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2012-07-08

「一より二に出で、二を含んで一に立つ。」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

弁栄聖者のご遷化後、百年が経とうとしていますが、
聖者ご在世当時から既に、その修行論は、その受け取り方が、
信者によって、まちまちであったようです。

その最大の要因は、聖者が宗教家であったためだと思われます。

真の宗教家とは、特定のその人を導くことに最大の主眼を置かれます。

したがいまして、その導く内容は、
「応病与薬」、「対機説法」となります。

「「法」は「機」とあい望めてそこに活きる。
方便にこそ、真実は活きて働く。」

「活ける仏法は説でもなく、理でもない、
仏「法」は常に仏「道」である。」

「相異る方便に不変の真実があらわれる。」

「(弁栄)上人には自説の顕正のみあって、
決して他説の破邪というものがなかった。」


以上、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』より。

といわれています。

弁栄聖者の高弟の一人田中木叉上人は、

「仏道修行に直線道などありませんよ。」

と言われ、

一方で、聖者の高弟の一人笹本戒浄上人は、

「成仏への直線道(憶念口称念仏→見仏→成仏)」を強調されました。

光明主義の勉強をしていきますと、
笹本戒浄上人とそのお弟子、
つまり、兵庫県芦屋の(光明会本部)聖堂の方々の主義を、
どう受け止めていくべきかとの問題に突き当たるかと思われます。

私も長年この問題と取り組んできましたが、
現時点での私の捉え方は、次のとおりです。

田中木叉上人は、

弁栄聖者の「応病与薬」的な衆生済度の在り方から捉えられ、

「仏道修行に直線道などありませんよ」と言われ、

笹本戒浄上人は、

弁栄聖者の深甚なる三昧証入による如来の真相直観から、
そこには、一筋の道が歴然と存在している事実
から、

「成仏への直線道(憶念口称念仏→見仏→成仏)」を強調されました。

それらは、弁栄聖者の在り方を異なった局面から捉えられた観点

であり、どちらにも理があるように思われます。

ただ、ここには、実際上の困難な点があります。

弁栄聖者の様な三身四智の仏眼を体得された方において初めて、
この点が矛盾無く統合できるという点
です。

なお、笹本戒浄上人の「直線道」については、若干の私見、留意点があります。

「直線」という言葉から、定義上、最短とのイメージが浮かぶかと思いますが、
念仏の実践上は、最短という実感がなかなかいだき得ないと思います。
これは、宇宙進化の究極目的である「成仏」への長い長い道程を考えた場合に、
これこそが最短である、と捉えられるのではと思われます。

次に、 「直線道」には、
「成仏へと直結する、信念の変更を要しない」
という極めて重要な内容が含まれています。


戒浄上人の言わんとされた「直線道」の真意は、

「一。これ在るのみ」


ということかと思われます。つまり、

「成仏には、必然的に、見仏三昧が不可欠な要素である」

ということです。

何故か。

それは、おそらく、弁栄聖者が如来からこの世に使わされた最大の因縁と推察されます、

「無始無終の三身即一の大ミオヤ」の真相を開顕された「仏身論」と不可分であるからで、

笹本戒浄上人が「直線道」を強調された深意とは、
まさに、この仏身論から必然的に導き出されたものである、
この点こそが正に、戒浄上人が真に言わんとされたことである
と推察されます。

実は、従来から伝えられている「指方立相」を包超した修行論なのです。

無相法身から、有相が顕現されると私たちは、無意識裏に考えがちです。

それは、「形あるものはいつか壊れ、無くなる」
という観念が常識として私たちには馴染みやすいからでもあります。

心霊界であるお浄土の心霊差別現象も、
もしも法眼で三昧直観しえたとしても、
自然界と同様に相対的な依他起生の現象として、
観念してしまうかもしれません。

「無始無終の三身即一の大ミオヤ」の仏身論とは、
法身、報身、応身の三身が無始無終で、即一であるということです。


「見仏三昧により顕現される霊応身」は、
「主観的客体」、つまり、心霊差別現象でありながら、
それを顕現する客体には、

「もとより、御姿在します。」

その御姿とは、「無限に変化しながら、絶対の御姿である」
といわれ、

これは、三身四智の仏眼を体得しないと三昧直観されない、
深甚なる如来の真相、仏身論である


と笹本戒浄上人は、弁栄聖者から直伝されたとのことです。

ちなみに、「見仏三昧」の「仏」には、
浄土教系の阿弥陀仏以外の諸仏に留まらず、
仏教以外のキリスト教、イスラム教等で説かれる神々も含まれており、
定義上、慎重を要しますので、念のため。

