2017-02-19
山口県山口市古熊「善生寺」、全国光明会連合会 二代目総監 熊野宗純上人


山口市古熊にある「善生寺」。
弁栄聖者の直弟子、故熊野宗純上人のお寺。
熊野上人は、山口県下の教育界へも影響力があり、
かつて、浄土宗第六・七連合教校の校長・山口教区学監を務められた御方で、
全国光明会連合会の二代目総監。
※ 全国光明会連合会初代総監は、笹本戒浄上人、
在団法人光明修養会の三代目上首は、藤本浄本上人。

少々きつめの階段を登りきった右側に、
熊野家のお墓があります。
熊野宗純上人のご令室、故熊野好月女史のお墓があります。






本堂の奥には、
善生寺庭園(伝雪舟作)があります。



本堂の右側に、
熊野宗純上人と善生寺歴代(熊野忠道)上人のお墓があります。
奥が、熊野宗純上人のお墓。


熊野宗純上人(1878~1946年)。
熊野上人が、弁栄聖者に初めてお逢いになったのは、
大正8年の8月、
佐々木為興上人の自坊、広島県心行寺でのこと。
「おかしがたき崇高の人格と、慈悲あふるる温容に接して、
一種いい知れぬ充実味を心の奥底に覚えた」。
と、熊野上人は、その時の聖者の印象をご述懐されています。
(弁栄聖者)「あなたはこれまで如来様を親様と呼んだことがありますか。」
(熊野上人)「はい、いつもそう申しています」。
(弁栄聖者)「それでは、あなたは、如来様をあなたを生んで下さった母のように思いますか」。
(熊野上人)「いいえ、そうは思われません」。
(弁栄聖者)「それではなんにもなりません。真剣に念仏してご覧なさい、きっとそう思われるようになります。」
聖者のこのなんの理屈もない事実そのままの簡単なお言葉を伺った時、
「腹をえぐられたように感じ、長い眠りから目ざまされたように感じた。」
と熊野上人はご述懐されています。
達人の衆生済度には、小難しい屁理屈はなく、
深三昧に証入され、真相を知った者のみが備え得る「威神力」が、
弁栄聖者には具足されておられた証左であるように思われます。
当時、熊野上人は、
経文上、宗乗上の「学解」に精通され、”布教界の雄将”でしたが、
「生きた信仰」は、まだ得られていませんでした。
「今まで熊野上人が名匠碩学について学んだ宗乗も、それは、空なる冷やな知識で、
如来様はガラス戸棚の中のお人形様のように血の気のない冷たいもので、
罪に泣いている者みづからを抱きしめて下さる温い親様とは実感されず、
醍醐味のはずの念仏は無味乾燥で、
微妙荘厳のお浄土も架空の空想のように感ぜられてならなかった」
が、この五日間の熱火のごとき提撕によりて、信心喚起し、
弁栄聖者を「如来の顕現と仰ぐ」ようになって念仏に精進し、
聖教に対する一隻眼も開かれて、
特に「聖教の文々句々が文字通りうなづけるようになったことも、大なる喜び」で、
ますます仏道のあゆみを進めた。
と、熊野宗純上人の弁栄聖者とのご邂逅を、
田中木叉上人は、感動的に描写されています。
「七日しんしんと降りしきる雪の柏崎、極楽手にてご密葬執行、
お棺のお伴をする二百数十名の道俗の中には、
跣足で雪を踏みせめてもの心をのべし人もあった。」
と、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に記されていますが、
”跣足で雪を踏みせめてもの心をのべし人”
とは、「弁栄聖者を如来の顕現と仰がれた」 熊野宗純上人。
この事実を、杉田善孝上人のご教示によって初めて知ったのですが、
昭和二十七年刊の熊野宗純著『救いの宗教』に明記されています。
(参考文献) 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』
熊野宗純著『救いの宗教』には、
弁栄聖者の熊野上人へのご教化の有様が明記されていますが、
この逸話はあまり知られていない貴重な逸話でもありますので、
是非記しておきたいと思います。
熊野上人が弁栄上人の御説法を初めて聴かれた時のこと。
「(弁栄)上人の「神聖・正義・恩寵、霊界」、「心の曄瞳(あけ)」という表現が、
余りこれまで仏教で耳馴れない言葉でしたが、
当時読んでいた「ハルトマンの宗教哲学」の、
姉崎博士の翻訳にあったので、
「御上人様は実はハルトマンの宗教哲学をおやりになって居るのだろう。
これさへ見れば分る」と思い、
ハルトマンの書を懐に入れて、
弁栄上人にご挨拶申し上げ、一寸座って居ると、
「熊野さんは、ハルトマンの宗教哲学を懐へ入れ居るではありませんか」、
「あれはまあ、法身と云う程度は解るかも知れませんが、
報身と云う方面のことは、少しも問題に触れて居られない。
姉崎さんも本当に解って訳したのではない。
独逸に始めて留学される前に博文館から、百科全書の様なものが出て、
その宗教の所に訳されては居るが、難解の訳です。
姉崎さんは本当に解って居らない。」
と弁栄上人は言われました。
熊野上人は、弁栄上人の妙観察智による御教化と記されていますが、
大円鏡智も伴っていると思われます。
弁栄聖者の直弟子方の、聖者への尊崇する御態度には、
聖者の「霊格の崇高性」だけではなく、
聖者の「霊的実力(法力)」を目の当たりにされたことも決定的に重要であったことが、
この逸話からもうかがえるように思われます。
※ 熊野宗純上人のご著作は、
熊野上人を尊崇された、菅野真定上人が中心となって、
「熊野上人遺稿刊行会」から刊行されました。


法名 大蓮社専誉上人光阿興隆泗水宗純大和尚
昭和二十一年十一月九日、示寂。


善生寺歴代上人之墓には、
第二十七世 熊野忠道上人、
熊野上人の養子で、 中川察道上人の実子の名も刻まれています。
平成二十六年二月十月、西化。

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