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2012-10-27

弁栄聖者作「念仏七覚支」

      ちゃくほうかくし
(一)択法覚支
みおや  しんじきしこん
弥陀の身色紫金にて

円光徹照したまへる 
          みすがた          
端正無比の相好を
みな
聖名を通して念ほえよ
すべて みだるるこころ         
総の雑念乱想をば
ひら  ひたすらみほとけ  
排きて一向如来に      
こころ うつ 
神を遷して念ずれば

便はち三昧成ずべし  


      しょうじんかくし
(二)精進覚支
しょうしょう みな
声々御名を称へては

慈悲の光を仰ぐべし 
                      
身心弥陀を称念し
ゆみょう
勇猛に励み勉めかし

金剛石も磨きなば

日光反映するが如と
さまや   こころ
三摩耶に神を凝しなば

弥陀の光は輝かん


      きかくし
(三)喜 覚 支
ひと   みおや                   
偏へに仏を見まほしく
      なさけ
愛慕の情いと深く
しんめい                       
身命惜まず念ずれば
      みおや
即はち弥陀は現はれん

念々仏を念じなば

慈悲の光にもよほされ
きよき       とけあ
霊きめぐみに融合うて

歓喜極なく覚ほゆれ


     きょうあんかくし
(四)軽安覚支
みな   こころ
御名に精神はさそはれて

心念ます〈 至微に入り

三昧純熟する時は
ほがらか
清朗にして不思議なり
                      
我等が業障ふかき身も
      みむね
慈悲の聖意にとけあうて

身心あるを覚ほえで

定中安きを感ずなれ


       じょうかくし
(五)定 覚 支
みおや
弥陀に心をうつせみの

もぬけ果たる声きよく
さまやのおく
三昧正受に入りぬれば
こころはきよみ
神気融液不思議なり
            み                
慈悲のみ顔を覩まつれば
      さわり
尽ての障礙も除こりぬ

入我我入の霊感に

聖き心によみがへる


       しゃかくし
(六)捨 覚 支

絶対無限の光明の

中に安住するときは
              さな       
此処に居ながら宛がらに
こころ        す
神は浄土に栖み遊ぶ

夜な〈 仏と共に寝ね

朝な〈 も共に起き
たちいおきふし
立居起臥添まして
しばし
須臾も離るゝことぞなき


       ねんかくし
(七)念 覚 支
めぐみ                     
霊寵に染みし我心
   こずえ
秋の梢のたぐひかも
みむね                   
聖旨の光に霊化せば
さかえ
光栄あらわす身とぞなる
みむね
聖旨を意とするときは

八億四千の念々も

みな仏心とふさはしく

仏子の徳はそなはるれ


今回は、弁栄聖者ご創作の「念仏七覚支」をご紹介します。

ルビを振りましたのには理由があります。
以前にもご指摘しましたが、
聖者のルビの振り方には、注意を要します。
なかなか深意があるように思われます。

この「念仏七覚支」は、聖者の自内証の甚深なるご体験から、
紡ぎ出された御歌です。

仏教に詳しい方は、
「七覚支」の順番が、従来のものと異なることに疑問を持たれるかもしれません。
私も現在研究中で、まだ明確なことは言えません。

「七覚支」の順番もさることながら、
やはり、そこに盛られている内容には驚嘆すべきものがあるように思われます。

詳しい内容に立ち入るには、現在の私は学行ともあまりにも非力ですので、
今まで私が聞き知ったことで、ご参考になると思われることを、
いくつかご紹介するにとどめたいと思います。

〇悟りには、無限の深まりがあること。

〇悟りは、心身を包含した領域に影響を与えること。

〇(三)喜覚支よりも(四)軽安覚支の方が深いこと。
喜びには、身体性が、まだ付随するためでしょうか。
法然上人の道詠に、
「阿みた仏と心はにしにうつせみの もぬけはてたるゑそすゝしき」
と詠われています。
河波昌氏は、「空」体験の、日本人独特の見事な感覚的表現であると指摘されています。

〇無明、煩悩は霊化され、六根清浄となることが宗教の重要な眼目の一つであること。

(五)定覚支が、決定的な転換点のようです。
仏眼の境涯と言われています。
弁栄聖者は、「仏眼を得たら、ひとまずほっとしてよい」とおっしゃられたようです。
「念不退転位」のようです。
ということは、慧眼、法眼の境涯では、まだ、退転する危険があるということです。

また、この(五)定覚支において、
「慈悲のみ顔を覩まつれば  尽ての障礙も除こりぬ」と詠われていますが、
厳密には、入の位の仏眼である三身四智の仏眼に至って、
「一切の身意が仏化せられた状態」となる
と聖者は言われています。
なお、仏眼といえども、更なる深まりがある と、弁栄聖者は明言されています。
私たちの無明、煩悩とは、それほど根深いもののようです。
したがって、ある程度のお悟りを得られた方々に煩悩の臭気を察知しても、
何ら驚くにあたらないことが、弁栄聖者のご指摘によって、ご納得されるかと思います。

〇(六)捨覚支を読まれ、こんなことがあるのかと疑問を持たれるかもしれません。
弁栄聖者の逸話をご紹介します。
聖者の寝室から、深夜、念仏の声が聞こえて来るので訝しがり、
お弟子が寝室を覗くと聖者はすやすやと眠っておられる、
そんなことが何回か繰り返されたということがあったようです。
寝息までもが念仏となっていたようです。

最後に、弁栄聖者の修行上の際だった特徴でもある「見仏」、「霊恋」について。

「念仏七覚支」の最初が、「択法覚支」。

修行において、「念を何処に置くべきか」は、決定的に重要であり、
それが、修行の方向性をほぼ決定する、
と言っても言い過ぎではないでしょう。

”大ミオヤの御姿を念じること"が、弁栄聖者の眼目となっており、
この信念は、成仏へと直結しているようです。

笹本戒浄上人が強調された「直線道」とは、
この「信念の変更を要しない」という、
弁栄聖者の修行論の本質をご指摘されたものと推察されます。

また、聖者の修行論は、善導大師を彷彿とさせるものがあります。

弁栄聖者の修行論は、むしろ、
法然上人の唯一の師であった善導大師に直結しているような気がしています。

このことの深意は、私などの思量を遥かに超えていることですが、
根本的なことは、やはり、仏身論からきていると思われますが、
また、弁栄聖者が「霊格の形成」を最大の眼目に置かれていたためだとも推察いたします。

そもそも「無相法身」、「空」を最終目的、最終根底とする修行方法で、
人間の色身を持つ衆生に、
人格円満な「霊格の形成」が、果たして可能であろうか?

果たして、「無始の無明」が、霊化されるであろうか?

これが私の一貫した疑問であり、最大の関心事でもあります。

【参考文献】
弁栄聖者作『如来光明礼拝儀』
弁栄聖者講述『宗祖の皮髄』
山本空外著『弁栄聖者の人格と宗教』
河波昌著『如来光明礼拝儀講座』

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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