なお、戒浄上人御自身は、

「直線道」を強く顕正されましたが、
それ以外の道を歩まれている方に対し、
謙虚な態度をもって接するように厳しく戒められていたようです。

「円具教が天狗教になると、直線道が脱線道になる」
冨川茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』 )


どぎつい言葉なので、どうしようか躊躇したのですが、
やはり、とても大事なことですので、
田中木叉上人の言葉を引用しました。

真意をご理解していただけると幸いです。
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Re:神の形

神仏の無相、有相の問題は、
人類の根源的テーマなのかもしれませんね。

神の形

ラーマクリシュナ
「神には形がある、とばかり言っていてもだめだよ。
あの御方は聖クリシュナの場合のように、人間の体をとって現れるというのも、真実(ほんとう)だ。いろんな姿で信者たちに会って下さる、これも真実だ。

それから、あの御方は無相無性で完全円満なサッチダーナンダ(至高の真実たる梵、ブラフマンの本質たる実在・叡知・歓喜)これも真実だ。
あの御方は有形無形の両方であり、無性であって同時に一切性である、とヴェーダでは言っている。

どういうことか、わかるかい?
サッチダーナンダは無限の大海のようなものだ。
寒さが海の水を凍らせて、いろんな形の氷が海に漂っている。

それと同じように信仰の力がサッチダーナンダの海に形ある神を見ているのだよ。形ある神は信仰者のために現れている。そして、知慧の太陽がのぼると氷はとけて元通りの水になる。下も上も全部が水また水。(中略)

しかしまた、ある種の信仰者たちにとっては、あの御方は永遠に変わらぬ姿をした神だ、ということもできる。無限の海には、決して氷がとける時のない場所もあるからね。そこでは氷は水晶みたいになっているんだよ。」

(人類の知的遺産「ラーマクリシュナ」p179~180)

Re: 見神について

毎回、素晴らしいコメント、ありがとうございます。

無相即有相。
「即」との認識は、なかなか難しいように思われます。

「見神」おける「憶念」の重要性のご指摘。
弁栄聖者によりますと、
「憶念」の定義とは、「大ミオヤをお慕い申し、お念じ申すこと」。

意思的努力ではなく(最初はやむをえませんが)、
必然的に発現する、やむにやまれぬ大ミオヤへの「霊恋」。

見神について

「無形の神と有形の神」

聖ラーマクリシュナ「じゃ、あんたは形のある神を信じているのかい、それとも、形のない神を信じているのか、どっちだい?」(中略)

校長「はい。神は無形である、という考えが私は好きであります」

聖ラーマクリシュナ「そりゃ結構だ。どっちかを信じていればいい。神は形がないものだと信じているーーそれはいいことだ。けれど、こう思っていてはいけないよ。つまり、これだけが正しくて、ほかのは皆間違いだなんて。神は無形だというのも真実(ほんと)だし、神には形があるというのも真実。このことをよく覚えておきなさい。そして、あんたが信じているものを、しっかりつかんでいなさい」(中略)

校長「なるほど、神は有形である。ーーこのことは信じたといたしましょう!しかしながら、土くれで作った偶像は、その神ではありますまい」

聖ラーマクリシュナ「なんで土くれなものか!たましいのこもった聖像だよ!」

校長「土の偶像を拝んでいる人に向っては、土の像は神ではないということ、そして土像の前では心に真の神を念じて拝み、土くれは拝むべきではないと、教えてやるべきであります」

聖ラーマクリシュナ「(中略)お前さんは、どなた様だい?人を教え導くほど、偉い御方かい?教えて下さるのは、あの御方(神)だよ。

この宇宙を創った御方--月や太陽や季節や人間や動物、そのほかありとあらゆるものを造った御方。生きものを養う方法ーーつまり育てて大きくするために、父親と母親を創って、両親に子への愛情をもたせた御方ーーその御方が教えて下さるんだ。

神さまは、こんなにもいろんな方法(みち)をつくって下すったのに『この方法だけは、お造りにならないだろう』なんて、どうして言える?

