2015-11-30

『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)を読む(その5)


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『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)

目次
序 章 信仰の皮肉と骨髄
第一章 光明主義と山崎弁栄
第二章 光明主義の七不思議
第三章 大ミオヤの発見
第四章 四大智慧の真実
第五章 無礙の恩寵
総 結 光明主義の正法・像法を期す


これまで、(その1)(その2)(その3)、 (その4)と、本書を読んできました。


今回は、「第五章 無礙の恩寵」について。


「南無無礙光仏」
如来無礙の光明は  神聖正義恩寵の
霊徳不思議の力にて 衆生を解脱し自由とす

「南無十二光仏」(弁栄聖者『如来光明礼拝儀』)


明恵上人の『摧邪輪(ざいじゃりん)』による、
法然上人の『選択本願念仏集』に対する批判への、
弁栄聖者の「念仏観」による応答でもあります。

弁栄聖者は、「如来無礙光」の神聖に、
「本性本然の理法」たる「道徳律の根本」を見ておられます。

また、「神聖・正義」を父性的、「恩寵」を母性的働きとして、
「大ミオヤ」の父性・母性の両側面として捉えておられます。

更に興味深いことに、
聖者は、『光明の生活』に、「三徳の順序」として、

如来は神聖正義恩寵との関連は吾らが如来の霊育を被る順序としては
恩寵と神聖と正義と次第す(という順番である)。・・・
併しながらこれ恩寵の母の霊育を被ればこそで、
頓に父の神聖正義の道を視、また歩行するに至る。
是の如きの因縁を以て恩寵と神聖と正義に次第するのである。」

佐々木氏の重要な引用箇所の一つ。

「道徳は救いの条件にあらず、その結果なり」
(『田中木叉上人御法話聴書』)


また、
「衆生を解脱し自由とす」とは、
衆生の「自由」のためには、解脱が必要である。

衆生とは、世界性、衆生性として、天則、因果の制約を受け、
依他起性の為に繋縛せられて、自ら自由を得ず。」

とは、聖者の衆生観です。

「如来の内容と融合し、
宇宙無限の内容より自己の内容に湧出る故に、自発的に心霊活動す。
吾人の全身が絶対なる如来の妙身を形成す。」

(「平等性智」『弁栄聖者光明体系 無辺光』

前回は、記事が長くなり過ぎたため、引用できなかった、佐々木氏も本書で引用されている、
極めて重要な弁栄聖者の自内証からの「成仏観」、また、「真の自由観」


佐々木氏は、この「無礙光」を、
如来の「前三の光明」と衆生への働きかけ、
すなわち、恩寵としての「後九の光明」とを結びつける要の役割つまり
「衆生摂化総合指揮所」と捉えています。

「十二光の一連一体」
「行儀門と感応門の表裏連環の関係」

この佐々木氏のご指摘は、重要です。

また、この第五章において、「般舟三昧の実践」の重要性の指摘、
「真応身と霊応身」との関係についての記述、分析に、
佐々木氏の特徴が出ていると思われ、 前々回の(その3)でふれましたが、
本来、前回の(その4)の「成所作智」の項目で触れるべきでしたが、
「見仏の心状」の文章も、とても重要な引用。


本章での重要な内容である「念仏七覚支」は、
弁栄聖者の自内証から、「成仏への霊育過程」を説かれた、
「念仏三十七道品」における空前絶後、極めて画期的な内容と云われています。

よく知られていますのは、
大正八年(聖者ご遷化は大正九年)、広島県廿日市の聖者のご高弟の一人佐々木為興上人の潮音寺にて、
聖者が別時念仏会を指導をされた時に、
「念仏三十七道品」を講述されました。

このお別時には、熊野宗純上人、藤本浄本上人、丹波円浄上人、橋爪実誠上人、荒巻くめ女も参加され、
わざわざ神奈川県横浜から、ご高弟の笹本戒浄上人を呼ばれたほどのもので、
丹波円浄、橋爪実誠両上人による筆記録が残されています。

いつか記事にしてみたいと思っています。


「念仏七覚支」の最初が「択法覚支」ですが、
この段階を第一番目に過ぎないと軽視してはならないと思います。
最初の信念の定め処が、その後の道程を規定してしまうことが多いかと思われます。

笹本戒浄上人の弟子筋にあたる能見寿作氏は、

「光明会の方は、弁栄聖者の御教えを軽く考えている方が多いように見受けられる。
例えば、七覚支の最初の『択法覚支』。
この境涯は、普通考えられている以上に、高い修行段階である。
多くの方々は、五根五力の修行を行きつ戻りつしていることがほとんどである。」


と、語られたことがあったようですが、
先達からの、肝に銘じるべきご忠告と受けとめるべきかと思われます。

この『択法覚支』に関して、是非ご紹介したいと思いますのは、
弁栄聖者のご高弟のお一人、大谷仙界上人のことです。

弁栄聖者ご指導による第一回目の唐沢山御別時が催された時のこと。

大谷仙界上人は、佐々木為興上人に、

「択法ができぬ。あなたはできるに違いない。どうか教えてほしい」
涙ながらに云われた。

聖者に許しを得て(大谷上人は聖者の随行されておられたので)、
その後、唐沢山で一週間単独別時をされました。

単独別時を終えられて、
「やっぱりだめだった」と佐々木上人に云われたとのことでしたが、
「それは御謙遜で、確かに大谷上人はこの時に開かれたようでした。」
と佐々木上人は言われた、とのことです。

その後、大谷仙界上人の所作がうって変られた、
と杉田善孝上人のご法話にあり、とても印象に残っています。


また、
二祖鎮西上人が「三昧発得」と言われているご境涯を、
弁栄聖者の七覚支でいえば、「喜覚支」である、
と笹本戒浄上人は、云われています。

慧眼、法眼が深く開けてくるのは、
「喜覚支」と「軽安覚支」においてである、と云われています。

「信行の不退転位」と云われる、「初歩の仏眼」が開ける「定覚支」を、
聖者は、「尽(すべ)ての障碍(さわり)も除こりぬ」と説かれていますが、
更なる霊化である、
「肉の心が如来化されるのは、
三身四智の仏眼(厳密には認識的一切智)」においてである
と云われています。

