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2012-07-29

「自作自受、他作他受」の解釈を巡って(試論)

現在、光明主義の教学を学ぼうとする者は、
大変ありがたいことに、田中木叉上人がご編纂された
弁栄聖者の御遺稿『弁栄聖者光明体系』が復刊されていますので、
それらを研究するわけでありますが、
御遺稿を読まれるとすぐ気づかれることかと思われますが、
独学で研究するのは、なかなか困難であります。

幸い笹本戒浄上人のお弟子、戒浄上人を尊崇される方々のご努力により、
『笹本戒浄上人全集』、『弁栄聖者 光明主義注解』などが刊行されており、

また、最近では、貴重な
冨川茂と重住茂両氏による『田中木叉上人 御法話聴書』も刊行されています。

さらに、比較思想学的観点から学術研究もされている
財団法人光明修養会上首東京練馬の宗教法人光明園主でもある、
河波昌氏の論文、著作等は、
弁栄聖者の光明主義研究には、欠かせないものとなっていると思います。

この他に光明主義の歴史上忘れてはならない方に、
「山本空外上人」という重要人物がいますが、
「空外上人の弁栄聖者観、念仏観」については、
まだ研究中で、今は、この指摘だけにとどめます。

前置きが長くなりましたが、

さて、「自作自受、他作他受」についてです。

このことは、笹本戒浄上人が強調されたことですが、
河波昌氏は、この点について、

「念仏とは、他作自受である」。

と定義されていますが、
つまり、「縁起」と「回向」の観点などから、論及されています。

私は、自分の経験、実感から、河波昌氏の定義に賛同しています。

笹本戒浄上人直系の方々、つまり、光明会本部聖堂では、
「自作自受、他作他受」の立場を取っている
ように思われます。

この点については、戒浄上人の御教えの中で、今だに疑問を持っている点です。

ただ、戒浄上人が強調された「直線道」の言葉についても、
最初はなかなか腑に落ちませんでしたが、
時間をかけてじっくりとその言葉の真意を研究していくと、

「直線道」とは、
弁栄聖者が三昧直観された如来の真相である三身即一の仏身論より、
必然的に導き出されていた


ことが理解でき、「直線道」の真意を受け入れることができたという経験がありました。

ただ、依然として、この「直線道」という言葉は、
誤解を生み易い言葉である
と思っています。

同様なことが、「自作自受、他作他受」の解釈にもいえるかもしれないと思い、
この問題にも、こだわり、関心をいだき続けてきました。

岡潔博士は、光明会本部聖堂、杉田善孝上人にも縁が深かったので当然かもしれませんが、
随筆の中で「自作自受」を自明なこととして述べられていることを、
最近、知りました。


まず、「自」と「他」の定義が一般の定義と違うのではないかとの疑問があります。

「我といふは絶対無限の大我なる 無量光壽の如来なりけり」

との弁栄聖者のご道詠に対して、

「この我は真我のことで、弁栄聖者の真精神の御教示では、

真我には、

”絶対の報身の最高最深のいつも変らぬあり通しの永遠の生命”と
”法身の粋である絶対の報身”

の二義がある」


と、戒浄上人は仰せられた。(『笹本戒浄上人伝』)

と御教示されています。

ついでながら、ここでご指摘されている「あり通しの永遠の生命」とは、
禅での「見性」体験、その「真実の自己」よりも深い「真実の自己」のようで、
「真実の自己」にも、深さが想定されているようです。

私が「自作自受、他作他受」にこだわるのは、
前者は、信仰における「信念」の問題に、
後者は、「回向」に関わる重要な問題を含んでいるためです。

戒浄上人が「直線道」を強調される理由の一つが、
「自作自受」の原理が、衆生の信念にもあてはまり、
信念「(自作」)→それに相応した結果。

となり、如来の真相と相違した「信念」では、
必然的に、如来の真相には達することができない、
ことになります。

この点こそが、最大かつ根本的な疑問で、
今となっては杉田善孝上人に直接お聞きできず、とても残念です。

ただ、ありがたいことに、
『弁栄聖者 光明主義注解』には、解明の手がかりが記されています。

「衆生がどのような信念で修行しても、
三身即一の報身の直接作用によって、大ミオヤの御力で
ミオヤのお育てを各人相応に受けることができて成仏の身となる」
というような事実はない。


