FC2ブログ

2012-08-10

弁栄聖者が描かれた「三昧仏様(お絵像)」についての一考察

弁栄聖者が提唱された光明主義念仏の特徴の一つは、
聖者が描かれた「三昧仏様」というお絵像をご本尊として、
お念仏を唱えるところにあると思います。

この形式のために、

「偶像崇拝」または、「観仏」ではないか、

などと誤解される向きもあるようですが、
これは全く違います。

「如来是法界身、入一切衆生心想中」(『観無量寿経』)

「弥陀身心遍法界、影現衆生心想中」(善導大師)


弁栄聖者のご高弟のお一人田中木叉上人は、
大変興味深いご指南をなされています。

「ひょっとすると、お絵像を拝んじゃおりませんか?
われわれはお絵像を拝んじゃおりませんぜ。
お絵像の処に、生きて在します親様を拝んでおります。」


と。

また、杉田善孝上人も、

「お絵像の処に、生きてまします親様が居てくださると想って、
親様をお慕い申して、親様を念じること」


を一貫して、ご指南くださいました。

木叉上人は、

最初のうちは、意志的な念仏でも仕方がないですが、
お念仏の中心は、あくまでも「親様をお慕い申す情」であることを強調されました。

杉田上人は、ある時、こんなことを言われました。

「親様をお慕い申すことがなかなか出来ない時は、
真正面に親様が在します、と言葉に出すこと」


と。

杉田上人のこの「言葉に出すこと」とのご指南は、
最初うかがった時は、「えっ!?」と思いましたが、
だんだんと、これは、

「念仏修行の実践者でないと言い得ないこと」

だと思うようになりました。

このように杉田上人のご指南は、
お念仏の実践に即した極めて具体的なことが特徴的
でした。


また、弁栄聖者が描かれた三昧仏様(お絵像)は、

「一定しておらず、信者それぞれに応じた御姿」でありました。

これは、如来様の衆生への顕現の在り方と一となっています。

杉田上人は、

「お慕い申し易い三昧仏様を択ぶこと」

をお勧めされました。

これも、重要なご指南だと思われます。

実験、実践をされるとよくご理解いただけるかと思われます。

終始一貫して「親様をお慕いする情を持続すること」は、容易ではないからです。

そして、何よりも、

この「お慕い申す情に導かれたお念仏」こそが、
人間性に最も即し、念仏三昧へと導き、成仏へと直結したものである、


からだと推察いたします。


「大原談義に曰く人をして欣慕(ごんも)せしむる法門は暫らく浅近に似たれども自然悟道の密意は極めて是深奥なりと。」
(『弁栄聖者光明体系 光明の生活』)


聖者の次の逸話も記しておきたいと思います。

聖者に三昧仏様を描いていただいた信者が、

「開眼供養をしてください」と聖者にお願いしたところ、

「その必要はありません。
私は想像で描いているのではありません。」


とお答えになられたとのことです。

また、笹本戒浄上人に次のような興味深い逸話もございます。

腕に自信のある絵師が、戒浄上人に自分の描かれた絵を見せられた時のこと、

戒浄上人が一言、

「お眼が・・・お眼がお不動様の眼になっていません。」

と言われました。

「ではどうすれば、そのようなお不動様を描くことができますか?」

「はい、それには、生きたお不動様にお遭い申すことです」

と。

いかにも、戒浄上人らしいご指南だと思います。

また、聖者が他の信者に描かれた絵を、物欲しそうな眼で見ていた信者に、

「まだ、そんなおもちゃが欲しいですか」

とも。


三昧仏様(お絵像)は、衆生を念仏三昧へと導く弁栄聖者の「お慈悲の粋」
でもあったかと思われます。

この点については、まだまだ、考察すべきことがあると思いますので、
今後も、お念仏の実践の中で、考察を深めていきたいと思います。
関連記事
スポンサーサイト



テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

No title

たびたび、素晴らしいラーマクリシュナの引用、ありがとうございます。

とても、ありがたいご指南で、感動しています。

No title

ミオヤ様を、お慕い申すことがなかなか出来ない時については、次の言葉が参考になると思われます。

(1)
「・・・こういうわけだから、称名するといっしょに神様にお願いしなさい。神のことに情熱が持てますようにと。」(「不滅の言葉」第一巻p432)

(2)
一信者「どうしたら、あの御方の名を称えるのが好きになれるんでしょうか?」
聖ラーマクリシュナ「一生懸命になってあの御方にお願いするんだよ、称名が好きになれますように、と言って。あの御方は必ず目的を叶えて下さるよ。」(「不滅の言葉」第一巻p472)

