2015-12-14

弁栄聖者「念仏三昧発得地、筑波山」の御修行地探訪


筑波山は、「西の富士、東の筑波」と富士山と並び称される山で、
西側の男体山(標高871m)と東側の女体山(標高877m)の双峰からなり、
信仰の山としても古くから知られ、
弁栄聖者の御生誕地、鷲野谷からも眺めることができます。

「立身石巌窟」は、男体山にあります。

現在では、ケーブルカーで、「宮脇駅」から「筑波山頂駅」まで、8分ほどで行けます。

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○「常陸国筑波山麓より一里ばかりか
山頂より二丁許南の方に石身石てふ巌窟あり
此に在って凡そ一ヶ月 次に場所をかいて一ヶ月
身に纏ふ所は半素絹 食物は米麦そば粉などにて
(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)


山本幹夫氏(山本空外上人の俗名)は、
男体山の立身石の次の御修行先を確認すべく、筑波山へ調査(昭和10年12月か)に行かれ、
次のような運命的な出遭いをされます。

○「女体山中でふと巡り合った真言宗の行者、
その母堂故水島キヌエ氏が弁栄聖者の信者で、
聖者から、筑波山上での修行体験内容の有難さを聞いて、
自らも筑波山上で数回も修行された程の関係があり、
『弁栄聖者は、立身石から女体山の北斗石の方へ移られた』と、母堂から聞かされていた。」

(山本幹夫著『辨栄聖者の人格と宗教』)

これらの田中木叉上人と山本空外上人の文章が以前から気になっていたのですが、
昨年に、ふと思い立ち、筑波山の現地調査を開始し、
「数度にわたる現地調査と新たな文献調査」などによって、
弁栄聖者の筑波山での御修行地をほぼ推定できたと確信でき、
調査が一段落したと、ほっとしていました。


この調査過程で、
昨年、平成26年4月に再々刊された、
宮本宣一著『筑波歴史散歩』にたまたま出逢えたのは、
真に幸運なご縁で、何か「お導き」のようなものを感じました。
(初刊が昭和43年、再刊が55年発行で、しばらく品切れ状態でした。)

この本には、「筑波山禅定」「筑波山神窟講社」とも云われる)
の修行地(六十六ヶ所)の順序と解説が載っており、
まだ手探り状態の時に、この本のお蔭もあり、
弁栄聖者の御修行地が「筑波山禅定」の修行地と重なる可能性が濃厚と推定でき、
ほのかに光が差してきたように感じました。

「イワヤ」・「岩屋」、つまり、「行者窟」に絞り、現地調査を進めることができました。


昨年の調査成果も踏まえ、改めて振り返ってみたいと思います。

前回の調査後の新たな文献調査から、
「若干の修正と補足」も追加したいと思います。

※ 今回の調査は、今年の初夏と盛夏の2回で、写真は、混在となっています。
なお、聖者の御修行時期は、8月下旬から2ヵ月ほど。

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男体山頂方面ではなく、左側方面へ。

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御海(みうみ)へは、左側へ入りますが、
御海(みうみ)に関しては、後ほど。

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立身石の裏側、
弁栄聖者が、夜に修行をされた立身石の巌上の地。

そこから眺める景色。

↓ この鎖は、この巌が、「筑波山禅定」の主要場所の一つの証。

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筑波山での有名な観光地の一つでもある、「立身石」

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(筑波山上における弁栄聖者の三昧発得偈)

「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念
一心専念能所亡  果満覚王独了々」



「明治十五年二十四歳の時一夏六十日間筑波山上に入山修行、
深三昧の岩床に称名日々十万遍、
王三昧円かに成就して、如来の真境了々と現前。」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

ついに、念仏三昧を了々と発得。
この激烈な御修行により、小便に血が混じったとのこと。
(聖者の持病であった腎臓病との関係が気になります。)

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このご境界について、貴重な逸話がありますのでご紹介します。

