2013-09-28

「この教団は如来という唯一の大御親を信じ、その慈悲と智恵との心的光明を獲得し、精神的に現世を通じて永遠の光明に入るの教団なり。」(『光明会趣意書(大正3年、56歳 一枚刷頒布)』首唱者 仏陀禅那 弁栄)

「 光明会趣意書 

この教団は如来という唯一の大御親を信じ、
その慈悲と智恵との心的光明を獲得し、
精神的に現世を通じて永遠の光明に入るの教団なり。


その大御親とは宇宙唯一の霊体にて、心霊界の大日輪なり。

明治天皇の

『朝な夕な御親の神に祈るなり我が国民を守り給えと』
『目に見えぬ神のこころに通うこそ人の心の誠なりけれ』

との御製は、畏くもそのご消息と拝し奉らる。
また孔子が天道と呼び給いし、同じく唯一の大御親の別号に外ならずと信ず。

凡そ一切の人類はその大御親の分子たる仏性は具すれども、
大御親の慈悲と智恵との光明によらざれば、霊性を顕彰すること能わず。


この永遠不滅の霊活なる大御親の実在と、
その真理なることを実証し給う教祖釈迦牟尼仏は、
ことに明かにその大光明に接触するの道というべき八万四千の法を説き給えり。
この大光明を八万の方面にわたりて教え給いしは、
あたかも太陽の光は一なれども照らさるるものは無量なるがごとし。

されば吾人が仏陀の教えに信頼して信念功をなす時は、
必ず霊的光明に感触して、無明の夜あけて光明界中の人となりぬべし。
しかしてこの光明中の人となれば、
おのづから大御親の聖寵により清き心のみ子となるがゆえに、
相互に真実親愛の情をもってあい待するに至るべし。
人たるもの、この天地間に生を受け万物の霊長たり、
此光明を獲得せずして可ならんや。


かつて聞けり、世の進化の順序はたとえば人の道を歩行するに両脚の互いに運びて進むがごとしと。
人の精神の働きを内外両面に分てば、教育、政治等のすべて外部に向って働くべき方面と、
また宗教、家庭、道徳等の内部に向ってつとむべき方面とあり。

顧うに今やわが国民は外部の文明は長足の進歩をもって発達し、今日の隆盛を見るに至れり。
これよりは宗教および道徳等の方面において大いに進むべき時期到来せり。
長らく眠りおりし国民の内的霊性が、覚醒せざるべからざる暁は近けり。


宗教は人類の内的生活を高尚にし、また正善にし、
かつ幸福を感ぜしむるものなり。


ここにおいて吾人は時期相応の信仰的団体を結び、ともに教理を研究し、
また信念を修養して、互にあい提携し真理の大御親の聖意にかなう清き同胞として、
光明に裡に生活し、
現在を通じて精神的に永遠の浄界に進行するを目的とせん。


願わくはわが敬愛なる清き同胞衆生よ、吾人は相互に弟たり、兄たり、
ともにたずさえて大御親の光明の大道を進まんことを望むものなり。

ここに教団を結びその目的を達せんと欲する所以なり。

  首唱者 仏陀禅那 弁栄 

※ 参考文献:田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』


1914年(大正3年)、56歳時、弁栄聖者の「光明会」創設の宣言文。

ちなみに、来年、2014年は、
聖者が、光明主義が世に理解されると言われた
ちょうど、100年後

これ以前、明治36年には、千葉松戸に「心光教会」を創設しています。

時代的にも、弁栄聖者とキリスト教との関係は、今後の重要テーマかと思われます。
ちなみに、聖者は、あの新島襄に会われています。

さて、『光明会趣意書』ですが、

私が最も関心を惹かれる点は、
この文中には、「阿弥陀仏」なる言葉がなく、
「大御親(おおみおや)」という表現になっている点です。

「弁栄教学」を学んでいきますと、
「大ミオヤ」なる言葉の含蓄の甚深さに驚かされます。

伝統的な「阿弥陀仏」の概念を遥かに超え、
そればかりか、宗派宗教の神仏観さえ超えている
ようにさえ思われます。


弁栄聖者が三昧直観された「大ミオヤ」の真相を、

「仏身論」においては、

「大ミオヤ」「超在一神的汎神」として捉えられ、
諸仏諸菩薩の一仏ではなく、
諸仏諸菩薩をそれらたらしめる
無始無終の三身即一の根本仏と捉えておられます。

「法身、報身、応身の三身」が、「即一」、かつ、「本有無作」、「無始無終」、と。

また、「大ミオヤ」における現世からの救済を説かれるとともに、
道徳を成立せしめる、霊的人格ともいうべき「霊格の形成」という積極的側面、
更には、「智慧の開発、展開」も、説かれています。
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2013-09-08

