を書いた偉大な賢者たちが、各個人が過去世および現世の過去の生活の中で行われた心の変容が、肉体上の対応器官を通して自ずからほとばしり出るあの偉大な衝動力に、クンダリニーという名をつけたのである。束縛下にある人間にあっては、それはまだ完全に眠った未発現の状態にあるのだとヨーギ―は言う。それだから、とぐろを巻いていると呼ばれているのだ。記憶、想像等々のような心の働きは、とぐろを巻いた衝動力が、この眠った状態にあるままで可能となっているのである。もし、何らかの方法で、それが完全に目覚めるなら、すなわち完全に発現するなら、それは人に無限の知識を与え、それによって彼を神の直接のヴィジョンに導く。」(生涯p448)

(一)
聖ラーマクリシュナ
「ヴェーダにはブラフマン智の修行者のいろいろな段階が説明してある。あの道は智慧の道でね、大へん難しい道だ。世間並みの気持ち、つまり女と金にほんのすこしでも執着が残っていたら真の智慧は得られない。この道はカリユガ(現代)には適当じゃない。

これについて、ヴェーダには七住地ということで説明してある。この七つの段階は心のいる場所だ。

世間のことだけに心がかまけている間は、生殖器と排泄器とヘソが心の住地(すみか)だ。

心の四番目の住地は心臓。ここではじめて霊的に目覚める。そして四方に光を見る。天界の光を見て感動して、”すばらしい!””すばらしい!”と言っている。そうなると、もう下の方には関心がなくなる。

心の五番目の住地は喉。心が喉まで上がると、もう無智も無明も皆消えて、神様のことよりほか、どんな話も聞いたりしゃべったりするのがいやになる。もし、誰かがつまらぬ話でも始めると、その場を外してしまう。

心の第六番目の住地は額(ひたい)だ。心がそこにいくと、昼も夜も神様の姿を見るようになる。でもまだ、少し”私”が残っている。その人はその何とも喩えようもない色相(すがた)を見て、気違いのようになってその姿に触って抱きつこうとするのだが、できないんだよ。ちょうどランタンの中に灯があって、この光にすぐ触れそうに思っても、ガラスの板があるからじかに触ることができないようなもの。

頭のてっぺんに七番目の住地がある。そこに心がいくとサマーディー(三昧)になって、ブラフマン智の修行者はブラフマンを直接に見るのだ。だが、その状態では肉体はもう長く保(も)たない。すべて外界というものを意識しなくなって、何も食べられなくなり、口にミルクを流し込んでやっても皆こぼれ出てしまう。この住地に留まっていると二十一日で肉体は死ぬ。これはブラフマン智行者の話だよ。

あんた方のは信仰の道だ。たいそう結構な道だし、それに楽だ。」(不滅の言葉p303)

(二)
とぐろを巻いた力がスシュムナー管を通って上昇する間に各々のチャクラで得るヴィジョンについて、師はよくこうおっしゃた。

「ヴェーダーンタは、七つの段階を説く。これらの段階での経験はそれぞれに異なる。心は通常、一番下の三つの段階の間を上ったり下りたりしているのだ。その注意は肛門、生殖器、および臍にーーー食べること、着ること、交接、およびその類のことにーーー集中されている。

それでももし、たまたまそれがこの三つを超えて(4)ハートに達するようなことがあれば、その人は光のヴィジョンを得る、しかし、心は時折はハートまで昇るが、また下の三つの段階の方に戻ってくる。

もし心が(5)喉まで昇れば、その人は世俗的な話題については一切話すことができなくなる。神のことしか話さないだろう。

あの頃には私は、誰かが世俗的な問題について話すと棒で頭を打たれたように感じ、そういう話を聞かなくても済むパンチャヴァティーに逃げて行ったものだった。世俗的な人々の姿を見ると怖くなって身を隠した。身内の人々は私には、自分を深い落とし穴に突き落とそうとしている敵のように見えた。ひとたびその穴に落ちたら二度と這い上げれないかのように感じられるのだ。息が詰まるようで、今にも死にそうに思われた。彼らから逃げて、初めて平安を感じた。

心は、たとい喉まで達しても、また肛門や生殖器や臍の位置まで降りて来るかもしれない。人はそうなっても、十分に注意しなければならないのだ。

しかし、もし心が(6)眉と眉の間まで到達したなら、その人はもう堕落を恐れる必要はない。そのときには、彼は至高の自己の直接の知識を得て引き続きサマーディに留まる。このチャクラと大脳中の千弁の蓮華(注)、つまりサハスラーラとの間には、ガラスのように透明な一枚の幕があるだけだ。至高の<自己>はそのときごく近くに感じられ、修行者は<彼>に融合したかのように感じるのである。しかし合一はまだだ。もし心がここから降りるとしても、それはせいぜい喉かハートの部位までしか降りない。それより下には降りられない。

ジーヴァ・コーティ(普通の魂)はこの段階より下には決して降りて来ない。二十一日間続けてサマーディーにあったのち、この幕は破られて、<彼>と自我との合一が完成する。(7)サハスラーラの中の至高の自己と完全に融合することを、第七の段階に達したというのである。」

(注1)各々のチャクラには、弁の色と数の異なる「蓮」がある。(生涯p452)
(注2)(4)~(7)の付番は、便宜上付けた。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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