この「念仏三昧発得」の境地について、
問:「既に成仏と言われるべきところですか」
答:「いまだし、天台の六即をもって云えば、まだ観行即とも云うべき所だ」


と、弁栄聖者は答えられた。
「大谷上人 顕現極楽」(「大谷上人極楽の巻」『ミオヤの光』)

この記事を読まれた、杉田善孝上人の法友、和田真澄氏が

問:「あの御境地がまだ観行即でいらっしゃいますか」
答:「弁栄上人が其の様に申されたのであれば私達が何とも申上げられませんが、
恐らくは御謙遜で居らせられませう。
大正七年神奈川に御越しの節は、
私に、『大智慧の光明十方を照らして嬉しかった』と仰せられました。」

と、笹本戒浄上人は答えられておられます。 (『笹本戒浄上人 しのび草』)


また、戒浄上人によりますと、
弁栄聖者のこの時の御境界は、
「「開示悟入」の「悟」の仏眼(釈尊は「入」の仏眼)の御境界」とのこと。
(仏陀禅那弁栄聖者著『光明主義玄義(ワイド増訂版)』)


「この宗教体験は、かれの東京遊学以来の一つの総決算であるとともに、
またそれ以降の生涯を貫く宗教活動の出発点ともなり、
またその土台ともなるものであったのである。」( 河波昌 「山崎弁栄ー光明主義の聖者ー」)

(脇本平也・河波昌共著『浄土仏教の思想 第十四巻 清沢満之 山崎弁栄』)

これほど深いお悟りでも、未だ究極のお悟りではなく、出発点であること、
肝に銘じるべき点だと思われます。


この地「立身石」は、間宮林蔵親鸞聖人にゆかりの地として有名で、
「弁栄聖者の三昧発得の地」としては、
残念ながら、まだほとんど知られてはいません。

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前回の調査では、「立身石」の存在感に圧倒され、
「日中は、この岩屋で御修行され、
夜は、(先ほどの)この巌上で御修行された。」


との定説をほとんど疑うことがなかったのですが、
穴が若干狭いことと、
この立身石の岩屋が、聖者の御修行当時から観光地としても有名であったこと、
が、ほんの微かに若干の疑問として残り、払拭しきれてはいませんでした。

前回の調査の後に、
吉松喜久造氏の調査成果の文献と出会い、
今回、調査再開となった次第です。

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「立身石」から下り、しばらく進み、右方面へ。
少し進むと、目の前にそれらしい雰囲気の場所が・・・

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「聖者が最初、男体山で寝泊り、雨宿りなさったのは、
男体山岩屋で、二、三人は入れる位のほら穴で、
立身石より約百米位下にある。
聖者は日中は人目を避けて男体山岩屋で念仏し、
登山者が帰ったあとで、百米上の立身石上の巌上で
一心専念に念仏三昧をされたという。 」(吉松喜久造氏)


この地を訪れた時、
確かに聖者は、この場所で生活されていたに違いない、
と、腑に落ちるものがありました。

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続けて、吉松喜久造氏は、

「この岩屋から更に約百米位下に、

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水の湧き出る御海(みうみ)が位置し、
この湧き水にて聖者は炊事をして居られたと伝えられる」と。

約1200年前に、徳一大師によって発見されたと伝えられ、
親鸞聖人が餓鬼済度に用いられた霊水で、
万病に効くといわれているようです。

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聖者が御修行の後、百数十年が経った現在は、
残念ながら、「水が湧き出る」というほどではないようです。

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○「石身石てふ巌窟あり
此に在って凡そ一ヶ月 次に場所をかいて一ヶ月・・・
(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

○「女体山中でふと巡り合った真言宗の行者、・・・
『弁栄聖者は、立身石から女体山の北斗石の方へ移られた』と、母堂(故水島キヌエ氏)から聞かされていた。」

(山本幹夫著『辨栄聖者の人格と宗教』)

前回の調査では、これらの言葉を確認すべく、
女体山の「北斗石」を目指しました。

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弁栄聖者が筑波山頂で御修行された明治15年の頃には、
まだ、ロープウェイはありませんでした。
筑波山ロープウェーの営業開始は、「昭和40年8月11日」とのこと。