なお、佐々木氏は、
「無住所涅槃」の境界である「無対光」
「八正道」の実践の境界である「超日月光」を、
「表裏一体の円環関係として捉えていますが、

このご指摘も、極めて重要な観点かと思われます。


「第五章 無礙の恩寵」を、佐々木氏は、
「弁栄聖者御垂示」で結ばれていることが、
とても印象深く思われました。

なお、「念仏三十七道品」は、
『難思光・無称光・超日月光』(弁栄聖者光明体系)で説かれています。

留意すべきことは、
「難思光」の段階から、如来の光明は衆生に働きかけている
という点かと思われます。
ただし、明瞭に顕在化していないため、ハッキリとは認識できていないので、
この段階が、「辛抱のしどころ」かと思われます。

ただし、何らかの「徴し」はあり、 
念仏していると「気になる」ことが自ずと起こるようになる
と、田中木叉上人は、注意を促しておられます。

「気になる」とは、
いわゆる「虫の知らせ」であったり、
何かをする「気になったり」何かを止める「気になったり」とのことで、
念仏により、如来の光明が、潜在意識に働きかけているような感覚を覚えるかもしれません。

前回の『無辺光』四大智慧でふれるべきでしたが、
ユング心理学で云われる
「元型」、「布置(コンステレーション)」、「共時性(シンクロニシティ)」と云った現象は、
『無辺光』の四大智慧との関連で究明されるべきことであるように思われます。
四大智慧とは、「大円鏡智」・「平等性智」・「妙観察智」・「成所作智」のことです。
今回は、この指摘だけにとどめます。


「元来、深奥なる冷暖自知の世界のことであり、
実践上の経験なくして言葉の上でのみわかる筋合いのものではないでしょう。
いつの日か聖者や高弟方のご体験の薀蓄をたずね、拝聴し、
ご指導をいただく機会あれかしと願うばかりであります。」

「念仏七覚支」の内容に関する佐々木氏の記述は、どこか控えめであり、
ここに、「求道者 佐々木有一」氏の真摯な姿勢をみる思いがいたします。

次回は、本書に関して、若干補足したい点を記事にしたいと思います。

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2015-11-24

『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)を読む(その4)


     20151121.jpg

    『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)

目次
序 章 信仰の皮肉と骨髄
第一章 光明主義と山崎弁栄
第二章 光明主義の七不思議
第三章 大ミオヤの発見
第四章 四大智慧の真実
第五章 無礙の恩寵
総 結 光明主義の正法・像法を期す


これまで、(その1)(その2)(その3)と、
『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)を読んできました。
 
今回は、
実に本書の約4割強の230頁にも及び本書執筆の大きな動因とも思われる、
「第四章 四大智慧の真実」を読んでいきたいと思います。

講談社版『無辺光』 (昭和44年(1969年)刊行)は、400頁程で、
(この版の『無辺光』のみに、数学者岡潔博士の序文があります。)
復刻版『無辺光』(復刻者代表 三島健稔氏 平成十九年発行)は、500頁程で、
内容的にはほぼ同じですが、文字、文字の大きさ、行間の違いなどにより頁数が違っています。
また、弁栄聖者著『無辺光』には重複内容もあるため、
「第四章 四大智慧の真実」は、230頁程ですが、
本書は、弁栄聖者著『無辺光』の大部が引用されていると考えてよさそうに思われます。


『無辺光』は、大ミオヤの「四大智慧」、すなわち、
「大円鏡智」・「平等性智」・「妙観察智」・「成所作智」に関し、
経典はもとより、当時の哲学・思想、科学等を自家薬籠中とされながら、
弁栄聖者の甚深なる自内証「三身四智の仏眼」の御境界から説かれていますので、
独創的で、また、極めて難解

『無辺光』は、「弁栄教学」を学ぶ上で必読書であり、
この書の理解抜きには、「弁栄教学の精髄」を理解したことにはならない、
と云いうるほどの本でありながら、
『弁栄聖者 (十二光)光明体系』の中でも難解な書としても知られ、
「敬して遠ざけ」られてきた書、という印象もあります。

「求道者 佐々木有一」氏は、その『無辺光』に、果敢に挑まれています。

本書「第四章 四大智慧の真実」には、
弁栄聖者著『無辺光』の精髄がほぼ網羅されている、
と言っても過言ではないほど、濃密な内容であり、
また、多くが『無辺光』の引用から成っているのも特徴です。

これらは、
「引用」であって、単なる「列挙ではない」こと。 
「写経」と云った意味合いもあろうかと思われること。
「聖者の原文を直接読んでいただきたい」という切なる望みがあること。
○「本書を、聖者の御教えの精髄を知るためのテキストとして利用していただきたい」という願いがあること。
○佐々木氏は「日課念仏の内で、仏身論、四大智慧等の難問を熟読・熟考」されておられるであろうこと。

以上の点に、留意すべきかと思われます。


各智慧の詳細な内容については、
「第四章 四大智慧の真実」に譲ることにしまして、
佐々木氏の論考に触発されたことを幾つか記すことによりまして、
『無辺光』理解の助縁ともなり、
難解な『無辺光』の「四大智慧」を読み通そうとされる「意志の支え」となればと願っています。

「無辺光の四大智慧とは、
一大観念態(大円鏡智)一大理性(平等性智)
一切認識の本源(妙観察智)一切感覚の本源(成所作智)とである」。

『無辺光』の「四大智慧」の総論であり、また、説かれている順序でもありますが、
佐々木氏が引用されている田中木叉上人の「四大智慧」の解説は、
成所作智、妙観察智、平等等智、大円鏡智の順序となっています。

この四大智慧の説かれる順序は、比較的解り易い順序になっており、
そこに、木叉上人のお慈悲を感じます。

弁栄聖者の「無辺光の四大智慧」の特徴を「精確に理解」するためには、
特に、『成唯識論』、『華厳経』、『大乗起信論』、『首楞厳経』、『天台経典』 、『密教経典』、『禅宗経典』、『浄土三部経』、『大智度論』(龍樹菩薩)、『観経疏』(善導大師)、当時の哲学・思想・科学等の知識も不可欠ですが、
「一切経」も身読された「三身四智の聖者」にして、
初めて「精確な理解」が可能となる、とい云い得るほどの甚深な内容かと思われます。