もし、知らせることが必要なら、あの御方が教えて下さるよ。あの御方は内なる導き手なんだよ。土の像を拝ませることに何か間違いでもあるのなら、神さまがお気づきにならんはずがないだろう?--ほかでもない、あの御方の御名を唱えているんだからね。あの御方はそんな拝み方にも満足していなさるんだよ。なにも、お前さんがゴモクソ言うことないじゃないか?

お前さんは、自分が正しい智識と信仰を持つように、一生懸命に努力すりゃいいんだよ」(中略)

聖ラーマクリシュナ「あんたは土の神像を拝むのがどうのこうのと言ったがね、たとえ土で出来ていても、それは拝むだけの理由があるんだよ。神さまは、いろんな種類の拝み方を準備して下すったんだ。宇宙のご主人であるあの御方が、みんなつくって下すったことさ。持ち主がいろいろに仕分けをなさるんだ。それぞれの腹にうまく納まるように、大実母(かあ)さんはいろんな料理をこしらえてくれるのさ。

ある家の母さんに五人の子供がいるとしよう。魚が手に入った。母さんはいろんなふうに料理してくれるーーみんなの胃に合うようにね!この子には魚のピラフ、あの子には酢魚。煮付けにしたり、フライにしたり。皆が喜んで食べるように、胃にもたれないように工夫してね。わかったかい?」


「信仰の方法」

校長は謙虚におたずねした「どんなふうにして神のことを想ったらよろしいのでしょうか?」

聖ラーマクリシュナ「神の御名や讃歌をいつも唱えていること。それから真人との交際ーーつまり、神を信仰している人やサドゥたち(出家や聖者など真理探究にはげむ人たち)と、なるたけ親しくつきあうようにすることだ。(中略)」


「神を見る方法(みち)」

校長「神を見ることは可能でございましょうか?」

聖ラーマクリシュナ「ああ、必ずできるよ。時どき独りになって静かなところで坐りなさい。それから神の御名をとなえたり、讃歌をうたったり。本ものと偽ものを見分けたり。--こうした方法に頼っていけば、できるよ」

校長「どんな状態になれば、見神できるのでございましょうか?」

聖ラーマクリシュナ「無我夢中(ねっしん)になって、神を求めて泣けば見られる。妻子のためなら人は水がめいっぱいもの涙を出す。金のためなら涙の池で泳げるほども泣く。だが、神を求めて誰が泣いている?本気になって神を呼ぶことだ」(中略)

聖ラーマクリシュナ「無我夢中(ねっしん)になる、ということは、夜明けの空が赤くなることだ。暁につづいて、お日さまが姿をお見せになる。熱心の次が見神だ。

三つの引力を合わせて持つことができたら、あの御方は姿を見せて下さる。世間の人が職業に対して感じる引力。母親が子供に対して感じる引力。妻が夫に対して感いる引力ーーこの三つの引力をいっしょに誰かが持ったとしたら、その強さで神さまを引きつけて、つかまえることができるよ!