女体山山頂から、反対側に、男体山が確認できます。

もちろん、男体山から十数分ほどで、女体山山頂へ到着できますが、
それほど平坦な道のりではありません。

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女体山山頂から下山し、北斗石へ向かうのですが、
いきなり、結構険しい道が、しばらく続きます。

7~8分ほど進みますと、女体山岩屋が右手に見えてきます。

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注連縄がかかっている奥の方が、女体山岩屋。

前回の調査では、何か気になりながらも、
「北斗石」を目指し、急ぎました。

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北斗星(北極星)のように決して動かない岩という意味。
また、弘法大師がここで北斗七星を司る妙見菩薩を見たという伝説が残っているとのこと。
~「筑波山の概要」『つくば新聞』より

空外上人が断定されておられるように、
この地「立身石」で一ヶ月の御修行ということには、
幾つもの点で無理があると思われます。

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「北斗石」を過ぎ、少し進んで左脇道へ入ります。

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約10分ほど下り、右下に湧水が流れている(二ヶ所めの湧水)のを眺めながら、
左脇道へ入り少し行った処に目的地があります。

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女体山、「護摩壇」石の行者窟

ひっそりと隠れたような場所にあり、
弁栄聖者の御修行場所は此処をおいて他にない
直観できる場所、諸条件、雰囲気を備えています。
 
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「護摩壇石」から、ほんの1~2分のところにある水源。
この「水」は、修行場所として、とても重要な意味があると思われます。

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田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』の第1版は、昭和11年9月11日発刊。

弁栄聖者の御遺稿集の、実証的、学問的研究書ともいうべき、
山本空外上人編『辨栄上人書簡集』において、

「その夏筑波山入山、立身・北斗両石上各一ヶ月の三昧証入となり」

と、立身石の次の弁栄聖者の御修行場所を「北斗石」と断定されておられます。

その根拠と思われるのが、

「弁栄聖者は、立身石から女体山の北斗石の方へ移られた」
(山本幹夫著『辨栄聖者の人格と宗教』昭和11年10月発刊)

との伝聞が基になっていると思われますが、
この書においては、「北斗石の方へ」となっており、
「北斗石修行」とは明言されてはいません。


また、山崎辨戒編『辨榮上人と辨誡師』に、
弁栄聖者の次のような書簡があります。

「愚衲はむかし若き折、筑波山に登りて念仏三昧をつとめ、
諸処にてつとめたるも、・・・。」


吉松喜久造氏の調査によりますと、

「この立身石での御修行のあと一か月間は、
女体山岩屋、北斗石、護摩壇石付近かと推定される」

と控えめに記されていますが、

この吉松氏の御推定が、
山本空外上人が聞かれた伝聞と、
これまで複数回にわたる筑波山での現地調査、文献などに基づく推定結果を満たし、
「最も信憑性が高い」と肯首できます。


ポイントは、
○人目を気にせずに、修行に専念できること。
○「衣・食・住」、人間としての最低限の生活を満たせること。
特に、「水」は重要なポイントだと痛感しました。


「山上には昼登山の人に茶をだして、夜は山を下る茶店があって、
そこの人が親切に世話してくれた。
多くは少量のそば粉で飢えをしのいだ。」
と、田中木叉上人は『日本の光(弁栄上人伝)』に記されています。

山上とは、男体山上のこと。

なお、当時、お茶屋さんは、江戸時代から続く、
男体山と女体山の鞍部の御幸ヶ原(現在の男体山のケーブルカーの終着駅正面広場)の、
五軒茶屋(依雲亭、迎客亭、遊仙亭、向月亭、放眼亭)と、
みなの川茶亭の他、「北斗石」から10数分ほど下ったところに、
かつて、「弁慶茶屋」などあったとのこと。