「南無智慧光仏  如来智慧の光明に 我等が無明は照されて 仏の知見を開示して 如来の真理悟入るれ」(弁栄聖者作『如来光明礼拝儀』)


前回、記事にしましたが、

弁栄聖者は、『無量寿経』で開示された「阿弥陀仏の本願」の深意に関して、
「智慧光」として、画期的な卓見、解釈をご提示されました。

南無智慧光仏

如来智慧の光明に
我等が無明は照されて
仏の知見を開示して
如来の真理悟入るれ

(「南無十二光仏」弁栄聖者『如来光明礼拝儀』)


ご案内のとおり、
極めて重要な大乗経典である『法華経』に開顕された釈尊の本懐

「我一大事因縁ヲ以テ世ニ出現セシ所以ハ
一切衆生ヲシテ仏知見ヲ開示悟入セシメンガ為也」
です。

弁栄聖者は、大乗仏陀釈尊及び法然上人の最晩年の三昧の内実を、

「自性は十方法界を包めども
中心に厳臨し玉ふ霊的人格の威神と慈愛とを仰ぐもあり。
真空に偏せず妙有に執せず、
中道に在て円かに照らす智慧の光と慈愛の熱とありて、
真善微妙の霊天地に神を栖し遊ばすは、
是れ大乗仏陀釈迦の三昧、又我宗祖の入神の処なりとす。」


と、 『宗祖の皮髄』にお示しになっています。

「空」という言葉から、
「無」、「虚無」といったことを、イメージしやすいかと思いますが、

詩才がおありになった田中木叉上人は、

大ミオヤの「空」的側面を、

〇「すきとおり尽十方はただ光 是ぞ我かもこれ心かも」

〇「斯の心 身の内のみか満天地 見ゆる所に見る心かも」

と、「じひの華つみうた(三) 光にとけて」『光明歌集』に詠まれています。

また、大ミオヤの「妙有」的側面を、

「ああ尊とああ〈 尊とああ尊と 輝き給う大ミオヤ様」

と、「じひの華つみうた(三) 光にとけて」『光明歌集』と詠われています。


「真空(慧眼)即妙有(法眼)」、「即」の状態こそ、仏眼の境涯。

更に、文才豊かな田中木叉上人は、

「真空」と「妙有」の境涯を、「称名三昧」として、
次の如く、実にありがたく、表現されています。

「真空」的側面は、

「身も感ぜず、心もわからず、何も無くなり、
外の物も、内の心もすべて無くなり、いっさい、何もなくなる、
何も無いが、ただ、ハッキリして、カラッと ハッキリしている、
心身とも無くなってところは、死人同様であるが、
ハッキリしているので、死んだのではない、
眠ってしまったのでもない、カラット ハッキリしている、
時間も空間も無い、唯、ハッキリしている、・・・」
と。

煎じ詰めると、私達が心底希求している望みである
三世を貫く「真実の自己」、「不死」に目覚めた境涯

弁栄聖者は、この大ミオヤの「空」的側面を

「清きみ天は朗らかに」『聖きみくに』(『如来光明礼拝儀』所収)

と、詠われています。

「妙有」的側面を、田中木叉上人は、

「この三世十方をつらぬく ハッキリさも勿論ありがたいが、
それだけではなく、更に更に有難いことは
大悲大慈の光明顕赫たる大御親様が現前ましまして下さる時がある
着物に過ぎぬ この身体の命終の時もそうであるが、
命終でない平素の念仏三昧中に現前ましまして
その分、その分に応じて、
大御親様の内容にそなえ給う万徳の一部一部を、
ひれ伏し拝む心に、与え下さる、それが一ばん大切な、ありがたい、
辱けない、もったいない、感応同交の願わしさ
である。」
(藤堂俊章編『田中木叉上人遺文集』)

