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2013-04-28

「十方三世の色心(しきしん)は 如来の鏡智に炳現(へいげん)す」(弁栄聖者「大円鏡智」)

阪神淡路大震災の教訓が生かされ、
東日本大震災直後から、「こころのケア」に早くから取り組まれたようです。

しかし、特に、今回のように津波で多くの方がなくなった場合、
その事態に遭遇している時間も長く、行方不明者も多く、
遺された者のダメージは、更に深刻度を増すように思われます。

今回の震災においては、
「臨床宗教師」の働きが注目されていると聞いたことがありますが、
東北の地域性(例えば、「柳田国男の民俗学」)の他に、
今回の震災の深刻さを物語っているようにも思われます。

「あの世」の話しは、
心理学の領分を超えてしまうからですが、
今回の震災は、特に、現代人の盲点、思想上の弱点でもある、
この「死生観」を、鋭く突き付けてくるように思われます。

今だに幽霊が彷徨っている被災地があるという話を聞いたことがあります。

震災後、早くから、この点に警鐘を鳴らし続けて来た一人が、
評論家の若松英輔氏で、
彼の「死者論」が、今注目されています。

また、今回の震災においては、
「傾聴」が注目されていると聞きます。

示唆に富む現象としては、
真に「傾聴」される経験をして、
初めて涙を流して悲しめ、
幾分癒される経験をすることができた
、というのです。

私たちができうることは、「傾聴」がせいぜい精一杯ではないでしょうか。

そんな折り、ふと、弁栄聖者のエピソードを思い出しました。
確か、杉田善孝上人の御法話であったかと思います。

生前、善人ではありましたが、
念仏はしなかった母親を亡くされたある信者。

母親の死後のことが気になって仕方がなかった、
そんなある日の夢に、母親が出てきたので、

「極楽へ往けましたか?」と尋ねると、

仏様のお導きによって、
極楽ではなく、天の国に生まれさせていただくことができた。
ところが、そこには、如来様がいらっしゃらないと、
寂しそうに答えられたそうです。

この夢の真相を確かめるべく、弁栄聖者にお尋ねすると、

聖者は、ちょっとしばらく、「じっーと考えているご様子」であったが、

「お母さんは、天の国に生まれさせていただくことができた。
しかし、その夢に現われたのはお母さん本人ではなく、
あなたがあまりに心配しているので、
如来様が(お母さんの姿をもって)お会い下ったのでしょう。」と。

この点に関して、
杉田善孝上人は、弁栄聖者が「大円鏡智」によってご覧になった、と。

夢を素朴に信じている方ならば、
「あなたが心配していたから、
お母さんが夢に出てきてくれたのでしょう」と言われるか、

また、精神分析学の知識が多少ある方なら、
「夢に出てきたお母さんは、
あなた自身の無意識の象徴です」
と解釈されるかもしれません。

ところが、弁栄聖者は、そのどちらでもありませんでした。

ここで、興味深いのは、

「善人」であったが、「念仏していなかった」母親が、
死後に生まれたのが、「天の国」であって、「極楽浄土」ではなかった点と、

聖者が、「ちょっとしばらく、じっーと考えているご様子であった」という点です。

前者については、この点も極めて重要なことと思われますので、
後日、記事にしたいと思います。

「念仏」とは、「仏を念(縁)じること」で、
ここでいう、「仏」とは、「絶対者」の云いで、
一般には「神」と言い表されている含意も含んでいると思います。
この点だけを、今は、強調しておきたいと思います。

後者については、
数学者の岡潔博士は、ご自身の数学の研究上から、
弁栄聖者のある言葉に注目していました。

「心的内容の次第に明瞭に現るるが注意なり。」(辨栄上人)

