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2018-12-10

明恵上人と弁栄聖者に通底すること


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「明恵上人樹上座禅像」

明恵(みょうえ)上人の名は記憶に無いという方も、
この写真には見覚えのある方もいらっしゃると思います。


紀州和歌山。
弁栄聖者との関連で云えば、
徳本行者 が先ずは思い付きますが、
明恵上人も忘れることはできません。

明恵上人(1173年~1232年世寿60歳)は、
鎌倉時代に活躍された「華厳宗中興の祖」
として一般には知られています。
『摧邪輪(ざいじゃりん)』等で法然上人を批判され、
また、『夢記』を生涯書き記され、
「清僧」
としても知られています。

〇 白洲正子著『明恵上人』
〇 河合隼雄著『明恵 夢を生きる』
によって明恵上人に興味を持たれた方も多いかもしれません。


紀州和歌山有田市周辺には、
【明恵紀州遺跡卒塔婆】、別称「明恵上人紀州八所遺跡」があります。
明恵上人が没した後、
弟子の喜海が上人の修行した草庵跡7ヵ所と誕生の地に木製の塔婆を建立。

「明恵上人紀州八所遺跡」は、
目立たぬわかりにくい処にひっそりとあることが多く、
土地勘のある者でないと、なかなか辿り着けないことが想定され、
大事な時間を有意義に活用するためにも、
明恵上人関連の本、論文、ブログ(の記事、写真)、地図等で、
事前にしっかりと、確認し、計画を立ててから、
参拝されることを是非お勧めいたします。


今回は、明恵上人ゆかりの遺跡を訪れる機会を得ました。
時代がかなり隔たっていますが、
現地に来なければ、感じることのできない何かに触れた気がし、
明恵上人をもっと知りたいと思うようになりました。


〇 【吉原卒塔婆】

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平安時代後期、 1173年(承安3)に誕生した地に立つ卒塔婆。
紀州八所遺跡の一つ。
紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現在の有田郡有田川町歓喜寺字中越179)。

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【上人胎衣塚】
明恵上人誕生地の西側に隣接。
上人が生まれた時の胎盤を埋めたとのこと。

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【歓喜寺】

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明恵上人吉原遺跡に近接。上人ゆかりの寺院。
平安時代 986年(寛和二年)恵心僧都源信が創建したと伝える。
鎌倉時代中期 1249年(建長元年)
明恵上人の弟子 喜海が湯浅宗氏の協力を得て再興。

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【紀州和歌山 湯浅】

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明恵上人とゆかりの深い紀州和歌山湯浅は、
醤油で栄えた地として全国的に知られていますが、
また、熊野への街道が開けていた地でもありました。

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【施無畏寺】

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和歌山県有田郡湯浅町栖原1465。 
JR 湯浅駅から、3キロ程。
駅近くにレンタル自転車がありますが、
結構きつい坂道もあるため、車でないと厳しいかもしれません。

明恵上人開創。
上人が修業をした白上山の中腹にあり、
境内からは、湯浅湾に浮かぶ明恵上人ゆかりの刈藻島、鷹島が見えます。
春には桜の名所としても有名なお寺。

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「施無畏寺」を左手に見ながら、数分程登ります。

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明恵上人は、ここから更に登った、
白上山にこもり、修行をされました。

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〇 【西白上卒塔婆】
和歌山県有田郡湯浅町栖原。
西白上山頂上にあり、
1195年(建久六年)、23歳の時、
草庵を建て厳しい修行をした処。

〇 【東白上卒塔婆】
和歌山県有田郡湯浅町栖原。
明恵上人は、西白上が騒がしいため東白上に移り、
覚悟を新たにし、右の耳を自ら切った。
その翌日、眼前に文殊菩薩が顕現し、霊感を得

明恵上人は、武士の御子息ということもありましょうか、
とても激しく、潔癖な面があったようにも思われます。


この項目に関連し、ネットでも読むことができる示唆深い、
「参考文献」としては、
『明恵をめぐる奇瑞と信仰の磁場
― 白上峰の文殊顕現と春日明神の託宣 ―
平野 多恵』



