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2012-08-18

弁栄聖者が三身四智の仏眼により三昧直観された、大ミオヤの御姿(霊相)の真相について


前回は、「弁栄聖者が描かれた「三昧仏様(お絵像)」の特徴である、

「雲上半身」の意義について、記事にしました。

今回は、聖者が描かれた三昧仏様が「一定の御姿(定相)ではない」

ことと、光明主義の特徴である「お別時」の際の留意点について、
考察してみたいと思います。

お別時では、その場所によって、
お掛けしてある弁栄聖者が描かれた三昧仏様が異なることが多く、
自分が日頃念じている三昧仏様(念持仏)と違う場合が多いのです。

三昧仏様が、「一定の御姿(定相)ではない」こと。

この点については、疑問をいだかれる方が自然かと思われます。

この点の解明のためには、
弁栄聖者が三身四智の仏眼により三昧直観された、

「大ミオヤ(如来)の仏身論」を理解することが不可欠です。

私達には一つの定相しか持ちえないため、

「大ミオヤが「絶対的現象態」であって、
無量の定相を、一即一切の状態で持ち給い、
衆生の信念に相応した人格的相を衆生の心想中に発現する
円満な大霊力を持っていられる。

或はキリスト教的、或は回教的な人格的神の相を発現して、
衆生をそれぞれの道に従って済度して下さる。」

この三昧中に拝する本尊の差別の相は
「主観的客体である」と弁栄聖者はおっしゃった。」
(『光明主義玄義(ワイド増訂版)』光明会本部聖堂出版)


この大ミオヤの真相を想像することが容易でない事情によるものかと思われます。

したがって、
この大ミオヤの御姿(霊相)の真相から、

三昧仏様が、「一定の御姿(定相)ではない」

ことがかえって、

心霊差別現象を規定する大ミオヤの理法に適っている

ことになり、各自が定めた三昧仏様でよいことになります。


ここまでご説明すれば蛇足かと思われますが、

大ミオヤの御姿(霊相)もまた、「無相即有相」である。

と戒浄上人はご指摘されましたが、

相「無し」とは、深甚なる大ミオヤの御姿(霊相)の真相をご指摘されたもので、
従来から言われてきた、無相法身の相無の意味でない、
このことは、弁栄教学上、聖者が三昧直観された仏身論上、極めて重要だ思います。

弁栄聖者がご指導された光明主義念仏、

三昧仏(如来)様を愛慕する「憶念口称念仏」の形式

を、笹本戒浄上人が「直線道」と名付けられたのは、
この深甚なる「大ミオヤの仏身論」に基づくゆえです。

「三昧仏様(念持仏)を一定せよ」

笹本戒浄上人が特に強調された、このご指南。

そのため、芦屋聖堂系の方々はこのことを厳格に遵守されており、
お別時の際に、ご自身の携帯用の「三昧仏様(念持仏)」を持参し、
お祀りしてある三昧仏様ではなく、ご自身のその三昧仏様を念じています。

最初、その姿を見た時、違和感を覚えましたが、
『起行の用心 笹本戒浄上人全集1』などを読み、
また、お念仏するうちに、その意義が分ってきました。

ただ、未だ違和感を完全には払拭しきれずにいたのですが、
杉田善孝上人が解決して下さいました。

「お祀りしてある如来様の上に念持仏様の聖容を憶い浮かべ、
ナムアミダブ、ナムアミダブとお念仏していると、
弁栄聖者がお描き下さったどんな三昧仏様も
全部自分の念持仏様の聖容となって下さる。」


「三昧仏様を一定せよ」には、このような深意があったのです。

これは、実体験者でないと決して言い得ないご指摘だと、
深い感銘を覚え、杉田上人への信を深めた大切な一話でした。

(参考文献:『杉田善孝上人 唐沢山別時御法話 ー弁栄聖者のみ教え 第一編』)

