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2019-04-03

『辨榮聖者 光明主義玄談 巻二 笹本戒浄上人述 泉虎一記』について


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『辨榮聖者 光明主義玄談 巻二 笹本戒浄上人述 泉虎一記』
2019年1月11日発行、二千円(送料別)。
順次、三巻~四巻を発行予定。
hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。

巻一については、以前ご紹介しました。

本書は、弁栄聖者、光明主義の「奥義書」とも言うべき内容の本ですが、
劇薬ともいうべき内容、表現が含まれているため、
「服薬の際の使用上の注意」が必要な、
"取扱注意の書"に類する本と云えるかもしれません。


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【笹本戒浄上人(1874~1937)】

田中木叉上人は、

「華厳絶対法相相対」

と、戒浄上人を批判されたことがおありになったそうで、
このことが、心の片隅に引っかかっていましたが、
本書を読み、胸のつかえが取れた気がしました。

戒浄上人ご生前中のご説法は、
「真実の自己」を中心とした、
如来四大智慧の一面である「平等性智」を、
ご法話上ではよく説かれており、
その在り方が、
弁栄聖者の御遺稿を編纂されていた木叉上人の眼には、
「師匠と弟子との相違」と映られたと推察できました。

ちなみに、
戒浄上人は、自覚的にその様にされておられました。

一つは、
弁栄聖者から、
「笹本の「覚(わか)り」は、
如来の平等性智を説いたものだ。
よくぞやった。」
とお褒めの印可をいただかれたこと。

二つめは、
修道論上からで、
五根五力の修行から択法覚支へ移る時の念仏が、
正しく容易にできるようにするために、
極めて大切なところ、
「自然界と心霊界をつなぐ唯一の橋渡し」のため。

また、
泉虎一氏の執拗な確認、問いに答えられ、

「私も弁栄上人の真似をさして頂いて
適当に方便を用いております。」

と、戒浄上人ご自身仰られています。

蛇足で恐縮ですが、
「方便」とは、
「うそ」ということでは勿論なく、
"真理"に導く為の、
その導かれる方にとって、その時点における"最善の真実"の意。


ここで、思い出されることがあります。

弁栄聖者の御遺稿を編纂された木叉上人が、
「弁栄聖者の方便説を除き、真実説のみを残した方がよいか。」
とお尋ねになった際、
「両説を残しておかれるように」
と戒浄上人は御教示されたとのこと。

方便説、方便説と真実説の混合説、真実説のみ、
この三種類の説が混在して説かれている弁栄聖者の御遺稿
を拝読する際に、
「見性の眼」(真実説を選び取る択法の眼)を得る様に努めることにより、
真実説が末永く残ることになるからとのこと。


本書に記されている戒浄上人の泉虎一氏への口伝、直授
"戒浄教学"を学ぶ際には、
"戒浄上人ご在世中のご自身の在り方、在り様"と、
"純粋戒浄教学(主義)"

この両側面に留意して、学んでいく必要があると痛切に感じました。

戒浄上人御在世中の実際の御教化の在り方、
即ち、衆生済度の在り方は、
必ずしも、「直線道」一辺倒ではなかった。


つまり、
戒浄上人ご自身も、
弁栄聖者とご同様、"宗教家"の側面がおありであった、
と本書で詳しく知ることができました。

ここでいう"宗教家"とは、
自内証の"真理"を説くことを最重要視するのではなく、
衆生済度の為に、"方便"も説く在り方(在り様)。

このことは、
本書の読者には、特に強調し、ご留意して頂きたい点です。
本書における泉虎一氏の表現、その劇薬への懸念ゆえ。


更にまた、本書により、
杉田善孝上人の御法話から受ける戒浄上人の印象と、
泉虎一氏から受ける戒浄上人の印象との差、

この違和感の謎もとけた気もいたしました。

とはいえ、
戒浄上人には、
弁栄聖者の真精神を伝えるという使命がおありになったので、

「木叉先生はよく
「(弁栄)聖者の皮肉骨髄の髄を承けていられるのは戒浄上人だ。
しかし上人は髄ばかりを説かれる。
もっと応病与薬のご説法をして下さるとよいのだが」
と昭和三十年代終わり頃までよく仰言った。」
(「戒浄上人と田中木叉先生」『「笹本戒浄上人伝」笹本戒浄上人全集 別巻』)