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【仏眼仏母像】

明恵上人がとても大切にされた「念持仏」


明恵上人は、この事と関連した宗教体験時の心境を記録に残しています。

「虚空カガヤクコトカギリナシ、ソノ光明ノ中二、
大聖マナアタリ現ジタマフ、歓喜勝計スベカラズ」。


この時の宗教体験は、
明恵上人に大変な影響を及ぼしたらしく、

「皆に説法などできるのも、あの文殊顕現を見たおかげである」
と弟子たちに、この時の事を語られていたといわれています。


「仏を見る事(見仏)」が、何故それほど重要なのか
と疑念を抱かれれる方もいらっしゃるかもしれません。

弁栄聖者は、
「見仏三昧」を生涯強調
されました。

三昧定中における「見仏」においては、
「見る」ことが、五感の一機能である「視覚」のみならず他の感覚をも包含。
また同時に、
「大宇宙全一の大心霊態は、
大智慧態にして妙色相好身。
色心不二の大心霊態」
故に、
「見仏三昧」の宗教体験は、智慧の啓けが必然。

弁栄聖者は、
御自身の三昧体験による自内証の上から、
『華厳経』、『大乗起信論』等に基づき、各書に説かれています。


「道場に入る毎に生身の仏の御坐と思て、
正く生身の如来の御前に望む思を成べし。
木に刻み絵に書たるを生身と思へば、
やがて生身にて有なりと云々。」
(『栂尾明恵上人遺訓(『阿留辺畿夜宇和 あるべきようわ)』)


「彼の十住の菩薩、
如来の微妙の色身を愛して、菩提心を発(おこ)す。
これ即ち、親愛の菩提心なり。
況や、軽毛退位の凡夫有徳の人に於て、
愛心無きは、即ち法器に非ざる人なり」

とは、明恵上人の大変示唆に富む御教示。


明恵上人の『夢記』の第一人者の奥田勲氏が、
『明恵 遍歴と夢』において、
明恵上人の夢の特徴を分析されています。

ユング派の「能動的想像」を連想します。
芸術家の創造的作品とも共通するもので、
作品の自律性と作者とのある種の緊張関係、
多量の心的エネルギーが必要である点が、
空想とは決定的な相違点。

また、
「夢が個人のものではなく、集団の共有物」、
「夢の共有」という興味深い観点。


「四十歳代の明恵に弟子として近侍した隆弁は、
明恵は常に、坐したまま熟睡するのを見たという。
その時、印を結んだ手を右脇に当てて眼をふさいで眠りに入り、
それによって未来のことを知り、
他人の心中を透視することができた
という。」

と、同書の「夢を見る方法」において、
大変興味深く、貴重な記録が記されています。


「(弁栄)聖者はお念仏しておられる時に
よく木魚のバイが止まっていることがある。
・・・
私どもはそれが眠っておられるのではないかと思っていた。
・・・それは三昧に入ったことのない者には
眠っておられるようにみえる」

(鈴木憲栄著『ミオヤとのめぐり会い』)

笹本戒浄上人にも似たような逸話が、
身内である御子息の戒浄上人の念仏のご様子の描写にもあることから、

"明恵上人の眠り"とは、
三昧定中の御様子
と推察します。


明恵上人は、
「釈尊」を慈父、「仏眼仏母像」を慈母の如くに憶い、
三昧修行をされました。

この「釈尊」及び「人格的如来身」への一途な思(恋)慕は、
弁栄聖者とも共通し、注目すべき特徴であり、
明恵上人と弁栄聖者が「石化」しなかった理由とも思われます。

明恵上人は、
或る時期から「仏光観」に基づく修行法をされましたが、
この点に関しては、後ほど触れたいと思います。


また、
生涯禅定修行に精進された明恵上人には、
不可思議な力(法力)、いわゆる「超能力」がありました。

そんな上人を「権者」と、
人々が言っていると弟子たちが伝えると、

明恵上人は、慨嘆して次のように言われたと伝えられています。

「あら拙(つたな)の者共の云ひ事や。・・・
我は加様に成らんと思う事は努々(ゆめゆめ)無けれども、
法の如く行ずる事の年積るままに、
自然と知れずして具足せられたる也。

汝どもが水の欲しければ水を汲みて飲み、
火にあたりたければ火のそばへよるも同じ事也」。

弁栄聖者にも似た様な逸話が多数残っており、
その種の事は日常茶飯事
であったようです。

弁栄聖者が川べりを歩かれていた時、
急に立ち止まり、念仏をされたことがありました。

侍者がその理由を聞くと、
「水底に死体がある」と言われた。

村人の話しによると、水死体が上がらず困っていたので、
半信半疑でその場所を探したところ、
水死体が見つか
りました。
そのことを聖者にお伝えすると、
「そうですか」と特に気にされていないご様子でありました。


「五眼(※)明了に開き来て
始めて円満なる仏教を信ずることを得べし。」(弁栄聖者)


