2013-06-29

「冥機冥応・冥機顕応・顕機顕応・顕機冥応(天台大師)」と「すべてを大ミオヤに御任せ申上げて 常に大ミオヤを念じ・・・(弁栄聖者の大谷仙界上人への御慈悲のたより)」

「光明会の人で、中途でやめる人が大勢居る。
それは、見仏三昧の得られない人が、だまされたように思い、
なかなか薬の広告のようには行かん、というのでやめるらしい。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)


信仰上の深まり、霊性上のお育ては、人それぞれで、
しかも、特に初歩のうちは、
科学や一般的な学習成果等のように、因果関係が分かりにくいことが、
大きな要因かと思われます。

「冥機冥応・冥機顕応・顕機顕応・顕機冥応」

とは、天台大師の言葉として知られています。

「冥機冥応」の状態期を、
いかに「信」を失わずに乗り切れるか

が、信仰に入ったものの大きな課題かと思われます。

弁栄聖者御在世中には、
出家、在家を問わず、深いお悟りを得た方が多かったようです。

もちろん、聖者の出現とともに、
機根の良かった方が多くお生まれになったこともあろうかと思いますが、

弁栄聖者に直に見えたことが決定的に大きかったかと思われます。

「疑い」という障礙を乗り越えるためには、
「理想(モデル)」とすべき「生きたその体現者との出会い」が、
決定的な契機となるように思われます。


もちろん、「冥機冥応」とはいえ、
本人は気づかないまでも、如来との「感応道交」はあるので、
何らかの変化は起きているものです。

したがって、弁栄聖者の大谷仙界上人への御慈悲のたより

「すべてを大ミオヤに御任せ申上げて
常に大ミオヤを念じ
大ミオヤはいつも離れずあなたの真正面に在まして
慈悲の面をむけて母の子をおもふごとくまします・・・」


の信念をいだき、
大ミオヤ様を念じ(縁じ)続けることができるかが、
アルファでありオメガであるように思われます。

「見仏三昧」とは、「顕機顕応」で、
そこまでお育てを蒙れば、もはや疑いは晴れますが、
そこまで至らなくても、
お育てを感じられることはあり、
その点を実感することも、信仰上、重要かと思われます。

「感覚・知・情・意」と「縁」に変化が起こってくるようです。

弁栄聖者は、「現世利益」を強調なさいませんでしたが、
そのことは、それらを否定したわけでは勿論なく、
あくまでも、念仏の究極目的を「霊格の形成」に置かれていたゆえ。

その宗教が「現世利益」をどう捉えているかは、
とても重要な観点かと思います。

弁栄聖者の直弟子の中で、「現世利益」を強調された方は、
田中木叉上人であったように思います。

木叉上人は、如来の光明による霊化の働きを、実生活と結び付けて説かれました。

「如来の光明は、
「心、体、運命(縁)、魂、霊性」に働き、霊化する」
と。

木叉上人がここで、
如来の光明の「体」への霊化について触れていることは大変興味深い点で、
弁栄聖者は、十二光の「清浄光」
(『弁栄聖者光明体系 炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光』)に、
詳述されています。

「現世利益」について、田中木叉上人は、

「如来様の護念は、本当にあるのですよ。」

と実感を込めて説かれています。

如来光明による「転重軽受」も説かれました。

ここで留意すべき点は、
「転重軽受」は、私たちが気が付かない内にも起こっているかもしれないという点です。

ただし、宗教によって、災難、病気などが全てなくなるのはない、
と念を押されてもいます。 

「わざわいをのがしたまへと祈らざれ たゆる力ぞあらまほしけれ」

と弁栄聖者は詠われていますが、この心がけも大切だと思います。

お念仏をしていると「ふと気が付く」ことがあり、
それにより、災難から助かることがあるとは、
田中木叉上人の御指摘です。

私たちの生活は、意識するか否かに関わらず、「縁」とその「選択」の連続であり、

その「縁」と「選択」に、
如来様の「護念」が働いていることがある
ように思われます。

また、如来様の「護念」の働きを考える場合、

明らかな奇蹟的偶然によって、災難から救われた場合などは、
「神の御加護」を感じる方は多いかと思いますが、

自分が知らない時、場所で、
災いから逃れていることがあるかもしれない、と思われる点です。

「すやすやと眠る幼子。
その布団をかけ直す親心。」


私は気付いていなくとも、
そんな如来様の「護念」が、きっとあるに違いない。

ふと、そんなことを感じ、思わず合掌したくなる時が、あります。

「見仏三昧」は、「霊格形成」に不可欠ですが、
それが(なかなか)得られないからといって、
「念仏」から離れてしまうことは、あまりにもったいないように思われます。

「神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難」(『無量寿経』)