つまり、こういうことさ。神さまに惚れろということだ。母親が子供たちを可愛がる。妻が夫を愛する。勤め人が会社の仕事を大事に思う。この三人の愛、この三つの引力をいっしょくたにして、そっくり神さまに差し上げることができたら、きっとあの御方に会えるよ。
とにかく、夢中になってあの御方を呼ぶことが必要なのさ。(中略)」

大聖ラーマクリシュナ「不滅の言葉」第一巻(p82~90)より抜粋


無形の神と有形の神は、法身(理体)と報身に、
土くれの神像は、三昧仏様のお絵像に、
あの御方は、ミオヤ様に、
読み換えられると思う。

夜明けの空が赤くなるは、難思光の「心の曄曈」を連想させる。
神さまに惚れろとは、憶念と同じであろう。

Re: 対機説法について

いつも、ご丁寧で、示唆に富むコメント、ありがとうございます。

正に、智慧と慈悲を兼備されている方の導かれ方ですね。

対機説法について

(1)真の宗教家とは

「われわれが彼の中に見た最も驚くべきことは、心の世界を隈なく歩き回る彼の力であった。

子供であれ大人であれ、僧であれ俗であれ、信仰者であれヴェーダーンタの徒であれ、男であれ女であれ、すべての人々の大小すべての思いを理解する彼の力、一人一人の求道者の内なる思いと感情を理解する力、霊性の領域でその人がどの程度進歩しているかを、彼がどの道を通って来たかを、彼自身の進路に沿ってさらに進ませるためにさしあたって必要なものは何であるかを知る力、そして最も重要なことは、その人に正に必要でそして適当な進路を指示する力であった。

これらのことを深く考えると、師はすでに彼の生涯の中で、過去現在未来にわたって洩れなく思いの全領域を経験しておられ、それらの状態の出現から消失までの全部の詳しい経過を記憶しておられ、そのために、いつ誰が来てその心境を訴えても、それを彼の記憶に蓄えてあるものと比較することによって理解し、即座に適切な指示を与えることがお出来になったのだと思われる。あらゆる場合に、それが彼のルールであった。

誰でもが、執着とか、世間の何かの問題とか、放棄など霊的修行の妨げとなる執拗な思いまたは感情というような試練に直面し、巻き込まれて、謙虚に指示を乞いに来ると、師は必ず、その人にふさわしい指示を与え、彼を励ますように、同じ状況に置かれたときのご自分の経験を話してお聞かせになるのだった。

「私の子供よ、これこれこのようなことがそのときに起こった。それで私はこれこれこのような方法を採ったのだよ」というふうにおっしゃるのだった。師がこのようにおっしゃると大きな希望が質問者のハートを満たし、彼は強い信念と忍耐をもって師が示された道を進んだということは付け加える必要もないことだ。それだけではなかった。師がご自分の秘密を彼に打ち明けたのだと知ると、質問者は彼に注がれる師の愛がいかに深いかを感じるのだった。」(「ラーマクリシュナの生涯」上巻p414)


(2)信者の心の態度を妨げないこと。

(イ)
「師は常に『霊的生活における各人の心の態度は決して妨げられてはならぬ』と教え、自ら日常、信者たちを扱う場合にもこの態度を持していらっしゃった。」(同書p403)

(ロ)
「いつか、ハズラーがナレーンドラ(のちのヴィヴェーカーナンダ)に言っていた『神は無限であり、神の力や豊かさも無限だ。あの御方がお供えの菓子やバナナを召し上がると思うかね?君の歌をお聞きになると思うかね?バカらしい。それはみな見当違いというものだ。』

ナレーンドラは見るも無残に打ちしおれた。わたしはハズラーに言ったよ。『お前は何という悪者だ!若いものにそんなことを言って、どうする気だ?信仰を失ったら、人はどうやって生きて行く?あの御方は無限の力と富とを持っていなさるが、それでもあの御方は信者たちの思うとおりになってくださるんだぞ!』

大金持ちの家の門番が、主人たちの集まりにやってきて、客間のドアのところでもじもじしている。手には布に包んだ何かを持っている!
主人が『何を持っているんだね?』ときくと、門番は恥ずかしそうに、リンゴを一つ布包みから出して主人の前において『お召し上がり頂きたいと思いまして・・・』

主人は門番の忠誠心に感じ入って『ほう、いいリンゴだねえ!どこで手に入れたのかね、さぞ大変だったろう?』」(人類の知的遺産「ラーマクリシュナ」p202)
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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