また、
大正12年5月発行の本間榮吉著『辨榮上人と当麻山』に、
興味深い記述があります。

本間氏が、弁栄聖者の御事蹟を尋ねるべく千葉県を訪れた時、
松戸駅から五香の善光寺へ行くために乗った人力車の老車夫が、
弁栄聖者を乗せられたことがあった、という。

そこで、本間氏は、筑波山のことなどを尋ねたところ、その車夫は、

「曾て、筑波山の行者岩窟も見たり、そこの福餅なども食べたことを細々と話してくれた」。

おそらく、この行者窟とは、
「そこの福餅」との記述から、
そこの福餅とは五軒茶屋で供されていたものであり、
したがって、「立身石」のことと思われます。


最後に、
弁栄聖者の筑波山上での御修行に関する記述を、まとめて記しておきます。

○「常陸国筑波山麓より一里ばかりか山頂より二丁許南の方に
立身石てふ巌窟あり 此に在って凡そ一ヶ月 次に場所をかいて一ヶ月
身に纏ふ所は半素絹 食物は米麦そば粉などにて」
(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)


○「女体山中でふと巡り合った真言宗の行者、
その母堂故水島キヌエ氏が弁栄聖者の信者で、
聖者から、筑波山上での修行体験内容の有難さを聞いて、
自らも筑波山上で数回も修行された程の関係があり、
『弁栄聖者は、立身石から女体山の北斗石の方へ移られた』
と、母堂から聞かされていた。」
(山本幹夫著『辨栄聖者の人格と宗教』)


○「その夏筑波山入山、立身・北斗両石上各一ヶ月の三昧証入となり」
(山本空外編著『辨栄上人書簡集』)


○「苦修錬行の終わった八月の末、
聖者はただちにその足で心本尊をお迎えすべく筑波山へ赴き、
ここに二ヶ間、念仏三昧の人となった。
・・・その行場は一ヵ所ではなく、点々とうつり代わったようで、
・・・この間の修行ぶりは正確に知るよしもないが、・・・」
(藤堂恭俊著『辨榮聖者』)



昨年の調査が一段落した後、出あった貴重な記述。

○「聖者は米麦、そば粉の少量づつのお食事ではとても健康を保てないので、山には果実や食べられる草木等がある。
それをお召し上がりになったり、また山の中腹にある茶店の人が親切にお世話して、
この修行僧に食べ物を御供養申し上げたと聞く。
それだからこそ、二ヵ月の御修行がお出来になったのである。」
(弁栄聖者の直弟子佐々木為興上人の藤堂俊章師へのご教示)


また、同様の話を、
聖者直弟子の山崎弁誡上人が吉松喜久造氏へご教示されたとのこと。

決して「断食ではなかった」点を、特に強調したいと思います。
これは、吉松氏の御意向を受けての強調点であることを申し添えます。

弁栄聖者がそのお悟りの深さを高く評価された、
三身四智の聖者のお一人、江戸時代後期の徳本行者
徳本行者のその御修行は、遠く、捨世派の「木喰聖」弾誓上人の御修行法にも繋がり、
密教・修験道との縁も感じられ、 山中の洞窟に籠って持戒・念仏・木食の修行を彷彿させるものがあり、
今回の筑波山での調査中、弁栄聖者の御修行はこの系譜に属する との思いが、頭から離れませんでした。


吉松喜久造氏は、弁栄聖者の筑波山での御修行地について調査された結果、
次の如く結論されておられます。

「聖者が最初、男体山で寝泊り、雨宿りなさったのは、
男体山岩屋で、二、三人は入れる位のほら穴で、立身石より約百米位下にある。
聖者は日中は人目を避けて男体山岩屋で念仏し、
登山者が帰ったあとで、百米上の立身石上の巌上で
一心専念に念仏三昧をされたという。
この岩屋から更に約百米位下に、水の湧き出る御海(みうみ)が位置し、
この湧き水にて聖者は炊事をして居られたと伝えられる。
この立身石での御修行のあと一か月間は、
女体山岩屋、北斗石、護摩壇石付近かと推定される」。


ここに吉松喜久造氏への謝意を添え、一連の調査報告を終えたいと思います。
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テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2015-12-07

『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)を読む(その6)


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『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)