※ 五眼とは、肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼のこと。
仏教では古来より、人間に開発可能な一切の認識能力を五眼に分けて説く。
(参考文献:「成所作智」『弁栄聖者光明体系 無辺光』)


この明恵上人と弁栄聖者の逸話に通底する大切な御訓示は、
時に世間を騒がす"超・能力"と云われる現象に対するあるべき態度です。

"その種の能力は、修行により、自ずと具足されるものであり、
その能力それ自体には、真の価値は無い。
真に価値があり目指すべきは、
その法力を生かす大智慧と大慈悲を兼備した霊格"


真に尊崇出来得る尊者方に共通した顕著な特徴であり、
宗教現象と向き合う際の、極めて大切な心構えだと思われます。

なお、この「超・能力」に対する姿勢は、
とても重要なことだと思われますので、
ユング派の"共時性(シンクロニシティ)"・"布置(コンステレーション)"
の概念を通して、後ほど改めて考察したいと思います。


明恵上人は御臨終の間際に、
「我、戒ヲ護ル中ヨリ来ル」と告げられたといいます。

明恵上人が批判された法然上人は、
三昧発得された、明恵上人同様「生涯不犯の清僧」でもありました。

法然上人にとっては、
「戒ヲ護ルコト」が念仏三昧の中で、自ずと成就されていらっしゃいました。

「見仏の要は、一切心意を仏化するにあり。」
とは、弁栄聖者の御教示であり、

「見仏」による功徳には、戒体発得の力用(働き)もあります。

このことは、
法然上人の『御臨終日記』に、

法然上人が、御臨終時に、
「慈覚大師の九条袈裟を着し」

と、法然上人が念仏三昧発得に伴う霊化により、
「戒体発得」されていた
ことが、
象徴的に見事に記されています。

『御臨終日記』は、
(見仏)三昧発得による功徳とは何か
を具に知り得る大変貴重な資料
ともなっています。

なお、
「戒律」に関して、
明恵上人の示唆に富む逸話があります。

「上人常に語り給ひしは、
「幼少の時より、貴き僧に成らん事を恋ひ願ひしかば、
一生不犯にて清浄ならん事を思ひき。

然るに、何なる魔の託するにか有りけん、
度々に既に婬事を犯さんとする便りありしに、
不思議の妨ありて、
打ちさまし打ちさましして、

終に志を遂げざりき」と云々。」
(平泉洸全訳注『明惠上人伝記』)

ここで、留意すべきは、

"戒律を守ることができる"必須条件として、
"克己心の強さ(自力)"と、
"不思議の妨げありて(他力)"
という自力と他力の両面からの表記をされている点です。


明恵上人は、
アッシジの聖フランチェスコと比較されることがあります。
1986(昭和61)年
イタリアアッシジの聖フランシスコ教会とブラザーチャーチの約束を結ば
れました。


なお、
今回は、明恵上人の法然上人批判書である『摧邪輪(ざいじゃりん)』については、
深入りしませんが、
河合隼雄著『明恵 夢を生きる』に、とても気になる箇所がありますので、
その個所を是非引用しておきたいと思います。

明恵上人『夢記』で、建永元年(1206年)11月とされている夢。

「一、一つの檜皮屋(ひはだや)有り。
一人の長高(たけたか)き僧有り。
白衣なる心地す。笠を著たり。
心に思はく、法然房也。
我が仏事の導師すべし。
其の聴聞の為に來られ、我が房の中に入りて、饗応して二三日を過す。
明日の仏事を、使者を以て白さく。
「日来、仏事結構之間に、忩々(そうそう)に走り過ぎ了んぬ。
今夜見参加に入らむと欲す。
明日は時畢(をは)りなば仏事有るべし。
其の以前は又、忩々為(た)るべき」由をと云々。」

「一、南都の修学者筑前房等、侍従房に來る。
此の破邪見章を見せしむとて、又、上師、之を御覧ず。
心に思はく、よひに御覧ずべき由を申しき。
之に依りて御覧あり。
其の御前に人ありて、此の書を隨喜して哭すと云々。
上師云はく、「えもいはず貴き書也」と云々。」

この夢記の執筆の時期に、
河合氏ならではの関心を寄せています。

法然上人著『選択(本願念仏)集』の執筆は、
建久9年(1198年)、上人66歳の時に、
九条兼実の懇請により、
執筆されたとされるもの。
ところが、この書は、
誤解を招きかねない内容を含むものであるため、
最末尾に、