という木叉上人の逸話からも、
戒浄上人は、「弁栄聖者の念仏の真髄(見仏」)を強調されていたことが推察されます。


本書の特徴として、
更に、興味深いことは、
光明主義を信じる困難さ、難点の理由が率直に述べられている点です。

「現代の原始仏教の学者が
誰一人として異存なく釈尊の直説法を正しく伝えたと信じております
成立の最も古い原始経典のどこにも、
弁栄上人の御教え通りの三昧を釈尊が得ておられた事実は
明記してありません。」
し、

また同様に、
「善導大師、法然上人が最晩年に三身四智の仏眼を得ておられた事実も、
御自身の著述、直弟子への直説法のどこにも明記されていません」。


「しかし真相は弁栄上人の御教え通りであります。
弁栄上人の真精神通りに念仏して仏眼を得れば、
一切の人々が、真相は弁栄上人の御教え通りであることを認識できます」
と。

この戒浄上人の御教示の真偽の判釈には、
判釈者が、「仏眼」を得ていることが大前提となります。

より厳密には、「三身四智の仏眼」です。


「私は経文によって演繹的に説くのではない、帰納的に説いておる。」

この言葉は、弁栄聖者の戒浄上人への、
光明主義の理解上、極めて重要な御教示ですが、
本書にはそのことを証する逸話が記されています。

専門家の歴史的研究によりますと、
『仏説無量寿仏名号利益大事因縁経』は後世の偽作である、
偽経である、といわれておりますが、弁栄上人は、
「偽経であっても如来様の御教えを正しく伝えておるものは用いる」
と申されて引用なさいました。」


また、本書には、
文献学的にはうかがい知る事の出来ない法然上人の御境界に関する記述もあります。

「法然上人が最晩年(御遷化の数年間)に三身四智の仏眼を得ておられた」。

このことは、
『選択集』及び『三昧発得記』を法然上人が執筆した当時は、
三身四智の仏眼の境界ではなかったことを意味し、
法然上人の二祖聖光(鎮西)上人への直授は、
法然上人が『選択集』、『三昧発得記』を記された時期とほぼ重なることになります。

したがいまして、
光明会内にも、
伝統的な浄土宗乗から、更には、原始経典等の研究者からも、
必然的に、戒浄上人への批判が起こったようです。

本書には、
光明会内の、原始経典を重要視する某(K)博士の批判が引用されています。

その某(K)博士は、
文献学的、学問的観点等から、
通仏教の「縁起」、「空」を最重要視され、
したがって、必然的に、無相法身を最終根底とするお立場から、
弁栄聖者が最重要視された「見仏」を相対化されたようです。

本書では、某(K)博士を批判されていますが、
某(K)博士のご見解は、
通仏教の知識を持つ、大方の現代人の常識的見解であるとも考えられます。

弁栄聖者は「見仏」を強調され、
また、その「見仏」の意義を深く悟られた戒浄上人

「見仏」とは、
通仏教で説かれる、
"無相法身を悟るための善巧方便"では全く無く、
大宇宙の真相である、"本有無作の三身即一の大ミオヤ"と三昧合一する為の、
三身四智の仏眼に於ける三昧上の認識から帰納的に導き出された、
即ち、最深の仏身仏土論から必然的に導き出された"絶対中心道"。

本書で説かれる「直線道」の真意と思われます。

"「直線」道"という誤解を与えかねない言語表現に関しては、
表層的な印象、理解にとどまることのなきよう、切に望みます。

木叉上人は、
「光明主義は忠実にさえ研究すれば、学問の上からだけでも信じられるが、
それには相当な学問が要る。」(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)

と仰っています。

木叉上人の云われる「相当の学問」とは、
自然科学、哲学、思想、宗教学等の最先端の領域の学問的知識であり、
大部分の者には大変困難であると思われます。

光明主義が信じうる宗教かを検証するための、
一般に接近可能な方法の一つは、
弁栄聖者の行状記等の研究が推奨できます。
幸い、聖者の伝記には、 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』があり、
御遷化が大正期であり、史実に基づくもので、
この事実だけでも、大変貴重な書だと思われます。

もちろん、「十二光体系」の研究は不可欠ですが、
大変奥が深く難しいものですので、
弁栄聖者がどれほど信じるに値する方であるかを確かめるには、
聖者の伝記を読まれることをお勧めします。


