2013-08-24

「活きた本尊様をこころのなかにおむかえしなければなりません。」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

このブログの記事を書くにあたり、
記憶の確認のために、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』を読み返すことが度重なるにつれ、

木叉上人がお書きになられた弁栄聖者のこの御伝記が、
「弁栄聖者の人となり」「光明主義の法門」を知るための「必読書」であり、
この書が、これらの観点からも、極めて「秀逸な書」であることを、度々痛感しています。

今回の記事は、
誰でも一度は疑問に思われたことがあろうかと思われることの弁栄聖者のご解答です。


本尊さま

一婦人が「念仏申していますけれども、心が変わりませぬで困っております」
と訴うるのをきかれて、

上人「それでは本尊さんはもっていますか」。

信者「ハイ、先年少々お金を奮発して立派な本尊様も、仏壇も買い入れまして」。

上人「そんな本尊さんを本尊さんと思ってるから、ご利益がないのです。
   活きた本尊様をこころのなかにおむかえしなければなりません。」

懇々と念仏三昧の法をおさとしになった。
その後に会ったときはその婦人お蔭さまでかくかくと喜び謝するので、

上人「昨日まで鬼の住みにし胸殿も今日は弥陀尊の御堂とぞなる」。


弁栄聖者には、かくの如く、一面、「迷信を厳しく排された」ところがありました。


「教主(おしえぬし)世尊が六根常に清らかに
光顔(みかお)永(とこ)しなえに麗わしく在(いま)ししは
内霊応(うちれいおう)に充(みち)給いければなり」

(弁栄聖者作『如来光明礼拝儀』の一部)

弁栄聖者が、ご遷化まで一貫されたご信仰の真髄は、
聖者が真相直観されました「釈尊の内実」であった、この

「霊応身」のご勧請

であったと、

弁栄聖者を長年学ぶにつれ、この確信は、益々深まっています。
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2013-08-11

「位牌を拝みますか。それはまちがっていましょう。位牌を拝むのではなく、位牌の霊を如来様にお救い下さいとお願いするのです。」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

お盆ですので、今回は、「回向」について。

回向について、回向の在り方については、
真実説、想像説、願望説などと思われるものが混在し、
私達には、判別困難であるように思われます。

「死んだらそれまで、死後の世界など人間の空想事なので、
死者への回向などは、そもそも無意味である。」

といった考え方は極端ですが、
現代人の特徴的な思考の一形態かとも思われます。

そこまで極端ではなくとも、

「回向」とは?

と正面から問われ、
確信、実感を持って返答できる方は、少ないかもしれません。

「確信、実感を持って」とは、
お経、本にこう書いてあるからとか、ご説法でこう聞いたからとか、
といった類のものではありません。

死後のこと、輪廻のことは、
仏教では、五眼のうち、天眼でも認識できると言われています。

大宇宙の真相を認識できる「仏眼」が開かれていたといわれています、
弁栄聖者笹本戒浄上人田中木叉上人の仰っていることを主に、
拝聴したいと思います。

「回向の前提には、空と、衆生の根底が大ミオヤであることに依る。」


「回向」を原理的に考察する場合には、
この二つの捉え方が、不可欠かと思われます。

「自他対立」が宿命ずけられている私達の日常意識の在り方からは、
「回向」の考え方は、出てこない
かと思われます。

つまり、「自業自得」、「自作自受」の観念からは、
「回向」は、そもそも不可能
です。

「回向」によって「成仏する」という説が流布していますが、
そうではないようです。

ただ、そもそも「成仏」の定義に根本的な相違がありますが・・・

弁栄聖者作『如来光明礼拝儀』「如来光明歎徳章」は、
主として『無量寿経』からの引用ですが、
その中に、

「若三途勤苦の処にありて
此の光明を見たてまつらば
皆休息を得て亦苦悩なく
寿命の後皆解脱を蒙らん」


と記されています。

笹本戒浄上人の著作には、「自作自受」がよく説かれていますが、
戒浄上人の「自」の捉え方に注意を要する、と私は常々考えています。

「回向」の効き方(届き方)についての、戒浄上人のご説明は明快です。

「他人の「回向」によって、その方が成仏することはできない。
ただし、その「回向」によって、「回向」を受けた方に「仏縁」が生じ、
その人自らが「成仏」へと歩み始めるのである。」


といった主旨をご指摘されています。

また、戒浄上人のお弟子であった杉田善孝上人も同様なことを言われています。

「三途勤苦の処にある者が、回向を受けた場合、
その回向によって、苦悩が一時止むのであって、
そのことによって、成仏するのではない」と。


私達の、亡くなった方への「回向」の仕方について、
弁栄聖者は、

「位牌を拝みますか。それはまちがっていましょう。
位牌を拝むのではなく、
位牌の霊を如来様にお救い下さいとお願いするのです。」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

このように一心にご回向しますと、

「若三途勤苦の処にありて此の光明を見たてまつらば」
(弁栄聖者作『如来光明礼拝儀』「如来光明歎徳章」)


と、私たちの一心の憶いが如来様に通じ、
如来様からの光明が届くと、お経にも記されています。

ただし、弁栄聖者のようなご境界の方は、如来様と一体ですから、
ご回向の仕方は、私達とは違ってくるかと思われますが・・・

また、弁栄聖者は、

「亡くなった者への回向は、
監獄に入ったものへの差し入れのようなものだ。
現存者への回向の方がはるかに効果がある」とも。


「現存者への回向」という考え方を初めて知った時は、驚きましたが、
少し考え、ありうることかもしれないと思いました。

田中木叉上人は、亡くなった方からの回向について、

「先立った導師方が回向していて下さる。
お浄土からの回向はたしかに有るものだ。
信じなさい。あてにしなさい。気強く思いなさい。
あまりにもマザマザとした事実が有るのですよ。」

(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)と。

更には、亡くなった方から、亡くなった方への回向についても、
田中木叉上人は、ご指摘されたことがあったと、
近著、 河波定昌博士講義録『あなたの心はなくなりてー空外上人を偲んでー』に記されています。

お恥ずかしいことに、この事実は、盲点でした。

なお、この河波定昌博士講義録『あなたの心はなくなりてー空外上人を偲んでー』は、
山本空外上人の十三回忌の記念の書ですが、
興味深いことには本書には、
河波定昌博士のもう一人の師でもあった田中木叉上人の話が多く出てきます。

また、「空の現象学」を生きられた空外上人には、
不思議なことに、ほとんど強調されない「見仏」について、
弁栄聖者の最大の特徴でもある「光の現象学」(見仏)に関連して、
田中木叉上人が多く引用されているようにも思われ、
河波定昌博士の思想的背景をうかがい知るためにも、
本書は、とても興味深かったです。

ここまで、「回向」について考察してきまして、
今更ながら、気づいたことがありました。

そもそも、「生」と「死」を二元的に分けて考えている、
私達の通常の思考そのものが、真相を捉えていない
のかもしれません。

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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