「注意」とは、「意を注ぐ」の意

「数学者 岡潔文庫」にあります、
「岡潔先生遺稿集」第7集の「岡先生の言葉 西野利雄」6/10に記されています。

この言葉と同様、極めて重要な言葉として、
以前記事にしました
笹本戒浄上人の懇切丁寧で、とても有り難く貴重なご指南を再掲します。

「仏の完全な大円鏡智は、特別に意志を働かさなくても、
肉眼といつも同一時に活動している。
認識的一切智を実現していられる仏は
大円鏡智で宇宙の一切を任運自在に感じていられる。

ただし、「宇宙の一切のこと」と申しても、それは、

成仏の中心道を直進する上で核心となり急所となるもの、
自行化他の道において尊く価値のあるもの、
一切の衆生を中心道に導く対機説法で有効適切なもの、
お互いの心を明るく清く楽しく豊かにするもの。

もしも、そのような意義深いもの以外のものまでも朗々と感じているのであれば、
それは、真実の仏の円満な認識的一切智ではない」
と。
( 『笹本戒浄上人伝』)

弁栄聖者の御遺稿集の内でも、難解として知られる『無辺光』ですが、

聖者にとっては、
それは、難解な仏教哲学や仏教思想ではなく、生きた智慧の働きでした。

「一大観念には、過去も未来も現在の観念の内面に存在して、
外観は常恒に現在のみなり。
内面より発現するが故に三世を当念に収む。
常然現在の同時態なり。
但に同時態のみにあらず、意識感覚的形式を脱して直観なり。」

(「大円鏡智」『弁栄聖者光明体系 無辺光』)
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2013-04-20

「汚点瓔珞(ようらく)」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

弁栄聖者の伝記、想い出話しには、
いつまでも記憶に残り、しかも、とても示唆に富む逸話が多く、

「応身仏」釈尊の実像を、弁栄聖者を通すと具体的に思い描き易くなるように思われます。

弁栄聖者は、仏画、書などを、よく結縁に利用されておられたようで、
現在でも御真筆を展覧会などでも見ることができます。

聖者の遺墨集として代表的なものとしては、
聖者六十回忌記念として出版された、
山本空外編『弁栄上人御遺墨集』(1980(昭和55)年、光明修養会版)。

最近、病身のご住職悲願の私家版として発行されたのが、
本泉寺発行の『弁栄聖者御遺墨画』

展覧会記念の図録としては、『山崎弁栄図録』(2010年、長良川画廊発行)は、
質、内容、価格等の面からみても、近年稀にみる「弁栄聖者遺墨集」の傑作。

その他にも、「弁栄聖者遺墨集」は出ていますが、
そのほとんどが入手困難で、しかも高額の値が付いていることが多いので、
現在入手可能なもので、私が存じ上げているものをご紹介します。

『弁栄上人90回忌記念遺墨画展 出展作品集』(弁栄上人讃仰会発行)

『如来光明・念仏の聖 「山崎 弁栄」』(2008年、柏崎市立博物館特別展パンフレット)

田中木叉上人編纂「弁栄聖者の御遺稿集」は、弁栄聖者を知る必読書ですが、
数々の御遺墨書、遺墨画なども、弁栄聖者を知る得難い機縁になろうかと思われます。


前置きが長くなりましたが、今回の本題に入ります。

今回取り上げます、聖者の逸話、「汚点瓔珞(ようらく)」は、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に記されています。

弁栄聖者が結縁のために遺された数々の遺品は、
全ての仏画が、全て聖者の手のみになるものとは限らないようです。

「成仏するためには、なんでもできなければなりませんよ」

と聖者は言われ、侍者たちに、仏画を描く手伝いをさせることも多かったようです。

「ある日のこと、ご染筆中の観音様に、お手伝いを命ぜられた一女子、
こわごわ筆に墨を含ませて、おさしずの所に筆をはこぶ途端、

さ、失敗、ポタリ黒墨をおかきかけの観音様のご尊体の上に落した

青くなって泣かんばかりにしていると、お筆を一寸やめて、
こちららをお向きになり、これを気づかるるや、

なんとも仰しゃらず、やめた筆をこちらにはこんで、
落ちた墨の斑点の所を、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えながらお筆を使われていたが、
見る見るその墨の汚点は、吹き傾けられた瓔珞となって見事にでき上った
。」

