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2019-06-24

「弁栄聖者と福田行誡上人」を巡って


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「弁栄上人百回忌記念慈業」の一つである、
「行誡と弁栄展」が、
先月、5月11日~5月19日に開催されました。

「行誡と弁栄展」という斬新な趣向、
「行誡上人と弁栄上人」に込められた主催者の篤き思い、
岐阜にある「山崎弁栄記念館」を彷彿とさせる展示方法、
また、「行誡上人と弁栄上人」関連の特別記念講演会、
更には、ツイッター、フェイスブックのSNS等の広報とも相まって、
開催期間中の来場者は、二千人以上という大盛況とのことでしたが、
惜しくも閉会となりました。

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残念ながらご覧になれなかった方で、関心のある方は、
会場には、「行誡と弁栄展」の図録、グッズ等がありましたので、
問い合わせてみてください。

「行誡と弁栄展」チラシHPは、こちら。

なお、
岐阜にある「山崎弁栄記念館」では、
通年で、弁栄聖者の遺墨等をご覧になれますが、
ご来館の際には、開館日、時間等に関して、
念のため、お問い合わを。


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せっかくの機会ですので、
数年前に訪れた際に撮った写真を掲載します。

福田行誡上人が、
初の浄土宗管長として務められた京都の知恩院

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見覚えのある方もおられるかもしれませんが、

『【百回忌記念】 墨跡仏画集 山崎弁栄 』の6頁~7頁掲載の、
大正9年10月知恩院勢至堂別時念仏会集合写真
京都恒村家旧蔵の写真

が撮影された場所。

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こちらは、
「弁栄上人百回忌記念慈業」の一つ、
令和元年10月27日に開催予定の「別時念仏会」の会場、
知恩院の「勢至堂」

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弁栄聖者のお墓は、
「勢至堂」右の脇道を入っていきます。

道標がありますので、それに従って行きます。

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数分程登った、高台にあります。

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浄土宗の総本山、京都「知恩院」にある、
「仏陀禅那 弁栄聖者」のお墓。

「仏陀禅那」とは、
誤解を生じかねない表現ですが、
真意は、観世音菩薩がお示し下さっている、
「仏念いの一念になり切っている」状態、
すなわち、「念弥陀三昧」裡
の意。

【参考文献】
「行誡上人と弁栄上人」
(『【百回忌記念】 墨跡仏画集 山崎弁栄 』の22頁)。
なお、 抜粋が、HPでご覧になれます。


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福田行誡上人のお墓。

弁栄聖者のお墓のある墓域ではなく、
知恩院の歴代住職のお墓がある場所にあります。

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今回開催された「行誡と弁栄展」では、
お二人の傑僧のご縁、
直接的・間接的なご関係を、改めて学ばせて頂きました。

浄土宗史、いや、日本近代仏教史上においても、
主として、 金田昭教吉水岳彦両師によって、
大変貴重な資料の発見がありました。

会場には、
「行誡と弁栄展」図録(約60頁)がありました。
おそらく、行誡上人、弁栄聖者の遺墨等に関して、
これほど揃って拝観できる機会は、
まことに惜しいかな、二度と無いかもしれません。

紙面の都合等で割愛されたと推察される、
「行誡上人と弁栄上人」とのご縁に関して、
補足しておきたいことが幾つかあります。

1点目は、
「行誡上人御遷化の前
二十五条の袈裟を弁栄上人に附属し
態々送りし事を目撃せしが今いづこに在るものか、
行誡上人はその遺法伝持の任が弁栄上人にあることをしめしものにて
御墨付きも附き居たりしものなり。」

(「行誡上人の袈裟附属 館林善導寺主 塚田英亮師談」
『ミオヤの光』縮小版三巻249頁)

の記事です。


【東京都文京区 一行院】

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2点目は、
「徳本行者とのご縁、接点」です。

以前、このブログで、
徳本行者、行誡上人、弁栄聖者との繋がりに関する考察を若干試みました。
ご関心のある方は、その記事をご覧ください。

徳本行者は、
「徳本名号塔」で知られていますが、
徳本行者の思想、境界に関する研究は、
未だ未開拓の領域が多く、
その解明には、弁栄聖者研究が大きく寄与すると推察され、
今後の課題であるように思われます。