本書を読まれる際の留意点は、
まだある様に思われます。

本書を注意深く拝読しますと、
微妙な表現がなされていることに気づかされます。

例えば、
「開示悟入それぞれの満位」の項目において、
「慧眼、法眼。仏眼の無量無数の三昧世界に
便宜上一往の区切りをつけて、」

また、
「私共の信念に報いて目的論的に私共をお育て下さいます事実を、
私共の方から見て自作自受といいます。他作自受とは申しません。」
などの表現があります。

前者は、
「仏眼における開示悟入」と「七覚支」の関係について、
を、定覚支、感覚的啓示の満位、
を、捨覚支、写象的啓示の一往の満位、
を、念覚支、理想的啓示の満位、
を、三身四智の仏眼、その満位を認識的一切智。超日月光位。

と、大ミオヤによる霊育過程を説かれています。

ところが、
「示を捨覚支、写象的啓示の一往の満位」と表現されているように、
写象的啓示の一部は、喜覚支において明確に自覚できると推察されますが、
その満位は、厳密には捨覚支であるとは云えないということが、
この「一往」には含意されていると推察されます。

また、法眼と慧眼とは認識機能上、区別されており、
無称光位の七覚支における霊育の内、
主として、喜覚支と軽安覚支において顕在化される認識機能であり、
喜覚支と軽安覚支における法眼と慧眼の霊育過程は、厳密には判別し難いと推察されます。
喜覚支、軽安覚支それぞれにおいて、
法眼と慧眼が、それぞれ全く独立してお育てを頂くとは考え難いです。

大ミオヤの真相が、
無相即有相、有相即無相であり、
自然界と心霊界の両面を統摂する絶対中心である、
大宇宙全一の重々無尽の絶対的現象態
であるため、
心霊差別現象を認識する法眼のお育てを頂いている三昧状態においても、
慧眼のお育ても、同時に不識的に頂かれているからこそ、
光明主義の「起行の用心」に基づく念仏では、
心霊差別現象である「霊応身」をご勧請するという信念に基づく念仏により、
無差別平等を認識する慧眼が自ずと開かれ、
先ず、慧眼満位となり、次に法眼満位となり、
慧眼と法眼が一致融合し仏眼が開かれ、
更なる大ミオヤの霊育により、
大宇宙の終局目的である「大ミオヤのお世嗣」の境界、
認識的一切智を究めていくという、
極まりなき無限向上へと導かれる、
という自然法爾の仏道
がそこに展開されると、
光明主義では説かれます。

また、別の表現では、

釈尊が説かれた人生の終局目的は、
「完全円満な霊我実現主義」、
即ち、人間に開発可能な認識機能である五眼(肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼)を円満に開発・霊化し、
完全な霊的活動をする身と成ること、

にあると説かれます。


先ほどの後者に関しては、
「私共の方から見て、自作自受といいます。他作自受とは申しません。」
と、「私共の方から見て、」という表現をされています。

大ミオヤの「自発的、能動的」働きという側面から見た場合には、
「自作自受」との表現が適切であるかどうかは、検討の余地が大いにあり得ると思われます。


本書には、
弁栄聖者が戒浄上人に仰っられた、
弁栄聖者の遺言ともいうべき言葉が記されています。

「弁栄上人はこの完全な体系の中心真髄と骨格をはっきりとお教え下さいました。
そして、その肉と皮は私共が付けるように、と申されました。」

「弁栄教学」の中心真髄が説かれていると推察される、
「戒浄教学」において究明されるべき課題として、
不勉強、不遜であるとの誹りを覚悟の上で、
特に以下の点を挙げておきたいと思います。

〇「直線道」の厳密な定義と適切な表現について
〇「自作自受」の厳密な定義と表現及び、
「回向」との関係の究明について
〇「名体不離」の宗教哲学的究明について
〇「開示悟入」と七覚支及び
「度生論」との関係の究明について
〇「開示悟入」と「観念的一切智、認識的一切智」との厳密な関係について
〇弁栄聖者が三身四智の境界に到達された時期
(三十歳頃と想定されている)の解明について
〇「(浄土における)一時的な有余涅槃」の境界の究明について
〇三身即一の大ミオヤと「無明」との関係、特にその意義について



なお、念の為に追記しておきたいのですが、
今回の記事の雰囲気から、
本書に批判的であるのでは?
との印象を受けた方がおられたかもしれませんが、
全くそうではありません。

本書の価値は計り知れないものであると認識しているからこそ、
泉虎一氏のこの記述の表現形態が、
本書の熟読を妨げはしないかとの強い懸念から、
今回の様な書きぶりとなってしまいました。

掘り出し物の中から発見されたお宝の様な本書を、
熟読されることを切に願っています。
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テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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