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2019-10-16

『辨榮聖者 光明主義玄談 巻四』笹本戒浄上人述 泉虎一記の発刊!


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『辨榮聖者 光明主義玄談 巻四』笹本戒浄上人述 泉虎一記が、
2019(令和元)年7月下旬に刊行されました。

この巻四の刊行をもって、
『辨榮聖者 光明主義玄談』笹本戒浄上人述 泉虎一記
全四巻
が揃いました。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp
平澤伸一氏宛にメールでも、注文可。
各巻二千円(送料別)。

笹本戒浄上人による弁栄聖者及び光明主義解説は、
芦屋、聖堂発行の『笹本戒浄上人全集』、
『辨榮聖者 光明主義注解』等
により学ぶことができましたが、
この度の、
『辨榮聖者 光明主義玄談』笹本戒浄上人述 泉虎一記の発行によって、
比較的安価、しかも、携帯としても便利、
かつ、戒浄上人の御教示の真髄が、
戒浄上人の肉声に近い感覚でもって拝読できることは、
まことにありがたいことです。

「光明主義文献発行会」の方々、
また、本書の元となった原稿を準備された、
故小川純氏に感謝申し上げます。

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繰り返しになりますが、
本書を読む際に留意すべき点を、
やはり、強調しておきたいと思います。

先ず第一に挙げるべき点は、

「弁栄聖者の真髄は、
聖者の三身四智の仏眼から帰納的に説かれたもので、
『原始経典』」、『大乗仏教経典』等どこにも記されていない」

と強調されている点。

これでは「盲信」ではないかと、
疑義をいだかれる方がおられるかもしれません。
笹本戒浄上人による「偏依弁栄」の表明ですが、
もちろん、戒浄上人の「盲信」ではなく、明確な根拠があります。
巻四の「【付録三 『笹本戒浄上人偲び草』から】
をご一読下さい。

文献学における「大乗非仏説」
が大前提となっていると思われます。

また、「信」とは何か
という現実的な難題が含まれていますが、
ここでは立ち入りません。

なお、「大乗非仏説」に関しては、
大竹晋著『大乗非仏説をこえて
大乗仏教は何のためにあるのか』

が大変ご参考になると思われます。

大竹氏は、同書において、

「われわれは大乗経が仏説であることを論証することは
不可能であると率直に認めなければならない。」

と明言され、

「大乗経が仏説であることは、
推理によっては決して論証されるべきことではなく、
大乗経にもとづいて修行した者たちの悟りの体験によって
自内証("個人的に確証")されるべきことなのである。
悟りを齎す以上、大乗経はいつわりではない。」

と明言され、
その解決策、「体験的大乗仏説論」を提示されています。

また、大竹氏は、
「"現に修行して悟りを体験できる法なら、
誰が発見されたのでもよい。大乗非仏説でもよい。
わたしも大乗非仏説と思う。"
ー弁栄はそう言い切っている」
と。

この個所は、おそらく、
「又は大乗非仏説を主張する人に、
上人 「現に飲んで効能のある薬なら、
誰が発見してもよい。大乗非仏説でもよい。
私も大乗非仏説とおもふ。」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)
によっていると思われます。

第二に特記すべき点は、

「私がこの世に居る間は言ってはいけません。
後日いうべき時が来ますから、
その時には将来の光明主義のために、
はっきり、笹本がこのように言っておったと発表して下さい。」
と、

弁栄聖者→戒浄上人への真髄が、泉虎一氏に口伝されたとされる点。

「笹本戒浄上人と戒浄上人主義とは、分けて考えるべきだ」。
と以前耳にしたことがあり、ずっと気になっていましたが、
今回の一連の書によって腑に落ちました。

戒浄上人の御教示には、
泉虎一氏を除いて、
他の方々が聴いていないものが含まれている

ようであるということがよくわかりました。

笹本戒浄上人の真髄は、
特に教義面においては、泉虎一氏を核として、
特に布教、度生面では、杉田善孝上人を核として、
それぞれ伝承された様に推察します。

今回発行された一連の書は、
「宗教の奥義書」とでもいうべき本ですが、
笹本戒浄上人、泉虎一氏への「信(頼)」が、
読解する上での大前提
となると思われます。

笹本戒浄上人に直伝されたとされる弁栄聖者の御教えは、
幾多の科学的発見が、
従来の「定説」を乗り越えた発見であったことと同様、
前人未到の発見的真理が含まれていることが想定されます。
弁栄教学は、
浄土宗乗、大乗仏教、または、原始仏典に適合するか、
更には、他宗教等との比較研究といった次元に留まらず、
大宇宙の真理に合致するか否かといった、
より高次元の解明
が求められているようさえ思われます。