「大悲の如来に統摂されるる物みなが、人の身の上の嘆きさえ、
よきえよきえに帰趣するすがたを、この無言のご説法で示して下さるるように。」


と、この日常の一つの出来事を、田中木叉上人は見事にえがかれておられます。

一般に、人の噂話、人物評、作品の批評などは、
そのものを「的確に批評している」ことは稀で、
むしろ、
その批評をする者の、「鑑識眼」、「人間観」、「人生観」などを、
計らずも露呈していまうことが多いように見受けられます。


今回のような「文章の引用」にしても、同様で、
HPに一般に公開する行為は、ある意味、恥かしいことでもあります。

田中木叉上人がお残しになって下さった、
弁栄聖者の逸話「汚点瓔珞(ようらく)」

書の達人としても、知る人ぞ知る山本空外上人という方がおられました。

空外上人は、惜しくも、弁栄聖者にお逢いになることはできなかったのですが、
あるいはそのためもあってか、あるいは、空外上人の個性によるものか、
聖者の直弟子達とはまた違った「独自の境地を展開された」ようにも思われます。

弁栄聖者は、「大ミオヤへの愛」への発露でもある「憶念口称念仏」を核に、
「霊格の形成」を説かれ、全分度生の御生涯を


山本空外上人は「生きられるいのちの根源である大ミオヤ」を生きる「口称念仏」を核に、
「無二的人間形成」をご提唱され、学問研究、書等芸術活動等の御生涯を


「無二的人間形成」とは、
「自分も最善をつくすが、相手も生かし切って、
ともに平和なうちに、人間の値打ちのあるような生活を実らし切っていく」
こと。


弁栄聖者こそ
山本空外上人がご提唱された「無二的人間」そのもののお方であったように、
私には思われます。

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2013-04-14

「成り行きの奥に導く慈悲のみ手 よかれあしかれ やがて良くなる」(田中木叉上人作詞「じひの華つみうた」『光明歌集』)

田中木叉上人の御法話の魅力は、
宗教的な内容の話しを抜きにしても、
「有益な実生活の智慧が頂ける」ことが挙げられるかと思われます。

木叉上人は、御法話の中で、
栂尾の明恵(みょうえ)上人の逸話を話されたことがありました。

明恵上人とは、鎌倉時代に活躍された「華厳宗中興の祖」。
また、法然上人を『摧邪輪』等で批判されたことでも知られる名僧。

明恵上人御在世中に、鹿がお寺の庭を荒らしたので、
どうしたらよいかと、明恵上人に弟子が相談された時、

明恵上人は、「鹿を撃て」とその弟子に命じました。

それを聞いた弟子は、明恵上人にはあるまじき無慈悲なこと、
とその真意が理解しがたく、明恵上人に尋ねました。

もちろん、実際に鹿を撃って殺生せよ、と命じたわけではありません。

「鹿に向けて銃を発することにより、
鹿は人間を恐れ、人間の傍に現われなくなる。
今回は寺の庭だからよかったものの、
今度、村の畑に現われたら、村人に生け捕りにされ、殺されてしまうだろう。
それを防ぐために、「鹿を撃て」と命じたのである。」

と明恵上人は、そのお弟子に諭されたそうです。

田中木叉上人は、

「光をつけてものを見よ。ものみなすべて意味がある。」

とよく説かれ、

人生に不可欠な智慧として、先見の明、判断の明の他に、

「透見の明」を強調されました。

「事実」には、「現実と真実」の二面があり、

「現実」のもう一つ奥の真相を見抜く眼力が、「透見の明」である、と。

仏教では「因果応報、自業自得」を説きますが、

実際には、「因」→「縁」→「果」と、
「縁」が大きな働きを果たしており
これらの関係は、実際には、重々無尽の連鎖となっており、
単純な一対一対応の「因果関係」では解明不可能で、
むしろ、「目的論的」に考えた方がより有益な場合が多い
ようにも思われます。