目次
序 章 信仰の皮肉と骨髄
第一章 光明主義と山崎弁栄
第二章 光明主義の七不思議
第三章 大ミオヤの発見
第四章 四大智慧の真実
第五章 無礙の恩寵
総 結 光明主義の正法・像法を期す


これまでの記事は、
(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)、と本書を読んできました。

今回は、
「総 結 光明主義の正法・像法を期す」と、
今までの記事の補足に関する内容です。


「笹本戒浄上人は、昭和3年(55歳)の頃には、
「仏眼については、「まだ経験していないが、想像はできる」旨洩らされたが、
昭和4年春には上記のお言葉は出さぬようになった
そして、昭和8年から9年にかけて(60歳から61歳)仏眼について次第に明了に
昭和10年(62歳)から具体的に明了にご説示されるようになった」

杉田善孝上人のご述懐であったと記憶していますが、
本書を読みながら、ふと、思い出しました。


唐突に思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、
この戒浄上人に関する杉田上人のご述懐は、
とても重要な内容を含んでいるように思われ、印象深く記憶に残っています。


「わかるとは、何か。」
と云う極めて重要な根源的な問いを含んでいます。


これは、如来「四大智慧」の働きですが、
更に、興味深く、重要な内容が含まれています。

「知らないはずのことを、既に、知っている。」

といった、真に不思議な、興味深い「智の働き」です。


本書の著者、佐々木氏の場合には、
「念仏実践」としては、「五根五力の成就」と「七覚支の択法覚支」への「思惟」が中心のように思われますが、
その「思惟」等を手がかりとし、また、論理的思考及び比較思想等の研究成果を駆使された、
「弁栄聖者の仏身論及び十二光」の論考、
といった体裁がとられており、
このことが、「求道者 佐々木有一」氏の面目躍如たる、
「本書の最大の特徴」のように思われます。

佐々木氏は、この点、極めて自覚的であられ、

「正しい念仏の相続のみがその門を開く宝鑰(宝の鍵)であると信じます。」

と、その「正しい念仏の相続」のための「起行の用心」、
すなわち、念仏の真髄とも要諦とも云い得る
「般舟三昧の行法の復活」に関し、
「「弁栄教学」の根拠を検証し、提示すること」
ご自身の「最大の使命」と自己規定されておられるように思われます。


ここで、ご留意していただきいたいことがあります。

「本書は、いわゆる学術書ではない」
と、以前ご指摘しました。

その意味は、
「本書は、「文献学的考証」のみの本ではない」ということです。

著者である佐々木有一氏は、
「日課念仏」をされている。
と、この点も何回かご指摘してきました。

本書は、内容的にも高度で、難解でもあり、
「学解」が全面に出ていますが、内実は、
「「学解」のみでは、本書のような内容の書は書けない。」というのが、
本書の「隠し味」となっているようにも思われます。


また、河波昌先生が特に強調される、
弁栄聖者が直弟子の大谷仙界上人に差し上げられたと伝えられている『お慈悲のたより』
すなわち、

「すべてを大ミオヤに御任せ申し上げて常に大ミオヤを念じ
大ミオヤはいつも離れずあなたの真正面に在まして
慈悲の面をむけて母の子をおもうごとくまします。
あなたは其れのみをおもうて専らにして・・・」


「起行の用心」として、
佐々木氏は、とても大切にされ、実践しておられるようです。


なお、
「「凡てを大ミオヤに、おまかせ申し上げる」という気持は
よほど発達してからでないと出来ん。」
(『田中木叉上人御法話聴書』冨川茂 筆記)


とは、田中木叉上人の肌理細やかな、ご親切で真にありがたいご教示。


ここで、留意すべき点は、
佐々木氏は、「起行の用心」を、弁栄聖者のこのご指南に置かれつつも、
「念仏実践修道」の「具体的なご指南」に関しては、
多くを、笹本戒浄上人に求められているご様子がうかがえることです。

このことは、「求道者 佐々木有一」氏の、
真摯な「弁栄教学の精読体験」と、「日課念仏」によるものと思われますが、
また同時に、「大ミオヤからの自発的な能動的な働きかけ」を感じます。