弁栄聖者は、この大ミオヤの「妙有」的側面を

〇「常世の国現れる」
〇「金の相好妙にして 月のみ顔は円かなり
巍き威儀は厳そかに 万の徳は満みてり」

(「聖きみくに」『如来光明礼拝儀』所収)
と。

田中木叉上人が表現された、

「平素の念仏三昧中に(大悲大慈の光明顕赫たる大御親様が)現前ましまして、
その分、その分に応じて、
大御親様の内容にそなえ給う万徳の一部一部を、
ひれ伏し拝む心に、与え下さる、それが一ばん大切な、ありがたい、
辱けない、もったいない、感応同交の願わしさである。」


の内実を、弁栄聖者は、

「開示悟入」の入の位である「三身四智の仏眼」
その究極である「認識的一切智の境涯」を、
『無量光寿』に、さらっと開顕されています。

「すでに証得したる無量光は尽十方の空間を尽したる霊体と合一したるも、
已後の無量光は、
数量に於て、若くは色法心法一切の万法に於て無量無辺なり。
この無量の法には各其自性の理を有す。
一切の無量の事々物々の真理を悟る事の無量光と云う。
無量は一切万法に名け光明は万法を悟る智慧に名く。
智慧に真理を認識する智と又実行を照す智慧とあり。
この両面に在りて照す処の智慧を云う。
寿とは生活々動の義または実地の行為の義なり。
即ち光明の中に仏行永遠無窮に行うを無量光寿と云う。」
(『弁栄聖者光明体系 無量光寿』)

霊体との形式的同一は、「理の無量光」=「無生忍」の境涯であり、
この境涯を、

「此に於て能事終れりと謂うは甚だ誤謬なり。」とし、

弁栄聖者は、釈尊の甚深なるお悟りである「開示悟入」の入の位
「無生法忍」の境涯である「三身四智の仏眼」、
その究極である「認識的一切智の境涯」=「事の無量光」を、
開顕されました。

弁栄聖者の衆生済度の特徴を、田中木叉上人は、

「破邪なき顕正」

と、言われていますが、

「宗教体験には、深浅がある」ことは、決して忘れてはならない自明の事実である、

と、弁栄聖者を学んでいくと、自然とそう思えてきます。

光明主義、弁栄聖者の信奉者であった、数学者の岡潔博士について、
岡潔博士に、光明主義をご教化された田中木叉上人は、

「岡先生は、「智慧光」から入られるでしょう。」

と言われた、と伝えられています。

数学者岡潔博士が、光明主義、弁栄聖者に帰依され、
光明主義形式のお念仏をされ始められ、
心境の深まりと相即するかの如くに、数学上の画期的な発見をされたのは、

この弁栄聖者に開顕された、

相対自然界と絶対心霊界の根本仏、
両界の法則を規定されている大ミオヤの実在


を抜きには、理解することが困難ではないでしょうか。

最後に記しますのは、数学者岡潔博士が感銘を受けられた笹本戒浄上人の甚深なる三昧証入上の至言。


〇「自然数の一を知るためには、無生法忍を得なければならない。(笹本戒浄上人)」(「独創とは何か」『岡潔 日本の心』)

〇「数学は、一とは何かを全く知らないのである。」(岡潔)


※ 「無生法忍」とは、「大自然(物心両面の自然)の理法を悟るという悟りの位」であり、
「相対・絶対両界の根本仏としての報身のいっさいの理法と合一した境界」

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2013-09-01

「あなたは、如来様をあなたを産んで下さった母のように思いますか。(弁栄聖者の熊野宗純上人へのご教化)」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

弁栄聖者の直弟子として、
笹本戒浄上人と、田中木叉上人が、一般には知られていると思いますが、
今回ご紹介します熊野宗純上人は、山口県下の教育界へも影響力があった方で、
天台が専門で、全国光明会連合会の二代目総監。

ちなみに、全国光明会連合会初代総監は、笹本戒浄上人
在団法人光明修養会の三代目上首は、藤本浄本上人

笹本戒浄上人は、心理学者で、弁栄聖者にお逢いになった時には、
既に、禅でいう「見性体験」があったが故に、
他仏を念じる「念仏」への精進に、大変ご苦労をされました。

また、熊野宗純上人藤本浄本上人は、宗教学者でありましたので、
経文上、宗乗上の「学解」には精通されていましたが
弁栄聖者とお逢いになった時には、
「生きた信仰」は、いまだ得られてはいませんでした

