2016-03-14
鈴木憲栄上人の「弁栄聖者の俤(おもかげ)」を巡って

大阪市天王寺区逢阪にある「お骨佛の寺・納骨とおせがきの寺 一心寺」


一見、お寺とは思えないアート的な両像がお出迎え。
鈴木憲栄上人の弁栄聖者との出逢いは、
大正6年、憲栄上人がまだ二十歳代前半の頃、
聖者が「一心寺」に、浄土宗の講習会で来られた時のこと。
会場横の「ご名号」に礼拝された弁栄聖者の御姿、
目の当たりに如来様を拝まれておられるかのような、
その恭しい礼拝の御姿に、
憲栄青年はことのほか感動されたようです。
鈴木憲栄上人のご礼拝はとても丁寧であった、と伝え聞いています。
弁栄聖者の礼拝の御姿が、
憲栄上人のご一生に影響を与え続けたことになります。




法然上人二十五霊場第七番札所。






晩年は、兵庫県川西の「観音寺」のご住職であり、光明修養会副首、
大阪天王寺「一心寺」の副住職を務められました。
鈴木憲栄上人は、晩年、毎年、正月に、
芦屋聖堂で、恒例の弁栄聖者の梯(おもかげ)を話されていたようです。
「鈴木憲栄上人は、弁栄聖者に直接お目にかかっておられますから、
毎年同じ話しをお聞きしても、結構ですね。」
※ とても含蓄があり示唆に富む、杉田善孝上人のご感想。
弁栄聖者の直弟子方が語られる聖者の梯には、
ご教示に富み、貴重なものが多いですが、
鈴木憲栄上人の『ミオヤとのめぐり会い』も、
小冊子ながら、とても貴重な弁栄聖者の梯。
一心寺での弁栄聖者との出逢いの後、
翌年、大正七年の京都知恩院での高等講習会でのこと。
講習会での休憩時間の時、
ある方の周りに人だかりができていました。
気になり覗いてみますと、
昨年の模範説法をされた講師で、
その説法に感動し、憧れを覚えていた大谷仙界上人でした。
仙界上人によりますと、
「弁栄上人は、三昧発得され、見仏されている。」とのこと。
法然上人、徳本上人の時代ならいざ知らず、
(明治、大正期の)今時に、そんなことは有り得ないと思い、
その疑念を、仙界上人に率直に申し上げますと、
弁栄聖者の常人ではない、激烈なご修行の様子を、
鈴木憲栄青年にお伝えしました。
そのお話に、いたく感激した憲栄青年は、
弁栄聖者に是非会わせていただきたいと仙界上人に無理に頼み込み、
とうとう聖者と直接お話しする機会に恵まれました。
勢至堂の奥座敷の休憩所におられた弁栄聖者に三拝しご挨拶が終わると、
聖者自ら歩み寄られ、
(弁栄聖者)
「鈴木さん、あなたは如来様が拝めますか。」
(憲栄青年)
「わかりません」
(弁栄聖者)
「如来様はねー、
私どもの真正面に在して、私どもを常に見そなわしたもうのですよ。
私どもが、南無阿弥陀仏と称うれば、
如来様はそこから(聖者はその時お指で空中を指され)ちゃんと聞いておってくださいますよ。
礼拝すれば見ていてくださいますよ。
意にお思い申しあぐれば知っていてくださいますよ。」
「如来様が」、「如来様が」と仰せられる弁栄聖者のお言葉が、次第に熱を帯び、
お膝が、憲栄青年ににじり寄って来られたので、
次第に次第に、憲栄青年は後方に、とうとう部屋の隅までさがっていった。
「私には如来様が未だ拝めないけれども、
何か私の真っ正面に在して、私どもをみそなわしたもうようにおもえるのであった。 」
伝統宗乗を学ばれていた憲栄青年は、
阿弥陀様とは西方十万億土の彼方におられ、
死後にお会いするものと思われていたため、
弁栄聖者のご説法には、とても驚かれたとのこと。
鈴木憲栄青年は、弁栄聖者とのこの邂逅がきっかけとなって、
「如来様の実在が信じられる」ようになり、
弁栄聖者に帰依渇仰するようになられ、
更に翌年の知恩院勢至堂での一週間の別時念仏会に参加されました。
【弁栄聖者の鈴木憲栄青年へのご教示等】
○「聖者は宗教的情操をひき起こさせるには音楽が非常に大切であると常に仰せられていた。
聖者は更に現代的な西洋音楽の歌曲をとり入れ、聖歌も自から音頭をとって唱われた。
・・・たとえ西洋のものやキリスト教の讃美歌の曲でも良いものはどんどんとって自分のものにすればよい。」
○「お正念入れという作法をするのは、
むこうの仏様の方にお正念入れをすることではない。
おがむこちらの方に作法を通して活きておられる、と拝めるようにすることである」
○「聖者はお念仏しておられる時によく木魚のバイが止まっていることがあり、
また、ご説法されておられる時にお話が止まることがあった。」
※ 前者は深三昧入神、後者は如来様の直説法を聴聞中と推察されたとのこと。
前者は、笹本戒浄上人の最晩年にも、頻繁に拝見されたご様子であったようです。
○「座ってお念仏するのも有難いが、
大自然を仰ぎ、山一杯の如来様を憶ってお念仏することも有難いですね」
○ある時、突然聖者が、鈴木憲栄青年へ、
「如来様はあの太陽よりも明るいですね。」
「如来様のお頭の紺青(みどり)の美わしいのを拝すると、お敬いの心が起こりますねえ。
眉間の白毫相、月のお眉、すずしいお目を拝すると、清らかな心持ちとなります。