また、
本書を拝読しながら、
数学者、岡潔博士の戒浄上人観を思い起こしました。

「(光明主義の弁栄聖者の跡を嗣がれた笹本戒浄)上人は又こうも言われた。
弁栄聖者が自ら実施踏査済の事実として切り開いて下さった
終局目的である認識的一切智を実現する過程において、
必ず達成しなければならない二次目的と
三十七道品で示される中心道の修行法の全体を信じて
お念仏する時現在の自分より一歩進んだ所に当座の目標を定め、
当念の念仏によって必ずその目標を達成するように努力せよ
」と。

終り迄聞かす事は初めて入ろうとする人に話す時に必要である。
最後迄どうなるかを知らせて、人に取捨選択さす事と、
心構えをしっかりすること、のため
である。

これも光明主義の達人としての笹本上人の御意向の現われと思う。
私が上人において特に感心するお偉い点は、
お念仏がはっきりできるようになるまでに十一年
ごく初めのところに十分力を入れておられるのと、
弁栄聖者とその光明主義に無私であった点です。」
(「戒浄上人の偉大な点  奈良市 岡 潔」
『笹本戒浄上人(笹本戒浄上人全集 別巻)』)


数学者岡潔博士の慧眼を感じさせる「笹本戒浄上人観」ですが、
ここで、「選択」の意義に触れておられます。

今回の巻四には、
泉虎一居士直筆、「択法覚支」の色紙が掲載されています。

「択法覚支の心を詠みて
絶対の報身の慈悲の相好を
己が真の姿とぞ見る」


「択法覚支」の境界で、
「大ミオヤを真実の自己」と、
「三身四智の仏眼」とは程度の差こそあれ、
認識されている点は、極めて重要であり、
信念の如何に左右されるゆえ、
慎重な吟味が要請される「起行の用心」。

この色紙をよく見ますと、
薄い黒い跡が点在しています。
「泉氏が色紙を押さえながら、一字一字、丁寧に書き記されたため。」

この色紙の内容は、もちろん、

「弥陀の身色紫金にて
円光徹照したまへる 
端正無比の相好を
聖名を通して念ほえよ
総の雑念乱想をば
排きて一向如来に        
神を遷して念ずれば
便はち三昧成ずべし」
 

弁栄聖者の七覚支の第一、初めの「択法覚支」を踏まえたものです。

泉氏が、「択法覚支を最重要視」されたのは、
正に、弁栄聖者→笹本戒浄上人へ伝授された、
「光明主義の真髄」、すなわち、
"宗教の真髄"を意図されたためと推察されます。

『光明主義玄談』(巻一~巻四)には、
心情面を刺激する過激な表現が散見されますが、
この「選択」の意義の"泉氏流の表現"だとも受け取れます。

なお、
この「択法覚支」に関して、
是非触れて置きたいことがあります。

「仏眼が開けると一往正常健全ということができる。」

とは、弁栄聖者の笹本戒浄上人への御教示ですが、
ここで、聖者が「一往」と釘をさされていることに留意したいと思います。

「徳本行者の三昧は深くして深かった。」
と、弁栄聖者は、徳本行者を極めて高く評価されていますが、
徳本行者は、初歩の仏眼で、
大ミオヤの広義の報身の仏身論、
(妙色相好身は、独立自存の絶対的現象態)を直感

善導大師と法然上人は、
最晩年の三身四智の仏眼において初めて認識された
とのこと。
徳本行者は、伝統教学における拘束から比較的免れていたためと拝察されます。

なお、岡潔氏は、
お念仏がはっきりできるようになるまでに十一年
と戒浄上人が仰られたと指摘されています。

弁栄聖者は、「六年」(『日本の光(弁栄上人伝)』)、
田中木叉上人は、「十年」は(『田中木叉上人遺文集』)と、

とそれぞれ仰られたようです。
根拠は不明ですが、その理由を是非知りたいところです。

「択法覚支」に関して、
更に、重要な点は、

『光明主義玄談巻三』に、
「仏身論のコペルニクス的転換」と明記されている点。

「聖者は宇宙全体・一切の現象の本体である《法身》ではなく、
法身の粋・全法界(全宇宙)の中心である所の
《報身》が最高の統摂者であり根本仏である。
これが事実であり真相であるという事を解き明かされたからです。
従来の仏身論ではこれが逆になっていた。
従来の浄土教では法身が根本仏であり、
報身の妙色相好身は法身に規定せらるる
心霊差別の現象であるとされていた
からです。
三身即一本有無作の内的目的論的報身が法身の中心であり
最高の統一者であるという事実を明了に三昧体験する