いまは、以下に、事実のみを記すにとどめたいと思います。

徳本行者(1758~1818)
行誡上人(1809~1888)
弁栄聖者(1859~1920)


ご生誕が、ほぼ50年の違いであり、
徳本行者と弁栄聖者とは、
ご生涯が、ほぼ100年の違いです。

『徳本行者伝』三巻は、
福田行誡上人編纂で、
1867年、徳本行者の50回忌に刊行されました。

弁栄聖者は、徳本行者御遷化の地、「一行院」で、
行誡上人編纂の『徳本行者伝』三巻の基となった、
一行院蔵『徳本行者伝』をよくご覧になっていたそうです。
なお、行誡上人編纂の『徳本行者伝』には、
一行院蔵『徳本行者伝』にありながら、
編纂時の意向に基づき、除かれているものもあるとのことです。

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更に付け加えますと、
行誡上人の御遷化の地、知恩院塔頭信重院は、
京都光明会が盛んであった寺院。
当時のご住職は、藤堂恭俊上人の養父、藤堂祐範上人であり、
養母が、恒村慧月夫人、熊野好月夫人の友人の藤堂庫子夫人
ちなみに、
『【百回忌記念】 墨跡仏画集 山崎弁栄 』の6頁~7頁掲載の、
大正9年10月知恩院勢至堂別時念仏会集合写真
京都恒村家旧蔵の写真
の右端の、
幼児を抱えているご婦人が、庫子夫人であり、
その幼児が、後の藤堂恭俊上人
筑後善導寺ご法主であられた藤堂俊章上人の実弟。
藤堂恭俊上人のご令室は、
「筑後の聖者」中川察道上人のご息女と耳にしたことがあります。
(中川察道上人に関しては、『【百回忌記念】 墨跡仏画集 山崎弁栄 』の579頁に記載。)

また、
「真応身と霊応身」について。

『如来光明礼拝儀』」の「至心に勧請す」、
「如来の真応身(みからだ)は在さざる処無きが故に」
「真応身(みからだ)」に関しては、
佐々木有一氏が近著の、
『近代の念仏聖者 山崎弁栄』と、
『山崎弁栄 弥陀合一の念仏』において考察されていますが、

そもそもの発端は、
藤堂祐範上人の発せられた疑問から、
若き日の杉田善孝上人が笹本戒浄上人に確認されたことが機縁となっています。

弁栄聖者の「真応身」に関する直接の解説は、
現時点では、文献上確認できていない
ようですが、
佐々木氏は、「真応身」について考察され、

「真応身」を「霊応身」への可能態。

と解釈されています。

「「報身」には、
それ自らの御境界と衆生に感応する面とが在します。
その報身の衆生に感応する面を、
弁栄聖者は「真応身」とおっしゃいました。」

(『笹本戒浄上人全集 下巻』163~165頁)

と戒浄上人はお答えになっておられます。

すなわち、
「報身」それ自らの御境界と衆生に感応する面、
その両側面は、「報身」の絶対同時態。

との解釈が可能かと思われます。

更に、
極めて重要な、戒浄上人のご教示があります。

「三身四智の仏眼を実現した後は
「絶対の報身仏を見奉る」
といい、
それ以前の三昧の場合には
「絶対の報身の御分身である霊応身を見奉る」
という。

何故ならば、
「肉の心が未だ残っておるので絶対の報身の全体と合一できない」
からであり、したがって、
「肉の心がなくなったといわれる三身四智の仏眼と区別する。」
(『笹本戒浄上人全集 下巻』161~162頁)

なお、
「九 報身と霊応身」所収の、
「第三篇 光明主義玄談」『笹本戒浄上人全集 下巻』は、
光明主義、否、宗教の奥義が説かれている極めて重要な箇所。

同名、同内容の書、
『辨榮聖者 光明主義玄談 笹本戒浄上人述 泉虎一記』
一巻~三巻までは既刊。二千円(送料別)。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。

ただし、
本書は、弁栄聖者、光明主義の「奥義書」とも言うべき内容を含む本ですが、
読解上、取扱上、"特別の注意を要する本"とも思われます。

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せっかくの機会ですので、
知恩院の歴代住職で、
弁栄聖者とご縁の深い御方のお墓もご紹介しておきたいと思います。