熊野宗純上人が、弁栄聖者に初めてお逢いになったのは、
田中木叉上人著の『日本の光(弁栄上人伝)』によりますと、
大正8年の8月、広島県心行寺でとのこと。

熊野上人は、その時の聖者の印象を、

「おかしがたき崇高の人格と、慈悲あふるる温容に接して、
一種いい知れぬ充実味を心の奥底に覚えた」
と。

その時、弁栄聖者は熊野宗純上人に、

(弁栄聖者)「あなたはこれまで如来様を親様と呼んだことがありますか」、

(熊野上人)「はい、いつもそう申しています」。

(弁栄聖者)「それでは、あなたは、如来様をあなたを生んで下さった母のように思いますか」。

(熊野上人)「いいえ、そうは思われません」。

(弁栄聖者)「それではなんにもなりません。真剣に念仏してご覧なさい、きっとそう思われるようになります。」

聖者のこのなんの理屈もない事実そのままの簡単なお言葉を伺った時、

熊野上人は、

「腹をえぐられたように感じ、長い眠りから目ざまされたように感」じた

「今まで熊野上人が名匠碩学について学んだ宗乗も、それは、空なる冷やな知識で、
如来様はガラス戸棚の中のお人形様のように血の気のない冷たいもので、
罪に泣いている者みづからを抱きしめて下さる温い親様とは実感されず
醍醐味のはずの念仏は無味乾燥で、
微妙荘厳のお浄土も架空の空想のように感ぜられてならなかった」が、

この五日間の熱火のごとき提撕によりて、信心喚起し、

聖教に対する一隻眼も開かれて

弁栄聖者を「如来の顕現と仰ぐ」ようになって念仏に精進し、特に

「聖教の文々句々が文字通りうなづけるようになったことも、大なる喜び」で、

ますます仏道のあゆみを進めた。

と、田中木叉上人は、熊野宗純上人の弁栄聖者との邂逅を、感動的に描写されています。


達人の衆生済度には、小難しい屁理屈はなく、
深三昧に証入され、事実を知った者のみが備え得る「威神力」が、
弁栄聖者には、おありであった証左であるように思われます。


この「大御親様」とは、弁栄聖者の真相認識に拠りますと、
事実そのとおりで、

この論理的必然に拠って、

我々衆生は「如来の子」であることになります。

仏眼を開かれた田中木叉上人は、ご自身を、「仏子 木叉」と表記されています。


この「大ミオヤ(大御親)」という表現には、
弁栄聖者の幾つかの深意が込められているようにも思われ、

その一つに、「阿弥陀仏の本願」についての、
聖者の卓見である画期的な解釈があるように思われます。

周知のとおり、「阿弥陀仏の本願」としては、
従来から『無量寿経』中の第十八願が決定的に重要な願と解釈されてきましたが、

弁栄聖者は、その「本願」の深意を三昧直観され、

「親の願いは、我子に、親の宝を授けること」

これも、『法華経』の極めて重要な御教えですが。

南無智慧光仏

如来智慧の光明に
我等が無明は照されて
仏の知見を開示して
如来の真理悟入るれ

(「南無十二光仏」弁栄聖者『如来光明礼拝儀』)


親様である「阿弥陀仏」の本願の内実が、
弁栄聖者にとっても極めて重要な大乗経典である『法華経』に記されています。

「我一大事因縁ヲ以テ世ニ出現セシ所以ハ
一切衆生ヲシテ仏知見ヲ開示悟入セシメンガ為也」
と。

熊野宗純上人には、『念仏より観たる法華経』という書があり、
その書の冒頭に、この経文が引用されています。


上述の、熊野宗純上人の、

「聖教に対する一隻眼も開かれて、
聖教の文々句々が文字通りうなづけるようになったことも、大なる喜び」で、
ますます仏道のあゆみを進めた。


この箇所も極めて重要で、

大乗経典に関する「大乗非仏説」論に対し、

「私もそう思う。
大乗経典とは、三昧定中における大乗仏陀釈尊による直説法である。」


と、弁栄聖者は、喝破されています。

なお、弁栄聖者の『法華経』観につきましては、更に、次のように明記されています。

「法華壽量品に明す所の釈迦の内面此弥陀無量光壽に外ならず。
名に迷ふて真理を失うなかれ。
若し此の理に於て疑ふ如き妄信者は論ずるに足らざるのみ。
又大乗非仏説の如きは今の所論にあらず。」
(弁栄聖者『ミオヤの光 光明の巻』)


なお、弁栄聖者により三昧直観された、
極めて重要な「如来と衆生との関係」の真相は、

如来即ち「大ミオヤ」は、
衆生の「親」であり「根底」、かつ、真実の自己。

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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