弁栄聖者著『無辺光』「四大智慧」には、
「各宗派の悟りの内容が包含」されているといっても決して過言ではないかと思われます。

「無辺光の四大智慧」の「精確な理解」には、
「理性的理解(解信)」と「「三昧の眼に依る認識(証信)」と、
更に、慈悲の発露である「霊的実践(実行)力」
これら両側面からの理解が不可欠となります。

弁栄聖者にまつわる奇蹟的な逸話の数々は、
三身四智の仏眼に依る弁栄聖者の四大智慧に依る発露だからです。


また、弁栄聖者の『十二光光明体系』、『無辺光』「四大智慧」は、
「大ミオヤの全一なる光明」を便宜的に、十二通りに分け、分析的に説かれているために、
必要以上にその光明のみを分析して、その光明のみで考察しようとすると無理が生じる。」

「弁栄教学」を学ぶ際に、留意すべき心構えかと思われます。


佐々木氏は、数学者の岡潔博士の本とのご縁によって弁栄聖者に出会われました。
昭和44年(1969年)刊行の講談社版『無辺光』の「岡潔博士の序文」を紹介されています。

自然科学者である数学者の岡潔博士が、
「念仏聖者 弁栄聖者」に魅了されたことを不思議に思われる方もいらっしゃるかと思いますが、
「弁栄教学」、特に『無辺光』「四大智慧」を学んでいきますと、
「なるほど」と了解いただけるかと思われます。

佐々木氏も強調されておられるように、
弁栄聖者の「四大智慧」の特徴は、
法身の四大智慧」と「報身の四大智慧」を詳細に説かれている点にあります。

法身の四大智慧」とは、
大宇宙の一面である「自然界に働く如来の光明(働き)」で、
報身の四大智慧」とは、
大宇宙の一面である「心霊界に働く如来の光明(働き)」のことです。

数学者の岡潔博士は、
ご自身の数学研究と光明主義念仏の体験から、大宇宙の両面を直観され、
「法身の四大智慧」に、自然科学の前提条件の根拠を見出したからでもあります。

「四大智慧」とは、「転識得智(識を転じて智を得る)」のことである。
とは、唯識学派の説として知られていますが、
弁栄聖者が三身四智の仏現に依って認識された「四大智慧」の真相は、
「四大智慧」は、本有無作として大ミオヤにもとより在しまして
衆生は、大ミオヤの霊育によって、
如来「四大智慧」が自己のものなり、自己の智慧として応用可能となる


「如来の本体は、物心無碍の絶対大心霊態である。」

佐々木氏が度々引用される「如来蔵妙真如性」は、
弁栄聖者著の『無辺光』「四大智慧」を読み解くキーワードの一つかと思われます。


○「大円鏡智」
「十方三世の色心(しきしん)は
如来の鏡智に炳現(へいげん)す」


「一大観念には、過去も未来も現在の観念の内面に存在して、
外観は常恒に現在のみなり。
内面より発現するが故に三世を当念に収む。
常然現在の同時態なり。
但に同時態のみにあらず、意識感覚的形式を脱して直観なり。」
(「大円鏡智」『弁栄聖者光明体系 無辺光』)



「大円鏡智」と「阿頼耶識」との関係について、
弁栄聖者は、唯識学派の説を次の如く判釈されています。

唯識観念論者の説は、個人中心として、
未だ個人観念一大観念の根底に立って自己は其の一員たるをいはざるなり。
今は如来心の鏡智即ち絶対観念を一切主観客観の本質根底として
主観客観は一本質の両現象なりとす。」

「絶対観念即ち鏡智の一分が個人の自観即ち頼耶識と名づけたるものなりとす。」

ちなみに、「今は」とは、私(弁栄)は、ということ。


また、弁栄聖者の説かれる「四大智慧」、特に「大円鏡智」が理解し難いのは、
自然科学の対象となる「自然現象の法則」そのものの根拠に、「法身の四大智慧」を以て説かれ、
しかも、その「四大智慧」を、「宗教的、人格的」に説かれている点かと思われます。

「法仏の鏡智は万物を反映するにあらずして発現的現象なり。」

「宇宙の内観は一大観念なり。一大観念が内容の理性によりて、
意志に発動せられて秩序が外面には因果律の関係をもて万有を顕現す。」

この「意志」の理解のし難さが、
「大円鏡智」の理解を困難としている大きな要因かと思われます。

このことは、他の智慧についても言えることですが、
「大円鏡智」は、決して、静的な「大いなる鏡」という意味だけではなく、
極めて力動的な「万物を発現する働きがある」と捉えておられます。


以上の「大円鏡智」の説明は、極めて観念的に感じられるかもしれませんが、
弁栄聖者においては、極めて現実的な、日常的なことでした。

懇切丁寧で、とても有り難く貴重な笹本戒浄上人のご教示を記します。

仏の完全な大円鏡智は、特別に意志を働かさなくても、
肉眼といつも同一時に活動している。
認識的一切智を実現していられる仏
大円鏡智で宇宙の一切を任運自在に感じていられる

ただし、「宇宙の一切のこと」と申しても、それは、

成仏の中心道を直進する上で核心となり急所となるもの、
自行化他の道において尊く価値のあるもの、
一切の衆生を中心道に導く対機説法で有効適切なもの、
お互いの心を明るく清く楽しく豊かにするもの。

もしも、そのような意義深いもの以外のものまでも朗々と感じているのであれば、
それは、真実の仏の円満な認識的一切智ではない
」と。 (『笹本戒浄上人伝』)