「斯の光に遭うものは、三垢消滅し身意柔軟に、歓喜踊躍して善心生ぜん。」
(『無量寿経』)
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2013-06-16

「大体「見仏三昧」というのが生意気の言葉です。」(冨川茂筆記 『田中木叉上人 御法話聴書』)(注)田中木叉上人とは、『弁栄聖者光明体系』の編纂に、御生涯を捧げられた方。


冨川茂氏と重住茂氏筆記『田中木叉上人 御法話聴書』は、
まさに奇書で、こんな本をよくぞ残して下さったと、
感謝にたえません。

ところが、この御法話集には、時々ドキッとする言葉に出遭います。

今回ご紹介する御法話も、そんな言葉の一つです。

「見仏三昧」とは、
弁栄聖者がこの顕正のために、この世にお生まれになった、
と言っても過言ではないほどの最重要事です。

したがいまして、この木叉上人の言葉を字義どおりに受け取りますと、
手痛い火傷を負う危険があるように思われます。

しかしまた同時に、極めて重要なご指南ともなっているようにも思われます。

「見仏」という言葉に、抵抗を覚える方、
また、「仏を見る」ことが果してそんなに重要なことなのか、
と疑問を覚える方、ピンとこない方がいらっしゃるのは、むしろ、当然かと思われます。

「見仏」の「見」とは、別の表現では、「遇」と表現され、「値遇仏」と。

現代の私達の生活は、視覚優位となっていますので、
「見」という言葉から直ぐに、視覚系の事柄を連想する傾向があると思われます。

ところが、「見仏」とは、視覚系の仏を「見る」ことだけに限定されず、
五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)及び意識をも包超する事象です。

まず、この認識が大切かと思います。

次に、「仏眼を開かれた」田中木叉上人が、

「見仏三昧」という表現をそもそも「生意気の言葉」です。

と言われた真意の解明です。

ここでも、「見仏」という表現に注意する必要があります。

「見る」とは、「私」がある「対象」を「見る」こと。

この私達の肉眼による常識が、誤解を生ぜしめるそもそもの元凶なのです。

ドイツ神秘主義を代表するマイスターエックハルトは、

「私が神を見る眼は、神が私を見る眼と同じである」

と言っているようです。

「見仏というからおかしい。
お遇い申す(値遇仏)その親様が、アナタの方から現れて下さる。」


この田中木叉上人の御法話は、さりげない表現ですが、
仏教、いや、宗教上、極めて重要なご指摘かと思われます。

弁栄聖者は、『般舟三昧経』をことのほか、最重要視されました。

「仏の威神力を持ち、仏の三昧力を持ち、本功徳力を持つ。
この三事を用うるが故に仏を見ることを得。」
と。

ここで、重要なことは、

私の「空」化が、前提となっており、
「三昧」の成就「見仏」不可分の事象であり、
それらが、仏(神)の働きに依っている、という点です。

「見仏三昧」を、私の行に拠って、私が三昧を開くと捉えていたとしたら、
それは、曲解も甚だしく、
田中木叉上人が痛烈に批判されたとおり、
そもそも「生意気」な態度そのもの。

「見仏」は、五眼での法眼と仏眼に依り認識可能と言われていますが、
法眼では、法界の真相の全面認識は不可能
如来からの「他受用」の状態で、
しかも、「慢心の元」が断たれていない状態

法眼と言われる極めて高い境涯にも、「退転の危険」があるというのです。

弁栄聖者、笹本戒浄上人、田中木叉上人など、仏眼を体得さた仏、大菩薩は、

体験上から、「見仏三昧」の深浅を詳らかに認識され、正確に判釈され、

「見仏三昧」に依る終局目的である「霊格の形成」を目指されました。

「「聖意(みむね)の現われを祈る」これが弁栄聖者が特に教えて下され、
我々が挙々服膺(けんけんふくよう)しなければいかん事である。」
(冨川茂筆記 『田中木叉上人 御法話聴書』)