「庶幾こいねがわくは一たび高覧を経てのち、
壁底に埋めて窓前に遺すこと莫れ。
恐くは破法の人をして、悪道に堕せしめんことを」

と一部の者にしか書写を許されなかった書でした。

勿論、
このような思想が、突然出来あがるはずのものではなく、
しばらく前から、法然上人の言動等には、顕われていたはず。

明恵上人の『摧邪輪』は、
建暦2年(1212年)、
法然上人の御遷化(80歳)後に、書かれもの。
この書も、これほど短期間で書き上げられたかは疑問が残ります。

もしも、この夢が、建永元年(1206年)11月であれば、
明恵上人は、『選択集』を読んでおらず、
明恵上人は当時、法然上人を尊敬されていたので、
自分の導師に法然上人を、とはそれほど不自然ではありません。

ところが、
「破邪見章」を『摧邪輪』とすると、
前の夢も『摧邪輪』執筆後となります。
明恵上人の『夢記』には、
「記事に錯乱や順逆が考えられる」
と云われています。

とすると、
この夢の解釈は大いに変わり、
河合隼雄氏は、

「意識的には明恵は法然を烈しく非難しつつ、
無意識には法然を評価していたことになってくる」。


また、夢の中の、
「我が仏事の導師すべし」は、
原文では、
「我、仏事の導師すべし」とも読め、
後者とすると、明恵上人が導師となる。

真に興味深い仮説を提起されています。

なお、
「我、仏事の導師すべし」を、
明恵上人が法然上人の導師となります。

明恵上人が、
法然上人が『選択集』に込められた深意を受け取られ、
その深意を受け取られた夢の明恵上人(=最晩年の円熟された法然上人の思想等)が、
『選択集』執筆時の法然上人の導師となっている。
と解釈することが許されれば、
また、とても意味深い夢ともなります。


もう一点、
次の夢は、河合氏も注目されていますが、

明恵上人の『冥感伝』
承久二年八月の夢に、
「初夜の禅中に、
身心凝然として、存るが如く、亡きが如し。
・・・予、杖に懸りて速かに兜率天に至り、弥勒の楼閣の地上に着す。
その間、身清涼として心適悦す。」

三昧宗教体験の功徳が、
心のみなず身体性へも及ぶ
ことは、注目すべき点。

ここでも留意すべきは、
明恵上人にとっては、あるいはこの時代の常識では、
「夢と三昧定中との境界が混然一体」となっている点。


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西白上笠塔婆の近くから、
湯浅湾に浮かぶ鷹島と苅藻(かるも)島を眺められた
と思いますが、
お詣りできなかったため、「施無畏寺」付近から。

明恵上人が手紙を出された、島。

明恵上人は、
釈尊を慕う気持ちが殊の外強く、
度々、鷹島や苅藻島に渡り、天竺(インド)に向い礼拝されていたようです。

鷹島では、小石を拾い生涯大切にし、
「われさりて のちにしのばむ 人なくば
とびてかれね たかしまの石」(明恵上人)


川端康成氏が、
ノーベル文学賞授賞記念講演、
「美しい日本の私―その序説」で引用されたことでも知られる
「月の歌人」とも称される明恵上人作の、

「あかあかや あかあかあかや あかあかや
あかあかあかや あかあかや月」


「仏光三昧」定中のご道詠かと。

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〇 【筏立卒塔婆】

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和歌山県有田郡有田川町歓喜寺字西原1103。
『華厳経』 修行の地。

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明恵上人、26歳~29歳、
1198年(建久九年)から三年間修行を重ねた所で、
ここで「唯心観行式」や「随意別願文」などを著す。
笠塔婆は破損の為、1802年(享和二年)に再建。

遺跡の西側(向って左)の平地は御厨平と呼ばれ、
華厳院建久寺があったと伝えられています。

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〇 【糸野卒塔婆】

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和歌山県有田郡有田川町糸野字上人谷650-1。

明恵上人、29歳~30歳。
1202年(建仁二年)伯父 上覚上人から伝法灌頂受けた所に立つ卒塔婆。
紀州八所遺跡の一つ。
伯父の地頭職 湯浅宗光の招きにより、
ここ糸野 成道寺背後の草庵に移住。

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〇 【星尾卒塔婆】

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和歌山県有田市星尾700和歌山県有田市星尾。

目印は、
「天台宗 星尾山 神光寺」(和歌山県有田市星尾700)へ行く少し手前の小高い処にあり。

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明恵上人が修行の為、草庵を結んだ跡で、
紀州八所遺跡の一つ。