弁栄聖者の衆生済度の在り方、田中木叉上人の御法話を読んでいますと、
一般の読者にも根強い支持のある「河合隼雄」氏が想い出されることが多いです。

これは偶然ではなく、必然なのだと思います。

河合隼雄氏は、ご案内のとおり、
日本への「ユング心理学」の紹介者にして、
また、日本に心理療法を普及させた大功労者。

どちらも、「机上の学問」ではなく、
実践活動として「自己実現」に取り組んでいたことが通底しているからです。

河合隼雄氏の、日本人として、心理療法における唯一の師は、明恵上人であり、
『明恵 夢を生きる』という示唆に富む著書を著わしています。

以前、 弁栄聖者と明恵上人」について記事にしました ので、
ご興味のある方は、お読みください。

私は、弁栄教学の理解には、井筒俊彦氏の著作が、
弁栄聖者の衆生済度の在り方の理解には、河合隼雄氏の著作が有益である、
と常々感じてきました。

なお、弁栄聖者にも若い頃から注目されこられた気鋭の評論家若松英輔氏は、
近著『井筒俊彦ー叡知の哲学』の中で、
河合隼雄氏と井筒俊彦氏との関係、「思想家としての河合隼雄」に着目されています。

河合氏は、心理臨床の実践の中で、

重々無尽の不可思議な「縁」の醸成過程とその果たす役割、つまり、

「布置(コンステレーション)」と「共時性」

の現象とその意義に、早くから気付き、しかも、

「主体者の意識の在り様が、極めて重要な役割を果たしていること」

に直に気づかれ、それらを、心理臨床の実践活動に生かしてこられ、

更に興味深いことに、晩年には、井筒俊彦氏との出会いにより、
ご自身の心理療法観の確立に、多大な影響を受けています。

もちろん、河合氏は、心理臨床家であり、宗教家ではないので、
絶対者である神や仏は、説きませんが、
その実践活動は、宗教的と言ってよい側面が濃厚であるようにも思われます。

絶対者である神や仏は、

「縁」をとおして、衆生に働きかける。

これが、「墓場まで持っていかれた」河合隼雄氏の歳晩年の思想の「核心」であり、

河合氏が最晩年関心を寄せていた華厳で説かれる「事々無礙法界」の深層であり、真相であろうかと。

また、河合隼雄氏の叡智、洞察は、
通常流布している「自己実現」とは「自我実現」の場合がほとんどで、
「自己実現」と「自我実現」を区別し、
「自己実現」は、「自我」にとってはマイナスという形で突き付けられる場合が多いと。

したがって、「自己実現」においては、その事態の「意味を考える」ことが不可避となり、
その際、「因果論的思考」よりも、「目的論的思考」がより重要になると。

先にご紹介しました田中木叉上人の御教えを、ここでまた、再掲します。

「光をつけてものを見よ。ものみなすべて意味がある。」

「現実」のもう一つ奥の真相を見抜く眼力が、「透見の明」と。

この捉え方は、心理臨床、宗教を問わず、
人生を生きる処世観としても、とても有益な思考法かと思われます。


また、田中木叉上人は、御法話の中で、

失意泰然(たいぜん) 得意澹然(たんぜん)
有事暫然(ざんぜん) 無事澄然(ちょうぜん)


と、味わい深い生活の智慧、処世訓でもある『六然訓』の一部を引用されています。

参考文献冨川茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』・重住茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』、
田中木叉上人作詞『光明歌集』

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2013-04-06

「竹には節がある。人間万事、時に節あり。時節を待つ事が大切である。(田中木叉上人)」(『田中木叉上人 御法話聴書』冨川茂筆記)