○「平等性智」
平等性智で説明用語の「理性」とは、
「りしょう」と読むと、少し理解され易くなるように思われます。

「この性智は宇宙の一大心霊に万物を統一し摂理する処の理性として存す。」

さらに、「大法身が万物を統一摂理の性を有する」のみにあらず、
小法身が自己分限内のものを自制自発的に造化の性能を有しておる」。


「宇宙の自性に徹底的に大悟する時は、自然本然の平等性智現前す。」

「禅の悟りの真相」の弁栄聖者の説明であり、
「他仏を認めない」禅の悟りの一面性への批判も含まれているように思われます。

また、人の一つの理想的在り様とされる、
「理性我の完全なる精神生活を得るに至る」ことは、
法身の範囲にして、之を宗教的にい云はば法身のミオヤの聖意に契う人なり」
として、いまだ「因果律に規定され」ているために、真の自由とは言えない
と、更に、「報身の平等性智を仰がずべからず」、とされています。

「人間にとって宗教が不可欠であることの根拠」が明示されています。


なお、「四大智慧」はそれぞれ独立しているものではなく

例えば、「大円鏡智」と「平等性智」の関係で云えば、
心の鏡に例えれば、心の鏡が「平等性智」であり、
心の鏡と心の鏡に写った影と共に「大円鏡智」と云われます。

したがって、「大円鏡智が明了と開けるためには、
平等性智が了々と開けていることが前提である」
と云われます。
(杉田善孝上人の御教示)


○「妙観察智」
「察智とは、感応なる不思議の妙用」であり、「如来の内容を啓示する性とす」。

あまり知られていないかと思われますが、
『啓示の恩寵』(「智慧光 巻下(開示悟入)」)という小冊子があります。
戦後間もなく、物資の乏しい時期に発行されたもので、保存状態があまり良くなかったのですが、
幸い、最近に、光明会聖堂から再刊されました。

聖者は、「精神の交通」と「交通」という言葉を使っておられます。
キリスト教には、「諸聖人の通功」という教義があり、興味深いものがあります。


また、佐々木氏は、「妙観察智」の項目で、
「妙観察智」と「平等性智」に深い関係があると大事な指摘をされています。


○「成所作智」
『無辺光』「成所作智」は感覚作用智であり、
五眼「肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼」は、
三身四智の聖者であられる弁栄聖者ゆえの自内証からの詳細なる説明が可能であり、
佐々木氏が指摘されていますが、
龍樹菩薩の『大智度論』で説かれる内容と異なっており、聖者独自のご使用法と云えるかもしれません。

また、「慧眼・法眼」であり、「法眼・慧眼」の順序ではないことは、補足説明が必要かもしれません。

戒浄上人の御教示に依りますと、
「慧眼・法眼」の境界は、「背面相翻」の状態

「背面相翻の状態」とは、
「慧眼の時には、法眼の境界は認識されておらず」、「法眼の時には、慧眼の境界は認識されていない」状態で、
「慧眼と法眼が時を異にして交互にお育てを被る間」のこと。
(慧眼・法眼どちらが先に開けるかは、人により、因縁により異なるようですが、
「憶念口称念仏」の場合は、法眼が先に開けることが多いと言われています。)

大ミオヤの真理の法則によって、「慧眼が円満になり次いで法眼が円満となり、
確りと慧眼と法眼が融合した状態が「初歩の仏眼」 」。
仏眼が開ける心霊的お育ての過程は、この「慧眼・法眼」の順序となる」からです。

仏眼が開けておられた田中木叉上人は、
「慧眼・法眼」のそれぞれの境界を、「まだ、道中です。」と云われています。

なお、仏眼とは、「念仏七覚支」の「定覚支」以上の境界で、
弁栄聖者は、 「仏眼が開けたら、ひとまず、喜んでよい。」と云われています。
何故なら、
「仏眼とは、信行の不退転位であり、退転への因となる「慢心」が除かれるからである。」
と云われています。
なお、如来化されるべき「肉の心」が除かれるのは、「三身四智の仏眼において」とのことです。

※心霊界の現象が顕現している時、自然界(の現象)が消滅し無くなってしまうのではなく、
精確には、「隠没」の状態でありますので、
出世間の三昧が解けますと、肉眼の勢力が復活し、自然界の現象が認識されてくると云われています。

「成所作智」の大切な働きは、所作にも働き、
真言密教で説かれる「羯磨曼荼羅(カツママンダラ)」のことである。
とは、佐々木氏の恩師、 河波昌先生による大変興味深いご指摘。

本書の「成所作智」の最後において、
「成所作智が因縁の本因である。」
と、佐々木氏は、とても重要な指摘をされています。


最後に、「成所作智」に関して、是非記しておきたいことがあります。

「仏教徒が、その瞑想的ヴィジョンにおいて、
キリストやマドンナをみないのはなぜだろう、

とカッバーラー学の権威ゲルショム・ショーレムが問うている。
・・・
そういえば、逆に、キリスト教徒の瞑想意識の中に、
真言マンダラの諸尊、如来や菩薩の姿が
絶えて現れてくることがないのはなぜだろう
、と問うこともできよう。」

とは、 井筒俊彦著『意識と本質』における大変興味深く、示唆に富む問です。

この井筒俊彦氏の問いへの回答は、「成所作智」に依る、です。

弁栄聖者は、三昧定中に顕現される心霊的差別現象である霊相を、
「主観的客体である」と明言されています。

「報身の「報」は「答」と弁栄聖者のみ教えです。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)

報身(ほうしん)とは、衆生の信念に応答し、報いる身


更に、佐々木氏の『無辺光』の精読、文献学的比較考察により、
「人心に感性と理性(性智作智)の二面あり。」は、誤植ではないかとの疑義を提示され、
講談社版『無辺光』(昭和44年)では、「(性智察智)」と変更されていることを発見され、
「但し順序は依然として元のままです。」と指摘されています。

「感性」を、「成所作智」あるいは「妙観察智」として、
それぞれ認識されることになるので、
単なる誤植としても、大変示唆に富み、大変興味深く思われます。


「絶対感性」と「絶対理性」は、絶対同時態、同位同等であり、
「絶対感性」は、「絶対理性」の依他起性の現象ではない。

この点も、「弁栄教学」の極めて重要な特徴点と云われています。


今回も長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。

次回は、「第五章 無礙の恩寵」を読む予定です。

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2015-11-15

『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)を読む(その3)


     20151114.jpg
   
『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)