1203年(建仁三年) 上人 31歳の時、
ここで春日大明神の託宣を受けました。
春日大明神の御託宣によりインドへ渡ることを思いとどまりました。
刻銘は、明恵上人の高弟 喜海が1236年(嘉禎二年)に建立した
木造卒塔婆の文面がそのまま刻まれています。
明恵上人の弟子の喜海が嘉禎年中に立てた木造卒塔婆が古くなり、
1334年(康永三年)弁迂が勧進し、石造卒塔婆に建替え。

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〇 【神谷後峰卒塔婆】

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和歌山県有田郡有田川町船坂字聖人793-1。

明恵上人、32歳。

神谷後峰遺跡は山深い所、
細い道路のさらに下、みかん畑の中にあります。

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師 文覚の対馬配流に始まる一連の混乱を避ける為、
この地域の古刹 最勝寺の裏山に草庵を建て移住。
ここでは大仏頂法(敬愛・息災・増益の行法)を修す。

この地で、再び、天竺行を計画。

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〇 【内崎山卒塔婆】

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和歌山県有田郡有田川町井口22-2

明恵上人が、36歳から38歳頃まで修行を行った地とされています。
養母の崎山尼が夫の没後、当地に寺を建て明恵上人を招きました。
明恵上人は、その背後に草庵を建て修行を行いました。

ところが、
明恵上人紀州八所遺跡の中、
この崎山遺跡のみが、卒塔婆の所在が不明となっており、
遺跡の正確な位置が不明とのこと。

現在、法蔵寺の境内に復興された卒塔婆が立っています。

それで、町指定史跡。

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※ 特に、今回の参拝にあたり、下記のブログがとても参考になりました。
感謝いたします。
『明恵上人(みょうえしょうにん)紀州遺跡 笠塔婆』


この後、明恵上人の活動の中心は
京都栂尾高山寺に移られました。


先にも触れましが、
明恵上人の宗教性を知るには、
河合隼雄著『明恵 夢を生きる』が特にお勧めです。
ユング心理学をベースにした臨床心理学者であった河合氏の、
明恵上人の行状と明恵上人の夢の記録の解釈が、
とても興味深くかつ示唆にも富んでいます。

河合隼雄氏は、
「ユング心理学」の日本への紹介者として知られています。
現在、カウンセリングに係る資格問題を巡って、
議論の渦中にあるようですが、
日本に心理臨床の精神を根付かせた功労者として、
大方の合意は得ているように思われます。

現在の心理臨床の世界は、
深層心理学的な療法よりも、認知行動療法が主流となりつつあるようです。
河合氏の臨床的英知には依然学ぶべき点は多いですが、
あるいは今後、「思想家 河合隼雄」の面が認識されていくのかもしれません。

「思想家 河合隼雄」に長年注目されている、批評家の若松英輔氏は、
「たましいを旅するひと──河合隼雄」を、
月刊誌『群像』に連載中。


明恵上人は、
河合隼雄氏にとって、日本人としての唯一の師でありました。

河合氏が、明恵上人に関心を深めていかれたのは、
「心理臨床の実践」を通してでした。

何故、「心理臨床の実践」を通してであったのか。

河合氏が心理臨床家であったということは、
面接室という「非日常的な空間」での事象であったことを意味します。
それ故にこそ、
「意識が特別な状態であり続けられた」ことになります。
そのことは、 「特別の意識状態を保ちながら」
「強烈にコミットして、関与した存在であった」ことも意味します。

往々にして、自身に関することは盲点となりますので、
信頼でき、関与しながら観察する他者の存在(視点)が不可欠

河合隼雄氏はユング派ですので、当然「夢分析」も用います。
もちろん、「夢分析」だけではなく、「箱庭療法」等も用いられました。

河合氏は、日常では、冗談を連発し、
おしゃべり好きの方とお見受けしましたが、
心理臨床場面においては、
意外なことに、
極めてストイックで、無口な面もあったようです。
天性の"臨床感覚"にも優れ、
極めて"リアリステイック"な方でもあったように思われます。
"リアリステイック"とは、
現実の真相(深層)を察知する「透見の明」の持ち主。


明恵上人は、「夢記」で知られていますが、
「夢」については、通常、あまり顧みられず軽視されがちです。

少なくとも数週間、出来得れば、数か月間に渡り、
夢を記録し、その夢についてしばらく思い巡らし、
その際に、現実との関連性をも注意深く観察出来れば、


「「夢」は、決して荒唐無稽の出鱈目な産物ではなく、
そこに、意味が有りそうだが、よく分からないことが多い。
また、夢は、夢見ての意識状態、実生活と密接に関連しながらも、
必ずしもそれと一対一対応の関係にあるとは限らず、
そこには多義、多層的な意味がありそうだ。」