弁栄聖者が描かれた「三昧仏様(お絵像)」の特徴について、

「聖者が描かれた「三昧仏様のお顔」は、左右が非対称に描かれている」

と杉田上人がご指摘されたことがありました。

「人間の顔は、左右非対称であるので、
そのようにお描きになっていらっしゃるのである。
左右対称だと返って人間には不自然さを感じてしまう。」


確かに、どんなに美形の男、女でも、
じっくりと観察すると、決して左右対称にはなっていないことに気づきました。

弁栄聖者畏るべし、です。

また、杉田上人は、「お慕い申し易い三昧仏様を択ぶこと」についても、

「お念仏していると、自分の憶念し易い如来様が決まるというふうにちゃんとならして頂く」

とも。

この点について、笹本戒浄上人の三昧仏様について、大変興味深い逸話があります。

弁栄聖者が戒浄上人に描かれた三昧仏様は、
大変慈悲深いお優しい感じですが、

戒浄上人が、最初、その御姿を拝された時、

「もったいないが、御口元が気に入らないな」と内心思われたそうですが、

間髪を入れず、聖者は、

「その御口元のところから有難くなります」

と言われたそうです。 能見寿作著『光明主義入門講座』

聖者が田中木叉上人に描かれた三昧仏様は、とても厳しい感じがいたします。
( 「光明園のHP」に掲載されています。右側の三昧仏様です。)

弁栄聖者は「その人に最も適した」三昧仏様を描かれましたので、
聖者御遷化後の私達は念仏をしながら、
「自分に適した」聖者が描かれた三昧仏様にお遭いするための努力が必要になります。

最後に、木叉上人のご提案を記しておきたいと思います。

「将来は、如来様に心が集中しやすいように、
光線の具合や飾り付けを研究する人が出てほしい。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)


「存さざる所なき如来様が御絵像の所に、
御絵像に即して、御絵像でない生きた如来様が、
物質的御絵像に即していらっしゃる。」
(『杉田善孝上人 唐沢山別時御法話 ー弁栄聖者のみ教え 第一編』)


偶像崇拝に陥らず、正しく三昧証入するためにも、
そのための雰囲気、環境作りも、大変重要であると思われます。
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No title

確かに、「貞操堅固の信愛を持つ」という意味もあるかと思います。

また、あの御姿も、この御姿も・・・・では、

三昧に不可欠の「意識の専注」

がしずらいこともあろうかとも思われます。

三昧仏様を一定にすることについて

「牛飼乙女(ゴーピー)たちの信愛は、聖愛の信愛だ。貞操堅固な信愛、不動の信愛だよ。

貞操堅固でない信愛というのは、どういうことか知っているかい? 智慧の混じった信仰だよ。クリシュナがすべてのものに成っておられる。あの御方が至高梵(パラブラフマン)であり、ラーマであり、シヴァであり、造化力である、と思っているような信仰のことだよ。けれども、こういう知識は聖愛の信愛の中には入ってこない。(中略)

牛飼乙女(ゴーピー)たちは、まあ何と忠実だったことか!
マトゥラーへ行って門番にさんざん頼み込んで、やっと宮殿の中にかけこんだ。門番はクリシュナのところへ皆を連れて行った。ところが、王様のターバンをつけたクリシュナを見て、顔を伏せてしまった。そして、皆でヒソヒソ言い合った。『この、ターバンまいてる人、いったい誰かしら! こういう人と話をしたら、私たち、あの方を裏切ることになるわね! 孔雀の羽を頭にかざって、黄色い上着をきた、あの私たちの愛しい御方は、何処にいるのかしら?!』 ごらんよ、この忠実なこと」(「ラーマクリシュナ」p230)

ここで、ラーマクリシュナは聖愛の信愛、貞操堅固な信愛、不動の信愛について説いています。
同じクリシュナであっても、ゴーピーたちは、愛しく思っていたクリシュナの姿だけを求め、それ以外のクリシュナを見ようともしなかった。

三昧仏様を一定にするとは、貞操堅固な信愛を持つという意味があると思います。

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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