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2014-11-25

弁栄聖者の恩師、東漸寺第五十世大谷大康老師を巡って


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「東漸寺」は、「関東十八檀林」の一つ。

「檀林」とは、仏教寺院における僧侶の養成機関、仏教宗派の学問所。

「東漸寺」のHPには、「東漸寺の沿革」として、

「東漸寺は、今から約520有余年前の文明13年(1481)、
経譽愚底運公上人により、当初、根木内(この地より1キロ北東)に開創いたしました。
この後約60年後の天文年間、現在地に移され、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹です。
 檀林となった東漸寺は、広大な境内を持ち、多くの建物を擁するようになりました。
大改修が成就した享保7年(1722)には
本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、
20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展しました。
明治初頭に、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となりました。」

と紹介されていますが、

実際に訪ずれてみると、確かにその広大さと雰囲気に圧倒され、
在りし日の繁栄に想いを馳せました。

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ちょうど今頃、今年の紅葉は、こんな感じでしょうか。

四季折々に、散策も楽しめそうです。

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伝記的には順序が逆になりましたが、
今回は、弁栄聖者の恩師、東漸寺第五十世大谷大康老師と聖者に関する記事。

今回も、 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』を主たる資料としています。

筑波山下山後、千葉県松戸市小金の、愚底上人により開創された「東漸寺」にて、

「恩師なる東漸寺五十世静誉上人より宗戒の両脈を相承された。」

東漸寺での修行時代、その老師さえ、
「弁栄はねないのだろう」
といっていたほどの、弁栄聖者のご修行の有様であったようです。

東漸寺時代の興味深い逸話を、田中木叉上人は記されています。

「当時鷲野谷にヤソ会堂がありて牧師がよく東漸寺に質問にきた。
老師にかわってこれに対応し、
耶蘇教の要理をつきこんで反問し、急所をつくので牧師はこまり、
ついにはこなくなったことなどもあったほど、
当時からヤソ教の方面にも、いささか研究の指をそめていた。」

特に、後年の「光明主義」における「キリスト教」の影響を暗示する逸話です。


明治十二年十一月以来、東漸寺での弁栄聖者の御修行の様子を老師はご覧になり、

もはや我が膝下に止むべきではないと思い、
すみやかに帝都一流の学者の門をたたいてこの法器を磨かせんとて、
明治十四年正月から、上京させることになった。」

東京遊学は、明治十四年(二十三歳)の正月から、二年弱。

〇増上寺(浄土宗)で、大谷了胤老師から、『往生論註』、『唯識論述記』、『倶舎論』その他。
〇浅草日輪寺(時宗)で、卍山(かずやま)実弁老師から、『原人論』、『起信論』等の講義。
次第に『首楞厳経』等をきわめ、
〇駒込吉祥寺学林で、卍山(かずやま)老師から、『華厳五教章』。
〇真言宗与楽寺で密教。

ただし、弁栄聖者の「常の方針」は一貫しており、

「仏法は学解にあらず、三昧実証にあり」と。

当時の増上寺法主行誡和上は、
既に、聖者の「比なき法器」に注目されていました。

この後、千葉県鷲野谷「医王寺」薬師堂での御修行の後、筑波山での二ヶ月間の御修行において「三昧発得」
その後、埼玉県吉川市飯島の「宗円寺」にて、一切経読了と続きます。


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「明治十七年(二十六歳)五月二十二日多年教養の恩師東漸寺静誉大康老師がご病死になった。
この訃報に接した時には、即刻飯島の草庵より小金に帰寺、
本堂にこもりて一百ヶ日の報恩別時を勤められた
横になっては寝ず、生理自然の用の外は座を立たず、
不断に称名して、広大の師恩に追孝の至誠をぬきんでた。」

老師の法号は、「安蓮社静誉恭阿又夢大康大和尚」。

東漸寺第五十世なり。

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恩師大康老師亡き後、恩師が果たせなかった千葉松戸五香新寺建立のため、
弁栄聖者は、小金から五香の説教所に移り住まわれました。

