2017-09-03
広島県二廿市市「潮音寺」 第34世住職 佐々木為興上人と弁栄聖者

↑ こちらは、廿日市住吉郵便局側の山門。


↓ こちらは、駐車場側。



前回は、広島市中区白鳥の「心行寺」を記事にしました。
今回は、二廿市市の「潮音寺」。
弁栄聖者のご高弟のお一人、佐々木為興上人が、
広島県でご住職を務められていた、もう一つのお寺。


大正八年(聖者ご遷化は大正九年)、「潮音寺」にて、
弁栄聖者が別時念仏会を指導をされた時に、
「成仏への霊育過程」である「念仏三十七道品」として、
聖者の自内証から講述されました。
このお別時には、
熊野宗純上人、藤本浄本上人、
丹波円浄上人、橋爪実誠上人、荒巻くめ女も参加され、
聖者は、わざわざ神奈川県横浜から、笹本戒浄上人を呼び出されたほどの別時で、
丹波円浄、橋爪実誠両上人による筆記録が残されています。

二列目中央(左から八人目)が、弁栄聖者。
左から三人目が、橋爪実誠上人。
左から五人目が、熊野宗純上人。
左から六人目が、笹本戒浄上人。
左から七人目が、藤本浄本上人。
向かって聖者の右隣りが、丹波円浄上人。
向かって丹波上人の右後ろが、佐々木為興上人。
一列目、丹波上人の前が、荒巻くめ女。
今回は、「念仏三十七道品」の内容には深入りしませんので、
弁栄聖者の「念仏三十七道品」の詳細については、
『難思光・無称光・超日月光』(弁栄聖者光明体系)をご参照ください。
佐々木為興上人の師匠であった白旗安誉師は、
当時広島県下では学問のある者として尊敬を受けており、
当時の学者同様なかなか人を褒めぬ方であったようで、
当初、聖者に対して関心が薄かったようでしたが、
「オー、此れはただの人でないね、
此の三十七道品なんていうものは、
浄土教では説かず、浄土教とは無関係と思っていたが、
此れが浄土教的に生きて来た。
あれは深玄な体験がなければ、とても説くことが出来ぬものだ。
お前はよい人に遇ったね」
と、為興上人の師が初めて褒められたほどでした。
もちろん、聖者直弟子方は、
「此れだけ聞いても、光明主義の信仰に入った価値がある。
非常にありがたい。」
と異口同音に云い合っておられたようです。
佐々木為興上人による「弁栄聖者語録」によりますと、
○ 「光明主義という言葉は他を排するように聞こえて良くない。」
という意味のことを弁栄上人はご御在世中、漏らされたことがあった。
○ 「光明主義は一切経を所依の経典とすべきである。」
○ 「聖道門は仏教の哲学的方面である。浄土門は仏教の宗教的方面である。
聖道門は薬で言えば効能書の様なもので、浄土門は薬の様なものだ。
聖浄二門は互いに軋轢すべきでない、両々相俟たねばならぬ」
○ 「法蔵菩薩を通ずるを旧約と云い、釈尊を通ずるを新約と云う」
以上の点を踏まえますと、以下の聖者のご教示がご理解いただけるかと思います。
○ 「聖教量を堅とし実感を横として」
とは新潟教区教学講習会で浄土教義講演開口の一番のお言葉であった。
この自内証の権威がまず聴聞者の心を引きつけた。
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)
○ 「私は聖典に依て演繹的に説くのでない、帰納的に説いている」
(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)
「見仏」については、
光明主義、光明会にとって避けて通ることができない難題ですので、
さわりを触れておきます。
大正9年12月4日に、越後柏崎で、
弁栄聖者がご遷化された後、
聖者直弟子方は一丸となって、光明主義を護っていかれました。
ところが、釈尊の十大弟子の如く、
弁栄聖者の直弟子方も、因縁、個性も各々異なり、
弁栄聖者によるご指導、如来様による霊育状態も区々でありましたので、
聖者の御教えの受け取り方にも、微妙に、時には大きく異なる点があったようです。
それらが顕在化したのが、
笹本戒浄上人の「見仏説」と藤本浄本上人の「光明生活説」であったようです。
弁栄聖者のご遷化の後、光明会を二分しかねない程の圧力が高まりつつあった時に、
「笹本戒浄上人の「見仏説」は、起行の用心で、
藤本浄本上人の「光明生活説」は安心の要領で、
この両方とも光明主義にはなくてはならない重要な教義の問題です」
との佐々木為興上人のご仲介により、
ひとまずは、当時、大事にまでは至らなかったようです。
佐々木為興上人は、
「私も如来様の慈悲の聖容を憶念する行法を取っている。
しかし、誰にでもこの行法を勧めた訳ではない」
と仰れていたようです。
ところが、
「それは弁栄さんの業たい。」
とのあるお上人のご指摘のとおり、
この問題は、光明会、光明主義にとって骨絡みの大難題だと思われます。
これは、弁栄聖者が大宗教家であられた故で、
大宗教家の宿命であったと推察いたします。
大宗教家は、大哲人でもあり、
かつ、衆生各々に応じて個別に対応(「対機説法」または「応病与薬」)せざるをえないからで、
「如実知見」とは、それほど私達からはほど遠いものなのだと思われます。
「実践修道論」とは異なり
「衆生の霊育過程、また、化他、度生(衆生済度)には、定まった”直線道”はない。」
ことから必然的に生じる難題であるからです。
弁栄聖者のような御方(三身四智の仏眼を体得された聖者)においてのみ包超される難題であるように思われます。
「弁栄聖者は来たるべき太平洋文化時代にさきがけて
太平洋に面する千葉県に縁起されたのだ」
とは、聖者のご高弟の田中木叉上人の御言葉とのことですが、
弁栄聖者の自内証の真髄は、
日本国内の宗教界、学会等ではなく、
かえって、西欧文化側からの理解、その逆輸入によって再認識されるのかもしれません。

