2016-09-19

福岡県八女市星野村「浄源寺」、第二十六世 中川察道上人(前篇)


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福岡県の八女と言えば、
”良質なお茶の産地”としても知られていますが、
それにしても、随分と不便なところ、
と思いながら「浄源寺」へと向かいました。


前回記事
にしました、
福岡県糟屋郡篠栗町「珠林寺」の中川弘道上人は、
大正元年に、「浄源寺」の第二十五世として着任され、
大正六年に、肉弟の中川察道上人に住職を譲られ、
「珠林寺」第二十八世住職として就かれました。

弁栄聖者のご高弟の一人、中川察道上人は、
大変機根の優れた方で、
”三昧発得の「筑後の聖者」”として全国的にも知られ、
当時、交通が不便でありながら、関西はもちろん、関東までもご伝道されています。

例えば、以前、記事にしました、
”弁栄聖者遺髪塚”のある栃木県足利市「法玄寺」

更には、宮中にもでむかれ、海外では朝鮮にも伝道されています。


弁栄聖者のご高弟の中でも、特にお悟りの深かった御方としては、
笹本戒浄上人田中木叉上人は、
仏眼が開かれた大菩薩”としても、光明会内ではよく知られ、
特に、戒浄上人には、かなりまとまった全集などが編纂され、
木叉上人にも、『御遺文集』、『御法話聴書』などが遺されており、
写真も幾つも残っており、かなりの程度、人物等もうかがい知ることができます。

ところが、中川察道上人に関しては、
光明会史上においても、かなりの悟境の深さに達しておられ、
優れた、書とご道詠も遺されておられながら、
まとまったご著書等がなく、
昭和二十年にご遷化され、既に七十年以上が経過しておるために、
現在では、光明会内でも、察道上人を御存じの方がほとんどおられない現状、
あまりにも惜しいことであると常々感じておりました。

弁栄聖者ゆかりの九州のお寺参りにあたり、
この機会に、中川察道上人のことも、是非ともご紹介したいと念願しておりました。

今回も資料が少なく、時間が予想以上にかかり、苦労しましたが、
今回の記事が、中川察道上人のことを知り、関心を持たれるご機縁になればと切願しております。


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この茅葺の山門を一目見て、
このお寺は、由緒のあるお寺だと気付きました。

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中川察道上人が御遷化され、既に七十年以上が経過しているため、
察道上人のお墓を見付けるのに時間がかかりそう・・
と覚悟して訪れました。

が、杞憂に過ぎませんでした。

山門を過ぎ、階段を登った、すぐ左側に、歴代御住職のお墓があり、
察道上人のお墓は、
出迎えていただいたかのように、一番手前にあり、
直ぐに出会え、嬉しくもあり、ほっとしました。

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第二十六世 中川察道上人(1885~1945)
昭和二十年九月二十九日 示寂  世寿六十歳
法名 仁蓮社義誉上人観阿弘徳察道大和尚



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※ 察道上人のビリケン頭
仏様の三十二相の一つ、頂髻相(ちょうけいそう)
頭頂部の肉の隆起肉髻(にくけい)を、彷彿とさせます。


察道上人は、大変機根の優れていた御方でしたが、
縁とは、真に不思議なもの。

後には、「筑後の聖者」と云われた察道上人でさえ、
明治四十五年に、筑後善導寺で、初めて、弁栄聖者にお会いになっているのですが、
いまだ機縁熟さず、聖者の篤き信奉者となるには、
その後、数年の時間が必要でした。


察道上人の弁栄聖者の印象が、とても興味深く感じられます。

「(十二光の御法話は)分からないまでも何となく尊く感ぜられ、
じっと御顔を拝する度に
いつもこのお方は善導大師の御再来であるなという様な感じがして、
解らないが有難くて一週間のご講話を承わりました。」

弁栄聖者の印象として、当時、
「法然上人の御再来」と思われた方は、多かったかと思いますが、
「善導大師の御再来」と思われたことに、
察道上人に他の方とは違った何かを感じ、
このことが、何故か、妙に記憶に残っています。


弁栄聖者の御法話を聞かれた察道上人は、
「三昧入神」について疑問をいだき、聖者にお尋ねになりました。

察道上人:「私のようなものも三昧に入る事が出来ましょうか」
弁栄聖者:「出来ます」
察道上人:「それではどの位の時日を要することでありましょうか」
弁栄聖者:「三日間かかります」

聖者の余りに意外なこの御言葉に、吃驚された察道上人のご様子を察し、

「けれどもそれはあなたのみに言うことで、一般にはそんな事を勧めるものではない」
と聖者は、察道上人に念を押されました。

ここで、興味深いことは、
中川察道上人御自身にさえ自覚できていなかったことが、
弁栄聖者には「御見通し」であったことです。
もちろん、聖者の三身四智の仏眼、「大円鏡智と妙観察智」による衆生済度の一例。

その後、弁栄聖者の言われるとおり、
ほどなく、中川察道上人は、出世間の三昧の眼、「慧眼、法眼」が開かれたといわれ、
”三昧発得の「筑後の聖者」”として、全国的に知られるところとなりました。


