2013-11-10
「別時修行は、喩えれば、平常は散心で川の流れのままに心が流されているようなもの。別時念仏は、その流れに竿をさし、一歩一歩川の流れに逆らって、上流にのぼって行く如く、並大抵のことではできない。」(能見寿作氏)
前回は、能見寿作氏のご指摘、
「いくらお別時についても、別時と平生がお互いに責任のなすりあいをしている間は、三昧は開けませんよ。」
をご紹介しました。
今回の能見氏の言葉もそうですが、
平易な表現でありながら、実に巧く、その通りだな、
と、腑に落ちる実感のこもった言葉だと感じ入ります。
恵心僧都源信は、
「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。」と。
また、
明遍僧都の切実な問い、
「念仏の時、心の散乱し、妄念の起こり候をば、いかがし候べき。」
に対し、法然上人は、
「欲界の散地に生を受くる者、心、あに、散乱せざらんや。
煩悩具足の凡夫、いかでか妄念を留むべき。
その条は、源空も力及び候わず。
・・・心を鎮め、妄念起こさずして、念仏せんと思わんは、
生まれつきの、眼鼻を取り放ちて、念仏せんと思わんが如し、あなことごとし」と。
念仏実践上の具体的なご指南として、
「一心に高声念仏すれば、念仏に防がれて妄念は起らざるなり。
これを諭うるに楔(くさび)をぬくに楔を用うという事なり。
妄念を止むるに念仏を用う。
しかれば妄念胸に競い起こらば、
念仏して妄念に取りあわざる様にすべし。」
と、忍澂上人は、大変ありがたいご指南を残されています。
「念仏する時、妄念が起こってしょうがない。」
と愚痴をこぼされた方の話を聞かれ、
弁栄聖者は、
「その方は、念仏をしています。
念仏をしたことがない者は、そのようなことに気づけない。」
と語られたとのこと。
やはり、どの道でも、その道の生きた導師は、ありがたいですね。
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