目次
序 章 信仰の皮肉と骨髄
第一章 光明主義と山崎弁栄
第二章 光明主義の七不思議
第三章 大ミオヤの発見
第四章 四大智慧の真実
第五章 無礙の恩寵
総 結 光明主義の正法・像法を期す


前々回(その1)、 前回(その2)と記事を書きましたが、

著者である佐々木氏の論理的思考及び比較思想等の研究成果を駆使された、
「弁栄聖者の仏身論及び十二光」の考察には、
光明主義上、重要な観点・指摘が、あまりにも数多く盛り込まれているため、
「求道者 佐々木有一」氏の詳細な考察の紹介にはたどり着けませんでした。


今回は、佐々木氏のその詳細な考察に関してです。

○「聖教量を堅とし実感を横として」
(新潟教区教学講習会で浄土教義講演開口の一番のお言葉)
○「私は聖典に依て演繹的に説くのでない、帰納的に説いている。」
(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)

○「換骨奪胎」

これらの点は、弁栄教学を学ぶ際、是非、銘記し、留意すべき特徴点です。

一切経、世界中の宗教の教義を極め尽したわけでは勿論ありませんが、
田中木叉上人が編纂された「弁栄聖者 光明体系(御遺稿集)」は、
「大宇宙の真相を開顕」した「新たな経典」であるように思われてなりません。

「大乗非仏説」に対する弁栄聖者の見解は極めて明快です。

「飲んで効く薬ならば何でもよい。自分も大乗非仏説と思う。
大乗経典とは、三昧定中における大乗仏陀釈尊による直説法である」。

と、聖者は喝破されておられます。

また、「『無量寿経』にも迹門と本門があります。
「歎徳章」のところが本門です。」


聖者の高弟の田中木叉上人への御教示ですが、
『無量寿経』の「歎徳章」の箇所と、
弁栄聖者畢竟の聖典『如来光明礼拝儀』の「歎徳章」の箇所を比較しますと、
興味深いことに気付きます。

『無量寿経』の「歎徳章」に記されている文言の一部が
弁栄聖者畢竟の聖典『如来光明礼拝儀』の「歎徳章」にはないのです。

「(その箇所は)如来様の事実と違っているので。」
(その引用箇所の文言の相違理由に関する聖者の一言。)

更に、次のような示唆に富む逸話もあります。

『大原談義聞書鈔』については、古来真偽問題が種々論じられているようですが、

「聖法然でなければ言い得られない御言葉が載っている。」
(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)

文献学的検証よりも、「それが、真理か否か」を重視された、
聖者の御態度をよく伝える印象深い逸話です。


○「換骨奪胎」

佐々木氏が好んで用いる「弁栄教学を解くキーワード」で、
この「弁栄教学」の特徴点に、佐々木氏も苦労されておられる様子がうかがえますが、
かえってそのことが、通仏教との熱心な比較思想研究へと佐々木氏を駆り立て、
その成果が、「弁栄教学」の特徴点を浮き彫りにされたように思われます。

「弁栄教学を学ぶ」際の難しさは、次の点を挙げることができると思います。

○表面的には、文章表現そのものの難解さ。また、仏教用語そのものの難解さ。
特に、漢文の素養が聖者と現代人では格段に違うこと。
○聖者が深三昧において認識された大宇宙の真相そのものが、現代人の理性的次元では理解困難である点。
○聖者御在世当時の哲学等の用語、その定義が、現代用語とは異なり、
そのことが理解の障碍となっている点があること。
○「同字異義」。「換骨奪胎」の場合と伝統的な同一の仏教用語を幾通りもの意義で使用されておられる。
細心の注意を要する特徴点。

また、聖者の原書には漢字に多くルビがふられていますが、
聖者の御著書を読まれる時には、
聖者のルビの独特のふり方に留意すること
(杉田善孝上人の御教示)


佐々木氏の丹念な通仏教との比較研究、聖者独自の用語の使用方法の考察等が、
「弁栄教学」の理解の助縁になると思います。

佐々木氏は、「弁栄教学読み解くキーワード」を、
「十二光」に、特に、その「仏身論」「無辺光」の四大智慧にみておられます。

「「光明体系の構想」には、真言宗のある経典が参考になった。」
(弁栄聖者の藤本浄本上人への御教示)

大変惜しいことに、浄本上人はその経典を失念されたようですが、
この逸話も大変興味をそそられますし、今後の研究のためにも、ご参考までに記しておきます。


弁栄聖者の「仏身論」の特徴点を、
聖者独自の意味付与をされておられる「報身」にある
と佐々木氏は捉えておられます。

弁栄聖者の「報身」は、「ほうしん」と読み、
通仏教で説かれる「酬因感果」の「ほうじん」のことではない
聖者が甚深なる三昧において認識された「本有無作(無始無終)の本仏」のことであり、
このコペルニクス的転回とも云い得る聖者独自の仏身観によって、
「因果律を超越」し、したがって、伝統仏教の原則である「回向の制約が突破」せられ、
「内的目的論的に、合目的」に、
無縁の慈悲たる「摂取不捨の利益(救済)が念仏の衆生に及ぶ」ことになります。
聖者のこの原理の発見によって、「古来から疑われる他作自受の難」が解決された。
と繰り返し繰り返し、佐々木氏は強調されておりますが、
極めて重要なご指摘です。

伝統的な「浄土宗乗」との関係には、文献学的考証も不可欠と思われます。

また、「自作自受」の原則を強調されるのは、
聖堂系の方々の理解の特徴でもあります。

聖堂系の方々の「自作自受」、「他作他受」原則の解釈は、
笹本戒浄上人が「自作自受」の原則を強調されたことが根拠となっているようですが、
戒浄上人の解釈には、
「自」作に、戒浄上人独特の深意が込められているのではないかとの思いがあります。

聖堂系の方々の解釈では、
「回向」の働き「大ミオヤの理性と感性は共に能動的である」(弁栄聖者のご教示)
という事実を解きえないのではないか、との疑念がいまだに払拭できずにいます。