と云いますのも、
佐々木氏が学恩を受けておられるという河波昌先生の著書等は、
とても示唆に富む内容の論考等が多いのですが、
笹本戒浄上人のような「具体的かつ詳細な念仏実践へのご指南」は少ないように思われるからです。

また、杉田善孝上人泉虎一氏、能美寿作氏他、
戒浄上人の直弟子達が書き残されたもの、
「弁栄聖者から戒浄上人への口伝」の内容についての言及も、
ほとんど見受けられません。

このことは、山本空外上人河波(定)昌先生に共通する、
「弁栄教学に対する研究態度」の特徴の一つでもありますが、
おそらく、「経典に書かれていないことには、慎重にならざるをえない」
と云う「学者としての立場」もあろうかと思われます。

「(光明主義)念仏実践」及び「弁栄教学の精髄」を学ぼうとする場合には、
両者の立場からのアプローチが有益かと思われます。


「私は聖典に依て演繹的に説くのではない、帰納的に説いている。」
(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)



「弁栄教学の真髄を理解するため」には、
「弁栄聖者への信」または、
「弁栄聖者の笹本戒浄上人への口伝への信」 
が不可欠となる。

「弁栄教学」を学ぼうとされる方への「試金石」となるように思われます。


「本書で、佐々木氏は、幾つかのタブーに果敢に挑まれておられる。」
と、既に書きました。

佐々木有一氏にそれが可能であったのは、

○真理追及の学究の徒であり、
ご自身で捉えられた真理を伝えたいという切なる想いが強いこと。
○光明会に出逢われたのが十数年前であったこと。(最後の世代交代の時期であったこと)
○河波昌先生のご指導を光明園で受けられておられるようであること。
(河波昌氏は田中木叉上人の弟子筋にあたり、比較宗教思想・哲学の学者であり、かつ、念仏行者であられること)
○「在家」であり、浄土宗の僧侶ではないこと。
○御齢、七十歳台の後半(浮世とのしがらみからかなり自由)であること。 

思いつくままに記しましたが、以上掲げた点が推察されます。


「弁栄聖者を信奉する組織」は、それぞれ、組織としては小さな集団ですが、
それでも、幾つかの系列があります。
詳細に関しては、後日記事にしたいと考えていますが、

比較的大きな団体としては、
○「一般財団法人光明会」に属する系列
○「光明会本部聖堂」に属する系列
○「観智院」
○その他、弁栄聖者を信奉される小規模の会等

特に、「光明会内の暗黙のタブー」としては、
これらの組織の横の繋がりの希薄さがあり、

佐々木有一氏のこの書は、
これらの組織間を「架橋する」試みの一つだとも受け取れます。


特に、兵庫県芦屋聖堂出版の、
『笹本戒浄上人全集』『弁栄聖者 光明主義注解』
に、佐々木氏が、注目され始めておられる点にも、留意していただきたく存じます。

ただし、佐々木氏は、意図的にそうされようとしてこられたわけではなく、
「弁栄聖者の御教えの真髄」を追及されてきた結果
自ずと開かれてきた道程、といった点が重要かと思われます。

光明会本部聖堂の系譜に属していない光明会員が、
これほどまでに、笹本戒浄上人への関心と理解を示されている方は、極めて稀だと思われます。


また、佐々木氏は、本書執筆の動機を「あとがきー有力無名」で、
平成二十二年十月に、岐阜で開催された山崎弁栄展と、
その記念シンポジウムでの記念講演での若松英輔氏の発言にあった、
と記されています。

※ 岐阜県岐阜市には、
若松英輔氏が館長である「一般財団法人 山崎弁栄記念館」があります。
 そのシンポジウムの際の「山崎弁栄図録」は、こちらで購入できます。


先ず、『近代の念仏聖者 山崎弁栄』の表紙の写真に注意を惹かれました
聖者の御写真としては珍しいものだったからでもあり、
この点から、著者の意図の一端を汲み取ろうと努めました。