参考文献:『辨栄上人の思い出』(山崎辨戒編集兼発行 霊鷲山 善光寺発 非売品)


更に、杉田善孝上人の察道上人の想い出も忘れがたく、とても有難いです。

まだ若かりし杉田青年に、
九州の自坊へ伝道に来るようにと、察道上人はお誘いになりました。

その当時、既に、三昧をいただかれ慧眼と法眼が開けており、

「自分の体を触るのと汽車の窓を触るのと同じ感じです。」
と、語られていたほどの御方。

恐縮のあまり、即座に断る杉田青年に、
察道上人は、「思い切っていらっしゃい」とお誘いくだり、
それ以上は断りきれず、杉田青年は察道上人のお寺へ行かれました。

察道上人のお寺に到着しましたが、
かくの如きご境界の御方との出逢いに、
杉田青年のガチガチに緊張していた様子を察し、

察道上人は、杉田青年の傍でごろんと横になって

「長旅で疲れたでしょう。あなたも、遠慮しないで、寝ころぶとよい。」
と言われ、言葉を続けられました。

「弁栄上人の一切の行為を知ってその真似をしようと思っても、
一朝一夕にできるものではない。
だんだんお育てを頂いて、段々と近づいていく。
難思光、無称光、超日月光と徐々にお育てを頂いた暁に、
ようやくあのようになることができるのだ。
だから、無理をすることはない」と。


理想に燃え、熱心な青年に特有の性急さによる、
「理想と修行のギャップに悩む」青年僧への、
先達からの、実にお慈悲に富んだご説法。

この杉田善孝上人の逸話は、
察道上人に関わる逸話の中でも、特別感銘深く、長く記憶に残っています。


この他にも、察道上人の御境界がうかがえる逸話が幾つか伝わっておりますので、
ご紹介いたします。

○「お線香の灰の音がしますよ」

「お線香の灰の音が聞こえる様に成ると相当深い境地だ」
と、笹本戒浄上人は申されたとのこと。
弁栄聖者や、心身の極限の修行ともされる「千日回峰行者」にも似たような逸話があります。


(吉松喜久造氏)「如来様はどんなに拝めますか」
(中川察道上人)「太陽よりもハッキリ拝めます」


九州光明会誌「めぐみ」編集長として長年務められた中川順一氏の若かりし頃のこと。
堺静道上人がお別時を主催され、
その導師であった中川察道上人のすぐ後ろで念仏をしていた時のこと。

「ふと察道上人のお頭(つむ)の後頭部を見ると、
髪の剃り跡もあざやかであったが、
丁度蚕(飼い子)のあがる時の様に透き通って
全身の血がそこへ集まって動いて
如来様のお光明に浄化されているのをまざまざと拝ませていただいた。」


中川順一氏は、察道上人念仏する後ろ姿を拝し
これは只人ではないと感じ光明会への入会を決意されたとのこと。


以下も、是非記しておきたい、
とても感銘深い、堺静道上人の中川察道上人に関する逸話
昭和五年十二月の年末、
察道上人が、直方新入の「長安寺」の大谷仙界上人のお見舞いに行かれた際に、お伴された時のこと。

霜の朝、真紅の太陽が輝き初めた美しい景色。
すると、察道上人は、合掌してこの太陽を拝まれ尊い物に接するかのように十念称名されました。
察道上人は、堺上人を顧みて、
「太陽も如来様ですよ。
又こうして歩いている地上は如来様の中を歩いているのですよ、
よく御念仏精進しますとハッキリ、ハッキリ実証出来ますよ」


○「堺さん、あそこも(長安寺)も野も山も川も皆私の心中ですよ、
自分の心の中に長安寺もあり、あの山もこの田畑もこの遠賀川もあるのですよ」


○「汽車の鎧戸を撫でて他人様がここに触れる、
それを堺さん自分が触れられた感じがしますか、
念仏によって育つと、そう感覚に頂きますよ」



※ 弁栄聖者を彷彿とさせる中川察道上人の逸話
おそらく、弁栄聖者の自内証を意識されていたはずですが、
もちろん、聖者の真似事では決してなく、
大ミオヤの霊育によって悟られてくると、
弁栄聖者の御言葉は、正に仰られたそのまま、そのとおりであった
との実感から発せられた御言葉かと推察されます。(※部分は、筆者)

○「宗教とは、実証なり。」
とは、中川察道上人が、常々仰られていた御言葉とのこと。


次が、堺静道上人の逸話の最後となります。

○「お浄土へ還る日の近い大谷仙界上人がニッコリ笑って、
察道上人に合掌し御十念を乞われ、
察道上人は合掌して仰臥された仙界上人を釈尊の涅槃像でも拝むような敬虔な態度で三礼された。
私は同称十念させて頂くつもりで合掌していたが、
この有様を見てビックリした。
聖者と聖者が互いに心底から尊敬し合って拝み合う真の平和な相を拝ませて頂いた。
実に神々しかった。
察道上人は三昧発得の大徳で在した。」