「自作自受」と「他作自受」の問題については、
慎重に考察を続けていきたいと考えています。


佐々木氏は、また、現在の光明会ではあまり説かれなくなった聖者の御説を再発見され、
そこに、聖者創見と思われる「超在一神的汎神教」の特徴を位置づけています。

つまり、
「本有無作(無始無終)の本仏、三身即一の大ミオヤ」こそ、
大宇宙唯一の「独尊」であり、それ故に、「一切知」・「一切能」という二属性があり、
この二属性が「統摂」・「帰趣」の霊徳の根源となっています。

なお、「唯一の如来」の「一」の定義に関しては、
「(唯一の如来の)「一とはそれあるのみ」という意味である。」(岡潔博士)
(杉田善孝上人が岡潔博士にお尋ねになった時の言葉)

「非内非外」の大円鏡智を彷彿とさせる定義です。


「第五章 無礙の恩寵」において、

聖者が課題として残された「十二光における「無対光」と「炎王光」の位置付け」について、この聖者の宿題についても、佐々木氏は果敢に挑んでおられます。

「智慧の故に生死に住せず、慈悲の故に涅槃に住せず」と云われ、
大乗菩薩の究極の理想、目的とされる「無対光」の境界における「無住処涅槃」に着目され、「無対光」と「炎王光」を一対として見ておられます。

佐々木氏のこの着眼点は重要で、

成仏の境界である如来無対光の「無住処涅槃」に実在的に往生(証入)するためには、
「肉の心」も霊化(仏化)される必要がある
三身四智の仏眼以外の出世間の眼開けて後にこの世を去ると、
肉体は無いが未だ如来化すべき肉の心が残っておるために、
一時的に浄土に往生する有余涅槃が実現する。 
そして如来の御力により、六道輪廻によらずに、
再び人間としてこの世に出て三身四智の仏眼を得るまで修行できるようにしてくださる。」
との弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示があります。

これは、「炎王光」による霊化に依り可能となり、
如来無対光の「無住処涅槃」への証入と一対、セットの不可分の光明です。

なお、より精確な表現としては、
「無住処涅槃」は、「無余即無住処涅槃」の方がよろしいかと思われます。

○「体は本覚の都に在って、化を百億に分ち、
こゝに於いて一切諸仏は即ち本覚の弥陀。
弥陀即一切諸仏たるの真理は自ら證(さと)らん」


○「無住処涅槃とは、生死に住せず涅槃に住せず、永恒常住に、
一方には涅槃界に安住して、
また一面には生死界に分身応化して、
衆生済度の事業未だ曽て暫くも懈廃せざるなり、
故に無住処涅槃と云ふ。」


以上、 (『弁栄聖者光明体系 無対光』)

○「三身四智の仏眼を実現してから此の世を去ると、
無余即無住処涅槃の境涯がまざまざと実現する。
・・・光明主義の厳密な意味での方便法身が
無余即無住処涅槃界に於ける自己自身となる。」

(『仏陀禅那弁栄聖者著 光明主義玄義(ワイド増訂版)』)

「「法蔵菩薩は応身」とお説きになったのは、弁栄聖者だけである。 
(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)


最後に、『如来光明礼拝儀』」の「至心に勧請す」の
「如来の真応身(みからだ)は在さざる処無きが故に」
の「真応身(みからだ)」に関する佐々木氏の考察について。

若き日の杉田善孝上人の笹本戒浄上人との質疑応答を参考にされながら考察されています。

「真応身」と「霊応身」に関する佐々木氏の考察は、
佐々木氏の面目躍如で、実に生き生きとした思考の躍動があり、興味深く、かつ、示唆に富みます。

「真応身」を「霊応身」への可能態

と、佐々木氏は「真応身」を解釈されており、
この「可能態」という表現が、ミソかと思われます。


なお、
「・・・教え主世尊が六根常に清らかに光顔(みかお)永(とこ)しなえに麗しく在ししは 
内霊応に充(みち)給いければなり」

この箇所は、『無量寿経』の「三相五徳」として知られた処ですが、

内霊応に充(みち)給いとは、
「無住処涅槃」の如来無対光の境界における
応身仏釈尊の三身四智の仏眼に依る自受用三昧を、
弁栄聖者が表現されたもの。(戒浄上人のご教示)


今回も、長文となってしまいましたので、
実に本書の約4割強の230頁にも及ぶ「第四章 四大智慧の真実」
つまり、「弁栄教学」の精髄である「無辺光」の四大智慧については、
次回、記事にしたいと思います。

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ジャンル : 学問・文化・芸術

2015-11-09

『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)を読む(その2)


      20151108.jpg

『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)

目次
序 章 信仰の皮肉と骨髄
第一章 光明主義と山崎弁栄
第二章 光明主義の七不思議
第三章 大ミオヤの発見
第四章 四大智慧の真実
第五章 無礙の恩寵
総 結 光明主義の正法・像法を期す


前回は、本書の内容のご紹介に入る前に、
気づいたことを5点ほどふれましたが、
今回は、本書の内容に関してです。


「私は聖典に依て演繹的に説くのでない、帰納的に説いている。」
(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)


ご自身の「教学研究」と「念仏体験」を通した、
「弁栄教学への深い共鳴とそれにも基づく弁栄聖者への深信」が、
著者である佐々木有一氏には、貫かれています。

一見、理詰めで難解な本書からは意外に思われるかもしれませんが、
著者である佐々木氏が切に求めているものは、
人仏との「見仏」により、必然的に勃発する「仰信」であるのかもしれません。


弁栄聖者のご生誕時期とご生誕地に関する、
佐々木氏の着眼点が示唆に富んでいます。

聖者のご生誕時期については、

「偶然にも日本開国条約の翌年に誕生(1959年) 」
(田中木叉上人著『日本の光』)

「開闢以来の世界において唯だ一つある。
東西古今の合体したこの明治の日本に
上人出世の一面の意義はここにある
慈悲門に輝く上人の智慧門に、ついに科学実証の結論と、
三昧実証の体験とがまさに合一大成した。」(田中木叉上人遺文集)