「わたしどもは光明主義の遠い未来から眺めて
初期光明主義の時代にあると覚悟する責任があります。
尖兵として後代への使命を背負っています。」


佐々木氏の気概が感じられる言葉ですが、
岡潔博士の聖者観を思い出しました。

若松氏は、佐々木氏同様、岡潔博士の随筆等によって、弁栄聖者を知られたようです。

その岡潔博士の聖者観には鋭い観点が含まれています。

「私は、この方の御写真を見ていると、
どうしても達磨大師に見えてきます。」(岡潔著『曙』)


岡博士が、聖者のどの写真を見られていたかはわかりませんが、
本書表紙の御写真ではなかったと推察しますが、
聖者を「達磨大師」「意の人」と捉えられる方は比較的少ないかもしれませんが、
確かに、聖者にはそのような厳しさがおありだったようにも思われます。

岡潔博士は、ご自身を典型的「日本人」として自己規定されており、
典型的「日本人」の系譜として、
「道元禅師→松尾芭蕉→夏目漱石→岡潔」
と捉えておられますが、
留意すべきことに、そこには、弁栄聖者の御名前がありません

岡博士は、聖者を「情」よりも「意」の人と捉えておられていたようです。

岡潔研究者の第一人者としては、高瀬正仁氏が知られていますが、
最近注目されている岡潔研究家でもある森田真生氏のご関心は、
今のところ、この「日本人としての系譜」にあるようで、
残念なことに、岡潔博士の尊崇された弁栄聖者にはほとんど触れられていません

最近、森田氏の処女作『数学する身体』が出版され、
岡潔博士への深い敬愛の情と理解を示されています。


もう一点、是非付け加えたいことがあります。

若松氏もご指摘のように、
弁栄聖者は、宗教思想、宗教哲学的にも、傑出した「宗教思想家」でもありましたが、
やはり、何といっても、傑出した「宗教家」に徹しておられました。

弁栄聖者の「宗教家としての一面」を知った者は、
「尊崇の念」と同時に、
「我々とはありにもかけ離れた弁栄聖者の無我の仏作仏行」に、
戸惑いを覚えられるかと思われます。

この点には、いまだに忸怩たる思いが若干はありますが、
「弁栄聖者のイメージを描く手助けとなる」弁栄聖者の逸話等をご紹介することには、
ある種の意味があるのではないかと思えるようになっています。

ミラクルボディの身体能力を持つスーパースターと呼ばれるスポーツ選手の運動能力を、
熱心に観戦している子供達の身体能力が高まる傾向があるようです。

脳科学的知見としては、「ミラーニューロン」の発見に興味を惹かれます。

また、古武術研究家の甲野善紀氏の研究成果も、
真に興味深い知見に満ちています。
文献のみからの身体的な技術、技法(秘術)の再発見が如何に困難であるか
その困難さの過程から「古武術の技が再発見される過程」に教えられることが多いです。


「目標、理想とする、模倣したい、
具体的な生き生きとした「モデル、イメージ」が目の前に現存していること。」


この点は、極めて重要なことであり、


「弁栄聖者に直接邂逅された方々が、出家・在家を問わず、
信を深められ、信仰が深まっていかれた方が多くおられた事実」

に佐々木氏は、真に的確にも注目されておられます。


~耳寄り情報を一つ~
佐々木氏の勉強会が、東京練馬の「光明園」で行われている、
と風の便りで聞いています。
関東近辺の方で、ご関心のある方には、貴重な機会かと思われます。


最後に、本書を出版された佐々木有一氏の勇気と決断と労苦に対し、
深く謝意を表します。

また、推測の域を出ないことですが、
もしも、十数年前に、佐々木氏が、河波昌先生以外の光明会の指導者の方に出逢っておられたら、
本書は出来ていなかったかもしれません。
当時の佐々木氏の教学的疑問等には応え得ず、
佐々木氏は、早々に光明会から離れていったと思えてならないからです。
この河波昌先生との不思議なご縁に、感謝の念を覚えます。


佐々木有一氏の「弁栄聖者論」の第二弾、
「念仏三十七道品」
特に、『智慧光』、『無称光』の更なる詳細な研究成果を切に期待しています。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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