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2013-07-21

「目覚めている人が生まれてきた例を挙げると、釈尊・聖徳太子・山崎弁栄上人・籠島咲子さん。ここで目覚めた人の例を挙げると、行基菩薩・法然上人・道元禅師・笹本戒浄上人(光明主義)。」岡潔著『神々の花園』)


「数学者 岡潔」に関心を寄せる方が、最近増えてきているようで、
大変喜ばしいことですが、
さらには、岡潔氏が終生尊崇の念を寄せた光明主義の会祖「山崎弁栄聖者」を、
是非、知っていただきたいと念願しています。

「数学者 岡潔」は、小林秀雄氏との対談『人間の建設』で一躍世に知られるようになったと思いますが、
『春宵十話』は、岡潔氏の思想を知る入門編としては最適の書かもしれません。

ところで、岡潔氏の思想には変遷があるとは、
「岡潔研究者」として知られる高瀬正仁氏、在野の研究者横山賢二氏が指摘されています。

一般に入手可能な、といいますのも、岡潔氏の著作活動は、
1969年刊行の講談社現代新書『曙』、『神々の花園』(両書とも現在品切れ)
をもって、表舞台のマスコミから姿を消します。

最晩年の約十年間は、京都産業大学で「日本民族」の講義と、
一般には知られていない『春雨の曲』の執筆に専念されたようです。

特に『春雨の曲』は、「思想家 岡潔」最晩年の書で、
全生命をこの書にかけられたようで、
推敲八回にも及んだようで、この書が絶筆。

1969年刊行の講談社現代新書『曙』、『神々の花園』でも、
十分、不思議な感覚を覚えますが、
横山氏の研究によりますと、これでも、まだ、道半ばのようです。


前書きが長くなりましたが、本題に入ります。

「目覚めている人が生まれてきた例を挙げると、
釈尊・聖徳太子・山崎弁栄上人・籠島咲子さん。
ここで目覚めた人の例を挙げると、
行基菩薩・法然上人・道元禅師・笹本戒浄上人(光明主義)。」


と、岡潔氏は、『神々の花園』に記しています。

もちろん、岡潔氏は、宗教学の専門家ではないので、
岡潔氏の発言、特に晩年の発言には、疑義を生じさせる箇所が多くなりますが、
岡潔氏の発言には、素通りできない、何か引き付けられる魅力があります。

籠島咲子さんは、弁栄聖者ご遷化の地、新潟柏崎、極楽寺の奥様で、
弁栄聖者と心霊界の因縁が大変深かった方のようで、
聖者は、咲子夫人を、「いもうと」と呼んでいました。(山本空外編『弁栄上人書簡集』)

岡潔氏は、同書の他の箇所で、

「法眼と仏眼との違いは、
仏眼を如来に開いていただくためには
思慕の情が生きようとする盲目的意志よりも強くなっていなければならないのであるが、
法眼ならばそれほどでなくてもよいのである。」と。


この箇所は、大変示唆に富んでいると思われます。

さらに、

籠島咲子さんは光明主義のお念仏によって仏眼を開いた(目覚めた)
しかし光明主義のお念仏の内容は、如来に対する思慕の情の強さである
こればかりは長い時間をかけなければえられないのである。
(初めて如来を思慕し始めてから、八百年ぐらいはかかると思ってほしい。)
咲子さんがごく短時間で修行を成就されたのは、
初めから思慕の情を持って生まれて来たのである。
つまりこの人は初めから目覚めていたのである。
弁栄上人は実演して見せるために、この人を帯同して生まれてきたのである。」

「八百年」という数字は、字義どおりに受け取らない方がいいとも思われますが、

「如来思慕の情」を持つこと、しかも、
「思慕の情が生きようとする盲目的意志よりも強くなっていなければならない」

岡潔氏の発言には、何気ない表現でありながら、実に鋭い指摘が散見されますが、
この箇所は、まさにそのような内容であるように思われます。

これは、実際に体験されますと、
痛いほど実感されてくるように思われます。

「盲目的意志」とは、
不思議と、無始から衆生に備わっている「無明」のことですが、
この「無明」が、実に曲者で、この上なく手強い。

「如来思慕の情」の憶いに、「無明」が障礙となる事情は、枚挙にいとまがないほどです。

「如来思慕の情」が、「生きようとする盲目的意志よりも強くなる」

このことを、「仏眼」を得るための条件として挙げれた、岡潔氏の慧眼に敬服いたします。


岡潔氏は、弁栄聖者の直弟子の一人笹本戒浄上人も大変評価されていたのですが、

その戒浄上人に対して、同書で、

「笹本戒浄上人も弁栄上人に教えられて仏眼を開いている。
この人はこの世で初めて開いたのである。
しかし過ぎし世々でずいぶん準備はしてあったということはわかる。」


と評されており、戒浄上人を尊敬する私にはこの指摘も大変興味深いです。

戒浄上人の次の逸話も、この岡潔氏の指摘を裏付ける証左となるかと思われます。

弁栄聖者のご指導を受けられた後、念仏修行に精進されていた時のこと、

持病の高血圧が発覚(あるいは悪化)した時、
自分が亡くなった後の子供のことが、ふと気になったことがあった、
その念がふと頭に過った直後、如来様に深く懺悔されたとのこと。


この深い懺悔は、通常、なかなか起こらないかと思われます。

この逸話に関して、戒浄上人の弟子であった杉田善孝上人は、

「ただし、最晩年の戒浄上人には、その種の念は、もはや起こらなくなりました。」

と。

この笹本戒浄上人の逸話は、
「仏眼」の境界の甚深さ
と、「生きんとする盲目的意志」を持った衆生の無始の「無明」の底知れぬ暗闇を、
物語っているように思われます。


弁栄聖者が示された奇蹟の意義について、
岡潔氏が『神々の花園』に簡潔に記されていますので、
それを最後に記したいと思います。

なお、聖者の奇跡の幾つかは、 田中木叉上人『日本の光(弁栄上人伝)』にも記されています。

「人々が自然界と思っているものは如来の光明の現われである。
それに法則があるのは、自然界の実体が法身如来だからである。
しかしもともと如来だから、絶対無規定である。
まれな例外の場合を除外すれば、という条件の下に、法則があるのである。
いい換えると物質現象は如来の同意なしには成立しないのである。
神々は弁栄上人を人の世に送って、それを実証して見せてくださったのである。
自然科学の発達とともに、人類はだんだんと奇跡を信じる力を失ってきたからである。」


岡潔氏のこの内容を、突拍子のない荒唐無稽の内容だと思われる方があるかもしれません。

そのように思われる方には、

「自然現象を徹底的に観察され、熟考されること」と、

岡潔氏ご推奨の、 弁栄聖者著『無辺光』を読まれることをお勧めいたします。
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テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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