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2014-06-22

「愛楽仏法味 禅三昧為食」(世親菩薩『往生論』)

「念々弥陀の恩寵に育まれ、声々大悲の霊養を被る。」

弁栄聖者が、そのご高弟の一人田中木叉上人に差し上げれた
『お慈悲のたより』の中の極めて重要な個所の一つです。

光明会では、『年頭法語』として知られているようで、
能見寿作氏は、弁栄聖者の末代までの大説法であると喝破されていたようですが、
このたよりを読む度に、その御教えの深さに、感銘を新たにします。

全文を最後に記しますので、是非読んみてください。

ここで、弁栄聖者は、「霊養」という表現をされています。

田中木叉上人は、聖者の御教えを分かり易く、
人間に不可欠な栄養、養分として、「三養」として説かれました。

すなわち、「栄養」、「教養」、「霊養」です。

現代では、「理性」の領分である「教養」さえあやしくなってきており、
「霊性」開発に不可欠の栄養である「霊養」は、いわずもがなといった状態といえましょうか。

さて、

「愛楽仏法味 禅三昧為食」(世親菩薩『往生論』)です。

世親菩薩は、「食」と表現されています。

まことに興味深いことに、キリスト教では、
神与の食物、霊の糧を、 「(manna)」(ラテン語)と表現され、
周知のとおり、カトリックのミサにおいては、「パンと葡萄酒」が極めて重要な役割を担っています。

洋の東西、宗教宗派を問わず、

深い祈りの内で、神・仏から、「霊の御恵み」が享受される事実は不変のようです。

晩年の弁栄聖者が最も重視された「三相五徳」『無量寿経』)を、

『如来光明礼拝儀』において、

「教主世尊が六根常に清らかに
光顔(みかお)永(とこ)しなへに麗はしく在ししは
内霊応に充給ひければなり」
と。

また、

「人仏牟尼は一向(ひたすら)に 本仏弥陀を憶念し
本仏弥陀の霊徳は 牟尼の身意に顕現す
入我我入は神秘にて 三密正に冥合し
甚深不思議の感応は 是れ斯教の秘奥なり」


と、「仏々相念の讃」に詠われています。

最後に、あまり知られていないと思われますし、
今回のテーマとも深く関係しますので、
弁栄聖者ご作成の「食前、食後の光明食作法」を記します。

「光明食作法(食前)
大ミオヤよ。
我等は日々の糧(かて)を受けざれば活(いく)ること能(あた)たはざると共に。
アナタの恩寵(みめぐみ)の霊の糧によらざれば。
法身慧命は紹(つ)ぐこと能はざるものなり。
されば此の食を為さんとするに先だちて。
智慧と慈悲との聖き名(みな)を念じて。
霊のいや増さんことを祈り奉る。     お十念。」

「光明食作法(食後)
大ミオヤよ。
アナタに与えられし霊の糧をば。
我が信念によりて消化し。聖き力となして。
世の為め人の為めアナタの光栄(みさかえ)を顕すべき働きを為し得るやう。
恩寵(みめぐみ)を垂れ給へ。     お十念。」

弁栄聖者御在世中から、
聖者の御教えは、「耶蘇くさい」、「異安心」だという批判がなされていたようです。

「耶蘇くさ」かろうが、「異安心」であろうが、宗教宗派が違っていようとも、
「その御教えが「真理」でありさえすれば、構わない」と私は考えているのですが、
あるいは、「教条主義」からは、許しがたいことであるのかもしれません。

真理が、「教条主義」によって捻じ曲げられては、断じてならない。

と、自戒している一人です。


〇「年頭法語」(弁栄聖者より田中木叉上人が賜りたる御慈悲のたより)

「大いなるミオヤは十劫正覚の暁より、
可愛き子を待ち詫び玉ふとは仮にちかきを示せしものゝ、
実には久遠劫の往昔より今時の今日に至るまで、
可憐き子の面の見たさまた子を思う親の心の知らせたさに
番々出世の仏たちを御使はしなされて、
苦心慇懃に子らに諭して、
ミオヤの大悲の御手に渡し玉はんとせし久遠劫来の思念がかゝり、
大悲召喚の御声に預かりし田中道士の、
至心信楽の心を注ぎて慕はしき吾が大ミオヤ、
ナムアミダ仏と呼ぶ声を、
毫も遠からぬ道士の前に在ます大ミオヤは
さぞかぎりなき歓びを以て之に報答しますらんと信じられて候。

 道士よ、御名を呼べば現に聞玉ひ、
敬礼すればアナタは観そなはし玉ひ、
意に念ずれば、アナタは知り玉ひ、
こなたより憶念し奉れば、アナタは幾倍か深く憶念しくださるゝ
との導師の指導にして誤りなからば、
今現に念仏三昧を修しぬるに、
大ミオヤの慈顔に接することを得られぬことゝとかくな思い玉いそ。
また今現に大慈悲の懐ろの裡に在ることをもゆめな疑ひ玉ひそ

 此肉体に於いても分娩せられてまだ幾日の間は
母の懐に抱かれて居ながら
懐かしき母の容を見ることができぬことにて候。

 しからばいかにせば吾母の容を見ることを得るに至らんとならば、
啼く声に哺ませらるゝ乳を呑む外にはぐくまるゝみち之なきことにて候

念々弥陀の恩寵に育まれ、声々大悲の霊養を被る。
十萬億土遥かなりと愁ふること勿れ、法眼開く処に弥陀現前す

今宵は大晦日の夜である。
世人多くは債鬼をのがるゝに苦しみて居り、
道士は無始以来の債を除いて、
久遠劫来の親に逢ひたさに泣いている。

道士よ、今宵は無始以来迷ひじまいの大晦日にして明くれば、
本覚の無量寿にして無量光なる元旦に候へば、
萬歳を以て未だ足れりとせず、無量寿のみ名を称へて、
道士の聖なる元旦を祝し上げ候。」


