2012-06-23

「身体の更正。已に更正したる精神は如来大心光中に理想の浄土に逍遥(あそ)ぶものゝ、肉の有らん限りは自然の約束を全く脱する能はず。」(弁栄聖者著『如来光明歎徳章要解』)

前回は、 『笹本戒浄上人全集 中巻』に記されています、

驚嘆すべき弁栄聖者の「全分度生の完全な仏作仏行」の御教え

「完全な仏作仏行とは、
この地球上のみならず教化すべき衆生の住し得るあらゆる天体に
分身利物の霊的生活ができるようになって、
初めて全分度生の完全な仏作仏行といえます。」


をご紹介しました。


今回ご紹介します弁栄聖者の御教えは、
笹本戒浄上人なかりせば、
この世に言葉として残ることがなかったかもしれないと思われるにつけ、
戒浄上人のこの世への出現を大変ありがたく、
感謝の念を禁じえません。

「有余涅槃」とは、

「如来と精神的、観念的に合一し、
肉体をもって自然界に居る時に実現している境涯。」


と従来教えられてきたと思います。

しかし、弁栄聖者が笹本戒浄上人に開顕された御教示、

「弁栄上人が肉、または肉体といっておられる中には
肉の心と肉の身体の二つを含んでおる。」


と。

具体的には、

「この世を去って肉体は無くなったが、
未だ肉の心が残っておるので、
法身の中心である絶対の報身の全体と合一できておらないために
一時的に浄土に居る時」


があると、「有余涅槃」のもう一面の真相を開顕されました。

したがって、従来から言われてきたように、

「この世で如来に救われた方の肉体が無くなった後は、
往生し、お浄土で修行をするということではない」


というのです。

更に、後者の「有余涅槃」の真相を、

「大ミオヤの絶対理性と絶対感性の完全調和した光明摂化により、
六道輪廻によらないで、
大ミオヤの絶対無規定の大霊力によって衆生界に生まれて、
以前より更に高く深い三昧を実現する身として下さる。」


そして、

「遂に自然界で三身四智の仏眼を実現して、
肉の心がなくなって絶対の報身の全体と合一し後に死去して、
無余即無住処涅槃の境涯と
実在的、身体的に合一するようにして下さる。」


と。

参考文献は『笹本戒浄上人全集 下巻』 

これが正しい「有余涅槃」の真相である、
と確信をもって言うことは、私にはまだできません。

と言いますのも、余りに桁外れな境涯なので、
正直この真相を実感できるレベルには到底ないからです。

ただ、「肉の心」という概念は「眼から鱗」で、

「肉の心があらん限りは、お浄土に一時的にしか居られない」

何故なら、

未だ如来化されていない「肉の心」と「如来の自境涯」とは、異質なため

このことは、十分には分からないながらも、何か響くものがあります。


しかし、このことは、絶対に記事にし、
ご紹介したいと切願していたことの一つでした。

私の不勉強のために見落としていることも十分に考えられますので、
もしもこの種の教えを説いている方、文献がありましたら、
是非ともご教示願います。
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前回は、 『笹本戒浄上人全集 中巻』に記されています、驚嘆すべき弁栄聖者の「全分度生の完全な仏作仏行」の御教え、「完全な仏作仏行とは、この地球上のみならず教化すべき衆生...

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No title

「六道輪廻によらず」にということは、
M.Kさんのご指摘の他に、

六道のうち人間界が「作仏度生」の修行上、
最も適しているのかもしれません。

「此土一日の修行は浄土に於いて百歳するに勝れり」(『無量壽経』)。

また、M.kさんのご指摘のとおり、
「声聞、縁覚、菩薩如来の自境涯に留まることができない」のは、
一切衆生がそれぞれ成仏へと向かって行くこと」
から、必然の過程であるのと、

やはり、「肉の心」があるため、「如来の自境涯に居続ける」状態であることが「できない」のだと思います。

一方、仏は、「如来の自境涯に身をおきながら、分身利物の活動のため、留まることを「しない」のだと推察いたしております。

最後のご指摘に関しては、
「こうだ、こうに違いない」と思って修行しておりましても、
もしその信念が如来の真相認識と違っている場合には、
如来の御力により、誤っていたと気づく時がくる、
といわれています。

No title

十界を迷悟に分け、迷いの六道の衆生が生まれ変わることを輪廻とし、悟の四聖道の霊格は、迷いではなく自覚的に生まれてくるのであるから、「六道輪廻によらず」というのではないでしょうか。