為興上人による大変貴重な「弁栄聖者の俤」、「聖者語録」はまだあります。
「(侍者 ※ が)ご法話中あまりに喉が渇き、
庫裡にさがって湯呑みでお茶を頂き早く本堂に出たい心から、
その湯呑みを洗わずにそのまま伏せて置いた。
すると上人ご法話が終わり本堂からさがり、
すぐ侍者のつかった湯呑みを手にとり侍者の顔をみてニッコリと笑い、
他の湯呑でお茶を飲まれた。
それから、上人は、
侍者の飲んだ湯呑とご自身の使われた湯呑と二つともみづから洗って元の茶盆に伏せられた。
この無言の導びきに侍者はただひれ伏した。」
『田中木叉著「日本の光(弁榮上人伝)」』
※ この侍者とは、佐々木為興上人。
以下、『佐々木為興上人遺文集 藤堂俊章編』より。
(弁栄聖者)
「誠によい景色ですね、
あの景色はあなたの外に見えておりますか、それとも内に見えておりますか」
(ご随行間もない年若い為興上人が)当惑しておりますと、
(弁栄聖者)
「矢張り外に見えて居るのでしょうね、常に念仏して如来の霊育を受けておると、
あれがあなたの内に見えるようになりますよ」
※此の御試問はご随行中度々あった。
○ 「勧請は開眼と云うのと同じことなり」と仰言いましたが、
此れは弁栄上人様でなければ言えぬ事であります。
○ お上人(聖者のこと)様が教会所をお建てになる、光明学園を設立なさる等で、
此等は上人様の伝道資金によって充てられました。
お上人様は仰言いました。
「自分の伝道は労働伝道だ」と。
○ 大正九年十月中旬、京都知恩院勢至堂の講師室でのこと。
「随行の佐々木為興上人が聖者のお部屋に参られますと、
聖者は円光を放っていられました。
おうなじから発し給う後光です。暫らくそれが消えません。
上人は「ああ、聖者は本当に尊い生きた如来様だ」
と一間さがって三礼しました。」
○ 大正九年十二月四日に弁栄聖者は越後柏崎でご遷化されましたが、
そのご随行中の時、
為興上人のご長男が危篤状態となり、上人に電報が来ました。
大変に迷われた為興上人は聖者にご報告に行かれ、
ここに留まる旨をお伝えしますと、
「子供さんの病気は治りますから帰らなくてもよいでしょう」
と聖者が言われたので、為興上人は聖者の下に留まられました。
しばらくして、お子さんの病気は、聖者の言われたとおり、治り助かりました。
○ 弁栄聖者のご遷化の後、駆け付けた信者方に、
せめて今生のお別れにと、お棺の蓋をあけて聖者に御対面をさせ申したところ、
何としたことでしょう、
上人(聖者のこと)の御姿は蓋を開けて拝する度ごとに、
益々美しく輝き渡ってお出になりますのには、忝さが身にしみました。
私は上人(聖者のこと)様がかつて
「この頭にはダイヤモンドが入っています」と仰せられたことなど思い出しまして、
これをむざむざ焼いてしまうということは誠に惜しく思いました。



墓地に入って、すぐ左側に、
佐々木為興上人のお墓があります。


【佐々木為興上人(1888年~1955年) 世寿67歳】
法名:「安蓮社正僧正禅誉上人法阿実禅為興大和尚」
ご遷化地は京都。
京都市下京区「竜岸寺 第二十一世」。

「潮音寺」は、以八上人と学信上人のお墓もある、由緒あるお寺。
↑ 以八上人。
法然上人のご生誕地、岡山県の「誕生寺」を復興された御方。
安芸の宮島「光明院」開基、袋中上人の実兄。
↓ 学信上人。
伊予国出身だけあって、瀬戸内界隈は特に、学信上人関係の遺跡が多いです。
「墓で生まれた学信和尚」としても知られる御方。
両上人とも、安芸の宮島「光明院」にゆかりのある御方。
なお、宮島は神域であるため、「島にはお墓はない」ようです。


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