田中木叉上人の御法話は、行学両面における広さ深さは言うに及ばず、
日常生活への配慮、また、人情の機微に精通された智慧が、
本からも感じられ、大変感銘を受けます。

いわゆる「説教臭さ」とは、ほとんど無縁です。

木叉上人は、大変厳しい一面がありましたが、
また、慈悲と智慧にも溢れ、
御在世当時、信者から大変尊崇されていた大導師でもあったようです。

木叉上人が聖者に邂逅された時の逸話は、以前記事にしましたが、


今回は、正直、記事にすることを躊躇しましたが、
聖者ご在世中、つまり、今から百年ほど前のこと、
大変示唆に富む逸話でもありますので、
記事にしました。

その宗教が教団、つまり、人間集団になれば、
通常の日常生活で起こりうることは、
大小の差はあれ、宗教教団といえども、起こりうることかと思われます。

弁栄聖者ご在世当時、
信者同志の間で、世間的にはもちろん教団内においても、
非難されかねない事態が起こったそうです。

その事態を知った信者が会を心配して、
田中木叉上人にその者に注意するように強く要請しました。

思い余った木叉上人は、
「注意をしたものでしょうか」と弁栄聖者にお尋ねになりました。

前回の記事では、聖者のお金を使い込んだ者に対し、
「警察に届け出るように」
との聖者の意外なご指示に関する逸話でしたが、

今回の事態に対して弁栄聖者は、

「注意をするな」と、これまた逆の意味で、意外なご指示でした。

木叉上人は、こんなことは倫理的に許されることではない、
弁栄聖者の真意が量り難いと思い、
念のために、聖者に再確認されると、

「いやそうではない。
如来様が付いていて下さるから、詣って念仏さえしておれば

と、聖者から大説法をたまわったそうです。

前回も記しましたが、
もちろん、これも、三身四智の聖者
弁栄聖者の了々たる「大円鏡智」と豊かな「妙観察智」による衆生済度の働きであり、

この逸話も、一般化できないことであるとは思います。

また、これは、親鸞聖人が注意された「本願ぼこり」
つまり、「弥陀の本願があるので悪いことをしても凡夫は救われる」、
ということではないか、との疑義も生ずるかとも思われます。

「道徳は、救いの条件に非ず、救いの結果なり。」(『田中木叉上人御法話聴書』)

と、木叉上人はご説法されています。

もしも、「克己心」のみで、「道徳完備の人格」が陶冶されるのであれば、
宗教、つまり、神や仏は必要はないとも思われます。

また、木叉上人は、「本願ぼこり」はもちろん「凡夫ぼこり」も戒めておられます。

「凡夫ぼこり」とは、「凡夫を看板にしてなまけることの言い訳」とも。

「私のようなものは、とても・・・というのは、
如来様に対する不遜な態度である。」


それは、謙遜ではなく、如来様の御力を見くびっているのだと。

木叉上人は、目を、
私ではなく如来様に向けるようにいつも注意されていた
ようです。


話を戻し、この事態の後日談を記します。

しばらく後に、

「一日三千礼の懺悔念仏をして」、キッパリと手を切ったそうです。

「もしも、自分が注意をしていたら、
その者はキッパリ来なくなり、(念仏とも会とも)縁が切れてしまう。」

そうすると、このような事態でありうる最悪の事態
ということになってしまったかもしれないと、
田中木叉上人は実感をもって語られています。

また、この逸話の時期は、
木叉上人が弁栄聖者に邂逅してまだ僅かの時期でありましたが、
反省もされ、また、聖者の衆生済度の力量を印象付けられたようでした。

「竹には節がある。人間万事、時に節あり。
時節を待つ事が大切である。(田中木叉上人)」
(『田中木叉上人 御法話聴書』冨川茂筆記)


深い「人間観・人生観」と「宗教体験」をうかがわせる言葉かと思われます。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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