2017-12-11
愛媛県松山市「浄土宗 浄福寺」における、大島玄瑞上人の弁栄聖者とのご邂逅





伊予松山。
四国初の、弁栄聖者の御結縁地。
道後温泉、夏目漱石、正岡子規・・・
あるいは、司馬遼太郎氏によって、秋山兄弟でも知られているかもしれません。


四国伊予(現 愛媛県)松山の「浄土宗 浄福寺」。
(注) 同じ松山市内には、浄土真宗の同名のお寺があります。
訪問の際には、ご注意ください。
実は、
大島玄瑞上人が弁栄聖者に初めてお目にかかったたのは、此処ではありません。
遡ること、十数年ほど前、明治三十年代の半ば頃。
東京小石川の宗教大学(現大正大学の前身)講堂で、
聖者の講演を聞かれたことがありました。
その当時の弁栄聖者の印象として、
大島上人は、次の二点が印象に残るのみでありました。
○通学中の学生が、
「早く講義が終わらないと帰りの汽車に間に合わなくなる。」
と内心心配しながら聖者の講演を聞いていた時、
弁栄聖者が講義を中断し、突然、
「この中で帰りの汽車の事を心配している者がいるが、
その汽車はいつもより遅れて到着するので、
話しが終り、急いで行けば間に合う。
心配には及ばない」と。
翌日、その学生が語った、
「果して十分間に合った。奇異の思いがした。」
との話しが印象に残ったこと。
○もう一点は、その時の弁栄聖者の講話内容について。
宗乗の「指方立相」に反して、
「現在に重点」を置く趣旨で、
「是れ全く異安心者である。浄土教の破壊者である。
異端者である。大いに排斥すべきである。」
と大島上人は憤慨され、それから聖者を避けられた。