最後に、一言。

「指方立相」は、凡夫へのご指南と言われてきていますが、
弁栄聖者ご指南の「三昧仏様」を拝む「念仏三昧」を、
従来どおりに理解すると、誤ります。

「念仏三昧」とは、凡夫、声聞、縁覚、菩薩、仏を問わず、
成仏に不可欠な修行法
というのが、
弁栄聖者が認識された法界の真相

その根拠は、仏身論に依ります

弁栄聖者は、三身四智の仏眼の御境涯から、
「成仏の在り方」を、次のように詠われています。

「人仏牟尼は一向(ひたすら)に 本仏弥陀を憶念し
 本仏弥陀の霊徳は 牟尼の身意に顕現す
 入我我入は神秘にて 三密正に冥合し
 甚深不思議の感応は 是れ斯教の秘奥なり」
(弁栄聖者「仏々相念の讃」の一部)

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2013-06-09

「無辺光に法身の四大智慧と報身の智慧との両方面あり。法身の四智は天則秩序の理性として自然の一切万法に徧く互れる理性である。四大智慧は一大観念態と一大理性と一切認識の本源と一切感覚の本源とである。」(『弁栄聖者光明体系 無辺光』)

 『弁栄聖者光明体系 無辺光』は、
田中木叉上人ご編纂の聖者の御遺稿集の中でも、難解の書ですが、
弁栄聖者の宗教哲学、思想に関心のある方は勿論、
大宇宙、自然現象、人間に関心のある方には、
是非、この書を読んでいただきたいと思います。

数学者の岡潔博士は、

「大自然(自然界と心霊界の両面)の謎を解く鍵は、
この『無辺光』をおいて他に知らない。」


と、この『無辺光』を非常に高く評価しています。

「岡潔の思想」に関心のある方には、必読書で、
この『無辺光』の本質を理解できなければ、
「岡潔の思想」の本質的な核が理解できていないことになる

といった類の書でもあります。

前置きは、このくらいにしまして、本題に入ります。

弁栄聖者は、「無辺光(四大智慧)」を、

「個人の心理の観念と理性と認識と感覚の四分類に例すべきもの」とし、

「この四智が万物に内存して自然界の主観客観の本源となる。
また万有を生成する統一摂理の本源と為る。
また因縁相成し陰陽交感の造化の妙用の本源と為る。
また感覚作用たる客観の色声香味触の相と為る。
此の四智が自然界の一切の万象の根元と為る。」

と、科学の「不問の前提」となっている根本原理を説明され、

「また一切衆生の知覚も運動も悉く如来四智の万物内存からして、
吾人の感覚等と為り乃至一切の心の作用の相象を現はせるものである。
法身の四大智が万物に存在しておるから
人類の精神作用も其れが分に応じて顕現した
のである。」

と、人間における感覚精神作用の根元を説明されています。

これらの自然現象は、

「悉くこの法身の四大智の分類現象である」と。

「更に進みて如来の自境界なる仏智の光明界に帰趣させん為には
報身仏の四大智慧の光明を以て衆生の四智を開発させて、
如来の自境界の中に摂めて一切の真理を覚らしむ。」と。


「科学と宗教とは、矛盾する」

とは、一般に流布されている誤解

矛盾ではなく、対象が異なるだけです。

科学は、如来(大ミオヤ)の一面である「法身」四大智慧の一部を対象とし、
宗教は、如来(大ミオヤ)の一面である「報身」四大智慧に依る衆生四智の開発

「光明主義は一切の宗教、一切の学問を包むと同時に、
これらを超越した真実の宗教である。」(笹本戒浄上人)


と言明する所以で、これは、

「光明主義が、弁栄聖者の三身四智の仏眼に依るご境涯からの御教えゆえ」


教学上の説明は、なかなか難解かと思われますが、
この如来無辺光、四大智慧(大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を、
弁栄聖者は、「如来光明讃の頌」に詠われています。

「無辺光(相大)