ということにおそらく気づかれるでしょう。

また、同時に、
夢の不可解さを抱える困難さを実感し、
明恵上人が、何十年にも渡り「夢記」を記せたこと、
その長期間の継続それ自体に、驚嘆されるかと思われます。


「睡眠」、「夢の意義」は、
現代科学においても今だに定説が無いようです。


「仏は夢を見ない。」

と云われますが、
この言い伝えは、意味深長であり、
「夢とは何か」を考察する際の示唆を感じます。

あるいは、
「夢とは仏へと至る道でもある。」
とも言えるかもしれません。


河合隼雄氏の京都大学の最終講義は、
「布置(コンステレーション)」でした。

「コンステレーションー京都大学最終講義ー」(『こころの最終講義』)に、
真に幸いなことに、その記録が残されています。

河合隼雄著『明恵 夢を生きる』では、まだ遠慮気味であった、
心理臨床上、日常生活上にも、とても重要と思われる、
「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」について、
河合氏の経験と思索の深まりを感じます。

河合氏は、
「共時性(シンクロニシティ)」、「布置(コンステレーション)」の概念の紹介には、
極めて慎重
でありました。

河合氏の特異な特徴として、
鋭敏な"政治的感覚"とも呼ぶべき感覚があるように思われます。
賛否両論はあったようですが、
河合氏は、文化庁長官も務められました。


ご自身の心理臨床実践を通して、
「共時性(シンクロニシティ)」、「布置(コンステレーション)」の現象には、
「主体者と関与者の在り様(関係性)が重要な意味を持つ。」
ことを次第に認識されていかれました。

また、
「布置(コンステレーション)」に関して、
「気配を読み取る」態度、
つまり、「見えないものを感知する力」の重要性を指摘されています。

ここで河合氏が、
「気配」と表現していることに留意したいと思います。


「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」に対する、
河合隼雄氏の姿勢に関して、
是非触れておかねばならぬことがあります。

「コンステレーションー京都大学最終講義ー」
(『こころの最終講義』河合隼雄著)
において、

「「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」は、起こせるのか。」

と、河合氏自身にとって、極めて切実で重要な問いを発しています。

河合氏の師であるA・マイヤー先生の心理療法についての
シュピーゲルマンの論文に、

「マイヤーはその人の自己実現の過程をコンステレートするんだ。
そして、その人が自己実現の過程をコンステレートして自己実現の道を歩む限りにおいて、
その人とともについていくのだ」。

これは、河合氏にとって非常に衝撃でした。

「人間が何かをコンステレートするなんて他動詞として用いることなど
考えられないと思っていたんですね。」


これは、一面とても合理的な思考の持ち主であった河合隼雄氏らしい感想。

河合隼雄氏の心理臨床実践の真骨頂は、
「コンステレート」に関する、
その自動詞と他動詞を巡る真摯な対話の内にこそあった。

これこそ、「思想家 河合隼雄」の誕生の源泉でもあったと推察されます。

後年、河合氏が、
明恵上人と、イスラーム神秘哲学の権威でもあった井筒俊彦氏に導かれて、
『華厳哲学』に特別の関心を深めて行かれたのは、必然でありました。


「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」の現象への関心は、
特定の宗教を信じているか否かを問わず、
「人間を超えた働き」を感知する貴重な契機
また、現世での生活を意義深いものへと深化させる機会
ともなりうるものと思われます。

「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」という現象は、
実は、日常的にありふれた現象、出来事でありながら、
通常は、私たちの意識からこぼれ落ちていることが間々ある
ということなのかもしれません。

ただし、
「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」の読みには、
いわゆる「唯一の正解」はなく、
したがって、浅深の捉え方の差はありえます。
当事者本人に、その意義付けが、
「腑に落ちるといった感触が、一つの重要な手掛かり」
となるかもしれません。

『弁栄聖者御遺稿集 無辺光』で詳述されている
「大円鏡智」・「妙観観智」の如来無差別智の知見が、
有益な手掛かりとなる
ようにも思われます。


河合氏の著作の中から、
この「共時性(シンクロニシティ)、布置(コンステレーション)」に関して、
示唆に富む箇所を若干引用します。

〇 「要するにコンテレーションを見るというのは、
いいときに後ろを見ないとだめなんですね。

・・・心理学者は、後ろからいろんなのが来ているのに全然見ない。
時々、非常に上手に、何にもないときに後ろを見るんですね。
そして、言うんです。・・・
「後ろを見ました。完全に見ました。何にもありませんでした。
・・・私は実証的にやっております」と言うんだけれども、
一番大事なときには後ろを向いていない。」
(「コンステレーションー京都大学最終講義ー」『こころの最終講義』河合隼雄)