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テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2014-06-08

共時性(シンクロニシティ)、布置(コンステレーション)を巡る雑感

「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」については、
前回と前々回、でも雑感を記しましたが、
まだ、補足したい点がありますので、今回もこのテーマで。

どうしてこのテーマにここまで関心があるかといいますと、
「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」という視点は、
特定の宗教を信じているか否かを問わず、
「人間を超えた存在」を感知する貴重な契機、
また、現世での生活を意義深いものへと繋げる機会ともなりうるものと思われるからです。

「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」を考察する場合には、
『弁栄聖者ご遺稿集 無辺光』で詳述されておられる、
「大円鏡智」・「妙観観智」の如来無差別智が、大変有益な手掛かりとなると思われます。

また、同時に、ユング派の心理臨床家である河合隼雄氏の臨床的知見も重要な示唆に富んでいます。

「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」について考察する際、
特に留意すべき点は、次の二点

〇この現象が、極めて個人的な事柄に関わること。
〇この現象を意味ある現象と捉える際、その人間の意識が関与していること。

したがって、科学的(再現性)な検証が困難です。

そこで、こんな概念は、非科学的で、全く馬鹿げた考えだ。
という主張があっても、不思議ではありません。

河合隼雄氏は、
「コンステレーションー京都大学最終講義ー」(『こころの最終講義』)において、
「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」に関する極めて重要な観点、

それらは、その主体のコミットメントにも影響を受けること
また、それらを捉えるためには、「気配を読み取る」態勢が要請されること。

を指摘されています。

河合氏は、
「共時性(シンクロニシティ)」、「布置(コンステレーション)」の提示には、極めて慎重であり続けましたが、
おそらく、ご自身の心理臨床実践において、この不可思議な現象の解明の糸口を掴まれ、
そこには、主体者のコミットメント、つまり、主体者の意識が関与していることを突き止められました。
また、
「布置(コンステレーション)」に関しては、
「気配を読み取る」態度、つまり、「見えないものを感知する力」の重要性を指摘されています。

河合隼雄氏は、明恵上人と、イスラーム神秘哲学の権威でもある井筒俊彦氏に導かれ、
最晩年、「華厳思想」に、特別な関心を持たれていたようです。
おそらく、それは、「事々無礙法界」の風光ではなかったでしょうか。

河合氏の著作の中から、ご参考までに、
この共時性(シンクロニシティ)、布置(コンステレーション)に関して、示唆に富む箇所を若干引用します。

「要するにコンテレーションを見るというのは、いいときに後ろを見ないとだめなんですね。
・・・心理学者は、後ろからいろんなのが来ているのに全然見ない。
時々、非常に上手に、何にもないときに後ろを見るんですね。そして、言うんです。・・・
「後ろを見ました。完全に見ました。何にもありませんでした。・・・私は実証的にやっております」
と言うんだけれども、一番大事なときには後ろを向いていない。」
(「コンステレーションー京都大学最終講義ー」『こころの最終講義』河合隼雄)

「実際にぼくが遭遇している現実では偶然ということが多いんですよ。
ぼくはときどき冗談半分で「あなたは絶対に治らないだろう」と患者さんに言う。
しかし、偶然ということがあるから、ぼくはそれに賭けているからやりましょう」と言う。
そして実際にそうなるんです。
ぼくは何をしているかというと、偶然待ちの商売をしているんです。
みんな偶然を待つ力がないから、何か必然的な方法で治そうとして、全部失敗するのです。
ぼくは治そうとなんかせずに、ただずっと偶然を待っているんです。」
(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)

「小川 秘密を守らなくてはならないという先生のお仕事は、すごく苦しくて大変でいらっしゃるのでしょうね。
河合  ・・・僕はこの頃よう言ってるんですけど、「僕はアースされているから大丈夫」なんです。
・・・「うん、それで、最後は地球にお任せしてるってね(笑)。」
(小川洋子 河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』)

蛇足ながら、補足を付け加えさえていただきます。

おそらく、「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」という現象は、
日常的にありふれた現象、出来事でありながら、
私たちの意識からこぼれ落ちていることが間々ある、ということなのでしょう。

河合隼雄氏が心理臨床家であったということは、
面接室という「非日常的な空間」で、
しかも、それ故にこそ、「意識が特別な状態であり続けられた」ということを意味します。
つまり、「特別の意識状態」で、「強烈にコミットメントする他者の存在があった」ということです。

往々にして、自分のことは、盲点ともなりますので、
信頼でき、自分をよく知っている他者の存在(視点)が不可欠となるようです。

また、「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」は、
極めて個人的な事柄が絡むので、当事者の情報が不可欠であり、
これらの意味を考察する場合には、
単発的な事象の短絡的な早急な把握ではなく、
時系列的な「継時的な解明」が必要となることも多いようです。

夢の場合などもそうですが、
そのことを意識し、また、記録し始めると、
途端に記憶され始めることもありますので、

「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」に対するには、

〇 強烈なコミットメント、興味関心をいだき続けること。
〇 「気配を読み取る」よう通常の意識とは違った態度で努めること。
〇 それらを、「現実の生き方」に生かすように心がけること。

最後に、留意点。

「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」の読みには、
いわゆる「唯一の正解」などはなく、
当事者に、その意義付けが「腑に落ちる」といった感触が、一つの重要な手掛かりとなる
ように思われます。

表層レベルでの短絡的な性急な意義づけには、くれぐれもご注意を!

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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