絶対観より主観為し 個体は衆生の阿頼耶なり
十方三世の色心は  如来の鏡智に炳現す

一大理系の枝葉なる   個人の自治を末那となす
如来は全てを自我として 平等性智にて統る

体用相即相入の   識智は一即一切の
重々無尽の交渉に  知見を与うは妙智なり

五識五塵は業識の  衆生の所感は異なれど
仏慧の勝妙五塵をば 成所作智の作用なり」



これまで何回かに渡り、主に、弁栄聖者の如来四大智慧の発露
特に如来「大円鏡智」に依る奇蹟の逸話をご紹介してきましたが、
ふと、こんなことを思い付きました。

昔から云い伝えられてきて、現代人にはお伽噺としてしか思われない
「閻魔大王」とは、如来「大円鏡智」の一面を象徴的に捉えている、
と考えると理解できるように思われます。

弁栄聖者が解かれた『無辺光』には、

宗教、哲学は言うに及ばず、
自然科学、医学、心理学、教育などなど・・・
「学問的な発見の種」が種々播かれているように思われます。

参考文献:『光明主義玄義(ワイド増訂版) 仏陀禅那弁栄聖者著』光明会本部聖堂発行

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2013-06-01

「乱れざる 一心凝りて 感性も理性も眠り 光る霊性」(田中木叉上人『じひの華つみうた』)(注 田中木叉(もくしゃ)上人とは、『弁栄聖者光明体系』の御遺稿集の編算に御一生を奉られた方で、聖者ご遷化後、仏眼が開かれた大菩薩。)

弁栄聖者の直弟子の中でも、木叉上人の文才は、抜きん出ておられるように思われます。

他にも、大谷仙界上人、中川察道上人なども、詩才があられたようです。


数学者の岡潔博士は、

「解説書は、その本人が書いたものに限る」

との持論をお持ちでした。

弁栄聖者の逸話に伝え聞くご指南、ご説法は、
大変分かり易く、腑に落ちることが多いように思われます。

そのことは、聖者が、甚深なる三昧証入者であることの、
何よりの証左であるようにも思われます。

ある時のご法話で、
弁栄聖者の直弟子笹本戒浄上人の直弟子であった杉田善孝上人は、

「弁栄聖者の文章は達人の文章。
解って分からん、という書き方となっている」と。


全く解らないと本を読む気が失せますが、
本当には分ってはいないので、分かったつもりになっては困る。
もっと始末に困るのは、分かった者として、そのことを吹聴し、
周囲の者を惑わせる者が出てくることでありましょう。


弁栄聖者に、こんなご説法があったように記憶しています。

「この『肉眼』で、宇宙の果てまで行っても、
やはり、そこはこの自然界だ。極楽などない。」


田中木叉上人は、

「十万億土」の「ど」とは、「次元」のこと、
「度」でもあり、周波数を合わせると認識できる
、とも。


記憶によりますこと、ご了承願います。

ある時のこと、弁栄聖者が「如来様が如来様が・・・」と、
如来様を真正面に拝んでおられるご様子をご覧になっていた鈴木憲栄上人は、
ふと、「これは、幻ではなかろうか」との疑念が一瞬過った刹那

聖者は、「いいえ、幻覚ではありませんよ。
如来様とこの自然界が両方とも見えていれば、幻覚ともいえるかもしれませんが、
如来様が拝まれている時には、この自然界は見えておりません。」
と。

蛇足になりますが、
「三昧定中」において、自然界は消えて無くなるのはなく、「隠没」する
したがって、三昧状態がとけると、自然界が再び現れてくる、と。

この弁栄聖者のご指摘には、大変感服いたしました。

また、如来の光明は、大自然界(自然界と心霊界の両界)に働いるが、その働き方は異なる。
自然界は間接的顕現心霊界(お浄土)は直接顕現、とのこと。


甚深なる三昧証入のお一人であった田中木叉上人も同様、

「乱れざる 一心凝りて 感性も理性も眠り 光る霊性」
(「じひの華つみうた」『光明歌集』)


と詠んでおられます。

このお歌の解説とも思われる田中木叉上人の秀逸なご法話があります。

「三昧は、「精神集中した」との形容詞と考えずに「集中しようとする」動詞と考えよ。
どこまでも不断の精進が大切である。」

「一心になれなくともよい。
一心になろうなろうとして、他の人の心を排斥して、
如来様に心を移す事をしていると、至誠天に通じて、先ず知覚神経が無くなる。
次に脳髄の働きが日が暮れるように薄れる。
天性と理性が皆働かなくなるので一時は暗くなるが、
暗くなってしまったところに霊性が燦爛として輝き出る。」

と、冨川茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』
に記されています。

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syou_en

Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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