河合隼雄氏一流の、
"リアリティ"に触れようとしない実証主義を標榜する心理学者批判。


〇 「実際にぼくが遭遇している現実では偶然ということが多いんですよ。
ぼくはときどき冗談半分で「あなたは絶対に治らないだろう」と患者さんに言う。
しかし、偶然ということがあるから、ぼくはそれに賭けているからやりましょう」と言う。
そして実際にそうなるんです。
ぼくは何をしているかというと、偶然待ちの商売をしているんです。
みんな偶然を待つ力がないから、何か必然的な方法で治そうとして、全部失敗するのです。
ぼくは治そうとなんかせずに、ただずっと偶然を待っているんです。」
(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)

"何故、河合隼雄氏には、偶然が頻繁に起こったのか。"

この問いは、極めて重要な問い。
認知科学の知見だけでは、解きえない現象だと思われます。


「何もしないことに全力を傾注する。」
とは、河合隼雄氏の口癖でありました。

この"臨床的構え"を身に付けるには、
どれほどの修練と凄まじい心的エネルギーが必要であることでしょう。

村上春樹氏と云えば、
全世界的な読者層を獲得している大作家。
その村上氏をして、
「"自分が云う物語"ということを理解できる唯一の人物」と云わしめたのが、
河合隼雄氏でした。

「魂のいちばん深いところー河合隼雄先生の思い出」:村上春樹

全世界的な読者層を獲得する作家の洞察による、
真に鋭く、的確で、優れた「河合隼雄評」。


〇「小川 秘密を守らなくてはならないという先生のお仕事は、
すごく苦しくて大変でいらっしゃるのでしょうね。

河合 ・・・僕はこの頃よう言ってるんですけど、
「僕はアースされているから大丈夫」なんです。
・・・「うん、それで、最後は地球にお任せしてるってね(笑)。」
(小川洋子 河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』)

河合氏は冗談風に語られていますが、
特別な宗教的修行をせず、
心理臨床に真摯に取り組まれることによって、
この境地にまで至られたのかとの驚きを禁じえません。

精神分析では、「転移⇔逆転移」ということが大変重視されます。
濃密な人間関係に不可避のある種の強烈な相互作用に無自覚故に、
関係者双方、周囲にとっても不利益となる場面を見聞きしますが、
河合氏は、その困難さを克服されつつあったのでしょう。

なお、ユング派の、
A・グッゲンビュール=クレイグ著
『心理療法の光と影 援助専門家の《力》』

は優れた名著で、とてもお勧めです。
近日中に復刻とのことで、大変喜ばしいことです。


弁栄聖者が、
一所不住の布教活動がお出来になったのは、
"並々ならぬ克己的な自力的な精進力"だけではありえません。

「・・・教え主世尊が六根常に清らかに光顔(みかお)永(とこ)しなえに麗しく在ししは 
内霊応に充(みち)給いければなり」

『如来光明礼拝儀』にあります。

この箇所は、『無量寿経』の「三相五徳」として知られた箇所ですが、

「『内霊応に充(みち)給い』とは、
無住処涅槃の如来無対光の境界における
応身仏釈尊の三身四智の仏眼に依る自受用三昧を、
弁栄聖者が表現されたもの。」


と笹本戒浄上人はご教示されています。

「弁栄聖者の精力的な布教活動の源泉は、
こんこんとして湧出する"大ミオヤ"の神的エネルギーの供給。」



河合隼雄著『明恵 夢を生きる』には、
他にも、明恵上人の身体性、女性性、宗教と性の問題等、
とても興味深く示唆に富む考察がなされていますので、
是非お読みになってください。


なお、
明恵上人の宗教性に関しては、
河合隼雄著『明恵 夢を生きる』の他では、
町田宗鳳著『法然対明恵 (講談社選書メチエ)』を是非お勧めします。

「法然を語る人の多くは、
念仏信仰の普及者としての「表」の法然しか見ていません。
彼の実力は、念仏の「裏」にあったのです。
「裏」とは深い宗教体験のことですが、
それこそが法然をして「思想の革命家」ならしめたのです。」