弁栄聖者のご生誕地については、

「江戸時代から明治にかけては大河利根川の水運に恵まれていて外に開かれた土地柄で、
経済的にも豊かなうえに各種の情報や世相の動きが早く伝わる地域であった
ということが見逃せないと思います。」
「・・・西洋からの新知識の吸収に意欲的な人達がこの地にかなり住んでいたと思われます。」
と、佐々木氏は指摘されています。

聖者のご生家からほどなく、明治十五頃に建てられた手賀教会に大変な興味を示され、
氏は、東京御茶ノ水のニコライ堂にまで調査に行かれています。

「弁栄聖者とキリスト教との関係」は、極めて重要な着眼点ですが、
とりわけ、東方教会との教義、信仰の在り方は今後の研究課題かと思われます。

本書の成立にも大いに刺激ともなっていると思われる、
評論家でもある若松英輔氏の師でもあったカトッリク神父の井上洋治氏は、
生前、東方教会の教義にも大いなる関心を示されて、
また、法然上人への篤き想いを寄せられていました。

後者に関しては、
手賀沼の向う岸には「大正期 我孫子白樺派」の人達、特に注目すべきは、
若松氏が大いなる関心を寄せられ、
『目の眼』という雑誌に連載中の柳宗悦氏が暮らしていました。


前回でもふれましたが、
佐々木氏は、本書で幾つかの「タブー」に果敢に挑まれています。

○「光明会の人ほど祖師の遺稿を読まない者はない。」
以前、聞いたことがある伝聞です。

弁栄聖者の本が難しいこともあるとは思われますが、

○「仏道修行は、言境に非ず、行境にある。」

○「念仏為先」
○「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」(法然上人の御法語)

という信条が根底にあり、
「行」と「学」を比較した場合、「教学」を軽視する傾向があるのかもしれません。

佐々木氏は、もちろん、「行の重要さ」を認識されていますが、
弁栄聖者の教学研究を通して
「信の確立における「教学」の重要性」にも着目されるようになったと思われます。

憶測を許されれば、
佐々木氏は、ご自身の役割を、むしろ、「教学」の普及に置かれておられるように思われます。
佐々木氏の教学上の究明と推測に関しては、矜持と自負が感じられる箇所が見受けられます。

一方、念仏実践に関するご指南等に関しては、弁栄聖者は当然ですが、
より具体的なご指南に対して、笹本戒浄上人と田中木叉上人からの引用が数多く眼をひきます。

これらの点に、著者である佐々木氏の篤き求道性と学究への関心の深さを感じますが、
氏が学恩を被られている河波昌先生の存在も大きいように思われます。

光明会史上、特に、弁栄聖者百回忌を数年後に控えたこの時期に、
本書のような類の著書が出版されたことは、画期的であり、重要な意義を強く感じます。

といっても、
本書が「光明主義教学の研究書の決定版」という意味ではありませんが、
今後の光明主義研究においては、必ずや、この労作の著作の恩恵を被るものと確信いたします。


○「光明会内での「見仏」を巡る解釈について」

この問題は、本書でも詳しく記されており、
「中川弘道上人の弁栄聖者への質問状」がよく知られていますが、
実に現在に至るまでの、光明会内での骨絡みの大問題で、

「弁栄上人の業たい。」と言われた方もあったようです。

「見仏」を巡る解釈は、大別しますと、
「狭義見仏主義」「光明生活(広義見仏)の重視」の二つの捉え方があり、

「狭義見仏主義」は、
笹本戒浄上人を信奉する芦屋聖堂の系列に属する方々に共有された信念であり、

「光明生活(広義見仏)の重視」は、
藤本浄本上人を始め、光明主義に理解がある浄土宗の僧侶方に比較的に多いような印象を受けます。
後者の系譜に属すると思われる山本空外上人は、
念仏による「命のおかげ」を深く生きられた稀有な念仏行者であられました。


佐々木有一氏ご自身、在家で、経済界で働かれた元ビジネスマンでもあり、
光明会、浄土宗との関係から比較的自由であられる立場もある関係からか、
この光明会内での大問題に対して、この点を真正面から言及されており、
佐々木有一氏の真っ正直な「求道性」と「覚悟」を強く感じます。

佐々木氏自身は、
大乗仏教に一貫する「船舟三昧の行法を再発見された」
弁栄聖者のこの側面の意義を高く評価されており、

念仏の行法は、実際には「狭義見仏」に親近感があるようにも見受けられますが、
決して「憶念」に特化した強調ではなく、「声」の役割も重視されておられます。

現時点の佐々木氏は、
善導大師の「念声是一」
に解決策、統合策の方向性を示唆されておられるようです。

この大問題に関しては、よく読むと、
著者である佐々木氏自身も揺れていることが感じられます。

この骨絡みの大問題は、
弁栄聖者における御境界の方においてのみ、
解決可能なものである
ようにも思われます。


ただし、次の点は、よくよく認識しておいた方がよさそうに思えます。

「仏身仏土論と実践修道論は分離したものではない」
との杉田善孝上人のご指摘です。

笹本戒浄上人の「狭義見仏」の強調は、
一見、戒浄上人の頑なさ、偏狭さと感じられる方もおられるかもしれませんが、
実は、決してそうではなく、
弁栄聖者の三身四智の仏眼の御境界による認識

「無始無終、本有無作の三身即一の広義の報身大ミオヤには、
もとより御姿在まします。」


「大ミオヤの仏身観」から必然的に導かれた「実践修道」なのです。

ただし、ここで認識されている「大ミオヤの御姿」とは、
衆生のような「固定相」ではなく、
「有相即無相、無相即有相」の「一即一切の重々無尽の御姿」に在します


心霊差別現象を認識する出世間の三昧の眼(機能)である、
「法眼」における「霊応身」の御顕現に関しては、
「各人の衆生の信念に応じた(報いた)」、「霊応身の差別相」を顕現されます。

