2016-12-18
北九州地区における弁栄聖者のご伝道


明治四十五年の春に九州入りされてから、
一年半近くに渡り、
弁栄聖者は、筑前、筑後地区を中心にご伝道をされました。
弁栄聖者のご足跡を辿りながら、
どうして、九州北部中心に、しかも、長期間に渡りこの地にご滞在されたのか、
この疑問が膨らみ始め、その理由を知りたくなってきました。
北九州の地理的特徴、歴史に関心を寄せるようになりました。

JR若松駅は、筑豊本線の起点。


「若松駅操車場跡」




北九州に位置する若松港は、
筑豊炭田で採掘された石炭の積み出し港として、大変な賑わいであったようです。


明治24年(1891年)、若松ー直方間に鉄道が敷設され、
それまで遠賀川等の水運によっていた石炭運搬が、
短期間の内に、鉄道輸送に移っていったようです。
※ 「直方」といえば、
弁栄聖者の直弟子で、九州光明会の生み・育ての中心人物、
大谷仙界上人の「長安寺」があります。


弁栄聖者の九州北部を中心としたご伝道は、
明治大正期の、この地域の炭鉱産業の繁栄とも関係が深いと思われました。
【大善寺】


「大正二年二月」には、
筑前福間大善寺で開催された教学講習会にて、
初めて光明主義教学の組織的な講義(「浄土哲学」)をされました。

【正願寺】



「大正二年四月」には、
筑前折尾正願寺で『自覚の曙光』の題下で五日間の講説があり、
『自覚の曙光』という小冊子として、
筑前遠賀で印刷され、五月に公刊されました。
なお、筑前折尾とは、
大正八年八月に、
信州の唐沢山で勉強されていた柴武三氏達の様子を、
弁栄聖者が、大円鏡智でお知りになり、
笹本戒浄上人、田中木叉上人に葉書を出された地。


【善念寺】


「大正二年六月」に、
京都知恩院での『宗祖の皮随』の御法話に先立つこと、
数年前に、「善念寺」にて、
『宗祖の皮随』の題下に、法然上人の道詠十二首についてのご講話がありました。
そのご講話をきかれ信心歓喜して、
「上人こそが如来のお使い」とその時の実感を吐露されたのは、
波多野諦道上人から、弁栄聖者を預かるように頼まれ、
最初はいやいやながら預かられた丹羽円浄上人でした。
※ 丹羽円浄上人については、以前記事にしましたが、
その後、丹羽上人に関する貴重な逸話を知りましたので、以下、追記します。
丹羽上人は、一切経を読破された「学の人」でもあられたようでしたが、
弁栄聖者のご内証の片鱗を知るに及んで、
自身の学解の至らなさに慚愧し、
念仏三昧にも大変な精進をされたようです。
「弁栄上人は、一宗の枠内に置くべきお上人ではない。
寧ろ世界宗教を止揚し尽くした第一の方である。」
とは、最晩年の丹羽円浄上人の弁栄聖者観。

○「大正元年より、
もっぱら光明主義の名をもって新法門を弘通するようになられた。」
○「・・・かくのごときはこれ精神的光明主義である。
仏陀禅那は光明主義の予言者である。」
(大正元年栃木県家中村渡辺厚盛法尼宛の書簡)
と、田中木叉上人は、『日本の光(弁栄上人伝)』に記されています。
また、
「光明会の継承者と言い、その名称と言い、亦組織された教学の発表と言い、
すべてがこの北九州の地で行われたのであった。」
とは、『辨榮聖者』の著者、藤堂恭俊上人のご指摘。
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