この箇所は、私が疑問をいだき続けている、いわゆる「自作自受」の定義。

ところが、別の箇所には、これとは異なる説明がなされています。

「大ミオヤの理性と感性は共に能動的である」
と弁栄上人がご教示になっておられる。
・・・白隠禅師の場合のように、
大ミオヤに妙色相好身在ます事実を否定しながら
無相無色の平等の面に三昧心を注いでおられるにもかかわらず、
白隠禅師の信念に反して、
自分が求めないのに法眼が開けて
大ミオヤの御姿を見奉るようになった。
・・・これは絶対の根本仏に在ます三身即一の報身の
理性と感性が共に絶対円満な能動態で、
衆生の信念を絶対能動的に受け入れて
内的目的論的に衆生を仏化し、
衆生の信念の不完全、不明確の点を
能動的に光明化して下さる事実を示すものである。


と。

あるいは、あの有名なキリスト迫害時にパウロに生じた現象を思い出された方もいるかと思います。

笹本戒浄上人の御教示として記されている言葉、
例えば、「直線道」、「自作自受」は、
光明主義教学の研究のうえで、特に注意を要する重要語だと思われます。

まだ、試論の段階ですので、ご教示をいただければ大変ありがたいです。
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Re: No title

一連の素晴らしく示唆に富むコメント、
ありがとうございました。

No title

「私」と「私のもの」---この二つが無智というものだ。
私の家、私の金、私の学識。これはみな私の財産。こう思うのは、無智が原因だ。
「おお神よ、あなたがご主人。そして何もかも、アナタの物。家も、妻も、子供らも、使用人も、友人、知人、すべてあなたのものです」こういう考え方は、正しい智慧から生まれる。

よく考えてみれば、ワタシだの、オレだのというものは、どこにもありはしないのだよ。(中略)

よくよく考えをおしつめていくと、その私、私といっているものは、あの御方、つまりアートマン(真我)のほかの何ものでもないと覚るだろう。
「私」というものが消えてしまえば、悩みも苦しみも消えてしまう。

ところが、どんなに考えても、千回決心してみても、どうしてもこの「私」という感じがなくならない。こういう場合は「私は神の信者だ。神にすべてを捧げている私だ」と、誇らかな気分でいるのがよいのだ。(中略)(中公文庫「不滅の言葉」p170)

*

信者の私、明知の私、子供の私ーーーこういう私は害がない。(中略)
「あなたは神さま、私はあなたの信者。こういう信仰者の態度ーーこの「私」が「信者の私」だ。

なぜ、「信者の私」を残しておくか? これには理由があるんだよ。
「私」はどうしても消えてなくならないから、いっそのことこのナラズ者を「召使の私」か「信者の私」にしてしまえ、というわけだ。
千回思い直しても、決心してみても、「私」はなくならないよ。「私」という形の瓶はね。(「ラーマクリシュナ」p210)

*

神がすべてを為し給う。あの御方が使い手で、「私」は道具なのだ。この信念が不動のものになれば、その人はこの世に生きているうちから大自在だ。(中略)

*

神さまに会わぬうちは、あの智慧の宝玉にさわらぬうちは、自分が行動者だと錯覚して、オレが私がといって、うろつきまわっているんだよ。そして「私は善いことをしている」「私は悪いことをしている」というような差別の感じがするのだ。

この差別の感じが、つまりあの御方のマーヤー(創造現象)で、マーヤーの世界で暮らすために、あの御方から与えられたものなんだ。

マーヤーには、無明現象と明知現象(智識、信仰、慈善など)の二種類があってね、明知現象に護られて正道をゆけば、あの御方をつかむことができる。つかんで、会って、マーヤーの向こう岸に渡ることができるんだよ。

ただ独り、あの御方だけが行動者で「私」は人形か道具に過ぎないーーーこの、不動の信念ができたら、即身成仏だ。(中公文庫「不滅の言葉」p170)


----

以上で、自作自受、他作自受に関連する引用を終えます。
少しでも参考になれば幸いです。

Re: No title

コメントありがとうございます。

弁栄聖者も、「全てを大ミオヤにお任せ申し上げ」ながら、
その中で最大限の努力もする。

自力として働かない他力は、絶対他力とはいいえない、
ということかと捉えています。

No title

 二種類の信愛者があるんだよ。

 一つは猫の仔のような性質だ。
 すべて任せきっている。母親がしてくれるようにね。仔猫はただミャー、ミャーなくだけだ。何処へ行くのか何をするのか何にも知らない。母猫は灌木の茂みに置いたり、時には主人のベッドの上に置いたりする。こういう信者は神様に代理権を委任している。すべて任せきって、何の心配もなしだ。

 スィク教徒が言っていたっけーー神は慈悲深いと。私は言ったよ、あの御方は私らの父さん母さんなんだ。今さら慈悲深いとは何ごとだ?子供を生んで、父さん母さんが面倒みてくれなかったら、どうする?隣の町の人でも来て育ててくれるのかい?
 猫の仔のような信者は、信じきっているんだよ。あの御方は自分の生みの母であり、生みの父だと。