み鼻、そして、燃ゆるようなお唇を拝しますと、身も心も溶けてゆくようです。
おからだには美しい文(あや)があってそれが透徹っています。」
※ ふと思い出しましたので、是非記しておきたいことがあります。
「聖きみくに」には、「烏瑟(うしつ)の綠(みどり)は天(そら)にこい」と記されていますが、
「こい」は聖者の方言で、「こえ」の方がよろしいのでしょうね。
「聖きみくにを突きぬけた」、如来様の無見頂相のこと。
(これは、杉田善孝上人の貴重なご教示。)
この事と関連して、
冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』には、次の2点が記されています。
◇「「烏瑟(うしつ)」とは、如来様の御頭の髪である。これが天よりも高い。」
◇「如来様の本当のお姿は、釈尊のように成仏しないと拝めない。
池に映った月が霊応身であり、それに対して本当のお姿を真身という。」
○「如来様のお顔の丈だけでも一丈ばかりありましょうかね」
恍惚として聖者のお話を伺っていた憲栄青年の心に、
「聖者が今仰せられている、如来様のみすがたというのは、
幻のようにおみえになっておられるのではなかろうか。」
という疑念が起こったその瞬間、
「幻覚ではありませんよ。
この世のすがたがみえておって、そこに、如来様が拝めているならば、
それは幻覚といえないこともないでしょう。
しかし、如来様が拝めている時は、この世界のすがたが見えていない」
と、聖者は、突然、仰せられた。
○憲栄青年は、聖者に随行され、
「三昧状態」と「三昧発得」とを明確に区別すべきと気づかれ、
「三昧発得」とは、
一時的な、瞬間的な「三昧状態」のことではなく、
常時不断、自由自在な境地のことである、と。
これは、とても重要なご指摘だと思われます。
○(或る者)
「仏陀禅那とはどういう意味ですか。」
(弁栄聖者)
「常に念仏(仏陀)三昧に入っているという意味です。」
○「無対光讃の「摂化せられし人はみな」の、
「人はみな」を「終局(おわり)」には、と替えた方がよろしい。」
と聖者は二度の講習会(※)で申された。
この字句の訂正は、聖者の深き御意志であるから、
後の者がこれを元の字句『人はみな』に替えることは絶対にしてはならないと思う。」
※ 大正六年十月一心寺での講習会と大正七年六月の知恩院での高等講習会でのこと。
(或る者)
「お上人は、地獄や餓鬼をご覧になることがありますか」
(聖者)
「私は如来様の方にのみ心を注いでおりますので、そんなものは一向みません。
しかし見ようと思えばみられんこともないでしょうが」
※ 私見ですが、前者と後者をセットにして、聖者が説かれておられる点が特に有難く感じられます。
○聖者は、最晩年、「三相五徳」を熱心に研究されておられ、
憲栄青年にその草稿の清書を依頼されたとのこと。
○清崎上人の依頼によって、聖者の御出家から御修行のことについて、
聖者にお話しくださるようにお願いしたところ、
「私はその話はしません」といって、断られた。
※ 以前お話になった時に、如来様から叱られたことがあったようです。
再度、お願いされたところ、
「それでは少し話しましょう」と話しくだされた。
主な内容は、田中木叉著『日本の光』と重なっていますが、
三尊を想見されたのは、十一歳とのこと。
※ 後には、三尊を一尊にして拝むことにされた、
笹本戒浄上人は、この信念の変更を、ことのほか重要視されています。
また、『日本の光』では十二歳となっていますが、数え年と満年齢の相違でしょうか。
弁栄聖者は、念仏、如来光明礼拝儀の唱え方等について、大らかであったようですが、
鈴木憲栄上人は晩年、如来光明礼拝儀の唱え方の光明会内での乱れを憂えておられていたようです。
※ 「『如来光明礼拝儀』の正しい音程基準を提唱する」 (石田義信著『私が出会った光明主義の人々』)
○「今になって思いますと、如来様を拝まなければ(見仏すること)ならぬということはありません。
たとえ見仏することが出来なくとも、如来様のお慈悲が喜べて、有難く念仏することが出来ればよろしい」
と、弁栄聖者が突然、憲栄青年に仰られた。
聖者ご指導の元、一生懸命念仏に励んでいても、なかなか見仏できず、
劣等意識を持ち始めていた時のこと、
この聖者のお話はとてもありがたく、救われたような気持ちになられたようです。
一方、聖者は身近の者には常に「見仏を所期とせよ」と仰られていたそうです。
弁栄聖者の最晩年にご随行された憲栄上人は、両方を併記されています。
この点に、留意すべきかと思われます。
やはり、この「見仏」を巡る問題は、
「弁栄聖者からの宿題」であるように思えます。
平成元年七月十九日(憲栄上人のお誕生日)にお浄土へ
世寿 九十五歳
法名 興蓮社僧正法誉上人隆阿翠洞憲栄老和尚


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