一切衆生はそれぞれ成仏へと向かって行くのですから、
声聞、縁覚、菩薩が如来の自境涯に留まることができないのは、
その通りでしょう。

声聞縁覚が、この世に戻らないといっても、いずれその真空に偏している誤りに気づき、修行をすることになると思います。

No title

大変ご丁寧なコメント、ありがとうございました。

私も、M.Kさんに近い感想を持っていました。

仏教の常識としては、菩薩は願によってこの世に生まれてくる、
と説かれ、私もそのように考えていました。

ところが、笹本戒浄上人が弁栄聖者から、
ご教示されたところによりますと、

(声聞・縁覚、さらに)菩薩といえども、

「肉の心」が未だ残っているために、
如来の自境涯に留まっていることができない、

というのが真相のようなのです。

ただ、「六道輪廻によらずに・・・」
というところが、決定的に異なるところらしいのです。

如来化されていない「肉の心」というのは、
聞いたこともなく、考えたこともありませんでした。

笹本戒浄上人が弁栄聖者からご教示された

「三身四智の仏眼の御境涯」の真相

には、本当に驚嘆すべき内容が開示されているように思われます。

No title

上記の他に、有余涅槃について細かく説かれている文献は知りませんが、
それに関連した文献を調べると、少し参考になるかも知れません。

「意識の非二元の境地に達したのち、人類に善をなすという目的のためにすら、決してその境地から降りてこない、サーダカ(修行者)の一クラスがある。彼らは、ジーヴァ・コーティと呼ばれる。そして我々は師から、解脱した人々の大部分はこの範疇に属していると伺った」(「ラーマクリシュナの生涯」上巻p434)

「ジーヴァが、あの意識と完全に一体であるというこの状態を自覚すると、彼の肉体は二十一日間しか存続せず、枯葉のように落ちる、言い換えれば、滅びてしまう。そして彼は決して、再びこの私意識を持たないから、もうこの世界に戻ってはこない。」(同上巻p596)

「ジーヴァ(個我)は一旦束縛から解放されて、サマーディのなかでアートマンの最高の至福を体験すると、どんな理由があっても二度と世界に戻ろうとは思わない」(同下巻p158)

この非二元の境地の人々は、仏教でいえば、真空無為の境地にある声聞・縁覚に当たるかと思います。これらの人々は、この世界に戻ろうとは思わないし、戻ってこないというのは、やや意外に思われます。それは声聞縁覚の境地は菩薩より低いのだから、肉の心はあるはずで、有余涅槃であるから、この世界に戻ってくると思えるからです。しかし彼らは菩提心を持たず、真空無為の境地であるので、この世界に戻る動機がないのでしょう。

「堅固な意志と深い信仰とひたむきな献身に助けられて欲望が除かれた結果、ある求道者の内部に、主なる神に合一して生きるだけの資格が生じると、時折彼らの心に、過去の印象のせいで、「人々のために善いことをしよう、大勢の人々の幸福のために働こう」というような清らかな願望が生まれる。このような願望に押されて、彼らはもはや、完全に非二元の境地に留まっていることはできない。高い意識の段階からほんの少しばかり降りてきて、再び<私>や<私のもの>の領域に入る。しかし彼らのその<私>なるものは、・・・神との密接な関係の不断の自覚の中に生きている」(同上巻p434)

「永遠に自由なイーシュワラ・コーティ達は、真理のある特定の面をこの世に実現させて他者に善をなすためだけにこの世に生まれてきているのだから、ごく幼い時から、純粋意識と一体のこの経験をしている。ついに、そのためにこの世に生まれてきたところの仕事を完成すると、かの絶対意識の中に完全に最終的に融合してしまうのである」(上巻p596)

仏教でいえば、菩薩かと思います。菩薩は自行成就と一切衆生を覚らしむという願を持ち、菩提心によって、真空無為の境地に留まることを望まない。
「浄土に一時的にしかいられない」というと、何か残念な気もしますが、むしろ菩薩は菩提心という積極的道徳心により、この世に生まれてくるのでしょう。

「神の化身たちは、ごく幼い時から思うままに知識の完全な状態に達し、好きなだけその状態に留まっており、また輪廻に捉えられているジーヴァを救うために、再び我々のこの世界の意識に自発的に降りてくることができる」(上巻p597)

神の化身アヴァターラは、仏教でいえば仏に当たると思います。
人類を導き救うために、時と場所を選んで人間の姿をとって生まれてくる。

以上のように、自分なりに対比して考えてみましたが、それが適切なものかは、自信はありません。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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