この町田氏の慧眼に驚きと共感を覚えつつ、
町田氏の法然上人観と明恵上人観を、
一種興奮に似た感情が混じりながら読み進めて行く内に、
いつしか、法然上人と弁栄聖者が重なっていました。

弁栄聖者口述『宗祖の皮髄』のことが、
念頭から離れませんでした。

町田氏に興味を覚え、後日、
町田宗鳳著『法然・愚に還る喜び 死を超えて生きる』を拝読し、
町田氏御自身の臨済禅の修行中の体感は、
「無」・「無心」というよりも、
むしろ念仏三昧の境地の方が相応しいと
感じらるようになられたことを知りました。

その契機となったことが、
鞍馬の山奥にあった
京都修道院での集中的な別時念仏会への参加」でした。

「鞍馬の山奥にあった京都修道院」とは、
おそらく、
京都大原百井の山奥に開かれた、
日向美則氏主催の超宗派的な修道院。
似た名称の京都光明会の恒村夏山氏が主催されていた、
京都梅ケ畑の修道院ものとは別組織。
日向氏は、弁栄聖者の影響を強く受けながらも、
独自の宗教体験と比較思想研究等により、
超宗派的な教学と組織を築かれました。

日向氏の御逝去後、
現在この組織の動向については、よく分かりません。


町田氏の同書には、
数々の興味深く、示唆に富む知見がちりばめられています。
幾つかを引用します。

「宗教のあらゆる要素ー禅と念仏、仏教とキリスト教、
一神教と多神教ーも法然さんにはあると考えた。
この人ひとりを学んだら、
世界のあらゆる宗教のことを論じられると確信したのです。」

「とりわけ法然と関連性があると私が思っているのは、
空海の三密加持です。」

「現在の日本仏教は、浄土、禅、日蓮という系統が表に出ていますから、
やはりイメージを重視する系譜にはないのです。」

「法然の偉大さが語られるとき、
たいていは専修念仏とかイデオロギーのレベルの話になってしまいますが、
じつのところ私はそっちにはあまり関心がない。
彼のイマジネーションを論じることには大きな意義があると思いますよ。」

ただし、町田氏が使われる、
「幻視」という表現には、注意を要するように思われます。


更にもう一点、
ご遷化の年齢についてです。

法然上人のご遷化は八十歳の大変なご高齢でした。

弁栄聖者も六十代の前半という比較的若いご遷化でしたが、
明恵上人、道元禅師、日蓮上人が、
後、十年あるいは二十年長生きされたとしたら・・・

例えば、身体が不自由な高齢を迎えた際の、
明恵上人、道元禅師の修行方法とは。
日蓮上人の布教活動、浄土観は。

御無礼を顧みずに申せば、
宗教体験の内容、修行内容、教学上に変化があったかもしれない・・・
そんな想像をします。


最後に、
明恵上人と弁栄聖者に関して、
今後の究明が待たれる点について、記しておきたいと思います。

明恵上人は、後年、
「仏光観」を御自身の修行の中心に据えられました。

この「仏光観」による修行は、
朝鮮華厳の李通玄居士の影響によるもの。

法蔵系譜の「学問中心」の華厳教学ではなく、
「実践重視」の李通玄居士系譜の華厳による修行法でした。

元大正大学教授大南龍昇現光明園園主の、
「七覚支説の変遷」論文には、
弁栄聖者と李通玄居士の説が比較検討されています。

通常、「三十七道品」中「七覚支」は、
「念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支」
と説かれます。

ところが、
弁栄聖者と李通玄居士は、
「択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支・念覚支」
と、念覚支と択法覚支の順番を逆転されています。

なお、
『正法眼蔵』第六十 三十七品菩提分法には、
「択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支・念覚支」とあります。

今後の解明が待たれます。


「明恵上人と李通玄」については、

〇 「Ⅲ 明恵とその周辺」
(末木文美士著『鎌倉仏教形成論ー思想史の立場からー』)

〇 田中久夫著『明恵』
〇齊藤 紀夫著 『現代に生きる稀代の高僧「明恵上人」』
修士論文を元に、2017年6月刊行に書籍化。
〇 かなり専門的なところでは、小島岱山氏の諸論文等。


上述したもの以外で、明恵上人理解に有益と思われる、
幾つかの参考文献等を御紹介したいと思います。

〇奥田勲、 平野多恵、前川健一編著『明恵上人夢記 訳注』
明恵上人の夢記の第一人者の奥田氏研究グループによる労作、2015年2月刊。
〇「明恵上人夢記」『Blog鬼火~日々の迷走』
「明恵上人夢記」の私的読解記録。
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山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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