「建立の寄付はなるべく多数の人に仏縁を結んで、
他生得脱の福徳資せんため」


「一厘講」と名づけて、寄付を募られた。

福田行誡和上も、自ら進んで寄附勧進に懇ろな付言を賜った。

この間の弁栄聖者のご生活は、「赤貧洗うが如き」状態であったようですが、

そのような状態であったにもかかわらず、
困っている者があると、その資金を、その困っている者にあげてしまわれる、
そんな聖者でありました。

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遂に、先師七回忌、明治二十四年(三十三歳)に、
千葉松戸五香に、善光寺本堂が落成されました。

その建立方針は、いかにも聖者らしく、

「人々が礼拝する場所さえあれば、そんなに立派でなくてもよい。
あまり立派にすると多くの人々に迷惑をかけるから」


と本堂のみを建立し、住む庫裡は元のままのあばら屋にした。

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最後になりましたが、
千葉県松戸小金東漸寺の開創者、愚底上人のお墓は、
弁栄聖者の菩提寺鷲野谷「医王寺」にあります。

なお、浄土宗医王寺は、愚底上人により、寛正2(1461)年に開創。

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「医王寺」から少し離れた隣りに「薬師堂」はあり、
その奥、裏側の方に、愚底上人と弁栄聖者のお墓があります。

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「以前より鷲野谷の地は、薬師如来の霊験ある所であった」
とのこと。

「イエス・キリスト」「弘法大師空海」を彷彿とさせる弁栄聖者の数々の「奇蹟」 。

聖者が活躍された「時代性、時代精神」とも関係しているようにも思われますが、
聖者が生まれ育った「鷲野谷の地」とも関係しているようにも感じられます。

弁栄聖者のご生家の近くには、
「真言宗豊山派 善竜寺」と、
薬師如来と関係の深い「浄土宗 医王寺」があり、

数kmほど離れたところには、
明治十六年頃設置の「手賀教会堂」があり、

「弁栄教学」上、今後の解明が必至となる「ギリシャ正教(ロシア正教)」の教会堂。


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「薬師堂」の左脇を通り、正面に見えてきます、

「行蓮社経譽(愚底)上人」の墓碑

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2014-11-14

「明治十六年九月(二十五歳)から十八年六月(二十七歳)まで足かけ三年、宗円寺(埼玉県吉川市飯島)にて、黄檗版の一切経七千三百三十四巻を読了。」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

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【筑波山上 弁栄聖者 三昧発得偈】

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「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念
一心専念能所亡 果満覚王独了々」



筑波山頂での二ヶ月の御修行の効実り、「念仏三昧発得」

筑波山入山の目的を成就し、下山。

定めし「出山の釈迦」を彷彿とさせるものであったことでしょう。


田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、
弁栄聖者が御修行中にみられた印象深い予知的「霊夢」が二つ記されています。

まだ、立身石の所にいる時の霊夢。

「初め金竜現れ、遠くに文殊普賢二菩薩獅子と象に乗り、
釈尊がその間にたって在す三尊を夢みられたことがあった。」


また、山を下りる前夜の霊夢。

「曠野で獣に追われ逃げると不思議にも空を飛べて、
向うの経蔵に経がほしてある所にきた。
そこで一度一切経を披閲せんと願っていた望の遂げらるるのを
喜んだ夢を見られたこともあった
。」

前者は、明治二十七年の「インド仏蹟参拝」に、
後者は、明治十六年の宗円寺にて「一切経読了」に、
それぞれ、結実されました。

弁栄聖者の特徴の一つ「釈尊への憧憬」
華厳宗中興の祖といわれる鎌倉時代の「明恵上人」を彷彿とさせます。

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筑波山下山後、千葉県松戸市小金の、愚底上人により開創された「東漸寺」にて、
「恩師なる東漸寺五十世静誉上人より宗戒の両脈を相承された。」

「東漸寺」は、「関東十八檀林」の一つ。
現在よく知られた寺院としては、「芝増上寺」、「鎌倉光明寺」などがあります。

「檀林」とは、仏教寺院における僧侶の養成機関、仏教宗派の学問所。

ちなみに、「徳川家康は、熱心な念仏信者」でもありました。

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「東漸寺」を訪れた時、「関東十八檀林」の在りし日の繁栄を想像しました。

「東漸寺」は、四季折々の景色が堪能できそうです。

紅葉の時季には、短時間ながら「ライトアップ」もされるようです。

「阿弥陀仏に 染むる心の 色に出でば 秋の梢の たぐいならまし」

弁栄聖者述『宗祖の皮髄』にも取り上げられている法然上人の御歌を、しみじみと味わわれることでしょう。

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「年来一切経全部の拝読を望んでいたのが機熟して、
大康老師の許しを得、
明治十六年(二十五歳)九月より、十八年六月にいたるまで、足かけ三年、
東漸寺経蔵より黄檗版の一切経(七千三百三十四巻)を少しずつ運んで行っては、
宗円寺で拝見することになった
。」

千葉県松戸市小金「東漸寺」から、埼玉県吉川市飯島「宗円寺」までは、
二~三里、約十kmほど
馬に乗せて運んだようです。

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お盆、お彼岸等には、拝観できるようです。

残念ながら、現在では、当時の面影は、ほとんどありません。

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田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』は、
名文で知られていますが、読む度に、その精確かつ巧みな文章力にも感嘆いたします。

「月かわり星移っても金剛の一心に一巻また一巻、
うまずたゆまず拝読する日々夜々、
大聖世尊の不滅の慧命が経論章疏、律制伝歴を通じて、
自身の脈搏に波打つを覚えられるるのであった


この閲蔵中のことである。

芝増上寺(時の東部管長)行誡和上は、
この青年沙門の行持を聞き伝えて「東から名僧がでる」とよくいっておられたが、
使者(当時増上寺内役、のちの鎮西本山善導寺貫主広安僧正)を飯島宗円寺に遣して、
和上の所に来謁するように求められた

使者は若年の学僧、この管長の招請を恐悦するだろうと思えるに、

「ただ今お釈迦様に拝謁中であるから」

とて老和上の招きに応じられない。

「草庵にこもりて一切経を閲しける頃
我庵の庭の夏草繁れかし訪いこん人の道わかぬまで」」


弁栄聖者の場合には、
若者にありがちな「権力、権威への反発」といった類のものではなく、

福田行誡和上に対し失礼になるかとも思われますが、
おそらく、「そっとしておいていただきたい」
といった心境だったように思われます。

「政治、世俗的な事柄への関心の希薄さ」

これは、弁栄聖者の「生涯を貫く特徴」と思われます。

弁栄聖者の同時代人であった椎尾辨匡師(「共生運動」の提唱者)とは、対照的な生き方。


福田行誡和上への来謁に応じられなかった弁栄聖者ではありましたが、

「明治十七年(二十六歳)五月二十二日多年教養の恩師東漸寺静誉大康老師がご病死になった。
この訃報に接した時には、即刻飯島の草庵より小金に帰寺、
本堂にこもりて一百ヶ日の報恩別時を勤められた
横になっては寝ず、生理自然の用の外は座を立たず、
不断に称名して、広大の師恩に追孝の至誠をぬきんでた。」


「百日別時も終りに近づきし頃、
またまた増上寺行誡和上下総の松戸まで来錫のことあり、
和上は再び謁見を求めたけれど、
入行中の由を聞いて随喜に堪えず、書簡を与えて謁見を止め、
しかも謁見第一の人と歎ぜられた。」

さすがに、福田行誡和上だと思いました。
その後も、弁栄聖者に目をかけられたようでした。

「明治十八年(二十七歳)閲蔵のかたわら木彫の尊像など多数拝彫しつゝ、
飯島隠棲すでに三年を迎えた。

一切経の文字章句のうす霞にすいて伺われる
暐曜愌爛(いようかんらん)たる無漏の真境にあこがれ、
寿命無数劫の大聖世尊慕いつつ
一巻また一巻、念仏しながら心読体解してゆく最中、
ある時は一心称名の端的、三昧現前し、
釈迦牟尼仏を中心に文殊普賢の二菩薩霊容宛然として
空中に住立し給うを感見された
こともあった。

足かけ三年の精進にたまには小さな刃物を体に刺して眠気を払ったこともあった(傷あとは後年まで残っていた)

かくて一切経七千三百三十四巻を読了し、
十八年六月飯島の庵室を辞し
、夏草の草を踏みわけて小金東漸寺に帰られた。」

この飯島宗円寺での一切経読了の約十年後、
弁栄聖者は、大聖世尊への思慕の情おさえ難く、遂に「インド仏蹟参拝」へ旅立たれました。

今回の記事を書くにあたり、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』を再読するうちに、
此処飯島宗円寺での「一切経読了の体験の意義」を再認識しました。


弁栄聖者の飯島の宗円寺での一切経の読了について、
浄土宗乗学者であった、聖者直弟子藤本浄本上人の示唆に富むご指摘。

「聖者がこの難解な漢文で書かれた一切経を読破御出来になったのは、
筑波山での三昧発得の御悟りによることは勿論でありますが
十六、七の頃、康熙字典の全巻の音と意味とを全部暗誦しておられたから
御出来になったのです。(藤本浄本上人)」
(吉松喜久造編『辨栄聖者御写真帖』)

また、「年代は分からないが具聞持法の三昧を行じられたこともあった。
(註ー具聞持法は弘法大師等古聖も修行成就されし三昧で記憶力を増進す)」(田中木叉上人)


また、大乗経典の成立史を知る我々現代人は、
「大乗経典とは、何か?」という難題に直面することになります。

この難題に対する弁栄聖者の見解は、至極簡潔明快です。

「大乗非仏説」に対して、「私もそう思う」とし、

「大乗経典とは、三昧定中における大乗仏陀釈尊による直説法である。」
と喝破
されています。


「聖教量を堅とし実感を横として」

とは新潟教区教学講習会で浄土教義講演開口の一番のお言葉であった。
この自内証の権威がまず聴聞者の心を引きつけた。」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

この意味内容を、笹本戒浄上人は、

「弁栄上人は、
「自分は経文に依って演繹的に説くのではない。帰納的に説いておる」
と言っておられました。
・・・経典に依るのでなく御自身の体験せられた如来様の事実から
帰納的に光明主義の教学体系を組織せられた
、という意味であります。
この事は親しく弁栄上人よりしかと承っております」と。
(『笹本戒浄上人全集 中巻』)

この意味から、『弁栄聖者光明体系』を「大乗経典」といっていいようにも思われます。


長くなっていますが、
示唆に富む興味深い、弁栄聖者の逸話を、更に少々。


「聖者は何でもよく分かっておられる筈なのに、
よく本を読まれていたのを不思議に思われ、

「聖者は三昧発得していらっしゃって何でも分かっていられるから、
本など読まれなくてもよいでしょうに」

佐々木為興上人がお尋ねになったところ、

「いや、それはいけぬ。やはり本を読まぬといけぬ」と言われたので、

「どういう訳ですか」と重ねて尋ねると、

「それは、お念仏していれば大宇宙の事柄が一切分かるようになる
分かるけれどそれは観念的に分かるのだ
書物を読むと書物に書いてある事柄と自分の観念として得ている事とぴったりと合う。
認識にしようとする思うと本を読まねばならぬ。
本を読む事によって認識となるのだ。」

と聖者はお答えになられました。

またある時、

「どうして本を読むのがそんなに早いのでしょうか」とお尋ねになると、

「こんな事を言うとおかしいが、
私の心の通りに書いてあるようで早い。
事新しいことが書いてあるとは思わぬ。
丁度自分の手紙を読むようだ
」と聖者は仰言った。

以上、藤堂俊章編『佐々木為興上人遺文集』による引用。


このことと関連して、是非触れておかねばならないことがあります。

釈尊と弁栄聖者とのお悟りの深さの相違に関してです。

私も観念としては得ておるが、認識的一切智では釈迦さんに及ばない。
この世界で認識的一切智を得ておられたのは釈迦さんばかりだ。


このことは、笹本戒浄上人が弁栄聖者から口訣として承ったこととして伝えられています。
( 『笹本戒浄上人全集 中巻』 )

弁栄聖者は、この時点では、まだ、

「ミオヤの御世嗣」、つまり、
「無生法忍」、「超日月光」における「三身四智の入の位の仏眼」、「如来無対光」の御境界


では、なかったようです。(笹本戒浄上人述)

弁栄聖者の御境界は、御遷化まで、無限に深まっていかれました

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2014-11-10

筑波山、女体山「護摩壇」の行者窟


「常陸国筑波山麓より一里ばかりか山頂より二丁許南の方に
立身石てふ巌窟あり 此に在って凡そ一ヶ月 次に場所をかいて一ヶ月
身に纏ふ所は半素絹 食物は米麦そば粉などにて
(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)


弁栄聖者の男体山頂付近の「立身石」における御修行は確実ですが、


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(筑波山上における弁栄聖者の三昧発得偈)

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「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念
一心専念能所亡 果満覚王独了々」



「立身石」後の一ヶ月間の御修行先は、
確実な資料がなかなか見付からないのですが、

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山本幹夫(空外)著『辨栄聖者の人格と宗教』によって、
女体山の「北斗石」は、「かなり確実性が高い」と思われました。

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ところが、実際に現地に行ってみると、
此処「北斗石」で、弁栄聖者が一ヶ月御修行をされた、
ということには、幾つかの理由によって、疑問を抱かざるをえず、
この場所の他に、「新たな場所」を想定せざるをえませんでした。


現地調査のために、筑波山に訪れる度ごとに、
筑波山における「修験道」に関心が深まっていきました。

今から考えると、
必然でもあり、ある種の「お導き」であったのかもしれません。

真に幸運なことに、
初刊が昭和43年、再刊が55年発行、
最近までしばらく品切れ状態となっていた、

宮本宣一著『筑波歴史散歩』

が、平成26年4月に再々刊されました。

この本には、「筑波山禅定」 (今は、「筑波山神窟講社」といわれている)
の修行地(六十六ヶ所)の順序と解説が載っています。

この本のお蔭もあり、
弁栄聖者の御修行地が「修験道」の修行地の一つである可能性が濃厚で、
ほのかに光が差してきたように感じました。


「イワヤ」、つまり、「行者窟」を巡る現地調査が、新たに始まりました。


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じきに、男体山の男女川水源付近の「役公之窟」が推定でき、

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「立身石」後の弁栄聖者の御修行先を巡っての現地調査が一段落し、
ひとまず、ほっと一息。

ところが、
実は、腑に落ちないところがあることも、内心感じていました。

「役公之窟」一帯は、独特の霊気漂う雰囲気があり、
男女川水源付近で湧水もあり、登山道からは少し脇に入った処にあります。

修行地として、十分に可能性がある処ですが、

此処の、「窟」、「イワヤ」は、

〇「男体山」(「立身石」と同じ)にあること。
「女体山」の「北斗石」から、また、戻ってきたことになること。
〇登山道から若干近いこと。
〇修行するには、内部が狭いこと


また、この一帯は、登山者にはよく知られた休憩地で、
周囲を気にせず修行に専念出来難いこと

以上の疑問を内心抱きながらも、
これ以上可能性のある修行地が想定できないため、
此処の地で、一連の現地調査の一区切りとしました。


その後、次の記事のための資料を改めて再読、再確認していたところ、

前回の記事で焦点となった「行者窟」について、
新たな「他の修行地」が、浮上してきました。


その地とは、女体山にある、「筑波山禅定」 の修行地(六十六ヶ所)の一つ


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つつじヶ丘駅から、ロープウェイで約5分ほど、女体山頂へ行き、
そこから、「かなり険しい岩道」を十数分ほど下り、
「北斗石」を目指します。

なお、弁栄聖者が筑波山頂で御修行された明治15年の頃には、
まだ、ロープウェイはありませんでした。
筑波山ロープウェーの営業開始は、「昭和40年8月11日」とのこと。

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「北斗石」を少し過ぎ、「注意深く辺りを見る」と、
右へ、更に少し進むと、左へと進める道がありました。

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左の方へ行く道に入ります。

この道は、それほど険しくはないのですが、
道が分かりにくいので、
多少注意が必要かもしれません。 

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右手に、岩、か細く流れる沢(?)を眺めながら、

しばらく、下って行きます。

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更に、5~6分ほど下っていきますと、
右手の方に、こんなペイントが。。。

先の方には、沢が見えてきます。

沢を斜め右下に見ながら、数分ほど進みますと、
左の方へ行く道があります。

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道を左へ入り、少し進むと、左手前方に、見えてきました!

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女体山、「護摩壇」の行者窟


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「護摩壇」の行者窟の裏側に回りますと、
適度なスペースがありました。

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「ここだ!」、「ここだ!」

弁栄聖者の「立身石」の次の主な修行地は、
「ここに、違いない!」

と、ある種確信めいた直観と、
ようやく辿り着けた、という歓びが湧き上り、
しばらく、興奮状態が続きました。

30分近くも、居たでしょうか?
しばしの間、興奮に包まれ、この地を離れ難かったのです。

気持ちを落ち着かせ、周囲を改めて見渡しますと、
心地好い、沢の水音が聞こえてきました。

「此処しかない!」


気を鎮めて、帰りに、確りと、沢を確かめました。
「護摩壇」の行者窟からは、目と鼻の先、1分程度。

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「女体山中でふと巡り合った真言宗の行者、
その母堂故水島キヌエ氏が弁栄聖者の信者で、
聖者から、筑波山上での修行体験内容の有難さを聞いて、
自らも筑波山上で数回も修行された程の関係があり、
『弁栄聖者は、立身石から女体山の北斗石の方へ移られた』
と、母堂から聞かされていた。」
(山本幹夫著『辨栄聖者の人格と宗教』)

この山本空外上人の言葉から始まった、本格的な現地調査。

実は、『女体山の北斗石の方へ移られた』の『方へ』が、気になっていました。

今回、訪れた、女体山、「護摩壇」の行者窟は、

女体山の、「北斗石」の方に位置しますし、

弁栄聖者の御修行地における立地条件的にも、
必要十分条件をほとんど全て満たし、

空外上人が断定された「北斗石」に感じた疑問が、
ほとんど全て解決され、初めて、腑に落ちました。

山崎辨戒編『辨榮上人と辨誡師』に、
弁栄聖者の次のような書簡がありました。

「愚衲はむかし若き折、筑波山に登りて念仏三昧をつとめ、
諸処にてつとめたるも、・・・。」

「諸処にて」、と書かれていました。

「北斗石」は、「立身石」後の修行地の主要地ではなく、
「護摩壇」の行者窟が主要地に違いない。


これも、今のところ、確たる文献的証拠はなく、
あくあでも推測の域を出ないのですが、
幾つもの点で、かなり腑に落ち、
更には、「筑波山禅定」の修行地(六十六ヶ所)の一つであり、
ここでもやはり、弁栄聖者と弘法大師空海とのご縁を感じます。


「(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

此処、女体山「護摩壇」の行者窟を訪れたことによって、
「次の場所」の推定のために筑波山を訪ずれることは、
しばらくは、ないと思われます。

今後望むこととしては、
弁栄聖者の新たな関連資料から、
この直観の正否を確認していきたいと思っています。

ようやく、私が出来得る「任務」を果たせたような気がしています。

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山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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