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2012-09-17

「生けらば念仏の功積り、死ならば浄土へ参りなん。とてもかくてもこの身には、思い患うことぞなきと思いぬれば、死生ともに患い無し」(法然上人「つねに仰せられける詞」)


法然上人の御言葉には、注意を要する必要がある、
と思うことがあります。

この言葉もその一つで、
字義どおりそのままに意味を受け取れば、

「浄土へ参る、つまり、往生は死後のこと」

と受け取るのが自然だと思われます。

しかし、『三昧発得記』に記されているように、
晩年に、法然上人が安住されていた御境涯は果たしてそうでしょうか。

「平生から、生死の境界が超えられている」

としか思えません。

したがって、「死ならば浄土へ参りなん。」とは、

肉体が死した後に、「実在的に浄土が顕現してくる」

と意味を受け取る方が、法然上人の御境涯に沿う解釈かと思われます。

この「平生から、生死の境界を超えた境涯」

これは、私達が心底から望む「理想の一様態」だと思います。


なお、

「生けらば念仏の功つもり」/功をつみではない。
(重住茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)


うっかりすると、
念仏の功を「つんでいる」つもりでいる時があるように思われますが、
「念仏の功つもり」の深意を、さらりとご指摘される慧眼、
さすが、念仏の達人、田中木叉上人だと感嘆いたしました。
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Re: 念仏と往生について(3)

罪をおかさないように、

「神に、何度でも誓う」。

「罪と神への祈りの関係」への深い洞察に、
感銘を受けました。



念仏と往生について(3)

(答2)「象に行水をつかわせても無駄だ。すぐまた、泥まみれになってしまうからね! だから、象舎(こや)につなぐ前に汚れを落として行水をさせれば、体はきれいなままでいる。

 称名をすれば身も心も清められる。だが、その後で、いろんな罪深いことをするかもしれない。意志が弱からね、みんな。もう二度と悪いことをしない、と固く決心をしないからなんだ。

ガンジス河で沐浴すれば、罪はみんな逃げて行く。逃げて行ってどうなる?
いろんな罪の塊が岸辺の樹にとまってるそうじゃないか。ガンジス河の聖なる水から人が上がってくるや否や、さっき逃げ出した罪が樹からその人の肩にとび移るそうだ。そのお馴染みの罪がまたしっかり肩に取つく。沐浴をして二本の足が聖なる水から出るか出ないうちに、すぐまた肩に取つくんだよ!

こういうわけだから、称名するといっしょに神様にお願いしなさい。神のことに情熱が持てますように。金、名誉、五官の楽しみなどに執着する気持ちがだんだん減っていくようにと、お願いして祈れ。」(不滅の言葉p432)

Re: 念仏と往生について(2)

いつも示唆に富むコメント、ありがとうございます。

やはり、「念」の大切さを説かれていますよね。

念仏と往生について(2)

(2)
ラーマクリシュナは、
「ギーターには、人は死ぬとき心で思ったものに次の世でなる、と書いてある。バーラタ王は『鹿、鹿』と思って捨身したので次の世には鹿に生まれた。神様のことを考えながら死ねば、必ず神様のところへ行ける。もう二度とこの世に戻ってくる必要はない。」と信者に説いている。


(問)一信者「先生。ほかのときには神のことを考えていたのに、あいにく死ぬときには考えなかった、という場合は、またこの幸と不幸が錯綜したこの世に戻って来なくてはなりませんか? 以前にはたしかに神のことを思っておりましても?」

(答1)ラーマクリシュナ「神のことを考えても、神を信じないからまた忘れてしまうんだ。世間に執着しているんだよ。

象の体を洗ってやってもまたすぐホコリや泥にまみれてしまうが、それと同じだ。

心は狂える象のごとし! だから、象を行水させて、小屋の中に入れてしまえば、もうホコリや泥にまみれないですむ。もし人がしぬとき神を思っていれば、もうその人の心は女と金に執着する機会がなくなる。

神を信じないから、こんなにいろいろ沢山の悩みや苦しみがあるんだよ。

ガンジス河で沐浴しているときは、罪は本人から離れて岸辺の樹の上にとまっているそうじゃないか。沐浴を終えてお前が岸に上がってくるや否や、罪の鳥はお前の肩に舞い戻ってきて、そのまま居坐るんだよ。(一同笑う)

捨身(死)のときに神を思っていられるように前もって準備をしておかなければいけない。その方法は、訓練ヨーガだ。神を想うことを繰返し繰返し訓練しておけば、最期の日にも心はあの御方に引かれて行く。」(ラーマクリシュナp237)

No title

いつも、示唆に富むコメント、ありがとうございます。

今回も、大変興味深い教えです。

臨終は、極めて大事な時で、
いわば、ラストチャンスとうことですね。

念仏と往生について

(1)浄土教には「弥陀の名を称えれば、弥陀の浄土に往生する」こと、そして「臨終の念仏を重視する」考え方がある。こうした思想は、バガヴァッド・ギーターにも見られる。

バガヴァッド・ギーター(8・5~9)

「死の時が来て肉体を離れるとき
わたしだけを憶念する者は誰でも
まっすぐにわたしの所へ来る
ゆめゆめこのことを疑うな

誰でも肉体を脱ぎ捨てるとき
心で憶念している状態に必ず移るのだ
クンティーの息子よ これが自然の法則
常に思っていることが死時に心に浮かぶ

故にアルジュナよ 常にわたしを想いながら
同時に君の義務である戦いを遂行せよ
心と知性をわたしに固く結びつけておけば
疑いなく君はわたしのもとに来るだろう

プリターの息子よ 常に訓練して
至上者(わたし)を瞑想せよ
決して他のものに心を散らしてはならない
そうすれば必ず至上者(わたし)ものとに来るのだ

全智全能なる大宇宙の支配者
最も古く最小のものより微細な万有の維持者
物質界を超えて千万の太陽の如く輝く
難思絶妙なる一(ひとり)の人格神として至上者(わたし)を瞑想せよ」
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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