報身の「成所作智」に依る「啓示の恩寵」です。

ただし、今述べてきたのは、「実践修道論」上のことであり、

「衆生済度」の面からは、別の観点が求められるように思われます。

「衆生済度」、つまり、「度生論」上からは、
「直線道」(「実践修道論」における笹本戒浄上人の命名)は、ありえません。


「実践修道論」と「度生論」における認識上の誤解があるように見受けられます。

「応病与薬」の「対機説法」の力量が発揮できるのは、
「仏眼においてである」との杉田善孝上人のご教示は、肝に銘じる必要があります。

「見仏」を巡っての解釈には、
「実践修道論」と「度生論」の両側面から、よくよく考えて対応していく必要
があるように思われます。

「見仏」を巡っての解決は、
弁栄聖者における御境界の方においてのみ解決可能なものである
と先ほど言いました理由はこのためです。


佐々木氏ご自身の日課念仏、そして、論理的思考及び比較思想等の研究成果を駆使された、
「弁栄聖者の仏身論及び十二光」への論考は、
とても生き生きとしていて、示唆に富んでおり、刺激的でもあり、
「求道者 佐々木有一」氏の面目躍如であるように思われます。

今回の佐々木氏の著作には、
光明主義上、あまりにも重要な観点、指摘が数多く盛り込まれているため、
今回も、氏の弁栄教学解釈のご紹介にはたどり着けませんでした。

次回としたいと思います。
ご了承願います。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2015-11-04

『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)を読む(その1)

  
『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)

目次
序 章 信仰の皮肉と骨髄
第一章 光明主義と山崎弁栄
第二章 光明主義の七不思議
第三章 大ミオヤの発見
第四章 四大智慧の真実
第五章 無礙の恩寵
総 結 光明主義の正法・像法を期す

   20151103.jpg

本書の内容のご紹介に入る前に、
幾つか気づいた点に触れておきたいと思います。


1点目は、弁栄聖者の写真について。

通常見慣れている聖者の写真の何点かは、
最晩年の円熟された御姿の写真ですが、

カバーの写真は、大正2年(1913年)54歳
本の中の写真は、明治41年(1908年)49歳のもので、
まだ若く、しかも、正面像ではありません

弁栄聖者40歳代後半から50歳代前半の時期は、
光明主義の黎明期ともいえる時期で、
この写真が、正面像ではなく、横または斜めに視線が向いているのは、
聖者が光明主義の将来を思惟されておられるようでもあり、

著者である佐々木有一氏が、これらの写真を、意識的に選ばれたというよりも、

「わたしどもは光明主義の遠い未来から眺めて
初期光明主義の時代にあると覚悟する責任があります。
尖兵として後代への使命を背負っています。」

と「総 結 光明主義の正法・像法を期す」に、
御齢70歳代後半とは思えない気概と気骨が示されておられるように、
意図せずに、佐々木氏の無意識が選ばれたという気がしています。


2点目は、著者である佐々木有一氏の経歴についてです。

佐々木氏は、かつて経済界で活躍された元ビジネスマンである在家。
現役退職後の66歳の頃に、
弁栄聖者を信奉された数学者の岡潔博士の本を通して、
聖者とのご縁をいただかれたこと。

佐々木氏は、田中木叉上人にご縁の深い、
東京練馬の光明園の園主であり、
また「一般財団法人 光明会」上首でもあられる河波昌先生並びに、
東洋大学学長であられる竹村牧男先生の学恩を被られているとはいえ、
基本的には独学であり、
光明主義にご縁をいただかれてから、本書の出版まで、十数年足らずであり、
本書の執筆を思い立たれた頃は、まだ十年に満たない頃かと思われます。

第二章 光明主義の七不思議 に掲載の(光明体系図)は、
2010年の作成で、今から5年前、
著者には、この頃既に、光明体系の概念図が出来上がっています。

著者の篤き求道心熱き学求精神には、敬服いたします。

著者が、在家で、
光明会の歴史に詳しくないこと(光明会の内部事情から自由でありえたこと)、
更に、経済界(ビジネス)界で活躍された経歴をお持ちであること。

も、本書の成立に好条件であったようにも思われます。

本書で著者は、光明会内での暗黙の「タブー」にも果敢に挑んでおられます。


3点目は、本書の形式、文体等についてです。

本書は、「純粋な」学術書といった類の書というよりも、
著者が尊崇する弁栄聖者の「光明体系」を研究され続けている者が、
そこから得られた知見を、共に学ぼうとする者に、

「ここの箇所、こんな読み方はできませんか。
また、こんな風に読むと、こんな風に理解すると、
弁栄聖者の言わんとすることの理解が深まると思うのですが。」

と語りかけてくるような書であり、

求道者佐々木有一氏の現時点の途上での知見であり、
もちろん完成形ではなく
これからも更に、佐々木氏の理解が深まっていかれるような気配が感じられます。

また、佐々木氏は、一人でも多くの方に、
弁栄聖者の御遺稿集そのものに直接触れてほしいと祈願されており、
本書は、聖者のテキストとしても利用できるように、
聖者の本からの引用が数多くあります。

これほどまでに、「弁栄聖者の教学上における髄」を抽出された
そのご労苦と求道心、そして、菩薩行に頭が下がります。


4点目は、本の構成についてです。

本書の目次をみると、

序 章 信仰の皮肉と骨髄
第一章 光明主義と山崎弁栄
第二章 光明主義の七不思議
第三章 大ミオヤの発見
第四章 四大智慧の真実
第五章 無礙の恩寵
総 結 光明主義の正法・像法を期す

となっていますが、

第四章 四大智慧の真実 には、
実に、本書の4割強、220頁程があてられています。

この第四章は、
「弁栄聖者光明体系」の中でも難解の書としてつとに知られ、
「敬して遠ざけられる傾向」があるようにも見受けられる『無辺光』に、
果敢に挑んでおられます。

先ず、その勇気と決意に、敬服いたします。

この第四章を読まれれば、
『無辺光』の精髄を読まれたことになる、
と言っても過言ではないほどの密度の濃い内容となっています。


5点目は、佐々木氏が「日課念仏の傍ら光明主義教学の研究」をされていることについて

本書を読まれた方は、著者の論理的な理詰めさに、目を見張るかもしれませんが、
著者が、日課念仏をされていることは、決して忘れてはならないと思います。

一見理詰めな理解を支えているのは、
日課念仏による功徳「如来智慧光」による恩寵でもあると思われます。


だいぶ長くなりましたので、
本書の内容のご紹介は、次回としたいと思います。

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山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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