中川察道上人に関しては、
この他にも、是非ともご紹介したいことがまだ幾つかありますが、
今回は、長くなりましたので、次回にご紹介したいと思います。
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2016-09-05

福岡県糟屋郡篠栗町「珠林寺」 第二十八世住職 中川弘道上人


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福岡県糟屋郡篠栗町にある「珠林寺」

前回記事にしました「西林寺」からもほど近い距離にあります。

弁栄聖者ご在世の大正期、
福岡県糟屋郡篠栗町
「西林寺」 橋爪実誠上人と、
「珠林寺」中川弘道上人のご住職当時の妙好人
前者が「荒巻くめ女」 、後者が「西島三十七」氏。

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門前の水路に、鯉が泳いでいたのが、印象的でした。


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九州の光明会にご縁のあるお寺は、
山本空外上人ともご縁があるお寺が多い、
という印象があります。

この書体、空外上人の書ですね。

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中川弘道上人は、
大正元年に、
福岡県八女市星野村、「浄源寺」の第二十五代住職として着任。

大正六年に、
肉弟の中川察道上人に住職を譲られ、
「珠林寺」第二十八世住職に着かれました。

中川弘道上人といえば、
明治四十五年に、
弁栄聖者が筑後善導寺の広安真随僧正にご招待され、
初九州入りされた時、
久留米駅で、聖者に善導寺までのご案内をされた方。

特記すべきは、
大谷仙界上人とともに、
九州光明会の基盤を築かれた方。


更に、光明主義上、極めて重要な役割を果たされました。

光明主義の永遠の課題ともいうべき、
「見仏」を巡る問題提起を、

弁栄聖者ご在世中の最晩年の、
大正八年十二月発行の『みおやのひかり』に、中川弘道上人のご質問が、
大正九年一月発行の『みおやのひかり』に、聖者のご返答が掲載されました。


「私は今夏以来、一意専心御念仏に勇猛精進して来ましたが何等得る所がなく
見仏三昧の境地に進むことが出来ません、
私共の様な鈍機は一生かかっても達する事が出来ないものであると自覚しました。
見仏は一部上根の機に限定せられ万機普益でないと存ぜられます。
・・・何卒本誌上に之の見解の誤りであるか何うかをご教示頂きましたら有難く存じます」

中川弘道上人のご質問は、
念仏修行に邁進される真剣さからの発露で、
念仏修行上、後世の我々大多数の者が煩悶するであろう悩みを代表されたようなご質問で、
弘道上人御一人のご質問とは思えません。


弁栄聖者のご回答は、次の様な内容でした。

「みおやの光に清められたる中川上人よ、
吾人が主張する光明主義の御質疑に対して
安心の大意を陳べて主義を明かさんとす

と前置きをされ、

如来は見と不見とに係らず真正面に在すことを信じて
其照鑑の下に精神指導されつつあることを信ずべきである。
如来の慈悲心は我等が心に入り、我等が信念の心は如来の中に入り、
見と不見とに係らず一心に念仏して如来の慈悲に同化せられんことを要す
尚、号を追て明すべし

と。

詳しい事情はわかりませんが、
その後、この公開質疑に対する弁栄聖者の正式な御回答はなかったようです。

ただし、
極めて重要な御葉書が、
大正九年一月二十一日付で、笹本戒浄上人宛に届きました。

みおやの光の中川弘道氏に対する答は本月のには
只通じて光明主義の安心の要領をのべて
来月の起行の用心として
見仏は本宗の宗とする処結帰する処の見仏にある
ことをのぶることにいたし候」と。

参考文献: 『笹本戒浄上人全集 Ⅰ 起行の用心』


「頂は高く聳え、麓は広く一切を載(の)する富士山のごとく、
三昧証入の頂と、万機普益の麓とに、
いづれの一にも偏せず、二を含んで一に立つ中道に在りて、
随類応機の法輪を転じ
「普遍的に」定と散と利と鈍とのあらゆる機根の「すべてを摂取」するのが、
上人の光明主義であった。
それが伝道の普及とともに導かるる機類が多様となるにしたがって、
ますます鮮やか
になった。」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

「大宗教家」としての弁栄聖者の御精神を、
これ程見事に表現された言葉はないかと思われます。

したがいまして、
弁栄聖者御遷化後に、聖者を学ばんとする私達には、
「簡択」する眼、智慧が、必然的に求められます。


笹本戒浄上人が強調された「直線道」とは、
三身四智の仏眼を体得された弁栄聖者大ミオヤの真相を三昧直観された、
三身即一の大ミオヤの仏身論から、
必然的に導かれた聖者の修道論の真髄を表現
されたもので、
必然的ゆえに、修道論上、「成仏まで、信念の変更を要さない」という意味での、
「直線道」


衆生済度に不可欠な方便智の発露である「応病与薬」、「対機説法」
これらの度生論においては、「直線道」はありえません


「直線道」の定義には、慎重さが求められるように思われます。


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第二十八世住職 中川弘道上人(1881年~1939年)

法名 徳蓮社仁誉上人誠阿転法弘道大和尚

テーマ : 宗教・信仰
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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