2016-01-25
「弁栄上人伝 -宗教家としての御成長の曲線ー」(岡潔著『一葉舟』)
数学者岡潔博士は、弁栄聖者の信奉者でもありました。
岡博士は、ご自身の多くの著作の所々に、弁栄聖者、光明主義に関して書かれていますが、
まとまったものとしては、
岡博士たっての念願の『無辺光』(講談社版)の発刊、
その「まえがきー無辺光と人類」、
『一葉舟』所収の「科学と仏教」、「弁栄上人伝」があります。
その「弁栄上人伝」において、
岡潔博士ご自身の成長に関連づけられ、
「宗教家の一生におけるその成長の節々の年齢」を推定されており、
興味深いものですので、ご紹介したいと思います。
なお、若干の補足をさせていただきます。
関連本において、満年齢、数え年により違いがあるようです。
また、日本では明治5年(1872年)に、グレゴリオ暦採用され、
明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日(グレゴリオ暦の1873年1月1日)とされたとのこと。
【人生第一の節】
(十一、二歳頃)
「幼時十二歳、家に在りし時、
杉林繁れる前にありて、西の天霽れわたり、
空中に想像にはあれども、三尊の尊容厳臨したまうことを想見して、
何となくその霊容を憧憬して、自ら願ずらく、
われ今この想見せし聖容を霊的実現として瞻迎し奉らんと欲して
欽慕措(お)措く能(あた)わざりき。」
※ ただし、「後には、三尊を一尊にして拝むことにした」とのこと。
【人生第二の節】
(十五、六歳頃)
家業の農事を手伝う一方で、菩提寺である「医王寺」より、仏書を借りて読み、
ひそかに出家の願望を抱くようになる。
※ 弁栄聖者の特徴でもありますが、自内証を自ら語られることは少なく、
出家願望も、ご家族は知らなかったようです。
【人生第三の節】
(二十一歳頃)
近所の菩提寺の鷲野谷「医王寺」において、
関東の名刹、関東第十八檀林、小金の「東漸寺」の
第五十世、大谷大康老師を剃髪授戒の師とし、出家得度。行学に精励。
【人生第四の節】
(二十三、四歳頃)
東京に遊学。
遊学先は、浄土宗の芝「増上寺」、時宗の浅草「日輪寺」、真言宗の田端「東覚寺」。
○「愚衲、昔、二十三歳ばかりの時にもっぱら念仏三昧を修しぬ。
身はせわしなく、事に従うも意こころは暫らくも弥陀を捨てず、
道歩めども道あるを覚えず、路傍に人あれども人あるを知らず、
三千界中、唯だ心眼の前に仏あるのみ。」
○「予、かつて華厳の法界観門に由って、一心法界三昧を修す。
行住坐臥つねに観心止まず。
ある時は行くに天地万物の一切の現象は悉く
一心法界の中に隠没し、宇宙を尽くして唯一大観念のみなるを観ず。
また一日道灌山に座禅して文殊般若をよみ、
心如虚空無所在の文に至って、
心虚空界に周遍して、内に非ず、外に非ず、中間に非ず、法界一相に真理を会してのち、
心常に法界に一にせるは是平生の心念とはなれり。
之すなわち宗教の信仰に所謂、光明遍照中の自己なり。
大円鏡中の自己なりと信ず。」
○「後二十四の時に東京駒込の吉祥寺学林に於いて
卍山上人の五教章の聴講に列なりし時
田端の東覚寺に寄宿して吉祥寺に通う往復にも
口に称名を唱え意(こころ)に専ら弥陀の聖容を想ひ専ら神(こころ)を凝しけるに
一旦蕩念(とうねん)として曠廓(こうかく)極まりなきを覚え、
其時に弥陀の霊相を感じ、慈悲の眸(まなじり)丹花の唇等、
其の霊容を想ふ時身心融液にして不思議なるを感ず、
其後は常に念に随て現ず。」
(二十四歳)
「医王寺」薬師堂に籠もり、21日間念仏三昧を激修。
筑波山入山、「念仏三昧発得」
(二十五歳)
「東漸寺」末寺、飯島(現在の埼玉県吉川市飯島)の「宗円寺」に籠もり、
一切経七千三百三十四巻の閲覧を開始、足掛け3年(実質2年足らず)で読了。
【人生第五の節】
(三十歳頃)
巡錫しての人々の救済の地域を広げられる。
(三十六、七歳頃)
インド仏跡参拝
【人生第六の節】
(四十二歳頃)
「光明主義の胎動期」
○三河巡錫中、肺炎を患い、初冬まで新川町(現在の愛知県碧南市)の「法城寺」に滞在。
なお、興味深いことに、「法城寺」の近くに、「清沢満之記念館」があります。
参考文献:
齋藤乗願「弁栄上人と法城寺」『山崎弁栄展 宗教の彼方、新たなる地平』
○ 千葉県五香「善光寺」にて、
棺を用意させ、その中に端座し、30日に及ぶ念仏三昧修行。
身体疾患における広義の「創造の病」(ユング、エレンベルガー)と云い得る、
「光明主義の胎動期」として、極めて重要な時期と思われます。
岡潔博士は、この年齢で一応考察をやめられています。
おそらく、この後は、この延長戦上で考察できるからではないかと推察されますが、
それ以降も、
弁栄聖者ご提唱の「光明主義」上、重要な出来事と思われることが、
幾つかありますので主な出来事をご紹介します。
(1912年(明治45・大正元年)54歳)
九州各地を初巡錫。
「筑紫の聖人」波多野諦道上人が、筑後「善導寺」で聖者と邂逅。
光明主義の伝道上、極めて重要な基点となったと思われます。
(1913年(大正二年)55歳)
大谷仙界上人、聖者と邂逅。
(1914年(大正三年)56歳)
○ 笹本戒浄上人、聖者と初見。
○ 「光明会趣意書(一枚刷)」発行。
(1915年(大正4)57歳)
美濃にて、「光明会礼拝式」発行。
(1916年(大正五年)58歳)
知恩院教学高等講習会で「宗祖の皮髄」と題し講演、
その後、「宗祖の皮髄」出版。
(1918年(大正七年)60歳)
田中木叉上人、弁栄聖者と邂逅。
(1919年(大正八年)61歳)
○「光明学園」開園式。
○長野県上諏訪唐沢山「阿弥陀寺」の第一回別時念仏会をご指導。
○「ミオヤの光」発行。
(1920年(大正九年)62歳)
新潟県柏崎「極楽寺」にて、ご遷化
参考文献:「山崎弁栄年譜」
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