近代の高僧として知られた、
「知恩院七十九世 山下現有上人」。

大正5年、知恩院での弁栄聖者講述の『宗祖の皮髄』は、
山下現有大僧正ご在世時。

知恩院での弁栄聖者の講義『宗祖の皮髄』を巡る裏事情については、
『【百回忌記念】 墨跡仏画集 山崎弁栄 』
「松田貫了上人」関連記事(460頁~463頁、528頁~529頁)に詳しく記載されています。


田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、

「祖山別時 門跡猊下」に、
山下現有門跡猊下と弁栄聖者との特別なご関係の有様が記されていますが、
この記事を裏付ける資料ありますので、ご紹介します。

昭和九年、知恩院寺務所発行、
「第三編 御追悼 老猊下のお徳を慕ひ奉る 桑田寛随」
(『孝誉現有大僧正』)。


桑田師は、次の様に記されています。

「猊下が非常にお歓びなされたように私が感じました事を述べますと、
頃は大正八九年の頃かと存じますが・・・
次の一つは、
近年の或有徳の上人が山上に於ける別時の修行が終りて、
お暇乞ひに謁見せられたときの事です。
謙恭の猊下にはいつも我々が拝謁する時でも、
我々が次ぎの間へ伺候御挨拶せんとせば、
必ず同座せねば御承知ならず、
我々の不遜遠慮なる強て御辞退申しては却て御老懐を煩さんものと勝手に考えて、
奥に進むと初めて御辞があるのが例である、
此の上人も亦私が案内して、次の間まで伺候して居ると
猊下は自ら境の襖を開き、
例の如きご挨拶もなくて、早速に次の間へすべり出でられた、

面もいつもの如き謙譲の中に自ら持せらるゝ謹厳の御態度は無くて、
寧懐しき旧友を迎へて喜ぶという風に、
正座も少し崩して右手をつきて其上人の方へ倚り凭る様、
如何にも嬉しそうにして話しかけられた。

私が時々種々の階級の人をご案内した中で、誠に異様に感じた、
然し他の上人の方は矢張り尊者に対する礼儀を乱すことなく、
暫時対話せられたるは双璧の美とおもひたり、・・・」

次は、
柴武三氏の弁栄聖者に関する逸話です。

山下現有大僧上が、
弁栄聖者に「あとを頼みます」と仰られた
ことが2~3度あったそうですが、

「自分は、釈尊の御教えを皆さんにお伝えをする身でありますから。」 
と固辞されたとのことです。

弁栄聖者が深三昧定中において認識しておられた、
「超在一神的汎神」の仏身(神)観に基づく信念からのご発言で、
その認識に於いては、
「宗派宗教の各々の宗乗、組織は、狭い枠である」
と感じられていたからとのことです。

柴氏がご逝去されてから、早40年程が経過しており、
この山下現有大僧上と弁栄聖者とのやりとりのニュアンスを、
詳しく確かめる術がないのがまことに残念です。

福田行誡上人に対しても弁栄聖者の似た逸話があります。

「増上寺在住の砌に初めて対面しました。
上人は還来穢国の人で、一世の修行ではありますまい。
お話は常に尊く拝聴しました。」(山下現有上人)


(松戸のさとにて)
「御ほとけの光まつ戸の里人は
後の世までもたのもしきかな」(福田行誡上人)


行誡、現有の両上人の懐の深さと「見性の眼」の確かさには、
今更ながら、感銘を覚えます。


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大変な御長命で、
「生き仏」と多くの方に尊崇された御方。

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「知恩院八十五世 藤井實應上人」

「知恩院八十六世 中村康隆上人」

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「知恩院八十六世 中村康隆上人」は、
墓石にも彫られていますが、
中学生の頃、弁栄聖者にお会いして、
「僧侶になる決意」
をされたとのことです。


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以下は、今後の、
「弁栄上人百回忌記念慈業」の予定です。

〇 「念仏フェスティバル」
日時 2019年10月、増上寺にて開催予定
弁栄上人百回忌、観智国師四百回忌、聖冏上人六百回忌を併修

〇 「知恩院勢至堂別時念仏会」
日時 2019年10月27日予定

〇 「為先会十日間厳修別時念仏会」
日時 2019年11月26日~12月5日まで、愛知県法城寺にて
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テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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