 もう一種類の信愛者は、猿の仔のような性質だ。
 猿の仔は自分で必死になって母さんにしがみついている。こういう信愛者は、何かしら自分がやっているんだという力(りき)みがある。どこそこのお寺に参詣しなけりゃならぬ。称名を毎日何べんしなけりゃならぬ。十六道具をそろえて礼拝勤行しなけりゃならぬ。そうすればやがて神をさとることが出来るだろう。そういう気持ちだ。

 両方とも、神の信者だ。心境が進めば進むほど、あの御方こそが全部(すべて)になっていなさることが、わかってくる。あの御方が師、あの御方が理想神だ。あの御方がわたしたちに知識や信仰を与えてくださるんだよ。

 前(さき)に進んでいくほどに、白檀の木があり、その向こうに銀の山、金の山、ダイヤの山まであるんだよ!だから前進することだ。

(「ラーマクリシュナ」p218)

No title

ラーマクリシュナの御教えは、深いですね。

自由意志と宿命、運命の問題については、
人生の難題の一つかと思います。

また、自力と他力との関係は、
宗教上の大問題の一つだと思います。

神仏のお導きは、確かにあるように思います。

今回も示唆に富むコメント、ありがとうございました。

No title

「どの教義も道ではあるが、教義は決して神ではない。だが、熱心に信仰して一つの教義に従ってゆくと、やがては神さまのところに着くだろう。教義に間違いがあっても、誠実で熱心ならば神ご自身がその間違いを正して下さる。

 誰かが心の底からジャガンナートへ参詣したいと思って出発したが、道を間違えて南へ行かず北の方に歩いて行ったとしよう。すると、途中で会ったどこかの人がきっと『おや、ジャガンナートはこっちじゃありませんよ。南の方へ行かなくちゃ』と教えてくれるよ。そして遅かれ早かれ目的地に着くことができる。

---だから、他の宗教に誤りがあっても、なにも私たちが心配する必要はない。世界の主である御方が、めんどうを見て下さる。

私たちのつとめは、何としてでもジャガンナートに参詣することなのだ。菓子には砂糖クリームを真っ正面にかけたものもあるし、横にちょっとつけたのもあるが、どっちも甘いことは同じだろう?」(中公文庫「不滅の言葉」p131)

No title

ラーマクリシュナ
「自由意志とか、それに似たようなものを持っている人がいるかね。今までに起こった一切のこと、これから起こるであろう一切のこと、すべてはただ、神の思召し一つで起こっているのだよ。人も長い間にはそれを悟る。だが今ここで、或ることを付け加えておかなければならない。

 牡牛が長い縄で柱につながれると、柱から1キョービット(約50cm)離れたところまでは行くことができる。つまり縄の長さの範囲内なら行きたいところへ行くことができる。人の自由意志というのはそんなものだ。
人は、「これだけの広さの中でなら、寝るなり立つなり、動き回るなり、好きなようにするがよい」と言って牡牛を柱につないでやるだろう。

 それと同じように、神も、人に幾らかの力をお与へになった。その力を好きなように利用する自由も、お与えになった。それだから人は、自分は自由だと感じるのだ。だが、縄は柱に結び付けられている。またこのことを覚えておきなさい。誰もがもし、完全にへりくだって、神に祈るなら、神は彼を別の場所に連れて行ってそこにお縛りになるだろう。或いはその縄を長くしてやったり、完全に頸から外しておやりになることさえあるだろう。」

 このように教えられて、われわれはお尋ねした「では、人は修行を実践するということに関しては義務も責任もないということなのでございますか。『私のすることは皆、神の思召しのままである』と言ってよいのでございますか。」と。

 師はお答えになった。「ただそう言うだけで何になるか。そんなのはカラ念仏だよ。『トゲはない、トゲに刺されてはいない』などと言うだけで何の役に立つかね。トゲに刺された瞬間に跳び上がり『ウッ』と叫ぶだろう。もしサーダナ(修行)の実行が人の力の及ぶものだったら、誰もがそれをやっただろう。しかしそれができないのはどういうことだ?

 しかしながらここに一つのことがある。人がすでに与えられている少しの力を正しく用いないなら、神はそれ以上の力は下さらないのだ。それだから、各自の努力と忍耐が必要なのである。神の恩寵を得るには誰でも、たといわずかでも幾らかの努力はしなければならないということは、これで分かるだろう?

 それをすれば、神の恵みにより、10回生まれ変わってさせられなければならない経験が1回の生まれ変りで実を結び、人は速やかに悟りを得るのだ。しかし、幾らかの努力はしなければならない。」(「ラーマクリシュナの生涯」上巻p97)
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山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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