ここでは、引用いたしませんが、ラーマクリシュナは、神に「あなたを愛する心を下さい」と願ったことが、書かれていたと思います。

No title

つぎの引用では、瞑想から三昧への過程が述べられている。
三昧仏様のお絵像を見つめてお念仏することと同様のことが説明されているのが分かる。なお、引用中の、イシュタ(理想神)とは、霊応身と同じであろう。


「ここでは、信仰の道の修行者がどのようにしてあの超越意識の状態の自覚に達するかということを少し述べておこう。(中略)

神のいずれかの形を愛し、または瞑想することによって彼に没入することを、そしてまたすべての行為を彼に対する愛から行うことが信者の眼前の理想となるのである。(中略)

信者は神の或る特定の姿を彼のイシュタ(理想神)として認め、その姿を思い続け瞑想し続けるのだということはすでに述べた。最初のうちは、瞑想中にも自分の心の眼の前にイシュタの容姿の完全な像を思い浮かべることはできない。時には足が、また時には顔だけが、心の絵として眼前に現れる。それらはまた、言わば、見えたと思うとすぐに消える。彼の前に長くは立たない。修行の結果、瞑想が深くなると、その姿の完全な像が彼の眼の前に現れる。瞑想が徐々にもっと深くなると、その像は彼の前に不動のまま立ち続け、ついに心は興奮し始める。その後は、瞑想が強烈になるにしたがって、信者はその生きた姿が動き、微笑し、語り、ついには自分に触るようになるのを意識する。それから彼は、眼を開いていても閉じていても、自分が見たいと思うところに、その姿を慈悲深い存在と、それの優雅な動きを見るのだ。信仰の深い修行者は徐々に、「自分のイシュタは彼自身の思召しによってあらゆる姿を取っていらっしゃるのだ」という彼の信仰の結果として、彼自身のイシュタから飛び出す様々なヴィジョンを見るようになる。師はよくおっしゃった、「一つの生きた神の姿を見るようになった者は、他のすべてのヴィジョンもやすやすと得る」と。

すでに述べたことから一つのことが明らかになった。幸いにして右のような生きた姿のヴィジョンを得た者は、瞑想中に経験した観念の領域のこれらの形は、覚醒状態の中で見る諸々の物や人々の形と同様の実在性を持つと感じる。このように、これら観念の世界の経験は外部世界の経験と同様に実在性のあるものだという感じが深まるに連れて、外部の世界もやはり心の投影であるという確信が強くなる。また、深い瞑想中には信者の心の中で観念の領域の経験が非常に強烈になるので、彼はしばらくの間、外界の意識を完全に失う。信者のこの状態を、聖典はサヴィカルパ・サマーディーと呼んでいる。このようなサマーディーの間は、信者の心の力が強烈であるために外部世界は彼の心から消えているが、観念の領域はなおそこの存続している。彼はこの瞑想中、われわれが日々外界の物や人々の中で動きつつ感じるのと全く同じように、彼のイシュタとともに動きつつ幸不幸を意識しているのだ。このときに彼の心に浮かぶすべての観念は例外なしに、彼のイシュタのみを対象としている。聖典が信者の心のこの状態をサヴィカルパ・サマーディーと名づけたのは、そのときには信者の心の一連の動きが一つのものだけを対象としているからである。

このように、理想の世界という領域の特定の対象への精神集中のゆえに粗大な外部世界は信者の心から消え、さらに一つの観念が支配的になると他のすべての観念は消滅する。ここまで進むことのできた信仰深い修行者にとっては、ニルヴィカルパ・サマーディーの達成もそれほど遠いことではない。こうしてその人の心は、無限に長い間習慣づけられてきた外界の存在への信仰から脱することができて、大きな力と決断力を備えるようになる。まして心が完全に限定から解放されるなら至福の楽しみはもっと強烈になるという確信が一たび生まれると、それは全心の情熱をもって、神の至福の楽しみに向って前進する。彼はそこで師と神の恩寵を得て観念の領域の最高の境地に昇り、非二元の知識に定住して、永遠の平安を得るのである。或いは、彼のイシュタへの強烈な愛そのものが彼にその境地を見せ、それに促されて、彼は(中略)そのイシュタと自分との一体性を悟るのだということもできるだろう。」(「ラーマクリシュナの生涯」上巻p107~109)
RSSリンクの表示
検索フォーム
カレンダー
08 | 2019/09 | 10
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -
アクセスカウンター
プロフィール

syou_en

Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
twitter
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR