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2014-10-19

「・・・立身石てふ巌窟あり 此に在って凡そ一ヶ月 次に場所をかいて一ヶ月・・・(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)


   DSC04289.jpg

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)
山本幹夫著『辨栄聖者の人格と宗教』により、

弁栄聖者の筑波山上における修行場所が、
「立身石」、次いで、 「北斗石」であると、ほぼ云えるかと思われます。

   DSC03860.jpg

ところが、
実際に「北斗石」に行って感じられたことは、
ここ「北斗石」だけでの1ヶ月の御修行となりますと、
幾つかの点で、疑問をいだかざるをえず、

「立身石での御修行の後、北斗石、その他の場所で御修行をされた」

と考える方がより実態に近いのではないか、と推定しました。

では、「北斗石」の後は、一体何処か?

弁栄聖者の筑波山上での御修行関連の資料を調べていたところ、

「立身石」の次の御修行先は、「行者窟」である。

との言い伝えがあることがわかりました。

また、
大正12年5月発行の本間榮吉著『辨榮上人と当麻山』に、
興味深い記述がありました。

本間氏が、弁栄聖者の御事蹟を尋ねるべく千葉県を訪れた時、
松戸駅から五香の善光寺へ行くために乗った人力車の老車夫が、
弁栄聖者を乗せられたことがあった、という。

そこで、本間氏は、筑波山のことなどを尋ねたところ、
その車夫は、

「曾て、筑波山の行者岩窟も見たり、そこの福餅なども食べたことを細々と話してくれた」。

「行者岩窟」!

これかもしれない、と興奮する気持ちを抑えながら、

早速ネットで調べたところ、
残念ながら、そのものズバリの場所は特定できませんでしたが、
「それらしい場所」が見付かったので、
その調査のため、再び筑波山へ向かいました。

ちなみに、本間榮吉著『辨榮上人と当麻山』は、
「国会図書館内限定」ではありますが、
「国会図書館デジタルコレクション」で、閲覧可能。

  075.jpg  072.jpg

最近、「紫峰杉」が新名所となっているようで、
この辺りは、「男女(みなの)川源流」でもあるようです。

    070.jpg

「それらしい場所」とは、ちょうどこの下の位置にあたる所。

 DSC03772.jpg  DSC04141.jpg   
 
ケーブルカーの到着駅である「筑波山頂」駅を出て、
すぐ左の登山道(御幸ヶ原コース)を下って行きます。

この「御幸ヶ原コース」は、下山道といえども、なかなか険しく、
やはりこちらも、足腰の不調な方には、残念ながら、お勧めできません。

   DSC04117.jpg

10数分ほど、下って行きますと・・・

先ほどの、「紫峰杉」「男女(みなの)川源流」のちょうど下の方。

   DSC04115.jpg  DSC04118.jpg

       DSC04116.jpg

雰囲気は申し分なく、しかも、「湧水」が・・・

 DSC04091.jpg  DSC04092.jpg 

       DSC04103.jpg

       DSC04106.jpg

「役公之窟」

そう、「修験道」の開祖
あの「役行者 役小角(エンノオヅヌ」が修行した岩窟。

ただし、岩窟の内での修行となると、空間が狭すぎるような・・・

      DSC04105.jpg

「それらしい場所」がないか、近辺を探索してみると・・・

少し左へ進んだ(戻った)、上方に・・・

      DSC04043.jpg
    
      DSC04137.jpg

此処なら、岩窟の空間が少々狭いけれど、
登山道から脇に少しそれているし、
近くには、湧水があるし、
念仏修行に適しているように思われました。

「結界」!

という言葉が、すぐに思い浮かぶ、
一種独特の雰囲気が、辺り一帯に漂っていました。

岩窟の中の写真を撮るのは躊躇しましたが、
頭を下げて、撮らせていただきました。

      DSC04131.jpg

幾つかの条件から、此処での御修行は、十分に考えられると思われ、
「修験道」関係の資料を中心に調べたところ、
とても興味深い本に出遭いました。

宮本宣一著『筑波歴史散歩』

初刊が昭和43年、再刊が55年発行の本で
最近までしばらく品切れ状態となっていましたが、
真に幸運なことに、ごく最近、平成26年4月に再々刊されました。

この本には、「筑波山禅定」(今は、「筑波山神窟講社」といわれている)
の修行地(六十六ヶ所)の順序と解説が載っています。

この本によると、

「役公之窟」の一帯は、
「第三番 行者のイワヤ」「第四番 不動のイワヤ」があり、
ここはもとは、「みなの川不動尊」といわれた。

不動尊の石仏もあり、「おこもり所」もあって、行者たちがこもっていた

慶応2年7月3日の大雨で、すべて流されてしまい、
大杉ならびにモミの木など数十本、ここにあった茶屋まで全部、
みなの川へおし流されてしまった。

と、貴重な記述があります。

「第十六番 ミウミのイワヤ」、「第十八番 立身石」、「第三十四 北斗石」
となっています。

「はじめ筑波山においては、
阿弥陀仏の四十八願に因み、四十八ヶ所の禅定窟をつくったが、
のちには法華経六十六部に因んで六十六ヶ所として現在に及んでいる。
そのなかには不動のイワヤ、イナリのイワヤなど十大禅窟というものもある」と。


また、本間氏を乗せた人力車の老車夫が、

「曾て、筑波山の行者岩窟も見たり、そこの福餅なども食べたことを細々と話してくれた。」

と、本間榮吉著『辨榮上人と当麻山』に記述されている箇所がとても気になり、

「福餅」

についても調べたところ、

現在のケーブルカーの終着駅前の広場辺りにあった、
「五軒茶屋」
で売っていた名物に、「夫婦餅」があったとのこと。

そうすると、「筑波山の行者岩窟」とは、
「立身石岩窟」と考える方が、よさそうに思われてきました・・・

ただし、「行者窟」とは、「イワヤ」であると思われるので、

「役公之窟」辺りのイワヤである可能性は、
まだ否定しきれないように思われます。

今回の一連の調査からの結論は、次のとおりです。

「弁栄聖者の筑波山上での御修行地として、確実に云えることは『立身石』、
その他には、『北斗石』の可能性が高く、その他『行者、不動のイワヤ』などの『イワヤ』が考えられる。」



なお、聖者は、山での修行を全ての人に、勧めていたわけではなく、

「形よりは、精神上の要意が肝要にて候」

との、たよりもあります。


今回の一連の記事を終えるにあたり、ご参考までに、
弁栄聖者の筑波山上での御修行に関する記述を記しておきます。


「常陸国筑波山麓より一里ばかりか山頂より二丁許南の方に
立身石てふ巌窟あり 此に在って凡そ一ヶ月 次に場所をかいて一ヶ月
身に纏ふ所は半素絹 食物は米麦そば粉などにて」
(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)

(~田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)


「女体山中でふと巡り合った真言宗の行者、
その母堂故水島キヌエ氏が弁栄聖者の信者で、
聖者から、筑波山上での修行体験内容の有難さを聞いて、
自らも筑波山上で数回も修行された程の関係があり、
『弁栄聖者は、立身石から女体山の北斗石の方へ移られた』
と、母堂から聞かされていた。」

(~山本幹夫著『辨栄聖者の人格と宗教』)


「その夏筑波山入山、立身・北斗両石上各一ヶ月の三昧証入となり」
(~山本空外編著『辨栄上人書簡集』)


「苦修錬行の終わった八月の末、
聖者はただちにその足で心本尊をお迎えすべく筑波山へ赴き、
ここに二ヶ間、念仏三昧の人となった。
・・・その行場は一ヵ所ではなく、点々とうつり代わったようで、
・・・この間の修行ぶりは正確に知るよしもないが、・・・」

(~藤堂恭俊著『辨榮聖者』)


最後に改めて、やはり、是非触れておきたいことがあります。

(筑波山上における弁栄聖者の三昧発得偈)

   DSC03791.jpg

 「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念
 一心専念能所亡 果満覚王独了々」



「この宗教体験は、かれの東京遊学以来の一つの総決算であるとともに、
またそれ以降の生涯を貫く宗教活動の出発点ともなり、
またその土台ともなるものであったのである。」( 河波昌 「山崎弁栄ー光明主義の聖者ー」)
(脇本平也・河波昌共著『浄土仏教の思想 第十四巻 清沢満之 山崎弁栄』)

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2014-10-14

「常陸国筑波山麓より・・・立身石てふ巌窟あり 此に在って凡そ一ヶ月 次に場所をかいて一ヶ月・・・(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

弁栄聖者の直弟子、山崎辨誡師へのおたより(弁栄聖者『御慈悲のたより(中)』)
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』によりますと、


      DSC04289.jpg

立身石巌窟での一ヶ月ほどの御修行
(巌窟内 ↑ と、立身石上 ↓ )


  DSC03961.jpg

は、文献上からほぼ確実ですが、
次の御修行先等は、この二つの文献だけからでは確実なことは言えません

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』の第1版は、昭和11年9月11日発刊。

ところが、山本空外上人は、
弁栄聖者の御遺稿集の、実証的、学問的研究書ともいうべき、『辨栄上人書簡集』において、

「その夏筑波山入山、立身・北斗両石上各一ヶ月の三昧証入となり

と、次の場所を「北斗石」と断定されていますが、
この断定は、空外上人独自の調査結果に基づいているものと思われます。

山本幹夫著『辨栄聖者の人格と宗教』(初版 昭和11年10月18日 発行)において、
山本幹夫氏(山本空外上人の俗名)は、
男体山の立身石の次の御修行先を確認すべく、筑波山へ調査(昭和10年12月か)に行かれ、
次のような運命的な出遭いを経験されています。

女体山中でふと巡り合った真言宗の行者、
その母堂故水島キヌエ氏が弁栄聖者の信者で、
聖者から、筑波山上での修行体験内容の有難さを聞いて、
自らも筑波山上で数回も修行された程の関係があり、
「弁栄聖者は、立身石から女体山の北斗石の方へ移られた」
と、母堂から聞かされていた


と、山本幹夫氏達に話されたとのこと。

この云い伝えをもって、空外上人は、
立身石の次の場所を「北斗石」
と断定されたと推測されます。

弁栄聖者の筑波山上での御修行先としては、
男体山の「立身石」が知られており、
この場所での御修行は確実ですが、
次の御修行先と考えられる女体山の「北斗石」は、
光明会関係の方達の間でもあまり知られていないようです。

空外上人のこの文献を知り、
いつか、女体山の「北斗石」にも行ってみたいと思っていました。

男体山の「立身石」へは、
ケーブルカーを利用すれば、それほど苦労せずに行けます。

一方、女体山の「北斗石」へは、
ケーブルカーの終着駅を出た正面の広場から、右の方へ、
女体山頂上へと、約10数分ほど登って行きます。

 DSC03816.jpg  DSC03818.jpg

男体山の立身石への路と比較しますと、結構、きつく、なります。

途中、興味をそそられる巨岩・奇岩、セキレイ石、ガマ石等があります。

女体山頂には、ロープウェイ利用が可能であり、
6分ほどで女体山駅に到達し、そこから5分ほどで女体山頂にたどり着けます。
男体山側から行くよりも、はるかに容易に女体山頂に行くことができます。

 437.jpg  438.jpg

女体山頂は、天気がいいと、素晴らしい景色で、
観光客の人気スポットでもあります。

 439.jpg  DSC03981.jpg


目的地の「北斗石」へは、ここから下って行きます。

 DSC03836.jpg  442.jpg

ご覧のとおり、目的地である「北斗石」まで、
結構、ではなく、かなりきつい岩路が10数分以上続きますので、
足腰に不調のある方には、残念ながら、お勧めできません。
行かれる場合は、それなりの「覚悟」と、「装備」で!

    DSC03841.jpg  DSC03839.jpg  

女体山頂から、弁慶茶屋跡までの数十分は、かなり険しい路が続きますが、
興味を惹く奇岩、巨石等が、いくつもあり、人気の登山ルートです。

「筑波山は、霊峰。修行の山」だ、と感じました。


女体山頂から、10数分ほどで、目的地の「北斗石」!

      DSC03851.jpg

      DSC03855.jpg

岩の隙間をくぐり抜け、反対側に出ると、こんな姿です。

      DSC03857.jpg

「北斗岩」の説明が書かれています。

北斗星(北極星)のように決して動かない岩という意味。
また、弘法大師がここで北斗七星を司る妙見菩薩を見たという伝説が残っているとのこと。
~「筑波山の概要」『つくば新聞』より

ここでも、弁栄聖者と真言宗の宗祖弘法大師空海とのご縁が・・・


岩盤の上に立っていることがわかります。

 DSC03859.jpg  DSC03860.jpg

やはり、弁栄聖者の御修行の場に相応しい雰囲気がありました。

ところが、「此処で1ヶ月間の修行」となりますと、
男体山の「立身石」との比較から、
幾つかの疑問をいだきました。

疑問点を列挙します。

〇この「北斗石」は、登山ルートの通り道になっており、
念仏に専念する場所の確保が困難であること。
岩の上での長時間の念仏となりますと、空間的な場所の確保が困難であること。
〇付近に湧水などがなく、飲食の確保が困難であること。

これらの疑問点からして、

「この場所、『北斗石』での1ヶ月の御修行は、困難であったろう」と推定しました。

もちろん、弁栄聖者が筑波山で御修行された明治15年当時は、
ケーブルカー(大正14年10月開業)、ロープウェイ(昭和40年8月11日営業開始)はまだなく、
登山道も現在ほど整備されていなかったでしょうし、
「日本百名山」の中で、「最も標高の低い山」である「霊峰 筑波山」といえども、
そう簡単には、登って来れないため、
此処「北斗石」も、現在ほどには、登山者の往来はなかった、とはいえです。

当時、お茶屋さんは、江戸時代から続く
男体山と女体山の鞍部の御幸ヶ原(現在の男体山のケーブルカーの終着駅正面広場)の、
五軒茶屋(依雲亭、迎客亭、遊仙亭、向月亭、放眼亭)と、
みなの川茶亭の他、

「北斗石」から10数分ほど下ったところに、
かつて、 「弁慶茶屋」などあったとのこと。


「山上には昼登山の人に茶をだして、夜は山を下る茶店があって、
そこの人が親切に世話してくれた。
多くは少量のそば粉で飢えをしのいだ。」


と、田中木叉上人は、 『日本の光(弁栄上人伝)』に記されています。

やはり、今回の弁栄聖者の御修行の実際において、
とても気になった「水」に関してですが、

そば粉だけでは、食事とはならないでしょうから、
そば粉に混ぜる「水」が必要であったはずです。
したがって、御修行先の選定にあったっては、
「その水源は、重要なポイント」かと思われました。

 469.jpg  463.jpg

ここ「弁慶茶屋跡」からの下山は、比較的容易になります。

ただし、それは、つつじヶ丘へ下る「おたつ石コース」で、
筑波山神社への「白雲橋コース」は、かなりきついので、ご注意を!

 468.jpg  470.jpg
 
男体山の「立身石」、女体山の「北斗石」に実際に訪れ、
ようやく記事にできると思い、ほっとし、
弁栄聖者の筑波山上での御修行関連の文献等を、改めて読み直したところ、
女体山の「北斗石」で感じた疑問が膨らんできて、
「他の御修行先の可能性」が、新たに浮上してきました。

今回の一連の記事を書くために筑波山へ調査に行き、
訪れる度ごとに新たな疑問がわき、
幾度となく筑波山を訪れ、登山道を歩くうちに、
次第に、筑波山における「修験道」に関心が出てきました。

弁栄聖者は、ここ「北斗石」だけでの1ヶ月の御修行ではなく、
「立身石での御修行の後、
北斗石、その他の場所で御修行をされた」

と捉える方がより実態に近いのではないか、
と考えるようになってきています。
もちろん、推察の域を出ませんが・・・

今回も長くなりましたので、
この点について、改めて次回に考察してみたいと思います。

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2014-10-06

「常陸国筑波山麓より一里ばかりか山頂より二丁許南の方に立身石てふ巌窟あり 此に在って凡そ一ヶ月・・・身に纏ふ所は半素絹 食物は米麦そば粉などにて」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

 
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筑波山は、西側の男体山(標高871m)と東側の女体山(標高877m)の双峰からなります。

「立身石巌窟」は、男体山にあります。

ケーブルカーで、「宮脇駅」から「筑波山頂駅」まで、8分ほどで行けます。

御幸ヶ原コースからの登山コースもありますが、
ハイキング気分で行こうとは思わない方がよさそうです。結構キツイです。
筑波山とは、「岩、石の山」という印象。


DSC03772.jpg DSC03951.jpg

「立身石巌窟」は、「筑波山頂駅」下車後、男体山頂方面、左へ進みます。
ちなみに、女体山頂へは、右へ。

1~2分ほど進むと、男体山頂方面(右)へ進む案内札がありますが、
直進、 自然研究路 、方面へ。


DSC03952.jpg DSC03953.jpg

2~3分ほどすると・・・

ここから、 もうすぐです。

「立身石巌窟」までは、平服、運動靴でも大丈夫かと思います。


DSC03776.jpg DSC03785.jpg

立身石は、男体山頂近くにある神霊石
その昔、親鸞聖人がこの場所で念仏を唱え、餓鬼を救済したという伝説があり、
また、間宮林蔵が13歳の時、武士として立身出世を祈願した場所。

左手に巌を見ながら、少し先に進むと、
立身石の案内板があります。


DSC03786.jpg DSC03965.jpg  

進行方向、左側へ(写真では右側)へ、降りて行くと・・・
              
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目的地の「立身石巌窟」

さすがに、此辺り一帯は、周囲の空気が違います。

左下が、親鸞聖人の石碑、
右下が、間宮林蔵の石碑。

一日も早く、「弁栄聖者 念仏三昧発得の石碑」と、
観光案内、HP,ブログ等に掲載されることを祈っています。


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「常陸国筑波山麓より一里ばかりか山頂より二丁許南の方に
立身石てふ巌窟あり 此に在って凡そ一ヶ月 次に場所をかいて一ヶ月
身に纏ふ所は半素絹 食物は米麦そば粉などにて
(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

立身石に一ヶ月籠り、次に場所を変えたのは、
この山に係りがいて、もっと長くいるにはまた届け直さねばならぬため、
その煩雑さを避けてのこと。
     
  DSC03799.jpg

は、窟の中で念仏。

は、巌の上で礼拝されていた。


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階段があり、巌の上に登ることができます。

DSC03962.jpg DSC03961.jpg

関東平野が見渡せ、眺望も素晴らしく、
自然との一体感が味わいやすい環境かとも思えました。

この景色、環境も、念仏上の心境に影響を与えたと思われました。

また、巌上の広さですが、
睡眠不足と疲労のため、倒れたとしても大丈夫なほどの広さで、
安心して念仏ができそうでした。

DSC03784.jpg DSC03963.jpg

お気づきになりましたか?

筑波山は、修行のための霊山。
おそらく、この鎖は、修験道の修行のための鎖かと。


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(弁栄聖者 念仏三昧発得偈)

「弥陀身心遍法界  衆生念仏仏還念
 一心専念能所亡  果満覚王独了々」



「明治十五年二十四歳の時一夏六十日間筑波山上に入山修行、
深三昧の岩床に称名日々十万遍、
王三昧円かに成就して、如来の真境了々と現前。」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

ついに、念仏三昧を了々と発得されました。

このご境界について、貴重な逸話がありますので、
是非、ご紹介したいと思います。

「弥陀身心遍法界  衆生念仏仏還念
 一心専念能所亡  果満覚王独了々」

この三昧発得の境地について、

既に成仏と言われるべきところですか」との問に対し、

いまだし、天台の六即をもって云えば、まだ観行即とも云うべき所だ

と、弁栄聖者は答えられた。
「大谷上人 顕現極楽」(「大谷上人極楽の巻」『ミオヤの光』)


この記事を読まれた、杉田善孝上人の法友、和田真澄氏の

あの御境地がまだ観行即でいらっしゃいますか

との問に対し、

「弁栄上人が其の様に申されたのであれば私達が何とも申上げられませんが、
恐らくは御謙遜で居らせられませう
大正七年神奈川に御越しの節は、
私に、『大智慧の光明十方を照らして嬉しかった』と仰せられました。」

と、笹本戒浄上人は答えられておられます。
(『笹本戒浄上人 しのび草』)

筑波山上で弁栄聖者のこの境地は、
戒浄上人によりますと、

「開示悟入」の「悟」の仏眼(釈尊は「入」の仏眼)のご境界、とのこと。
(仏陀禅那弁栄聖者著『光明主義玄義(ワイド増訂版)』)

出世間の三昧の眼である「慧眼・法眼・仏眼」のそれぞれにおいて、深浅あり

前回の記事でも触れましたが、
この筑波山上での念仏三昧発得までの弁栄聖者の御精進の在り様を、
決して忘れてはならないと思います。


それまでの難行苦行を捨てられ、禅定に入られ、ついに、悟りを開かれた釈尊に対し、

「難行苦行は決して無駄ではなかった。
そのことによって、釈尊は、精進力を得られた。」


と、東大名誉教授の故玉城康四郎氏は、かつて指摘されました。

さすがに、ご自身も学行双方に努められた方だと、痛く感銘を受けたことがありました。


もう一点、どうしても触れておきたいことがあります。

「食物は米麦そば粉などにて」 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

と記されています。

「断食念仏」ではなかった、という点についてです。

弁栄聖者の筑波山での御修行等を記事にしながら、
是非記しておきたいという想いが強く頭をよぎったのは、この点のことで、
吉松喜久造氏がご生前、とても危惧されておられていたことです。

当時、弁栄聖者にあやかって、
「断食念仏」(誤解!)を実践され、心身を害された方が、いたようです。

吉松氏は、若かりし時、「断食念仏」をされたことによって、体調を崩され、
大変苦労された時期があり、
『光明三昧(信心を養う方法)』
という、田中木叉上人からの「御慈悲のたより」に救われたことがあったとのこと。

杉田善孝上人は、ご法話の中で、

「仏道修行も、『合霊性的』でなければいけない。」(笹本戒浄上人のご教示)と。

この点は、是非、触れておきたいと思っていました。


実際に筑波山に行ってみて改めて気づいたこと、また、疑問が生じたことは、

弁栄聖者の御修行中の生理的側面について、でした。

先ずは、「水」、飲料。次に、食物。
そして、排泄、行水、衣服等について、
日常生活では当たり前過ぎて、ほとんど意識さえしないこれらの点についてです。

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道も少々分かりにくいのですが、5~6分ほど歩きます。

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「水」、この点については、
聖地と言われる処には、必ずと言っていいほど、清浄な「湧水」があるという事実。

また、それ以外にも、肉体を持った生物としては、
実際に、「水」は、絶対に不可欠です。

やはり、 「立身石巌窟」の近くに、
「御海(みうみ)」という湧水の場所がありました。

約1200年前に、徳一大師によって発見されたと伝えられ、
親鸞聖人が餓鬼済度に用いられた霊水で、
万病に効くといわれているようです。

ただし、残念ながら、
現在は、ほどんど枯れているようです。

DSC04274.jpg DSC04266.jpg   

帰りは、来た道とは反対の路を、5~6分ほど登って行くと、

驚いたことに、「立身石巌窟」の真下に出ました。

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「立身石てふ巌窟あり 此に在って凡そ一ヶ月
 次に場所をかいて一ヶ月」(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)


弁栄聖者は、筑波山における具体的な御修行の在り様に関して、

「御照会の入山」修道の事については、これはと申すこともこれ無く候。」

と、直弟子の山崎辨誡師へのお手紙に、さらっと記されている程度で、
詳細は、現在までほとんど伝わっていません。

「次に場所をかいて一ヶ月」(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)

と、田中木叉上人は記されていますが、

山本空外上人は、

弁栄聖者の御遺稿集の、実証的、学問的研究書ともいうべき『辨栄上人書簡集』において、

「その夏筑波山入山、立身・北斗両石上各一ヶ月の三昧証入となり」と、
断定されておられますが、

次回は、この点を、考察してみたいと思います。

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2014-10-01

「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念 一心専念能所亡 果満覚王独了々」(筑波山上における弁栄聖者の三昧発得偈)



DSC03969.jpg

この石碑は、男体山の「立身石」の手前に立っています。

「明治十五年二十四歳の時一夏六十日間筑波山上に入山修行
深三昧の岩床に称名日々十万遍
王三昧円かに成就して、如来の真境了々と現前
爾来三業清浄、一行精進、施、戒、進、禅、慧欠くることなく
更に三年間草庵に籠って、一切経七千三百余巻読了。」

と、 『日本の光(弁栄上人伝)』の筆者である田中木叉上人は、
弁栄聖者の筑波山上における三昧発得の、決定的ともいえる重大な意義を記されています。


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筑波山は、「西の富士、東の筑波」

と言われるほどの、古えからの霊峰

弁栄聖者の御生誕地である鷲野谷から、12~3里(およそ50kmほど)。


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聖者は、筑波山入の理由を、

仏教の真理は三昧に入り 神を凝らすにあらざるよりは 証入すること能はず 
依て暫く山に入れり」と。

「仏法は学解にあらず、三昧実証にあり」

実証(実験)主義こそが、弁栄聖者の「常の方針」でありました。

御歳二十数歳での「三昧発得」というのは、
実に驚嘆すべきことで、
宗教史上からみても、類例を見出し難いのではないでしょうか。

弁栄聖者が宗教的天分に恵まれた、宗教的大天才であったことは言わずもがなですが、
その修行の精進も尋常でなかった
この点も見落としてならない重要な点だと思います。

やはり、この点は是非押えておくべきだと思いますので、
「筑波山上での三昧発得」までの聖者の主だったエピソードを次に記します。

(幼児期~少年期)
好んで仏画を描かれ、仏書を読まれた。

(十二歳頃)
秋の彼岸の中日、杉林から入る日を拝もうとした時、
「想像にはあれども、三尊(阿弥陀仏と観世音菩薩、勢至菩薩)を想見し、その霊容に憧憬して、
その聖容を霊的実現としてせん仰し奉らん」と強く願われた。

ただし、「後には、三尊を一尊にして拝むことにした」とのこと。
この選択も、実に不思議なことに思われます。

弁栄聖者の特徴でもありますが、
自内証を自ら語られることは少なく
このことも、次の出家の願望同様、ご家族は知らなかったようです。

(出家前、青少年期)
若かりし日に出家を夢見た父の「念仏嘉平」氏は、
出家に耐えるかを試すため、
青小年の啓之助(弁栄聖者の幼名)に厳しい仕事を課された。
そのお蔭で、五体はますます頑丈になった。

(二十一歳)
近所の檀那寺の鷲野谷医王寺において、
関東の名刹、関東第十八檀林、小金の東漸寺の第五十世、大谷大康老師を剃髪授戒の師とし、出家得度。
行学に精励。
入寺早々、異例ともいえる、
「華厳の事々無碍法界」のあらましを授け、ついで「天台四教義」を教え、
つづいて、「天台三大部」の要領を授けた。
大康老師さえ「弁栄はねないのだろう」と言われていた。
でも、三時間位は寝た。

(二十三歳)
東京遊学。
浅草日輪寺(時宗)、駒込吉祥寺学林、真言宗与楽寺、芝学頭寮に止宿して宗乗聴講。
田端の東覚寺(真言宗)から通学途上、

「三千界中唯心眼の前に仏あるのみ」

と、一ぱら念仏三昧を修し、苦心惨憺。
そして、

ある時は、「五大皆空唯有識大」の境界現前。
ある時は、「一心法界」の真境界現前。

(二十四歳)
華厳の「法界観」を成就したので、
「これで本堂ができた。本尊様を迎えねばならぬ」

と、より一層念仏三昧に精進された。

このことも、弁栄聖者の実に不思議な処で、

ここで、「真空に偏して」しまっていないのが、実に実に不思議で、謎。

ついに、

「後二十四の時に東京駒込の吉祥寺学林に於いて
卍山上人の五教章の聴講に列なりし時
田端の東覚寺に寄宿して吉祥寺に通う往復にも

口に称名を唱え意(こころ)に専ら弥陀の聖容を想ひ
専ら神(こころ)を凝しけるに


一旦蕩念(とうねん)として曠廓(こうかく)極まりなきを覚え、
其時に弥陀の霊相を感じ、慈悲の眸(まなじり)丹花の唇等、
其の霊容を想ふ時身心融液にして不思議なるを感ず


この時の弁栄聖者のご境界に関して、
笹本戒浄上人のご解釈に依りますと、
(参考文献:仏陀禅那弁栄聖者著『光明主義玄義(ワイド増訂版)』)

厳密には、仏眼の一歩手前、「法眼が満位」になったご境界

「仏眼」が開けるためには、
「慧眼」が先に満位になり、次に「法眼」が満位になるという過程を辿り、
「慧眼と法眼」が「即の状態になった境界」が「仏眼」。


したがって、「慧眼・法眼・仏眼」。

「其後は常に念に随て現ず。」

この「心霊的自由を得る」のは、「仏眼の境界」で、

弁栄聖者は、

「仏眼は自受用にて自ら現じ自ら感ず。能感と所感と自己にあり。」

と、 「成所作智」(『弁栄聖者光明体系 無辺光』)において、
御自身の体験上の事実を踏まえ、「仏眼」を解説されています。

東京遊学より、帰郷され、
鷲野谷医王寺の薬師堂に籠って、三十七日(日数に異説あり)の修行
その間に蝋燭を腕に立てて燃えてしまうまで、
また線香を横たえて終わるまで、
また掌に油を盛りこれを燈心に浸して火をつけ、
掌の皺目がさけて熱した油と黄色の焔が皮膚の切れ目にヂリヂリヂリににじみこむのを忍んで、
如来宝前に供養し奉った。

以上、激烈ともいえる仏道修行の後の
八月末から二ヶ月間の筑波山入山、修行。


「筑波山上における三昧発得」後、筑波山下山後のことについても、少々触れておきたいと思います。

(十一月)
小金東漸寺にて、大谷大康上人より宗戒の両脈を相承された。

(二十五歳~二十七歳)
埼玉県吉川町の飯島、宗円寺。東漸寺から二三里(おおよそ10kmほど)隔てた閑静な寺にて、
一切の外縁を絶ちて、足かけ三年で、
東漸寺経蔵より黄檗版の一切経(七千三百三十四巻)を少しづつ運んで行って、読了

以上、主として、 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』によります。


記事が大分長くなりましたので、
筑波山での修行の具体的な有様については、
次回に譲りたいと思います。


「常陸国筑波山麓より一里ばかりか山頂より二丁許南の方に
立身石てふ巌窟あり 此に在って凡そ一ヶ月 次に場所をかいて一ヶ月
身に纏ふ所は半素絹 食物は米麦そば粉などにて」
(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

弁栄聖者がご修行された時代とは大分隔たっていますが、
実際に筑波山に行ってみますと、
本から得た知識とは、また違った知見が得られました。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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