事が出来なかった為に、
本来の関係を逆にして天動説に相当するものを説いていたのが
従来のいわゆる酬因感果の説であると。
光明主義の拠り所は経典ではなく、
聖者が三身四智の仏眼で三昧直感された内容
です。
これまで釈尊・善導大師・法然上人・徳本行者が
その境涯に到達しておられた
にも関わらず
その事実が明瞭に説かれる事はありませんでした。
これも聖者が三昧直感された事ですが、
ここに光明主義の意義がある
事は言うまでもありません。」

表記に留意しながら、丁寧に読み込みますと、
そこに込められた意図が読み取れるように感じられます。

例えば、
 「応身仏釈尊の仏眼は円満、弁栄聖者の仏眼は豊か」
と表記されています。
「三身四智の仏眼にも、深浅がある」
ことの留意のため。

「観念的一切智の間は、
慈悲の聖容を拝みたいと念じなければ
その御姿を拝む事が出来ません。
しかし認識的一切智を得ると、
慈悲の聖容を見奉りたいと念ずる意思活動を必要としないで、
意識活動をしている時には
常に自由に報身仏の御姿を見奉っている
自在の境涯が実現します。
(しかし)人間は肉体を、持っているので
認識的一切智が実現しても、
文字通り十方三世一切の差別の内容を
ことごとく詳しく具体的に識別出来る訳ではありません。
認識的一切智によって識別出来る
差別の現象の内容と範囲は(状況により)変化する
のであって
識別出来ない差別の現象については
その差別の内容を規定する大ミオヤの法則を
了々と認識する
という訳です。
それで誤解を防ぐ為に認識的一切《知》とするのが良いと思われる
と戒浄上人様はおっしゃっておられます。」
(『光明主義玄談巻三』 )

「観念的一切智と認識的一切智」との相違をある程度理解されている方でも、
この認識的一切智に関する戒浄上人の御教示には、
はっとされた方もおられるのではないでしょうか。

また、
「肉の心」に関する戒浄上人の丁寧なご教示などは、
戒浄上人の御教示なかりせば、
弁栄聖者の真髄が伝わらなかったであろうと、
推察される最重要の弁栄教学の特徴の一つ。

本書の巻四には、本書の編者の一人が、
「帰納法」、「内的目的論的」、「直線道」
に関する重要な解説を記載されています。

「周知の様に真理探究の方法としての「帰納法」は
いくつかの把握された事実から一般的結論を導くもので、
特に自然科学において重要な手段となっていますが、
厳密に言うとそれは常に「不完全帰納」なのであって、
「完全帰納」と言うものはありません。
何故なら実際に把握される事例は必ず有限個であり、
遂行可能な実験は必ず有限回数であるからです。
光明主義において「完全帰納」が成立する理由について
泉先生は
「三身四智の仏眼(光明主義に言う無生法忍)が実現すると、
諸仏中の一仏や根本仏の一面と(だけ)でなく、
絶対中心の『一』と合一する故に、
相対的一即一切が解消されて真の一即一切が成立する。
ここにおいて初めて不完全帰納を脱する事が出来、
有限回数の三昧体験が完全帰納となる」

と説明されました。

もう一つ、
「内的目的論的」については講義中に次の様に説明されました。
「最尊の仏(絶対者)が衆生を自己に帰せしめる目的で
衆生を誘引する場合は内的目的論的活動。
これに対して、
最尊でない諸仏が衆生を最尊の仏(絶対者)に帰せしめる目的で
衆生を誘引する場合、外的目的論的活動となります。」


蛇足ながら、強調しておきたい点があります。

光明主義中心道(直線道)とは、
「修行の途中で何ら報身論の根本と見仏論の核心を
変更する必要のない一番いい見仏の道」。

何故なら、この修道論が、
「三身即一の広義報身の仏身論から、
必然的に導き出された修道論である」
からであり、
「指方立相」を意図したものではない
という点は留意すべきと思われます。
また、
「直線道」とは、
修道論上における謂であり、
衆生済度における「度生論」においてではない。

という点も、留意すべき点と思われます。

弁栄聖者のご行状が、何よりもそのことをお示しくださっています。

最後に、
笹本戒浄上人の遺言ともいうべき金言を引用します。

「見仏が成仏の唯一の直線道で、
実に釈尊の真精神である、というのは
実に弁栄上人様の真精神で光明主義の生命とするところでありますから、
弁栄上人様の光明主義を信奉する私共と致しましては、
弁栄上人の真精神を述べなければならない場合には
何のためらうことなく、
見仏が成仏の唯一の直線道で実に釈尊、弁栄上人の真精神である、
といわなければなりません。」


「しかし、他の信念を持っていらしゃるお方に対して
少しでも不遜な態度をとるようなことがあってはなりません。」

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テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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