それから歳月が流れ、
大正5年、伊予「大林寺」住職拝命。
更に数年の歳月が流れた、
大正9年3月、熊本市内での本山巡教中でのこと。
高座に登り、お十念の後、第一声、
「お念仏は有り難い」と。
すると、
「教師様はお念仏が有り難いですか」
との無言の反響。
「念仏は不断相続が肝要である」と。
「教師様は能く念仏不断相続せられますか」。
との無言の反問の来る無声の声。
脇下からの脂汗、熱湯の如く、慚愧筆舌に尽し難く、
「この不浄説法師と己を責め」られ、
松山の自坊で、この忸怩たる思いを胸に秘め過ごされていた。
そんな折、
同年6月、浄福寺檀信徒の先祖追善供養の法要の話しがあり、
不思議なご縁の巡り合わせで、
広島の「心行寺」の佐々木為興上人とのご縁から、
愛媛教区教学講習会の講師に是非との要請を受け入れられ、
弁栄聖者が、伊予松山に。
為興上人と光明会員の木魚を叩き、
オルガン伴奏による聖歌を聴きながら、
「何だか耶蘇臭いわい」と一同ざわつかれたようです。
御法話は、「宗祖の皮髄」について。
(『法然上人の神髄 (現代語訳「山崎弁栄講述 ──『宗祖の皮髄』』は、こちら)
その時かわされた、
大島玄瑞上人と弁栄聖者との主要な問答は、以下の四つ。
(大島上人) 「光明会の念仏は難行道に非ずや。」
(弁栄聖者) 「難易二道は安心上の問題にして起行の問題ではない。」
(大島上人) 「『選択集』の何処に見仏の思想有りや。」
(弁栄聖者) 「もう一度深くご覧なさい。」
(大島上人) 「常に仰せられけるお詞(『勅修御伝第二十一』)の
「近来の行人、観法をなす事なかれ。・・・・」」について
(弁栄聖者)「 『大日比三師講説集』の御伝廿一巻 をご覧なさい。」
(大島上人) 「凡夫は見仏は不可能でしょう。」
(弁栄聖者) 「業障懺悔、念念一心にお念仏が大事です。
往生見尊体、親様にお逢いしたいと申す念仏が大事です。」
大島上人の弁栄聖者へのご質疑は、
末代の我々衆生のためとも云えるもので、
大変貴重で、有り難いものでもあります。
更に貴重な、
弁栄聖者の大島玄瑞上人へのご教示が残されています。
○「従来念仏といえば殆んど”観念の念仏”だったので、
これと混同されない様に
法然上人は”本願の念仏”を説くのに声を強調力説された。
しかし、そのために一般には声に偏ってしまった。
今、弁栄はそれを中正に戻す」と。
また、弁栄聖者は念仏における心構え(起行の用心)として、
次の様に、明確にご教示されたとのこと。
○「了々たる見仏をまだしてなくても、
親に遇いたいな遇いたいなと想う愛慕の心をもって
お念仏を申さなけりゃならない。」
○「いつもいつも如来様を憶念することが結構でございます。」
おそらく、
大島玄瑞上人はこの時点では、
即座に「弁栄聖者に絶対帰依」されたのではなく、
聖者の説かれる(自内証の)浄土教の独自解釈により、
浄土宗乗等の疑義等が全面解決されたのでもなく、
「まだ解消し得ない疑義は、疑義として払拭仕切れずとも、
そのことが、”弁栄聖者への信”の妨げとはならず」、
「弁栄聖者への信が確りと芽生えた」のだと推察いたします。
大島上人が、「弁栄教学」の真髄の詳細を知るには、時間は短すぎますし、
この当時、聖者の御遺稿集等の書物は、まだ十分に整備されてもいませんでした。
なお、ご参考までに、
以下、「観仏と念仏」に関するその他の御教示。
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、
「極楽よりも如来様をもととし、
しかも如来大悲のみすがたを心にお慕いして念ずることの、
いかに宗教意識の発育と意識の集中に有効であるかを経験せざる宗侶には、
この仏心大悲のあらわれなる如来のみすがたの人格的なありがさたを、
憶念しお慕いする所のお慈悲にぬれた温かい心持の念仏を、
かの冷かなむしろ器械的な「観仏」と、
とりまちがえる人も門外の人には時々あった。」
また、
「観念の念仏は十三定善の法式によりて修し、
念仏三昧は一心欣慕の意地に住する旨をお説きになった。」
この伊予松山「浄福寺」での弁栄聖者とご邂逅の後、
大島上人は、広島の佐々木為興上人の「心行寺」での、
聖者のお別時にも、続けて就かれました。
大島玄瑞上人と弁栄聖者との直接のご縁は、
大正9年6月~大正9年10月、
伊予松山「浄福寺」と、広島「心行寺」と京都「知恩院勢至堂」での、
わずか3回のみ。
弁栄聖者のご遷化は、
そのおよそ2ヶ月後、大正9年12月4日。
大島玄瑞上人は、弁栄聖者との御邂逅を、
「盲亀の浮木に逢う如く」に喜ばれたとのこと。
大島玄瑞上人のご西化は、昭和53年。
世寿95歳。

意外、と思われる方も多いかもしれませんが、
弁栄聖者、笹本戒浄上人、田中木叉上人の御三方のお墓が揃っている処は、
全国でも、此処、「浄福寺」だけかもしれません。

【弁栄聖者のお墓】
「我子等を愁へてゆきし法の父
とわに恋しく涙こぼるる」(大島玄瑞上人)

弁栄聖者のお墓が、伊予松山「浄福寺」に建立されたのには由来があります。
聖者直弟子の大谷仙界上人から、
しばらく預かっておられた聖者の御遺骨、
その御分骨がようやく、此処、伊予松山の「浄福寺」に、
おさまることになりました。
昭和51年のこと。
「大林寺」住職大島玄瑞上人と垣本都氏のたってのご発願によるもの。

【笹本戒浄上人のお墓】
弁栄聖者のご結縁の後、ほどなく、
大林寺の大島玄瑞上人と垣本都氏を中心として、
松山光明会が発足され、
後の光明会の歴史に名を残す優れた人物が数多く輩出されました。
笹本戒浄上人と松山光明会とは、因縁が深いと思われますが、
この舎利塔建立の発願者のお一人、
垣本都氏と戒浄上人とのご因縁は格別に深かったようです。

【田中木叉上人のお墓】
弁栄聖者ご提唱の「光明主義」、その「弁栄教学」を学ぶ際に、
田中木叉上人の存在を抜きにしては考えらないことですが、
田中木叉上人の弁栄聖者の御遺稿の編纂という畢生の大事業、
「その御恩、感謝の念いを決して忘れてはならない」と、
笹本戒浄上人は語られておられたようです。
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